あのKYをぶっとばせ! (4)

[Fortune Arterial Another Story]
 吸血鬼や眷属同士の戦いにおいて、最も注目すべき点はその攻撃力でも再生力でもない。それらはあくまで一般人の延長に存在している概念であり、殊にお互いがそれである場合、一般のそれと決定的な差異は見られない。
 単なる喧嘩や格闘技と彼らを分かつ絶対的な壁。見るだけで分かるそれは、つまり、
「――ッ!」
 紅珠を飲んだ俺がようやく反応できる速さで、長い黒髪を翼のように舞い踊らせて彼女が俺の眼前へと着地した。湿った土ですらその勢い、その質量に舞い上がる。これで六度目。流れるような、それでいてかつコマ送りすら許さない速さでその長い足が回転し、俺をぶっ飛ばそうと渦を巻く。
 だがしかし、仏の顔すら通り過ぎたその攻撃もまた、防ぐのは直後に聞こえる風切り音。
「っせい!」
 遅れて同様の方向から飛び込んできた瑛里華の、水平どころか角度をつけたドロップキックで、片足体勢だった紅瀬さんは林の中へ吹っ飛んでいった。さっきからこの繰り返し。違うのは、その吹っ飛んだ先へ瑛里華が追走しなかったことくらいか。息が上がっている。
 そう、この二人の戦いが通常のそれと異なるとすれば、それはその機動力に集約された。森という空間、その木と木の間をまるでムササビか何かのように彼女たちは駆け回り、見たこともないような空中戦を繰り広げていたのだ。あちらこちらの木、その幹には彼女らの蹴りこんだ無数の跡が残っていて、吹っ飛ばされた衝撃でへし折れた木も幾本かある。
「大丈夫か、瑛里華?」
「ええ……でも、はあ、思ったより、うん、しぶといわね……」
 誤算と言えば誤算だった。吸血鬼や眷属は、その再生力を遙かに上回るほどの力、すなわち攻撃力を持っている。だからこそ決着はすぐさまつくと思っていたのだが、その機動力と空中という不安定さが災いし、一撃必殺の有効打を与えることができていない。空中での打撃は踏ん張りも効かず、衝撃の逃げ道もたくさんあるからだ。せいぜい大きな傷といえば、互いの爪による裂傷くらい。だから紅瀬さんは執拗なまでに俺を狙ってもいたのだが、それも六回全てが不発に終わっている。
 そしてまた、あまり時間をかけると伽耶さんに気付かれてしまう。それは紅瀬さんにとっても敗北であろうが、俺たちにだってそうだ。だから俺も覚悟を決めるかと思い、制服の上着に手を掛けたところで、髪も服も乱れた紅瀬さんが林の奥、折れた木々の下から起き上がって。
「千堂さん、貴女、以前よりずいぶん吸血鬼らしくなったわね。
 それが自分を打倒しようとするものでなければ、伽耶も喜ぶと思うけれど」
 瑛里華はなんとか呼吸を整えつつ、
「よく言うわよ。あなたの方がよっぽど化け物じみてるわ。二百五十年も生きてるだけはあるわね。
 でも長く生きている分、あるいは眷属だからかもしれないけれど、ここまで来てなお母様を庇うのは頭が固すぎるとしか言いようがないんじゃない?」
「数学は貴女よりできるけれどね」
「そ、それとこれとは関係ないでしょう!?」
 懐かしさすら感じるやりとり。しかし結果がどうであれ、このやりとりが再びあの監督生室で起こることは未来永劫ないだろう。そういう決断をしたのだ、俺と瑛里華は。淡い期待を捨て、確実な道を。
 紅瀬さんはかつてのようにふっと笑って、瑛里華との間合いギリギリまで歩き、止まった。表情もより鮮明に見え、声もより明瞭に聞こえるようになる。
「頭がいくら柔軟であろうと、結局道は一つしか決められない。貴女と伽耶はそれを自覚していなくて、私や貴女のお兄さんはそれを自覚しているっていう、ただそれだけの話よ。
 貴方もそう思うでしょう?」
 投げかけられた言葉は俺に。頷いて返す。紅瀬さんは目を瞑って。
「分かっていることと、納得することは別だもの。どうにかしたいと思うのは悪いことかしら?」
「……少なくとも俺はやりたいようにやるよ。俺はやっと手に入れたこの生活を、この渇望を、失うつもりは少しもない。かつてのように、大局と割り切って自分を捨てることはしたくない」
「そう。貴方も大概、頭固いわね」
「意志が強いと言ってくれ」
 ふう、と溜息。それが形だけのものであるということは、誰の目にも明らかで。その直後の突進を警戒し、瑛里華は半歩、俺を庇うようにずれる。しかし。
「死にたくなければ、動かないで」
「え?」
 紅瀬さんの意味深な言葉。瑛里華の身体が一瞬戸惑いを見せる。
 その刹那。
 俺の耳を打ったのは、弦を弾いた独特の振動と、空気を引き裂く弓矢の疾駆だった。



       ○  ○  ○



 失念していたと言うより他にない。
 伽耶さんと瑛里華が敵対することを望んでいないのは、伽耶さんの眷属である紅瀬さんだけではなかった。それを俺もよく分かっていたはずである。なんせ、ついこの間口論したばかりなのだ。
 だから、失念していたと言うより他にない。その「もう一人」の存在を。
「くそっ、エスパーじゃあるまいし……!」
 手近な木に背を預け、なんとか息を整える。湿りを含んだ冷気も、心臓を沈めることは容易でない。
 ……紅瀬さんの言葉に続いた奇襲の矢。足を狙ったそれが俺に命中することはなかったが、しかし、そのせいで局面は一気に流動化した。仕留めるつもりだったであろうそれが外れたことで、紅瀬さんは一気に攻勢に打って出てきたし、瑛里華はその迎撃に一層神経を集中させている。おそらく瑛里華に、もはや俺をフォローするだけの余力は残っていまい。二人の空中戦も、少しばかり高度が下がっているように感じられる。
 そしてまた、それまでと決定的に違うのは――
「あーもう! 考える時間もないのか!」
 吐き出しつつ、土を蹴り上げ走り出す。直後、俺が背にした幹に刺さる幾本かの白銀。視界不良という現状は俺にとっての不利でしかないらしく、俺の走り抜けていく軌道、そのことごとくに矢が点々と標を突き立てていった。これだけの密生林でありながら、その射撃はもはや尋常ではない。すぐさま現在の敵の位置を読み取り、違う木の陰へ隠れた。
 そう。これまでと違うのは、相手も一人駒が増え、その駒は俺だけを狙ってきているということである。正体はおそらく、生徒会財務・東儀征一郎。紅珠を飲んだ俺ですら手こずるその実践的な腕前は、弓道部のエースだったという過去の片鱗を見せつけている。
「瑛里華は……遠いな」
 紅瀬さんと瑛里華の激突からやや離れ、そうして俺の周囲は静寂に。さっきからこの繰り返しだ。俺は耳を澄ませ、東儀先輩は矢を射り、俺は避けて、再び静寂。この無音期間、東儀先輩が移動するための時間であることは分かりきっているのだが、それでも足音を捉えることは叶わない。必死に耳を澄ませているにも関わらず、である。
 先ほど東儀先輩が居たであろう場所、そこから俺の死角を縫うルートなど、大してあるはずがない。予測は立っている。だから俺はポイントを絞って警戒しているのに、東儀先輩がそれに引っ掛かることはなかった。
「またかよ!?」
 そうこうしているうちいつの間にやら側面方向へ回られて、木の陰が用を為さなくなる。紅珠による反応速度がなければとうに死んでいるやりとり。ぎりぎりで避け続け、やはり次の木陰へと入る。
 こうなるともう、いわゆるジリ貧である。紅珠を飲んでいるとはいえ俺の体力にも限界はあるし、加えて俺という標的を狙う必要がなくなった紅瀬さんに瑛里華がやられるのは時間の問題だ。それを防ぐにはさっさと東儀先輩を仕留めて紅瀬さんを排除するより他に方法はない。瑛里華に紅珠のことはバレるものの、それにしたって会長のカードをここで切るよりマシだろう。
 そう思い、回避から一転、攻勢に転じようと意識を変えた途端に気付いた。微かな足音。俺が置いていたチェックポイントとは別の、場合によっては俺からも見えるそのルート上。……司の言を思い出す。どうやら俺は、俺の見たいものしか見ていなかったらしい。
 呼吸の変化に武道の達人は気付くという。だから俺はそれに気付かなかったフリとして、しかし意識ははっきり変化させた。東儀先輩の動きが漠然とだが分かってくる。ガサリ、と林の奥が鳴り。
 ――来る。
「……!」
 微かに描かれる放物線。回避するために動き出すのは、我が事ながら早かった。視認するより早く位置関係を認識し、右足から重心を外し身体がふっと浮き落ちる。左足のみで身体を支え、同時に有り得ない力で静止させた。
 紅珠の影響。耳の鋭敏さ、加えて反応速度、筋力、動体視力。あらゆる能力が俺の認識を越えている。思ったよりも身体が速く動くとか、そんな小さなことではない。神経レベルで、つまり「思うことすら」早くなっていた。認識が俺の思考を越えていて、判断は俺の意識より先んじている。でありながらも俺はやっぱり俺であり、身体も脳も、俺より先に俺が居る。
「外れ……っ!」
 甲高い裂帛。その源は眼前を通過する、そしてかつての俺であったらその肩を貫かれていたであろう白銀の矢。しかし今この状況で、たらればは何の価値もない。
 銀矢の回避を確認。すぐさま身体と左足を捻りあげる。右手は胸ポケット。同時、軸足を入れ替え、矢の方向を再認識。反り返った身体を引き戻し、右足でぬめった地を蹴り上げる。左足は更に回転。足は月へ向き、天地はその役割を取り替えて。空中で逆さまになった身体、制御はおそらく紅珠ができる。右手に握った鋭利な棒を握りなおし、矢の射られてきた方向角度その軌跡、逆走するかのように投げ抜いた。
 投げた棒――ボールペンの行方を確認せぬまま、一回転し着地する。直後に聞こえた打突音は、直撃したか、あるいは避けられ木の幹に当たった音か。
 どちらにせよ、今しかない。頭を回して。
「飛べ、瑛里華!」
 右足から着地すると同時、そのまま身体を横へと流す。相手が体勢を崩し、俺から目線を切ったであろうその瞬間を逃すわけには絶対にいかない。足は地を蹴り、身体は人外の力で加速する。まるでバイクにでも乗っているかのような感覚。流れる視界の先、指示通り瑛里華は高く舞い上がり、当然紅瀬さんもそれに追随し。

 紅瀬さんと東儀先輩が、僅かに残る希望であるなら。
 俺たちは、その抵抗を越えねばならない。

 きっとできる。駆けゆく身体、そのバランスを再確認。出せる力は未知。紅珠を飲んだとて、吸血鬼にはほど遠い。それでもできる予感はある。自分の身体、たとえ限界が未知であろうと、把握する脳もまた以前と変わっているのだから。
 三歩前。左足。道の凹凸を確認。面積は充分。泥も落ち葉もない。
 二歩前。右足。上空を確認。紅瀬さんまでの直線上、遮るものは何もなく。
 一歩前。左足。駆け上がり。
 右。跳んで。
「――貴方、まさか……!?」
「孝平!?」
 虚空。加重を耐えて跳ねた身体、乾いた土を蹴り上げたその先は、背を見せた眷属よりも僅か上。身体を捻り。
「……そう」
 他人事のように言い放つ紅瀬さん。形だけの防御を取るが、その口元は敗北を悟ったように笑っていて。
 だから、告げる。
「悪いな、紅瀬さん」
 上昇中、ガラ空きの土手っ腹。
 身体を独楽のように反転させ、俺は足を千切れんばかりに振り回し。カウンター気味にその腹部へと蹴りこんで。
「自分の生きてきた道に、俺は責任を持つと決めたから」
 遥かな高みから暗い地面へ、最後の希望を全力をもって叩き落とした。

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Short Story -Fortune Arterial
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