森を抜け、急に視界が大きく開ける。
ここ最近で随分と見慣れた景色。この夕暮れ時であってさえ、瑞々しい新緑と斜光の紅が反発し合うことはなく、むしろ一層その姿を調和させていて。
小高い丘、拡がる草原。
流れる風にその身を浸し、虚空の彼方を見つめているのは。
「……おや、支倉君か。生徒会はもう終わったのかい?」
その蒼い瞳をこちらに向け、会長はこともなげにそう言った。
「ええ。瑛里華のやつ、すっごい怒ってましたよ。『また兄さんはサボりか!』って。ただでさえ人数厳しいんですし。
一発や二発、殴られておいてください。でないと俺にとばっちりが来ますから」
「言うようになったね、君も。
だいたい、女の我が儘を聞いてやるのは恋人の役割だろう? 殴られてたって、端からはイチャついてるようにしか見えないよ」
「怒らせた本人が言う台詞ですか」
言いつつ、会長の傍らに立ってその眼が向いていた方角へ視線を向ける。
……視界の端、夕陽が眩しい。
「支倉君。瑛里華はどうしている?」
会長は草原に足を投げ出し、両手で身体を支えつつそんな疑問を口にした。蒼い瞳は今見ていた方へと向き直り、その質問、いつもの軽口とは違うと態度で表していて。
俺は腰を降ろさず、立ったまま、そして視線を向けずにありのままを口にした。
「特に変わりはありませんよ。
今日も生徒会が終わって、すぐ紅瀬さんたちの部屋に向かったみたいです。紅瀬さんに教育は任せられないとかなんとか、そんなようなこと言ってました」
「そうか」
肯定でも否定でも、賛同でも反対でもなく、まるでいつかの紅瀬さんのように、会長は短くそう呟いた。抑揚のない声。感情が表に出ない、苦労した人間特有の。
俺はかける言葉もなく、ただ漠然と、赤く染まっていく空へ視線を固定する。当然のように沈んでいく夕陽。少なくとも俺が生まれてから、太陽の沈まなかった日は一度としてない。十七年間、ただの一度も。
だから俺には分からない。
百年以上も変わらなかった事実が、一気に覆ってしまうこと、その衝撃を。
「愚かだと思うかい、支倉君?
失って初めて、なんて使い古された概念に、百年経っても気付いていなかったことをさ」
「けしかけたのは俺ですから。
それに、何かを失っても、その失ったことそれ自体から何かを学べているならば、愚かなんかじゃ決してありません。
だって、それはつまり『自分の生きてきた道に責任の持てない根性無し』ではないってことでしょう?」
「……。
言うようになったね、本当に」
そよ風に紛れ、会長は小さく息を吐いた。呆れたように、それでいてどこか笑っているかのように。
「それに、失うことだけが特別な行為ってわけじゃありません。
手に入れること、試してみること、失敗すること、成功すること、そのどれにしろ、体験して初めて分かることなんていうのはいっぱいあるはずじゃないですか。
……これでも環境の変化、その場数は結構踏んでますからね。当たって砕けろみたいなこと、わりと得意ですよ」
「俺もそれについてはそれなりの自負があったんだけどね。年の功より亀の甲かな」
どさり、と草原に倒れ込む会長。綺麗な金髪は地に生える草と同じく風にゆらゆら靡いて、蒼い瞳は赤い空へとその視線を向けた。無表情。でも、堅さはない。
「後悔しているわけじゃないんでしょう?」
「勿論。
俺には俺の責任があるし、あのときの俺の判断が間違っているなんて、今の俺でも思わない」
「なら、いいじゃないですか。
例え誰かにその選択を『愚かなり』と言われても、自分がそれに自信と責任を持てるなら、そんなものは関係ないんです」
「……それもそうだ」
会長は言って、その瞳を閉じる。両手を枕に。片膝を曲げ、足を組み。表情は、いつものように柔らかく。
「支倉君」
「はい?」
「とばっちりは任せた。
俺はもう少し、ここでゆっくりしてから帰るよ」
「……今回だけですよ」
少しだけ溜息。対照的に、会長は俺に応えるようににっとその表情を緩ませて。
そうして俺は、紅に染まるその草原から抜けていく。日が完全に没するまで、時間の残りはあまりない。有限の時間。だから俺の足は少しだけ速まる。湿った土を、くしゃりくしゃりと踏んでいき。
……さあ、帰ろう。
俺は歩いていく。ちょっとばかり怒ってる瑛里華が待つ、これからずっと続くはずの、俺が定めた居場所へと。
――自分の選び取った道、しっかりとその責任を持ちながら。
<了>