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[da capo U eXceptional eXistence]
「博士、例の資料まとまりました」

 私が印刷し終えたレポートを博士の研究室まで持参したとき、博士はモニターで何やら作業をしていました。
 おそらく件の桜についての解析データを見ているのでしょう。先日行った実地調査の詳細結果が出たと聞きましたから。

「ああ、イベールか。そこ置いといて。
 ……って、例の資料? なにそれ?」

「その質問を受けた場合、こちらの文書を示せと博士本人から指示されております」

 『私が資料について忘れていた場合、この文書を見せなさい』。二週間前にその言葉を言われたときは解釈不能でしたが、今こうして博士の言葉を聞く限り、それはそのまま文字通りの意味だったようです。
 博士は重大な障害を抱えているのでしょうか。心配ですが、そこまで無遠慮に詮索する権限は私にはありません。

 私が資料とその文書を手渡すと、博士は首を傾げながら受け取り、すらすらと読み込んでいきました。
 私は博士と同じ速度で文書を読み流す人間を、今まで見たことがありません。この速度で文書の内容を記憶できるというのですから、相対的に考えてかなり優秀な技能の持ち主なのでしょう。

「……なるほど。で、これがその資料なわけね」

「母集団が少ないため、九十五パーセント信頼区間で計算すると非現実的な値となってしまいますので、九十パーセントの区間で計算を行っています。
 当該個人の持つと思われる特徴については、お聞きになりますか?」

「いや、その必要はないわ。それはボックス内に入れておいて。私の目に触れないように」

「かしこまりました」

 博士はレポートを三回ほど読み返した後、先ほど見ていたモニターとは別のパソコンを操作し出しました。
 かちかちと数回クリック音。すると、研究室の壁面にデスクトップの映像が拡大して映写されました。

 既に見慣れたフローチャート図と、簡略化された設計図です。

「それで、確認だけど。
 この発火装置、ちゃんとレディ状態のまま維持できてる?」

「はい。各部異常ありません。条件を満たせば命令は即時実行されます」

「よし」

 博士は更に数回クリックして幾つかのフローチャートを見直した後、壁面への映写を停止しました。
 そのままそのパソコンからは離れて、視線は再び先ほど見ていたモニタへ。中指で机をこつこつと音を刻み続けるのは、どことなく苛立っているときの博士の癖です。そのまま手元のコーヒーを飲むのも。

「どうかいたしましたか?」

「ん? ああ、ちょっとね……。
 実はサ、桜に選択的願望実現能力とでも言えるような力がある可能性があってね」

「人々の願望を選別して実現する力、ですか?」

「ええ、よくきちんと語句区切れたわね。
 願望を選別なんて……バッカじゃないの。桜は神様にでもなったつもりかしら」

 感情を隠そうともせず、博士は吐き捨てるように言いました。あまり感情を見せようとしない博士にとっては珍しいことです。
 相当気が立っているのでしょう。あるいは、よほど深い部分で気に入らないことなのか。私には判断がつきませんが。

「純粋は無知の言い換えだし、善悪は神ですら扱い切れない矛盾まみれの代物でしょう?
 これを作った人が居るなら、アタマどうかしてるとしか思えないわ。フィクションは想定外のことが起きないから丸く収まるのよ。何事も可能な現実世界で、矛盾は存在を許されない。
 理念が高尚なだけで人々が幸せになれるのなら、大脳皮質なんて全て引っ剥がした方が幸せよ。純粋培養のイイコちゃんだけなら発展もないけど不幸もないわ」

「……幸福論についての話でしょうか? でしたら――」

「ああいや、そこまで突っ込むつもりはないの。最大幸福原理なんて甘言にも、禁欲主義にも興味はないわ。
 問題なのは独裁じみた価値観の押しつけが可能なこういった装置を作り上げてしまったこと。人は幸福に慣れる。一度願望が実現する島に住んでしまえば、二度とそれ以外の生活を享受することはできない。
 ……それは、この島で願望が叶わなくなっても同じ事よ」

 私にはよく分からない話ですが、博士が言うのならそうなのでしょう。
 ユートピアへの移籍は不可逆的なもの。なぜなら、ユートピアの住人は”そこから離れることができなくなる”という唯一にして絶対の足枷をはめているから。
 つまりはそういうことです。

 博士はそのままモニターを見つめ続け、沈黙してしまいました。
 その背中がどことなく他者を排斥する感じを醸し出しているのはいつものことです。

「博士、私はこれからメンテナンスがありますので失礼します。何かありましたらまたお呼び下さい」

「ん、そうね。ちょっと無駄話しすぎたわ。
 資料ありがと。しばらく休んでいていいわよ」

「かしこまりました。失礼します」

 一礼して研究室を退出します。
 その間際、博士が零した羨望の言葉は、聞こえなかったことにしました。


       ○  ○  ○


 水越病院で博士に頼まれた雑用を終え、研究所に戻ろうとした夕暮れ時。
 ふいに声をかけられました。

「すみません、間違ってたら申し訳ないんですけど……。
 もしかしてイベールさん?」

 振り向くと、立っていたのは若い男性。
 いかにもスポーツをしていそうな出で立ちですが、彼がむしろ文化的な仕事をしていることを私は知っています。

「これは小日向慎様。お久しぶりです」

「ああ、お久しぶりです。
 ここで働いてるんでしたっけ?」

「常駐しているわけではありませんが、働き場のうちの一つであることは確かです。
 あとは帰るだけですから、何かありましたらお手伝いしますが」

「いえ、今日は荷物をまとめに来ただけですから。一両日中に引き払うことになっているので」

 そう言って、両手に抱えた荷物を見せてくれます。
 苦笑したようなその表情からは、どこか吹っ切れたような印象を受けました。もちろん、悲しみが見えないわけではありません。

「そうか。病院に来ることが無くなると、イベールさんや水越先生と会うことも無くなるのか。
 寂しくなるなあ」

「お住まいも移されるのですか?」

「それをどうしようかとも思っていまして。ここは良い所だし、仕事もできるといえばできるんですけど、やっぱり本島の方が融通が利くことも多くて。
 ただ知り合いもできちゃって、ほんと、迷ってます」

 慎様はいかにも迷いがあるような顔で頬を掻きました。
 そういえばコラム記事を寄せている出版社は本島にあるんでした。便利になった時代とはいえ、直接原稿を動かしたり人と会ったりするのは必須。であれば本島の方が有利というのも頷けます。

 そこで私ははっと気付きました。
 本島の出版社にコラムを寄せて、それは本島で出版されている。
 加えて彼は物書きです。幻想的なお話には興味を示してくれるのではないでしょうか。

「どうかしました?」

「……すみません、少しだけお話があるのですが、聞いていただけますか?
 興味がなければすぐ打ち切って下さって構いません」

「話、ですか? いえ、今日はもう用事がないので構いませんが」

 承諾の返事を受け取り、私は話し始めました。
 この島で起きた数々の不思議と、今博士がしようとしていることの狙いを――。

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Short Story -D.C.U
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