0.拝啓母上様

[The birds fly away from the flock...]
 拝啓、母上さま

 おげんきですか。
 先日以来探し続け、ようやく絶滅危惧種の杉の梢を旧市街地にて発見致しましたが、今度は光る星が見当たりません。都会の排ガスは北極星すら隠しかねない勢いです。数多の星斗に思いを馳せることすら許されない世知辛い世の中です。
 かわりに隣の村からこねこを戴いて来ました。赤猫と申します。ロボだそうです。そちらに行くことになった折には紹介したく思っております。最大稼働年数は私とさほど違わないはずですので、一緒にお目にかかれればこれほど嬉しいことはありません。
 しかし母上さま、私は元気です。
 アマゾン流域の密林が如き混沌さを秘めた大都会にも、生き抜く術というものは確かに存在します。
 栄枯盛衰、弱肉強食。南聡学園の鐘の声、諸行無常の響きあり。建物に入れば火事に遭い、道を歩けば鞄を盗まれ、塀を越えれば路地裏で絡まれる。そんな38度線並の地雷原を自由と民主の名を騙るラプターではなく、たった三寸の舌二枚で乗り越えねばなりません。
 政治的取引も簡単ではありません。リメンバーパルクール。あれは大変辛うございました。ゆとって育ったもやしめとしては、スポ根的展開はあれっきりにして欲しいと切に願う所存です。
 ゆとり。
 やはり蠱惑的なワードです。エリマキトカゲの様な自身の誇大広告っぷりが実に堪りません。出さない本気は存在するのか否か。実在論に対する挑戦と捉えるべきだと思います。
 確かに今は努力は流行りません。天才が楽して株して物言う株主になってブタ箱行きがトレンドです。口先だけを鍛えて医療施設や教育現場をいびるのも良いでしょう。ブログなんかに迂闊なことを綴ってネットイナゴに集られるのは、誰でも有名になれる真の民主的平等が確立した証左に相違ありません。サイレントマジョリティの声なき声が聞こえなければこのゴビ砂漠よりも荒涼としたネット社会では生きていけないのです。何もかも自己責任の世の中です。ままなりません。
 さて、母上さま。
 話は変わって、先日の契約について覚えておいででしょうか。
 保証人になっていただいたあの契約です。元金保証の、金銭的には無利子無担保返済無期限のあの契約です。
 ようするに無料です。契約相手をタダ友と最近は呼ぶようです。私はただの智です。
 なにもいまさら、契約書の端に極小かつ微細に記載してあった注意事項の存在を知らしめたいわけではありません。
 もちろんオプション契約のご案内でもありませんし、お知らせしないままに契約内容をひっそりと変更していたお詫びでもありませんし、私の契約違反により補償を求めるわけでもありません。
 いささか大げさな修辞を再び許していただけるなら、連続的に間断なく進行する流動的な社会情勢下において、日々詳らかになる予察不能な新事実は一時の最適解を軽易に覆しせしめ、人間の普遍的理性の存在に対するアンチテーゼとしての概念すなわち非合理的のレッテルを貼られた社会的マイノリティの論理、それを集約すべく高度な政治的折衝によって締結されたあの契約そのものに対する賢慮にすらコペルニクス的転回が要求されたということであります。
 科学が発展しようとも未来の予測は不可能です。かのアインシュタインの「神はサイコロを振らない」という言葉はただそれのみがまるで宗教指導者の訓辞が如くに一人歩きしておりますが、実情としては我々は神が賽を振ったか否かの判定すらできないのです。
 我が家の拾い猫にシュレディンガーについて尋ねるまでもありません。不確定性原理とバタフライ効果のガード不能技始動コンボは量子コンピューターさえも一発KOしてしまいます。未来が決定的か確率的かなどというのは、神が居るのかどうかを論じるくらい無意味なことなのです。
 地震の予知が無理だというのは研究者でなくとも知っています。長期的な気候変動のシミュレーションは国家予算をつぎ込んでも外れまくる代物であることも理解しないといけません。競馬の予想屋の方がまだ信頼が置けるでしょう。
 これはリテラシーの問題です。ですので、件の契約がかような結末を迎えるに至ったことについても、予測不能であったことを素直に認めないわけには参りません。しかしながら、またそれゆえに私自身の自己責任については完全無欠にノーサンキューです。
 母上さま。
 これまで同様この手紙がお手元に届くことはないと存じてはいますが、契約締結時だけというのもどうかと思い、再びご報告いたします。

 私たちは契約友情を解消いたしました。

 母上さまへ
 かしこ

next

++++++++++


智のスカートを脱がせたいっ! top
Short Story -その他
index