5.僕たちの溜まり場
[The birds fly away from the flock...]
かたつむりたちはどこに居たのだろう。
……梅雨が明けて以来の久しぶりの雨が、乾いた街をひたひたと叩いていた。夏に向けて盛り上がり続けていた日差しや気温もまさに水を差されて一休み。そんな少しばかり涼しくも感じる空気の中、僕はみんなとの待ち合わせ場所へ向かってのんびりと旧市街を歩いていた。
手に持ち差すは、ここのところ玄関で閑職にまわされていたいつもの傘。駅前で並べられてるビニール傘ほど粗末じゃないけど、かといって高級でもない、盗まれても盗まれなくても不思議がないくらいにありきたりの傘だ。それでも素材のせいか、ぽつぽつと雨水を跳ね返していく不規則なリズムがなんとも耳に心地良い音な気がしていて、わりと僕は気に入ってもいる。
ぽつぽつ。ぽつぽつ。
雨水は傘に弾かれ、重力によって地面へしたたり落ちていく。一見平面に見えるアスファルトにも凹凸は確かにあって、そこかしこに大小様々な地雷系トラップが既に形成されていた。踏むと発動。被害は多くが靴下か、長いズボンやスカートの裾。回避方法は踏まないこと。避けた先にもっと大きなそれがあったりするから要注意。
僕は踏まないように慎重に、それでいてかつ慎重になっていることを悟られないようにしながら道を歩いていて。
「おや」
走らせていた目線、ふとした拍子にそれが目に留まった。
民家の塀の上。鳥のフンか何かと最初は思ったそれはしかし。
「かたつむりさん」
見つけて、思わずさん付け。
探していた、というわけではない。でも、なんとなく今年の夏は見ないなとは思っていた。梅雨のある日にそれに気付いて、それ以来多少は気にかけていたのだけれど、今日に至るまでついぞ見かけることはなかったのだ。
「……」
通りに人が居ないことを確認してから、民家の塀に近づいて目を凝らす。ちょっと背伸びをして。傾けた傘からぱたぱたとしずくが更に滑り落ちた。
「かたつむりさん?」
なぜかイントネーションを変えて、再度呼びかけ。
僕の目線とほぼ同じ高さのそこでは、かたつむりがうにうにと一所懸命に歩いて(?)いた。二本の角はひょこりひょこりと交互にゆっくり動いているが、実はこれが眼であったりもする。重い殻をひーこらひーこら背負いつつ、目玉をぐぐっと伸ばして必死に動くさまは、まあいかにもイメージ通りのかたつむりって感じだ。時折目玉に雨水が直撃して、びくっとその角をひっこめたりする仕草がまた可愛らしくもあり、でもやっぱり軟体動物らしい気持ち悪さもあり。
僕たちでさえ傘なしでは結構「叩かれる」という感じがするほど大きな雨粒がざあざあと降り注ぐ。少しだけ可哀想になり戯れでかたつむりに傘を差し出そうとしてみるも、でも、考えてみれば彼らは雨が降ったからこうして外に出てきたのだ。それを遮るというのもどうかという気がして、僕はやっぱり腕を引っ込めた。そのとき差し出しかけた傘の端から水滴が垂れて、かたつむりさんに直撃してしまったことには心の中でちょっと謝罪。
「それで、どこへいくご予定?」
うねりうねりと歩みを再開のかたつむりさんに、もはや応えてもらう気もなく三度目の問いかけ。
――かたつむりはどこへ行けばいいのだろう?
のろのろと彼(って呼ぶのかな? 雌雄同体だけど)が進んでいくのは、なんのことはない、ただの民家の塀の上だ。この先に通い慣れたエサ場があるわけでもなし、その後ろに腰を落ち着けられる巣があるわけでもなし。それでもかたつむりは、彼らにとってはあまりに大きく見えるであろう塀をずっとずっと進んでいく。長い時間をかけて、少しずつ、少しずつ。
……ところで、かたつむりは環境指標生物として使われることがある。活動範囲が狭く、環境変化の影響を大きく受けるからだという。
環境変化の影響を大きく受けるというのは、それだけ生存の条件が厳しい、つまりは化学物質に弱かったり湿地帯でなければ住めなかったりという「制約」がある、ということである。めだかは綺麗な水じゃなければダメだとか、そういうことと一緒の話だ。
ではなぜそういう弱い種が、進化の過程の自然淘汰で生き残ってこれたのか?
理由はいたって単純。ある特定の条件下では彼らは圧倒的に強い能力を発揮できるからだ。
極端な例では深海の生物なんかが挙げられるだろう。彼らは通常の水圧下では生きることすらできないが、サメだろうがクジラだろうが行くことができない深海というフィールドで活動できるという最大の能力を持っている。遺伝子――つまり個体にとっては先天的なそれが、既にその運命を決定づけているわけだ。
かたつむりと都会の例に戻るなら、例えば人間が開拓する前の自然状態の場では、都会の街では繁栄している蜘蛛やゴキブリなんかも、かたつむりには――それは捕食関係ではなく生存競争上の勝敗という意味で――敵わないということになる。湿潤耐性、セルロース分解能、天敵からの防御手段などなど……。人間の手さえ入らなければ、かたつむりは圧倒的な「力」を発揮できていたというわけだ。
しかしそれが現代の状況にそぐわなくなってきた。必要なのは天敵の攻撃を遮る殻ではなく(摂取の難しい)カルシウムへの非依存性であり、湿潤耐性ではなく化学薬品耐性であり、セルロース分解能ではなく人間の食べ残しに対する吸収能となった。そうしてその世界ではもはやかたつむりの「力」を発揮する場所は雨の日のアジサイの葉の裏なんかに限定されてしまい、むしろ結局その力を発揮するための「制約」だけが残って、自らの首を絞める「呪い」となってしまっている。
だからもはや、かたつむりはかたつむりであることにこだわっていては、個体レベルではなく、種として生き残ることができなくなりつつある。確かにいましばらくは、その自分が占めているニッチが脅かされるまでは、生きていられるかもしれない。そのわずかな時間を生き残るのに、かたつむり足り得ているかどうかというのは非常に重要な要素だろう。だが、ではその先は? あるはずがない。かたつむりはかたつむりであることに誇りを抱き、滅びるより他にない。
――かたつむりはどこへ行けばいいのだろう?
だから繰り返される、再びの問い。
「かたつむりさん」
呼びかけ、傘で覆いつつ、律儀に歩き続けていたかたつむりの殻をひょいっとつまんで持ち上げる。
途端にかたつむりはその身を引っ込ませた。防御反応。昔はこの種を存続させるのに不可欠だった、あまりに古い最強の鎧。
……でもきっと今でもこの鎧のおかげで助かったかたつむりだって居るはずの、命を繋ぐその「力」。
「それでも僕らは、かたつむりであることを捨てたんだ」
みんなが僕らにしていたように、僕らもマイノリティーを切り捨てて。
後悔がないわけじゃない。
それでもその後悔までも含めて、僕らはこの世界を肯定しているから。
「……」
殻に籠もり、うんともすんとも言わなくなったかたつむりを僕はじっと見つめて。
心配するでも見下すでもなく、ただありのままの事実を口にする。
「だから、さよならだね」
つまんでいた殻をそっと下ろし、傘をのける。再び雨粒が貝を叩き始めた。
それに呼応するかのようにほどなくして殻からは頭と角と目玉が出てきて、何ごともなかったかのようにそのまま歩みを再開する。
「また機会があれば、いつかどこかで」
もちろんその言葉にかたつむりが何かを応えることはなく。
僕はそのゆっくりした動きをしばし見届けてから、ようやくその場を後にしたのだった。
僕が到着したとき、高架下にはすでに全員が集合済みだった。
遅刻したとき特有の針のむしろに立ちながら、誰に聞かれたわけでもないのに僕の口がまるで準備していたかのような言葉をさらっと発する。
「友情とは大らかなごめんなさい」
「まるで反省の色が見えないけど」
「相手の膝に手をついて頭を下げればいいのですか」
反省智。
「今度は弁明もなし?」
「あいにくお引っ越し途中ですので……」
「遅れない時計に意味はあるのでしょうか」
「そりゃあるでしょうよ」
なんとなく話が逸れたところを見計らい、高架下にてばさっと傘を閉じる。ぽたぽたと滴が乾いたコンクリートに染みを作った。そのままみんなの傘が纏めてあるところに、僕のそれも立てかける。
相変わらず雨が弱まる気配はなかった。
「それで、5分とちょっと、遅れた理由は?」
話が逸れてもいなかった。
「リユウが必要ですか」
「物事には全て理由があるものよ」
「ラプラスさんちの小悪魔さんは死んじゃったそうですが」
「じゃあ今、地球の裏側に月は存在してないと?」
「大問題ッス!」
「冥王星に続いて月までなくなっちゃった」
別に冥王星だってなくなったわけじゃないけど。
「それで?」
「実は話せば長いことながら」
「短いんですね」
「かたつむりと歓談を」
「……(冷笑)」
「……(嘲笑)」
時代は異文化コミュニケーション。
駅前留学は倒産しちゃったので、当たって砕けろの高架下留学開講中。
「友情って空しいよね」
「正直に生きるというのはかくも難しいものです」
「ですよねー。こよりも最近はちょっぴり分かるようにもなってきたり」
「染まった」
「染まっちゃったね」
「排ガスまみれ」
「黒ウサギ」
「やっぱり、嫌なやつらでありますよ」
ままならない世の中です。
結局僕の言葉は可哀想な真実と解され、弁明タイムは終了に。正直者に一歩前進。千里の道も一歩から。クレタ島からの脱出までもうちょっと。
「さてそれで」
「あいにくのお天気ですが」
見上げる。
高架下に居る僕らの空間だけが切り抜かれていて、両側では滝のような雨がその視界と行く手を遮っていた。RPGで言うと「傘を持たぬものを通すわけにはいかん」的なイベント設定状態。しかしたとえ傘を差しても靴に肩にと雨が入ってくること確実で、さすがに街に繰り出す気にはなりえない。
でもまあ、今日はそれでいいのだ。
「ふむ。やっぱりこの陰険姑息ブルマリアンは、考えがあってここを集合場所にした様子」
「おー? なんかあんのけ、トモ?」
「うん。伊代とこよりには言ってあったんだけど。というわけで、こよりん」
「はいさー!」
言うと、こよりはそこらに転がっていた鍵付きの冷蔵庫の扉をがちゃっと開けて、中に入っていたダンボール箱を引きずり出した。事前に用意してあったものとはいえ、その仕草はなんか人様の家のタンスを平然と開ける勇者サマな感じ。
「さあさあ、不肖こよりめのスペッシャルプレゼントのコーナー!!」
「あら、今度はどこからパクってきたの?」
「花鶏センパイひどいッス! ちゃんとホームセンターでお金を出して買ってきたんですよう!」
「あれ、これスプレーだよね? 全部同じ色?」
「それはですねー……はい、ともセンパイ」
こよりが何個かあるうちの一本を取り、渡してくれる。
だから僕はさっそく缶を包んでいたビニールをぴりぴりっと破って、ゴミはしっかりダンボールへと戻しながら、
「やっぱりね、反社会的行為はいけないことだと思うんだ」
「なに優等生みたいなこと言ってるんですか」
「みたいじゃないの。本物の優等生(のつもり)なの」
「そういうのって言われたとおり制服のボタンを一番上まで閉めるけど、さっぱり融通がきかないタイプよね」
「高学歴なのに就活でうまくいかず人生挫折するタイプです。ビバ高学歴ニート。あるいは博士号を取ってポスドクの任期にビクビクしながらいつまでも空かないアカポスの地位を夢見ていてください」
「……ちょっと言っただけでひどい言われよう」
世知辛い世の中です。
でも、気にせずスプレー缶のふたをかぽっと開ける。そのまま試しに、壁面に向かってぷしゅーっと吹きかけてみた。勢いよく水滴が落書きへ上塗りされる。
「……おりょ? 色なしだ。ニスかなんか?」
「あのねえ、落書きを保護してどうするのよ」
分からないか、眉をハの字にするるい。隣では茜子が溜息を吐いていて、そのまた隣では呆れ果てた顔の花鶏。二人とも箱から一つずつスプレー缶を手に取って。
「やっぱり。これが社会的行為って言いたいわけ?」
「レトリック的欺瞞」
「偽善ですらないわね」
「スプレーくらいで許されるなら(ピーッ)ポくんやっぱり要りません」
缶の説明を見つつ言いたい放題。
「こよりー。私にも見せて見せて」
「はいはいっ! ちゃんと人数分買ってきたのであります!」
「それじゃわたしはこれを」
るいに向かってスプレーを投げ渡すこより。同時に伊代もダンボールから取り出して、これにて僕らは全員スプレーを装備完了。
「うん……? 落書き消しって……消すの、トモ?」
そうして、最後にるいが今日やることにようやく気付く。
僕と伊代、そしてこよりが先日買ってきて、高架下に置いておいたこのスプレー。それはいわゆるスプレータイプの落書き消しで、それをこの場所で僕らが使うとなれば、意味することはたった一つしかありえまい。
「そう。消すんだ。僕らはもう、この胡乱な土地から出て行かないと。……いや、たとえ出て行くまでには時間がかかるとしても、せめて僕らがここに残骸を増やすことだけは避けなきゃいけない」
「要するについ出来心でポイ捨てをしちゃったけれど改心したから見つからないうちに拾い直そう、ということですね」
「浅ましいわ」
「なんかみみっちいよね」
優等生とは地味な作業の積み重ねからできているものでございます。
なんとか説得を試みる。
「でもほら、やらない善よりする偽善っていうし」
「善ときた」
「正義でもいいけど」
「性技なら得意よ」
「それは違う気がする」
日本語って難しい。
「じゃあトモ、正義ってなにさ?」
「昔の人は言いました。勝てば官軍」
「あのねえ。しかもそれじゃあ、官が正しい理由も必要になるわよ、あなた」
「民主主義は神。多数決は正義。マイノリティは氏ね。理想を抱いて溺死するべし」
「茜子さん過激派すぎです」
「でもまあ、いいかもしれないわね」
あっさり前言を翻し、花鶏が楽しそうにスプレーを構える。笑い方はどこか茜子に通じるものがあって、だからその理由はやっぱりきっとろくでもない。
それに対し、そのわずかな差異に気付かない伊代がただ単純に感心の声を漏らした。
「そう? あなたが一番渋ると思ってたのに」
「そりゃあ、マッチポンプは好きじゃないけど。でも他のきったないゴミクズみたいな落書きを消すのはなかなか楽しそうじゃない」
「……そういう意味だったか」
「いや、あの、花鶏センパイ。消すのはこよりたちが描いた部分だけでも……」
「は? こよりちゃん、あんまり甘いこと言ってると甘いついでに生クリームまみれにした上で嘗め回すわよ? わたしたちのアートを消すのに他のゴミを消さないわけがないじゃない。偽善にもなるし一石二鳥よ」
「茜子さん分かります。汚物は消毒しろということですね」
「レトリック的欺瞞ですらないよそれ」
でもやっぱり、茜子もまたなんだか楽しげに。
その口元、三日月みたいな形のそれは、結局あのときと同一のそれだ。ロックな精神で青春的カンバスに思いを描いたあのときと。
そこにわざわざ微細な違いを見つけようとするのは野暮というものだろう。あるいはまた、そこに違いがないからこそ僕らは僕らたりえているとも言える。つまりここで遠慮するような花鶏や茜子だったら、それはもう花鶏や茜子ではないということだ。
僕らはみんな、呪われていたけれど。だからって、僕らが僕らであることそのものが呪われていただなんて思ったことは一度もない。
僕らは呪いを捨ててなお僕らとして生きていく。かたつむりであることを捨てたとて、僕らが僕らであることまで捨てたつもりは毛頭ない。そしてそれはまた、僕らが呪いにアイデンティティを託していたわけではない証左でもある。
「さてそれじゃあ、さっそく『社会的行為』に勤しむとしましょうか」
「単位欲しさにボランティア活動をする学生並の奉仕精神ですが」
「やりたいことと社会道徳が一致するのって気分いいよね」
「でも、それって正しいことなのかしら?」
「るいねーさんにはよお分からん」
「ビルの屋上で決闘裁判でもしたいんですかこのメガネは」
「血統裁判?」
「花鶏が一番すごそう」
「所詮落ちぶれ貴族」
「ああ? 廃屋暮らしなんて野良猫以下じゃないのよ」
「野良猫を馬鹿にしちゃいけません。デスエンペラー三世は高貴なるデスエンペラー家当主デスエンペラー二世の正当な後継者です」
「そりゃそうだろうけどさ……っていうかアカネ、何気にひどっ」
話の軸が実った稲穂のようにぐだぐだだらだら曲がっていく。
「で、何の話だっけ?」
「けっとう裁判のあたりからどうぞ、センパイ」
「結局勝てば官軍」
「死者に口なし」
「交通事故に巻き込まれても死んじゃったら加害者が自分に有利な証言しかしなくて執行猶予がついちゃう感じ」
「じゃあ、独善的でも勝ったら正義なわけ?」
「そうなるわね」
「でも本人が負けて裁かれたがってたりして」
「消されるために落書きしてるってことッスか?」
「それはスプレー代の無駄」
「……よくわかんないわ」
「わかんないよね」
世知辛い。
でも、僕らは結局生きていて。
この呪われた世界を肯定し、別たれることなく多数に紛れ生きていく。
だからまあ、それでいいじゃないかと思うのだ。
「じゃあとりあえず、始めようか。今の僕らの、やりたいように」
スプレーを構える。
とても正義とは思えない、やっぱりみんな揃って悪い顔。
「せーの――」
ぷしゅーっと音が重なって。
さあ。
いつか誰かが語ったように。
善と独善に何ら違いがないことを、今の僕らが語ってみせよう――――。
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