06-雪忘らるる桜月
[da capo U eXceptional eXistence]
起きた瞬間に世界の暗転を感じ取った。
例えるなら、そう、昔見た夢を再び見たような感覚。
世界が全てくすんで見える。トライアンドエラーにより構築され、最適化された行動。目に入ったもの全てを完全に理解できている頭脳。目覚まし時計を見れば設計図が思い浮かび、窓を見れば時間と高度から日付が予測でき、立とうと思えば最も効率的な運動が自然に行える身体。
その日、三月二十二日。
こうして私は雪村流暗記術を取り戻した。
○ ○ ○
複雑な心境であることは否定できない。
失いたいと思っていた能力とようやく別れたのは先月、二月一日。桜が散ってゆくと同時に私の中から雪村流暗記術は消失した。
全てが白紙に返り、あれほど憎かった親類の顔は完全に思い出せなくなった。悲しいことも忘れてしまえるようになった。
それがどれだけ嬉しかったか。ようやく私は普通に暮らせる。そう思った。
その矢先。幾日と経たぬうちに、私は自らのアイデンティティが崩壊したことを知った。
他人と会話ができない。いつもの関係性が構築できない。私は忘れることができるようになったと同時に、思い出すことができなくなった。
自分では分かっていた。けれど、他人には分からない。”杏なら覚えているはず”という周りからの無言の期待とプレッシャーが、私にはあまりにも辛かった。
だから私はみんなと疎遠になり、更に泥沼にハマることになった。
遠くから眺める茜や小恋たちはあまりに明るくて、楽しそうで、つい最近まで私がその中に居るのが嘘みたいで。それでもそこに何かしらの喪失感を見たのは、私の嫉妬からだろうか。
ともかく、そうこうしているうちに時間は流れ、こうして能力が再び戻った。確かに目先の問題のみを考えれば、能力が戻ったことは喜ばしい。かつてのように茜たちと喋ることもできるだろう。
でも私はそうしようとは思えなかった。自分が捨てた能力に助けられるという、その皮肉が恥ずかしいというのも確かにある。原因不明の能力に再び頼る危機感もある。
しかしそれだけじゃない。私はこの能力が真に私にとって必要なものなのか、未だ結論を出していないのだ。捨てたいと思ったり、取り戻したいと思ったり、全くもって不可解な感情の波。それに自分なりの答えを出すまでは、私はこの再び手に入れた能力を発揮するつもりはなかった。
ましてや、その能力すら完全ではないのだから。まずは一人で考えてみたいことが多すぎた。
「杏ちゃん、今日も水越先生のところ?」
「えっと……うん、まあ、そんな感じ。ごめん」
「謝ることじゃないよぅ」
放課後にそんな会話を交わし、いつも通り一人で下校する。
一緒に居れば、私の調子が戻ったことが看破されてしまうから。うやむやのままこの能力を再び享受することだけは、僅かに残る私のプライドが許さない。
そして昔みたいにしていれば、その状況を私が受け入れてしまうことも分かったから、断ったのだ。
今日は水越先生のところに行くつもりはない。
向かったのは、そう。状況と条件、微かでありかつ鮮明に残る記憶から必然的に出る、全ての原因となっているであろう場所。
――桜公園の奥に聳える一本の桜の下に、私は向かった。
○ ○ ○
「ふむ……。物理的に広域催眠を誘導する超音波などが出ているわけではない、か」
「……ん?」
林立する桜の下を通り過ぎてその桜の元へ向かっていると、聞き慣れた男の声が聞こえてきた。
見ると他にも人が居る。ここは人が少ないことで有名だったはずなのだが、こうもバッティングしてしまうとは。
「杉並と……美夏?」
「ほう、雪村か」
「杏先輩……?」
二人は桜の根元に穴を掘ったり幹を多少削ったりと、いかにも何かを調べていた。
広域催眠について杉並が云々言っていたということは、また随分とオカルト的なことを探っているらしい。しかしなぜ美夏が一緒に?
「ふむ、雪村が来たということは……。
ふむ、ふむ……ほほう?」
「何よ、何が言いたいの?」
「雪村、さてはなんたら暗記術とかいうのを取り戻したな?」
「……」
思わず言葉に詰まった。
返答できないのは、間違いなく肯定の証。言い繕っても無駄だろう。
この男が異常なまでに鋭いのは承知していたが、ここまでとは。
だが私にも分かったことがある。私がここに来たことで杉並がその確信を得たとするのなら、私の雪村流暗記術とこの桜にはやはり何らかの因果関係が存在するということだ。
見れば、真冬に散り去った桜は復活の兆しを見せていた。桜は普通、春に咲くもの。だからこの時期つぼみの用意をしているのは、まったくもって正常と言える。
「杏先輩、その何とか暗記術とは?」
「ああ……。それよりごめんね美夏、あなたには迷惑かけたわ。
私の都合で振り回してしまって、本当に」
「え、あ、いや、そんなことは……」
美夏には分からないだろう。私がどうして、美夏と対等に付き合えていたのか。そして、なぜ桜が散ってからは疎遠になってしまったのか。
これほどまでに私のエゴを如実に表したものはない。私は自分の都合で美夏を友と扱い、私の悩みを分かってくれるものだと見なし、最後には無視をきめこんだ。
私自身、混乱していたという言い訳はできる。けれどそんなこと、美夏にとっては関係ない。その不変さこそ私を押しつぶした原因の一つではあるが、かといってどうだというものでもないのだから。
「このまま心の雪解けを見届けるのもやぶさかではないんだが、雪村、そのなんたら暗記術というものについて詳しく教えてはくれまいか?」
「どうして私があなたなんかにそんなこと教えなきゃいけないのよ?」
「はっはっは、これは手厳しい。懐かしい気すらするな。
……さて、どうだ?」
「……良い性格してるわね」
「褒めるなよ」
無論、褒めてない。
しかしどこまで分かっているのだろうか。
”懐かしい気すらする”という言葉。雪村流暗記術が戻ったから、私が強気で高圧的な言葉を取り戻したことを見抜いている。しかも杉並は理解している、と私が理解できることまで見据えた上での発言だ。
スキー旅行での褒め合いを思い出す。全盛期の私でさえ互角だったのだ。今腹の探り合いをしたところで、私に勝ち目は無いだろう。
……私がその結論に至ることまで見抜かれていたと思うと、癪で癪で仕方がないが。
私はそうして、雪村流暗記術について語った。
見聞きしたことは忘れないこと。
トライアンドエラーを繰り返すことで、運動技術の発達にも応用できること。
忘れたくても忘れられないこと。
生まれつきではなく、この島に来てから後天的に得た能力だということ。
桜が散ったと同時に使えなくなったということ。
杉並は私の感情の浮沈からある程度の推察はついていたのだろう、反応は適当に相槌を打つ程度だった。
より大きな反応を見せたのは美夏。それはそうだ。私と美夏の関係性の揺らぎは、全てそこに起因しているのだから。いわばこれは、私の言い訳のようなものだった。
この件が済んだら、一度話し合う機会を設けた方がいいかもしれない。
「……以上よ。何か質問は?」
話し終え、私は息を吐いた。
自分語りなど、らしくない。それでも吐露してしまったのは、きっと誰かに聞いてもらいたかったからだ。この、ある意味超常的で非現実的な苦悩を。
水越先生でも良かったが、彼女は最近忙しそうだったから。私の方から身を引いたのだ。
「だ、そうだが」
杉並がそう言うと、
「はい」
と、桜の影から一人の人物が歩き出てきた。
「……あれ? あなた、確か――」
「はい、芳乃です。申し訳ありませんが、お話は聞かせていただきました」
そう言って頭を下げたのは、間違いなく先日私のクラスに転校してきた少女だ。
流石に今の私でも、この少女が何者なのかは分からない。
杉並や美夏と一緒にいるところを見ると、何かキーになることを握っていそうな感じはするのだが。この有り得ない時期の転校とも関係があるのだろうか。
私が思考を巡らせていると、その少女は綺麗な足取りで私の前にまで移動し、私の手を取った。
「……?」
「一つ質問がございます。構いませんか?」
「……ええ、いいわよ?」
「その力、この桜の木に叶えてもらった願いでしょうか?」
――本当に。
どこまで知っているというのか。
手を取ったのはその為かと、今更ながらに気がつく。
言葉で返答する必要はもう無いだろう。脈拍だか汗だかは分からないが、肯定の返事は掌を通して伝わっているはずだ。
今の私が見る限り、彼女にはその微小な変化をデータとして認識できるだけの”性能”がある。
「……少しお話があります。聞いていただけますか?」
その言葉に、私は一も二もなく頷いた。
○ ○ ○
「事態の把握には力を貸すが、問題の解決に興味はない」という杉並とは桜公園で別れ、私たちは天枷研究所へと向かった。芳乃さん――μではないが、やはりロボットだった。美夏の直接の後継機らしい――が言うには、そこで水越先生がこの超常現象についての研究をしているという。そして私がたびたび先生に相談していたこともこの事態と関連している、と。
研究所で他の用事があるという美夏と今度一緒にご飯を食べる約束をしてから別れ、芳乃さんに連れられ水越研究室へ。
研究室があるのは聞いていたが、実際来たのは初めてだ。返事があり、中へと通される。
「お久しぶり、雪村さん。わざわざ悪いわね」
「いえ、私は構いませんが」
雑然とものが置かれた、研究室というよりは実験室兼倉庫みたいな部屋。
整理していないというよりは、整理するつもりがなく、なおかつ物の量が多すぎるといった感じか。うっかり歩くと何か踏んだり落としたりしてしまいそうだった。
水越先生は私にソファを薦めた後、芳乃さんを部屋から外に出した。
気を遣ってくれたのだろう。
「さて、到着早々悪いんだけど、本題から入って良いかしら?」
「はい。私も気になっていますので」
私が頷くと、水越先生はタバコに火を付けて吹かしながら話を始めた。
要約するとこうだ。
今、水越先生は職務上はロボットに頻発しているエラーの原因を探っている。
そしてそれは、私が抱えている喪失感と――聞くところによると白河さんや小恋も同様のそれを持っているという――本質的に同じなのではないかと推測されている。私の喪失感が雪村流暗記術に対してのものだけでないことは、既に看破されていたみたいだった。
そしてこのどちらにも共通するのは桜が関係しているのではないかということ。時期と地理的な問題――何か統計を取ったという――からほぼ確実らしい。
そして確認されたのは、”桜が願いを叶えているか”という点。
ここに来て私も合点がいった。私の雪村流暗記術の復活は、桜が願いを叶えているということの証左になるのだと。
超常的なこの能力の説明をつけるのに、桜の開花という非論理的なものを持ってくるのは間違いではない。関連性などというのはそんなものだ。
「しかし、絶対に忘れない暗記術、か。
用途は広いわね……」
「用途?」
「ああいや、こっちの話。
相手が相手でしょう? それを調べるには、こっちも魔法みたいな力を手駒として持っておく必要があるのよ」
言いたいことは分からなくもない。
願いを叶える桜という、他に類を見ないものを解明する。その為には、やはり調べる側も魔法がないと無理だろう。
いくら染色体を調べた所で、それは物理学的な結果しか示せないし、そういった面でしか理解できないのだから。
「そうだ。ちょっと見てもらいたいものがあるんだけど、来てくれる?」
水越先生はそう言うと、タバコを灰皿に押しつけてから、私を連れて研究室を出た。
廊下の途中でμを捕まえて――イベール、というらしい。先生の専属だそうだ――その”見てもらいたいもの”とやらの部屋へ。
位置的に中庭の端っこあたりの部屋だろうか。内部からだから把握しづらいが。
「さ、どうぞ」
促されて入った部屋。強い逆光が、一瞬目を焼いた。
狭く、縦に長い長方形の部屋。
まず目についたのは、地面に敷き詰められた土。
次いで鼻につく、その湿った植物たちの匂い。
そして、眼前に悠然とたたずむ、一本の桜の木。
「……先生、これは」
「ええ、”あの”桜よ。もっとも遺伝子配列が同じなだけだから、クローンみたいなものだけど」
その桜の木は、全ての枝に花を咲かせていた。
満開と言って差し支えない、久々に見た桃色が満ちるその圧倒的な存在感。思わず魅入ってしまった。
照明が強いのは花を咲かせるためだったらしい。思えば、少し暖かめに温度が保たれている気もする。
「これも私たちの手駒のうちの一つ。まだまだ解明できていない点は多いけれど、仮説を繋ぎ合わせて一丁前の理論を構築できるくらいにはなったわ。
私にはよく分からないけど、あなたなら分からない? この部屋の中でなら、あなたはかつてと同じだけの能力が発揮できるはずよ」
「かつてと、同じ……?」
完璧ではない、といった今の私の能力。
欠けているのは、そう、私の能力においてあってはならない、”何かを忘れている”という感覚。
私は精神を集中させた。
今の私は何を忘れている?
何を思い出せない?
何に喪失感を覚えている?
「どうかしら?」
確かに過去と同じ感覚が頭の中に戻っていることは感じる。
喪失感についても、より鮮明に分かる。
けれど。
「……”何かを忘れている気がする”から、”確実に何かを忘れている”に変わりました。
でも、それだけです」
「うーん、そうか。うまくいかないものね」
暗記術はイチかゼロかの論理だ。完全に覚えているか、完全に知らないか。だから、雪村流暗記術は”中途半端に”戻ることはありえない。ゆえに私はそもそも、つぼみの桜の下ですら完璧に雪村流暗記術を取り戻していたと言っていい。
だから、より明確に”忘れていることを思い出した”この喪失感は、私の暗記術すら凌駕する、次元的にこの桜の能力と同じレベルでのナニカなのだろう。そうでなければ場所によって私の感覚が変わることなど有り得ない。
水越先生は私の言葉から即座に結果を読み取ったようで、どことなく残念そうな表情を浮かべた。悔しさが見えないのは、予想の範疇だったということか。
「まだ研究は続けるけど、おそらくはっきりした成果は出ないでしょう。
できれば雪村さんのように超常的な力を桜によって与えられている人が、あと二人は欲しい」
「二人、というのは?」
「似非神――桜の内部にアクセス可能な人間と、ロボットの”心”を読み取れる人間。
それができるのと同等な能力があれば、可能性はあるのよ」
私は久々に冴えている頭で桜を見上げた。
――水越先生の言う、二つの能力。
そんな力を持った人間が、この初音島のどこかに居るというのだろうか?
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