あのKYをぶっとばせ! (5)

[Fortune Arterial Another Story]
 お香の焚かれた広い和室。瑛里華と共に俺は再び御簾の向こうのその吸血鬼と対峙した。ぱちりぱちりと、断続的に聞こえてくるのは扇の開閉。かなり機嫌は悪いらしい。
「お座り」
 瑛里華と目配せし、腰を落とす。瑛里華はそのまま正座。俺はつま先を立て、正座した。跪座というやつだ。
「連絡もなく来る様子からして、とうとう渇きに変えられなくなったか、瑛里華?」
 ぱちん、と一際大きな音を立てて扇子が閉じられた。声もいつも通り、あるいはいつになく高圧的。御簾が閉じているせいで、いっそうその声の調子の変化が気にかかる。
「自分のことは自分が一番よく分かっています。もう、私の心配はしないでください」
「……何が言いたい?」
「これ以上、支倉くんに危害を加えないと約束してください。
 私が必要ないと言っている以上、支倉くんの血を飲むことも、支倉くんを眷属とすることも、母様に強制される謂れはありません」
「お前という奴は……」
 御簾の奥からでも聞こえるくらいの、大きな溜息。そこに含まれる感情は、諦念か憐憫か、あるいは憤怒か。俺はそれを識別できないし、したくもないし、そしてまたする必要があるとも思っては居ない。
 再びぱちりぱちりと扇の音。
「お前はあたしが今ここで『はい分かりました』と言えば、それが履行されるとでも思っているのか?
 そのくらいでお前の気が済むのなら、何度でも言ってやろう。『あたしはそこの支倉とやらに今後一切干渉いたしません』とな」
「母様……っ!」
「瑛里華、いい加減にせよ。お前は人間ではない。血を吸わねば、眷属を作らねば生きていけぬ運命なれば、さっさとその宿命に身を委ねよというこの親心が分からんか。
 お前のいま抱えている苦しみは、まったく無意味なものだ。それゆえそれを捨てよと言って、一体何の不都合がある?」
「そんな、私は――」
「伽耶さん。たとえ吸血鬼であったとしても、だからって人を喰らうのは、殺めるのは間違ってます。
 そんなこと、瑛里華にはできないし、させたくありません。彼女は人では無いとしても、れっきとした人間です」
「貴様に発言を許した覚えはないが?」
「あなたに許される筋合いもありません」
 バキ、と突然鳴ったのは、おそらく扇の折れた音。御簾の奥の状況、そしてまた隣に座る瑛里華の驚きを無視して、俺は続ける。
 なぜなら。間違いなく、伽耶さんは気付いているからだ。そうでなければ、俺はとうに死んでいる。
「そしてまた、人間であればあなたに従う理由がないのは当然でしょう? あなたは人間を殺しすぎた。これからも殺し続けるだろうし、また搾取し続けるための学院なんですから。
 人間があなたの言うことを聞くはずがない。むしろ、自衛のために抗うことさえ正当化できる」
「自衛? 吸血鬼を自ら迫害しておいて、それが自衛だと?
 よくもまあ的外れなことを言えたものだ。東儀という人柱を作っておいて、その上あたしらを悪と断じるとは。これほど醜い生き物もあるまいな。
 餌場の餌を食って何が悪い? 捧げられた供物を利用せずしてどうする? 不実な馴染や不出来な子供を躾けることのどこに問題がある?」
 不機嫌さを飛び越え、愉悦すら混じっているその声音。まるで自らの理論の完全性を語る数学者のようなそれは、疑問を呈した俺という愚物を貶める快楽に満たされていた。これを疑うなど正気か、だからお前は愚かなのだと、他者を蔑み自らを肯定するその姿。
 二百五十年の果てのそれが、俺には憐れむくらいに醜く見える。
 吸血鬼として生まれたという、その悲運を嘆く権利くらいはあるだろう。健全な他者を羨み、妬むことすらあっていい。しかしそれでも、自己を正当化するためだけに同族を生み、更に他者を蔑み貶めついには殺めていいわけでは断じてない。
「あなたの無能さ自体を糾弾するつもりはありません。
 けど、その無能さ故に瑛里華や、紅瀬さんや、東儀先輩や数多の人々が苦しむというのなら、俺はそれを許しはしない」
「……小僧風情が。恋慕の末に血迷ったか。
 それに人、人、人と。貴様、とうに人ではなかろうに? その驕りは眷属になったゆえの錯覚と、未だ残る人への未練か?」
「な――っ!? 孝平、やっぱりあなた……!」
 ぐい、と襟首を引っ掴まれる。そのまま身体を動かされ、目の前には驚きと怒りに染まった瑛里華の顔。反応を見るに、やはり心当たりはあったようだ。紅瀬さんを仕留めたときのアレだろう。
 瑛里華が怒るのは分かる。が、いまそれを細かく議論するつもりもない。なんとか身体を起こして。
「恋どころか、親や幼馴染の情にすらありつけなかったあなたにとっては、さぞ羨ましいことでしょうけどね。
 けれど、その『羨ましさ』から何も読み取れなかった無能な二百五十年、あなたの行為は断罪するに余り有る」
 御簾の向こう、空気が凍る。
 影が一段高く持ち上がり、立ち上がったな、と思った直後。
「いいだろう。貴様、ただでは済まさん。
 ――桐葉以上の生き地獄、永久に苦しみ藻掻くがいい」
 言葉と同時、御簾が舞う。俺は俺を掴んでいた瑛里華を思いっきり弾き飛ばし、跪座からすぐさま身体を立たせた。前を見たときには既に御簾はその動きを終えていて、視界の端、微かに残る漆黒の残像。狙いを悟り、回避しつつ右足を浮かせて、左足を軸に身体を回す。
「なっ、貴様――!?」
 背後。突き出た右手は俺の腹を貫通することはなく、驚愕の表情は見た目相応に子供らしいその吸血鬼。完全に相手を巻き込んだ体勢。スカした右腕を転がるように背を傾け、軸足を沈め、頭と体を深く落とし、
「終わりです、伽耶さん」
 ――千堂伽耶をぶっとばす。
 左足の裏で畳を思いっきり踏みしめ、曲げた右足は人外の速度で着物の帯へと叩き付ける。紅珠の力を振り絞った、渾身の後ろ突き蹴り。小さな身体はピンポン球の如くに軽々と加速して、鈍い音を響かせながら和室の柱へ激突した。



       ○  ○  ○



 残心の体勢からゆっくりと身体を元へと戻していく。蹴り飛ばした先、柱には打ち付けられた部分からだらりと濃赤色が垂れ下がっていて、柱にもたれるようにして伽耶さんがその動きを停止させていた。いや、実際には停止というより痛みに耐えているといった方が正しく、かすかに動いている。うわごとのように呟いているのはおそらくは俺への怨嗟の言葉と、自らの眷属に対する命令だろう。
 そうして崩れ落ちた伽耶さんの元へ、瑛里華がゆっくりと歩み寄る。見下ろす体勢から、腰を降ろし目線を合わせて。
「紅瀬さんは来ないわ、母様」
「ば、馬鹿を言うな……。眷属が命令に逆らえるはずが……」
「残念。いくら紅瀬ちゃんだって、意識を失っていたら命令に従おうにも従えないからね」
「伊織……! お前まで居たのか……。
 そうか、なれば征一郎も動くこと叶うまいな」
 いつものように軽い態度のまま和室に入ってきた会長。伽耶さんはそれを見て、少しだけ自嘲気味に笑った。意味するところを知る術はない。
 会長は俺の方へと歩み寄ってきて。
「これで、終わったね。
 こうも簡単なら、三十年前にやっておけばよかったくらいだ」
「……俺が居なかったら、やってなかったんじゃないですか?」
「さて、それはどっちの意味でかな」
 それには答えず、伽耶さんへと視線を向ける。会長も答えてもらおうとは思っていなかったのだろう、同様に視線を送って。
「さあ瑛里華、さっさとやるんだ。
 その女の回復力は、どれだけのものか知れたものじゃない。紅瀬ちゃんもじきに起きる。チャンスは今しかないぞ」
「ええ、分かってる。けど……」
 言い淀む瑛里華。その意味するところを察して、俺は言葉を被せた。
「俺のことなら心配しなくていい。というか、今考えたところで結論が出るものじゃない。
 あとでしっかり話すから、今は目の前のことを」
「……分かったわ」
 頷き、瑛里華の目がすうっと細まる。色は蒼から紅に。漂う空気も朱に染まったかの如くにその状態を変化させ、長い髪すらはためいていく。
 吸血鬼。その力の解放。
「く……何故……何故だっ! あんな、何も知らぬような……っ!
 あたしは……あたしだって!」
 瑛里華の威圧を受けて、その髪や着物をはためかせる伽耶さん、その声にならない嘆き。顔は俯いていて分からないが、その矛先はきっと俺だ。あらゆる責任を、憎しみを、不可解を、俺という対象に押しつけている。
 憐れむほどに幼くて、哀しいほどに頑なな、二百五十年を生きた吸血鬼。その最期。
「さようなら、母様」
 巻き起こる空気の渦の中、瑛里華がその腕をふっと動かし始める。動作の遅さは過ごした年月の懐古の時間。
 その、最中。ゆらりと、漆黒の長い袖が上がって。
「瑛里華、早くしろ! その女――!」
 会長が文字通り瞳の色を変えて飛び出す。後を追うようにして俺の身体も跳ねるが、しかし、間に合わない。
 伽耶さんの顔が上がる。
「は、は――はははははっ!
 支倉とやら! お前にも分からせてやる!
 いずれ訪れる別れ、その苦しみを抱えて永久の時間を生きるが良い!」
 上がった右腕を瑛里華の胸にとんと置いて、伽耶さんは何ごとかを呟き。
「往生際の悪い!」
 会長が周囲の空気を暴走させつつ、伽耶さんの小さな頭をがっちりと掴みこんで。

 射抜くような強光、石の破砕音、静電気に似た音。
 その全てが同時に起こり、ようやく俺たちは決着した。

back / epilogue

++++++++++


Short Story -Fortune Arterial
index