05-不断桜に魅せら

[da capo U eXceptional eXistence]
 当コラムを読んでいる読者の方々には周知のことではあると思うが、僕は今初音島というところで執筆活動をしている。
 ここは非常にいいところだ。まず海がすぐそこにある。海に囲まれた島なのだから当然と言えば当然なのだが、それに加えて丘なんかもそこかしこにある。空気も綺麗で、病気の療養に適しているということもよく言われる。私事で恐縮だが、僕がこの島に移ったのも実はそれが目的だった。

 さて、今回はこの初音島で起きていることについて紹介したい。
 賢明な方にはもうおわかりだろう。昨今ほどニュースで初音島という単語が飛び交った試しはない。言うまでもなく、桜が枯れてしまった事件である。

 一応説明しておくと、初音島は最近(といっても十年ほど前からだが)”枯れない桜”というものを観光の目玉にしてきた。僕も大学生だった当時は眉唾ものだと思ったものの、それは文字通り枯れない桜であり、春夏秋冬関係なくその桜はずっと咲き続けていた。
 特に降り積もる雪の中に見える桜並木は圧巻で、初音島といえばその写真を思い出す人も多いと思う。あれは一過性の事態ではなく、毎年恒例の風景だったと言っていい。僕も先の冬まで当たり前のようにその光景を見ていた。

 それが二月の初旬から次々とその花びらを落とし、ほんの数日で全ての桜が散ってしまったのだ。
 この時の初音島内部の慌てようは凄まじかった。僕は記者ではないので詳細はそちらに譲るとしても、この島で暮らしている住人が受けた衝撃は僕たち本島の人間の比ではない。あるはずのものがなくなったのだから。

 特に物心ついたときから既に桜が咲いていた十代の子どもたちは、更にひどいショックを受けてしまったらしい。僕の知り合いの医者も学園でのメンタルカウンセリングに今も追われているという。
 たびたび僕のコラムに出てきていた、ななかちゃんという少女を覚えているだろうか。彼女もまた心に深い傷を受けたらしく、最近はあの明るさを見ていない。

 どうしてここまで影響が出るのか、たかが桜が散ったくらいで、と思われる方も居るかも知れない。僕もここで暮らしていなければそう思っただろう。
 けれど、初音島の住人たちにとって、桜は精神的支柱でもあったのだ。あの桜は初音島に伝わるありとあらゆる伝説に顔を出し、正義を具現する役どころを負う。
 あれは観光の目玉である以上に彼らにとっての誇りであり、信仰の対象とすらなりうる代物だったのだ。
 それを失ってしまうことによる精神的ダメージは、僕らの想像に及ぶところではない。あるいは大事な誰かを失ったような悲しみか。だとすれば、僕にはその気持ちがよく分かる。

 初音島について詳しい人なら知っているだろうが、桜の有名な逸話に”みんなが幸せになれるよう、願いを叶えるための装置として魔法使いが植えた”というものがある。
 確かに初音島は平和そのもので、それなりに悲劇は起こるものの、それを見聞する機会は本島のそれより圧倒的に少ない。僕は運が悪かったのだろう。
 犯罪件数の少ない日本において、桜が咲いていた初音島のそれが更に少ないのはデータからも明らかだ。

 ここで”桜が咲いていた初音島”という表現を使ったのには意味がある。桜が散った後、その水準は日本平均のレベルにまで上昇してしまったのだ。これは単なる偶然だろうか。
 そうかもしれないし、あるいは桜が散ったことへのストレスに起因するものかもしれない。しかし、より詳細なところで言うと”桜の散り始めたころ”に急激に事件事故が増加したのだ。
 本島で発行されている新聞その他には書かれていないが、一月中旬から下旬にかけて驚異的な数の事件事故(それも多くが原因不明の)が立て続けに起こった。初音島のローカルニュースや地方紙はいつ見ても悲惨な事故の報告で溢れ、住人たちの顔に本来の活気が無くなっていった様子を僕は鮮明に記憶している。

 桜が散った後は異常なまでの頻発は無くなったものの、過去桜が咲いていた時期の水準に戻ることはなく、今も本島と同程度の頻度で事件事故が起きている。そろそろ桜のつぼみが見えてきたころだが、これが咲けば収まるかどうかはまだ分からない。データが出るには二ヶ月かかるだろう。
 しかし大きな喪失感を受けた上でこの水準で収まっているというのだから、ここの住民たちが元来穏和なのは間違いない。それをその魔法の桜が更に平和へ導いていた。そう考えるのが妥当な気すらしてくる。
 この喪失感は人によって様々で、純粋に桜の散ったことを嘆く人も居れば、”何が失われたのか分からないけれど、とてつもない喪失感を抱いている”という人も多い。

 ところで少し話が逸れるが、喪失感というのは喪失していながらその存在を示しているという点で、非常に深いものだと思う。
 例えば一人の人間が突然消えたとしよう(突拍子もない話だが、仮定ということで許して欲しい)。そしてその人間のことを誰も覚えていないとする。
 だとすれば、その人間は完全に居なくなったことになるだろうか? 答えはノーだ。その人間が消えてもその人間の足跡は消えないのだから。

 そもそも、僕たちは足跡からできている、とさえ言える。
 僕たちが見えるのは光の反射によるものだし、話をするのは空気の振動からだし、触れ合うのは物理的応答あるいは神経系の反応によるものだ。その”もの”それ自体がそこに”在るかどうか”なんていうのは、そこからの応答でしか分からない。そしてその応答というのは、足跡を見つけることと同義。
 だから僕たちは、僕たちがつけた足跡を見てもらうことで、僕たちがそこに在ると思われているに過ぎない。誰もが僕の足跡を見つけなければ僕は居ないことになる。ただそれだけの話だ。

 なぜこんなことを書いたかというと、初音島住人の抱える”識別不能な喪失感”について、その方面から研究しているカウンセラー兼医者兼科学者が僕の知り合いに居るのだ。
 彼女によると、その研究を進めていくと、その研究の足跡が消されてしまうという事態に陥ってしまうそうなのだ。文系の僕にはからっきしなのだが、理系の読者が居れば理解できるだろうか。
 なので僕はその研究の足跡を、本島に残すよう頼まれた。その結果がこの記事である。いわば”彼女は今もみ消されそうな仕事をしているから、もみ消されにくいように先に広めてしまえ”ということか。この記事を読んでいる読者たちにその研究の足跡を見てもらえば、その研究は在るのだから。付き合わされるハメになった読者諸君にはただただ頭を下げる思いである。初音島住人を救うためと思って、ご勘弁願いたい。

 なおこの、自分での理解すらままならない事情の込み入った記事を書くことを、編集長は快諾してくださった。ここで御礼申し上げたい。
 編集長の話が出たついでに書いておくが、当コラム、来月以降の契約更新が未だに済んでいない。三月も半ばに入ったというのに、である。もし来月号にこのコラムが掲載されていなければ、僕の契約交渉の手腕が悪かったということである。これから編集部との延長交渉に入ることを僕の足跡としてここに記し、今月のコラムを終えたい。(小日向慎)

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Short Story -D.C.U
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