[An episode after true story]
4.ロシアン確率論


 文化祭二日目。この日もまた伽耶さんは朝一番に学院へと現われた、らしい。というのも今日は俺が朝からずっと電話番をしていたせいで、細かいことは副会長から聞くしかなかったからである。「母様のことだから、今日も絶対朝一に来るはずよ」と開場前の準備中に副会長が言っていたので、その通りになったということだろう。
 そしてこの二日目、東儀先輩と白ちゃんが抜けたぶん一人当たりの仕事量は確実に増えていて、午前中は俺が電話番を、午後は副会長が電話番をすることになっている。この配置の理由は単純で、実務はともかくこういう厄介事の処理は紅瀬さんには向かないし、一日目を挨拶回りに費やした会長はこの二日目に働く気は毛頭無いからだ。その証拠に会長とは今朝がた監督生室に戻ってきたとき会っただけで、それ以降はニアミスすらしていない。どこで何をしているやら。
 そうして俺は開場からずっと生徒会の仕事に従事していて、ふと気付けば時刻はとうに正午すぎ。そろそろ交代かな、と思い始めた頃に監督生室のドアがガチャリと開けられ。
「おかえり、副会長。……って、ああ、伽耶さんも一緒でしたか」
「む? そうか、今日は征一郎ではなくお前が電話番か」
 伽耶さんが先に監督生室の中へとてとてと入ってきて、
「ただいま、支倉くん。母様、ちょっと待ってて。いまお茶淹れるから」
 副会長も後から続き、彼女はそのままの足取りで給湯室へと入っていった。
 ほぼ時間通り。几帳面な副会長らしいといえばらしい。……まあもっとも、生徒会で時間にルーズな人なんて――強制睡眠で遅刻する紅瀬さんを除いて――居ないのだが。あの会長ですら定刻にはきっちり現われる。女の子にモテる秘訣だからとかなんとか言ってた気もするが、それはまあ置いといて。
「いやしかし、どうしてこの建物はこんな端っこの高い場所にあるんだ。この暑い中、階段をずっと登るなど面倒なことこの上ない」
 そう言って、扇を本来の用途で使い始めた伽耶さん。椅子に座っているのだが、やはり足が地面に届いていないのはご愛嬌。
 ちなみに今の台詞、「あんたが建てたんだろう」というツッコミはしちゃいけないんだろうか? ……いけないんだろうな、やっぱり。
「ねえ支倉くん、お昼まだよね?」
「ん、ああ、そうだけど? あ、ありがと」
 給湯室から副会長が出てくる。机に座る俺の手元にお茶を置きつつ、
「できれば母様と一緒に何か食べてきてくれないかしら? 先約があるとかなら構わないけど」
「いや、ないよ。伽耶さんさえよければ一緒でいいけど、食べてきたんじゃないのか?」
「それがねえ」
 副会長がお盆を持ったままテーブルの方へと移動していく。伽耶さんは話を聞いていたか、扇で仰ぎつつ応えて。
「あたしはあんな甘いものばかり食べられん。まったく、桐葉同様お前の舌もおかしいんじゃないか、瑛里華?」
「うわ、紅瀬さんと同列に語られるのは心外よ、母様。あっちの方がよっぽどおかしいわ。ねえ、支倉くん?」
「俺に振らないでくれ」
 呆れるような素振りの伽耶さんの様子からして、だいたい話は読めた。副会長、かねてから行きたがっていた茶道部主催のスイーツバイキングに、おそらく伽耶さんと一緒に行ったのだろう。甘い物好きの副会長にとっては昼食代わりだったに違いない。
 しかし、思い返すに茶道部の申請書に書かれていたメニュー、見るだけで口の中が甘ったるくなってきそうなものばかりだったはずだ。今もあのクソ甘い紅茶を好んで飲んでいる副会長ならいざ知らず、少なくとも俺はあのバイキングに出てくるものをご飯のかわりにしようとは思わない。満腹になる前に申し訳ないが気持ち悪くなってしまうこと請け合いだからだ。
 そして、伽耶さんは俺と同様の判断を下したということだろう。親子とはいえ嗜好はそう似ていないらしい。それは今飲んでいるものが、副会長の例の紅茶に対して、伽耶さんは緑茶であることからも分かる。……温度は似たり寄ったりだろうが。
「そういうことだから、お前は瑛里華に仕事を渡してさっさと準備せい。腹も減っているだろう?」
「え? いやまあ、減ってるって言えばそりゃ……ああ」
 副会長に視線を送ると、彼女は伽耶さんから見えない角度で少しだけ笑った。つられ、俺も若干のジェスチャーを返し。
 お腹が減っているなら減っていると言えばいいものを。そのあたりの頑固さというか見栄の張り方は、やはりまだどことなく子どもっぽい。
「んじゃあ、副会長、『俺の』腹が減ったから、行ってきていいかな」
「はい、了解。しょうがないわね、支倉くんは。『ついでに』母様のこともよろしくね」
 立ち上がり、仕事机を副会長へと明け渡す。それを見た伽耶さん、俺が飲み干した湯飲みを給湯室へ戻しに行くより先に、椅子からぴょんと飛び降りて。
「よし、それでは行くぞ。早くせねば売り切れるところも出よう」
 待ち切れなさを身体全体で表しながら、表情だけは紅瀬さんのようにクールな態度を装ってそう言ったのだった。



「おおっと! そこを行くのはもしかしてこーへーと、それにえりりんのお母さんじゃあーりませんか!」
 教室棟の手前。伽耶さんとともにのんびりと人混みの中を歩いていると、ふいに元気いっぱいのそんな声が聞こえてきた。そんな大声で人の名前を呼ばないでください、と心の中で抗議しつつ振り返る。と。
「……あれ?」
 居ない。
 あの人小さいからなあ、なんて口に出せば風紀シール10枚で一発アウトなことを考えつつ視線を振る。見かねたか、再び声。
「こーへー! こっち、こっちー!」
「え? あ、そっち……って、何やってんですかそんなとこで」
「何って、焼きそば売ってるんだけど?」
 さも当然のように首を傾げるかなでさん。
 いやまあ、俺だってかなでさんが野球部であるなら、野球部の屋台で焼きそばを作りながら客の呼び込みをしていても何の疑問も覚えはしない。かなでさんは今日も頑張っているなあとしか思わないだろう。
 重ねて言うが、かなでさんが野球部であるなら、の話だ。
「その方は、確か以前に寮で会うたな。瑛里華がいつも世話になっている」
「そんな、とんでもない。えりりんにはお世話されっぱなしです! ……あ、わたし、悠木かなでって言います」
「伽耶だ。何かと融通の利かぬ娘だが、これからも瑛里華と仲良くやってくれるとありがたい」
「お任せあれ!」
 びし、と麺を焼いていたヘラを持ったまま敬礼で返すかなでさん。それを見て伽耶さんの表情は緩み、呼応してかなでさんもいっそう笑顔になる。そしてまたその空気に包まれたか、俺も頬が緩むのを自覚した。
 なんだか火照ってくるのは、目の前に熱い鉄板があるからというだけではあるまい。
「二人とも、お昼は?」
 ヘラを戻しつつかなでさんが聞いてくる。
「いや、これからです。ただちょっと悪いんですが、焼きそばは昨日も食べたので……」
「あ、ううん。そうじゃなくて。今からこーへーのクラスに食べに行こうと思ってたの。一緒に行かない?」
「うちのクラスに? えと……」
 うちのクラスでやっているものといえば、なぜか当日居ないはずの生徒の名を冠した、激辛喫茶HASEKURAだ。喫茶というだけあって食べ物もそれなりにあるし、その多くは団体客に対応できるメニューとなっている。当然団体の中には辛いものがダメな人が居ることは想定内なわけで、(比較的)辛くない料理もいくつかあったはず。俺に異論はない。そもそも昼食としてかどうかは別として、今日中に顔を見せに行く予定ではあったし。
 だから俺が言い淀んだ理由へと視線を向ければ、
「ん? ああ、あたしは構わんよ。お前のクラスということは、桐葉も居るかもしれんしな」
 承諾の返事。お昼は激辛喫茶HASEKURAに決まりのようだった。
「でもいいんですか、かなでさん。焼きそばの屋台でお手伝いしてるのに、他のところでお昼なんか食べて」
「違うよ、こーへー。お手伝いした上に更に売り上げにまで貢献しちゃったら、こりゃ風紀委員としても寮長としても肩入れしすぎることになっちゃうでしょ?」
「あー、まあ、理に適ってるような適ってないような」
 できるだけ多くの出し物に公平に貢献しようという魂胆らしい。
「結構考えてやってるんですね」
「もちろん! わたしが肩入れしていいのはひなちゃんだけなんだから!」
 ――前言撤回。やりたいようにやっているだけらしい。
 堂々と胸を張っての肩入れ発言に冗談の様子は一切なく、それだけにツッコミをいれるのを躊躇っていると、かなでさんはそんな些細なことなどさらっと流して、
「あ、それでそれで、えりりんのお母さんって、きりきりと知り合いなんですか?」
「む? きりきり?」
「あ、紅瀬さんのことです」
「うん。桐葉だから、きりきり!」
 二人してフォロー。というかフォローが必要な独自言語を、いきなり使わないようにしてほしい。
 伽耶さんは一瞬ぽかんとした後、「桐葉……きりは……きりきり……」などと呟いて。
「……く、くくく」
「伽耶さん?」
「い、いや、すまん……そうか、きり、桐葉が、きりきり……! ということは、うん、そうか、その方が以前から言っている『えりりん』とは」
「うん。えりりんだから、えりりん!」
「いや、かなでさん。それ説明になってません」
「うん?」
 小首を傾げるかなでさん。彼女の脳内では、うちの突撃副会長は千堂えりりんという名前に置き換わってしまっているらしい。「何か間違ったことでも言ったかな?」とでも言いたげな表情。副会長のことを「えりりん」と呼んで、よっぽど年季が入っているようだ。
 そしてまた、その一種の冷静さとは対照的に。
「えり……瑛里華が、えり、えりりん……! く、あは、く、くくく……っ!」
 いやもうほんとなんというか。
 笑いのツボにどうやらクリティカルヒットしてしまったらしい。それでもその古風な考えがそうさせるのか、下品な――と本人は思っているであろう――笑いを必死に噛み殺している。文字通り腹を抱え、もう片方の手で扇子を広げ口元を隠し、それでもなおぷるぷると震えて。なんというか、可愛らしい。
 そしてまた、ここまでくると、なんとかして笑わせてやりたいとも思ってしまった。無論、他意など無い。そうだろう? これはきっと、人類共通の普遍的な考えだ。そして笑いを堪えようとしている人物ほど笑ってしまうのは、牛乳を飲んでいるとなぜか吹き出してしまうのと同じこと。
 それゆえ俺は身をかがめ、伽耶さんの耳元に顔を寄せて。耳にかかる長い髪、副会長と同じシャンプーの香りを感じつつ。
「伽耶さん」
「い、いやすまん、後に、後にして……く、くく」
「実はですね、伽耶さんの知り合いでもう一人、面白い呼ばれ方してる人が居てですね」
 伽耶さんが首を素早く横に振る。これは「聞かせろ」ということだろう。決して「今笑いを堪えるのに精一杯で口を開くと笑ってしまいそうだから分かったから後にしろ、後で幾らでも聞いてやる、だから今言うな、言うんじゃないぞ、言ったらどうなってもしらんからな」という意味での首振りではない。
 だから、言った。
「せーちゃん」



 ――さて。
 衆目を集めるほどの大爆笑とその代償としての頬の痛み(PresentedBy扇の角)がようやく落ち着いた頃、俺たちはパンフとにらめっこの伽耶さんを先頭にゆっくりとうちのクラス――五年三組――へと向かっていた。
 いつもは無機質さと清潔感を併せ持つ廊下も今日に限ってはその彩りを大いに変化させていて、壁中にポスターやら装飾品やらが所狭しと貼り付けられている。すれ違う生徒も当然多く、またどこの呼び込みも威勢が良い。特に伽耶さんはその外見からかよく声を掛けられていて、そのたびに怒るんじゃないかと心配するのはどうやら俺だけ。伽耶さんも呼び込みというものそのものの性質はよく分かっているようで、またかなでさんが隣に居るということもあり、そう衝突もなく穏便に廊下を歩いて行けていた。昨日同様パンフに顔を突っ込んでいるせいで、ときたま前を歩いている人にぶつかるのもご愛嬌といったところか。
「あれ、孝平? 今日は監督生室じゃなかったのか?」
 そうして伽耶さんとかなでさんの様子を一歩引いて見守っていると、背後から聞き慣れた声。振り返れば、そこには司と、
「おおかた休憩といったところか。支倉のことだ、自分のクラスの売り上げに貢献しようとか、そんなところだろう?」
「あ、のりぴー!」
 気付いたかなでさんが応じる。
 そう。司と一緒に居たのは、どうしたことかアオノリだった。かなでさんがアオノリにじゃれつき始めたのを確認して、司に視線で問うと。
「パシリだ。メイド喫茶の」
「は? お前が?」
「職員室のだよ。お前はこれからうちのとこか?」
「ああ。そのつもり」
 答えると、司は「よし」なんて呟いて、アオノリへと振り返り。
「先生。職員室の方じゃなくて、そろそろ自分のクラスを手伝いたいんですが」
「ん? ああ、それもそうだな。まあそう言うからには、他の先生方には見つからないようにしろよ?」
「うっす」
 ……凄い会話だと思う。色んな意味で。
 なんだかんだであの司がアオノリの話だけはきちんと聞く辺り、わりと近い部分があるのかもしれない。
 そんな風に感心していると、くいくいっと引っ張られる感触。見ると、俺の右の袖、ちまっとした手がくいくいとそれを掴んでいて。
「のう。あれは?」
「あ、うちのクラスの担任で、青砥先生です。紹介しますね。あの、青砥先生」
 言いつつ、さっとその小柄な身体を前に出す。伽耶さんは腕組みを解いた。
「瑛里華の母で伽耶という。瑛里華と、この支倉、そして桐葉がいつも世話になっている。礼を言おう」
 腕組みは解いたけれど、でもちょっとだけ偉そうな態度。それを前にしてもアオノリはその落ち着きを乱すことなく答えて。
 うん。だからやっぱり、二人は似ている。司も司で、伽耶さんを見てもほとんど動じることはなかったのだから。事情を知っている陽菜やかなでさん、そして職業柄色んな人を相手にしているであろうシスター天池でさえ、少しは驚いたというのに。
「いや、これはご丁寧にどうもありがとうございます。五年三組の担任をしている青砥正則と申します。どうですか、文化祭は。この盛り上がりも、生徒会、つまりは娘さんや支倉、紅瀬が頑張ってくれたおかげです。どうか楽しんであげてください」
「うむ。充分満喫しておる。これからこやつらと共にその方のクラスの激辛喫茶とやらに行こうと思っていたところでな」
「それはそれは。発案が支倉とのことですから、何か不都合が有れば彼に言ってやってくれて構いませんよ」
「ちょ、先生!」
「うむ、ならばそうさせてもらうとするか」
「伽耶さんまで!」
 そして二人して「はっはっは」と笑う。対して、俺の口からは自然と溜息。でももちろん、そう悪い気はしない。
「では、僕はこれで。どうぞ、良い一日をお過ごしください」
「そちらもな。桐葉達を今後ともよろしく頼む」
 伽耶さんが言うと、アオノリは頷きを返し一礼した後、俺たちとは反対方向へ歩き去っていった。そのさまはまさに転校初日、俺が抱いた「初老の男性教師」という印象そのもので、落ち着いた態度に感心したか伽耶さんもうんうんと頷きながら見送っている。見た目相応と言えばそうだし、だからこそ俺も初日は違和感を覚えなかったが、いざアオノリの色んな面を知ってからあの落ち着きっぷりを見ると、どことない違和感とある種の尊敬の念が同時に沸いてくるから不思議なものだ。
「さて。では行くか。その方も確か以前見たな。話を聞くに、一緒に来るのだろう?」
「構わないなら」
「構わんさ」
「ども」
 伽耶さんの問いかけをこれまた平然と返す司もやはり大物だ。
 そうして伽耶さんが先行し、俺と司は並んでゆっくりとそれに続いて。
「あ、へーじ! いつの間に!?」
 これまた大物ぶりを発揮しているかなでさんがぴゅーんと走って伽耶さんの隣へ並んで。そんな隊列のまま俺たちはその目的地、「激辛喫茶HASEKURA」へと赴いたのだった。



 戦場には、二種類ある。自ら赴いた戦場と、いつの前にか放り込まれていた戦場だ。
 前者は準備も周到に出来る。過去を振り返り、家族の顔を思い返し、最後になるかも知れないからと残った食糧を一気に食べ、遺書を書き、精神を高揚させる。だから、怖さが続く代わりに戦場に向かう頃には身も心も万全だ。
 後者は難しい。てきとうにぶらついていたらそこは既に死地、敵を倒して生き残るかあるいは己の死か、気付けばそんな二択に身を置いていたという状況。前もっての怖さは無いが、しかしその唐突さに精神はついていけはしない。だから、きっと逃避してしまう。――そう、例えば、戦場を二種類に分けて考察するなんてことをし始めたりするだろう。
「孝平くん、そんなに悩まないでも……」
 陽菜の声が遠い。
 男には悩まねばならない時があるのだ。そして今がその時であると、俺は判断した。目の前では、作りたてであることを示す湯気に鰹節がゆらゆらと躍っている。その源、球状物体、計六つ。つまり。
「こーへー。早く選ばないと、たこ焼き冷めちゃうよ?」
「どれをいつ選んだって同じだろ。ハズレを引いてくれるに越したことはないが」
「桐葉、ハズレは本当に一つなんだろうな?」
「不本意ながらね。私としては全部辛い方がいいのだけれど。ちなみに紅瀬仕様は悠木さんのお姉さんに断られたから、ハズレのみテラ辛よ」
 ロシアン・タコヤキ。リボルバーの弾丸のような六つのたこ焼きは、俺、伽耶さん、かなでさん、陽菜、司、紅瀬さんの人数と合うように作られている。
 ……俺たちが激辛喫茶に到着したとき、ちょうどクラスは昼の混雑を終えて一段落しているところだった。待つこともなく客として入れば、そこにはちょうど陽菜と紅瀬さんの姿が。他のクラスメイトの気遣いもあって休憩をもらった二人は、俺たちと一緒に昼を取ることに。そして紅瀬さんがにやりとしながら持ってきたのが、そう、このロシアン・タコヤキなわけである。
 伽耶さんに説明するのは手間だったが、しかしそれはそれ、理解してしまえばあとは単純な勝負世界。有り体に言えば蹴落とすべき敵の一人だ。
「ちなみに外れた奴は奢りな?」
「……へーじ、最初っからそれ目当てだったでしょ?」
「さて、何のことやら。だいたい負けなけりゃいいんだ、負けなけりゃ」
 そんな会話を聞きつつ、俺は眼前の六つのたこ焼きに神経を集中させる。
 まずはジャンケンが行われたのだ。それに俺は勝ち、勝った順に――となりそうなところで俺は気が付いた。これ、もしかしたら順番によって外れる確率が左右されるんじゃなかろうか、と。
 そこで待ったをかけて、今こうして必死に考察しているわけなのだが……正直言おう。さっぱり分からない。
「助けが必要かしら?」
「教えてくれるのか?」
「ええ。私は貴方が外れないでくれた方がいいもの」
「……頼む」
 言うと、紅瀬さんは座っている俺の肩に片肘をつき、耳元に顔を寄せてきた。長い黒髪がくすぐったい。
「まず、一番手の場合。貴方がハズレを引く確率は純粋に6分の1。これは分かるわね?」
「ああ」
「二番手の場合、たこ焼きの残りはいくつ?」
「5つだな」
「ええ。だから、『二番手が引くとき』ハズレを引く確率は5分の1。同じく、『三番手が引くとき』ハズレを引く確率は4分の1。以下、同様に確率が上がっていくわ。最後の二人は2分の1になるわね」
 分かりきった証明問題を口にするかのように、平然と言う紅瀬さん。
 つまり、先に引いた方が良い、ということだろうか。なんだか騙されている気もするのだが、それは紅瀬さんの顔を見たところで分かりはしない。このフリーズドライ、以前かなでさんに向かって大真面目な顔で「醤油に蜂蜜を入れるとコーラの味がする」と言った前科があるからだ――そしてかなでさんの性格を考えると、その後どうなったかは言うまでもない――。
「……うーん」
 嘘はきっと、ついていない。
 でも多分、どこかに間違いなく詭弁が混ざっていて。
「もう、こーへーおーそーいー! ってわけでいただきっ!」
「ああっ!」
 楊枝一閃。
 一瞬にして掠め取られたたこ焼きは、そのままかなでさんの口の中へ。「おおおお、美味しい! さすがひなちゃん!」なんて叫びだしたことからして、それはきっとハズレではない。
 皿の上。残るは、五つ。
「えーっと、今かなでさんが一個取っちゃったから、計算が一個ずつずれて……」
「悪い孝平、俺も食うわ」
「あ、じゃあ私も」
「……」
「あー!」
 司に続き、陽菜、紅瀬さんの順にひょいひょいっとたこ焼きが消費されていく。止める間もなく皿の上、球状物体は二つへとその数を減少させていた。反応はそれぞれ「ん、なかなかだな」「別に私じゃなくても、たこ焼きの味は一緒だよ、お姉ちゃん」「……外れたわ」というもの。
 よって、まだハズレは出ていないということになる。残る確率、2分の1。……ああやっぱり、先に引いた方が確率的に有利だったんじゃないのか?
「さて、残るはあたしとお前だけとなったわけだが」
 隣に座る伽耶さんがしれっと言ってのける。その余裕はおそらく、「奢り」の件について、大人らしく懐の広さをアピールしようとしているだけだ。吸血鬼とて味覚は常人と同じ。知らないのだ、伽耶さんは。紅瀬さんをもってして「テラ辛」と言わしめる、ハズレが秘めているであろうその辛さを。
「残り物には福がある、と昔から言われていてな。であるがゆえにここまでこうして辛抱したが、なに、こうなってはどちらともそう大差はあるまい。先にいただくぞ」
「あっ! ……まあいっか。んじゃ俺は残った方で。せーので食べましょう?」
 袖をまくりつつ楊枝でたこ焼きを突き刺す伽耶さんと、残った方へ同様に楊枝を刺す俺。伽耶さんの言が正しければこの場合、俺の方が残り物ということになるのだが、まあ、我慢できなかったんだろう。伽耶さんだし。
 しかし俺は知っている。紅瀬さんの助言。ここまで来れば、先が有利であるという(暫定的)理論は破綻するということを。確率は等しく五分。アタリかハズレか。天国か地獄か。知っているのは、己が突き刺したたこ焼きのみ。
「さあ、こーへーとえりりんのお母さん、どっちがハズレか!」
「俺としてはもうどっちでもいいけどな。ま、孝平のが面白いとは思うが」
「あ、えっと、お水用意した方がいいかな?」
「……」
 どこぞの実況アナウンサーのようなかなでさん、自分の奢りがなくなって安堵している司、ここに至っても心配をしてくれている陽菜、そして何よりいつも以上に興味津々で見つめてくる紅瀬さんの視線を受けながら、俺と伽耶さんは楊枝を口元へと持って行き。
「せーの!」
 まだ若干熱さの残るたこ焼きを、そのまま一気に頬張った。
 ――瞬間。
「――ッ!」
 声にならない声は、俺の左隣から。それを聞いてまず安堵してしまった俺を、一体誰が責められよう?
「んーっ! んーっ!」
 涙目。
 手は扇を握りしめたままぷるぷると震えていて、それでもけなげに咀嚼するさまは可哀想にすらなってくる。もきゅもきゅと動く口は食べ物を食べているというよりむしろ敵を倒す気迫に溢れていて、俺がたこ焼きを食べ終えてから――ちなみに味わうほどの余裕はなかった――少し後、ようやく伽耶さんは「んっく」とそれを飲み込んだ。それでもなお顔をゆがめたのは、きっと喉を通るときすら痛みを感じたに違いない。なんというテラ辛。
「ほひ! ひひは! はふはほへは!」
 うっすら涙を浮かべて、それでもキッと睨み付けた先は紅瀬さん。その強がりに思わず伽耶さんの頭を撫でてしまったが、特に文句の矛先が俺に向くことはなく。
「何言ってるか分からないわ、伽耶。あ、もしかして美味しかった?」
「はひひふは! ほふははへはひはほうふ!?」
「あちゃー、きりきり、よっぽど辛くしたんだね? これもS級に追加かなあ」
「あ、お水取ってきます」
「いいわよ悠木さん。美味しかったみたいだから」
「え? えっと……」
 立ち上がりかけた陽菜を制する紅瀬さん。その顔はとても愉快そうな表情をしていた。というか事実、愉快なのだろう。それが心温まるハートフルな意味でなのか、二百五十年の怨念という黒い意味でなのかは分からないが。前者であるよう願いたい。
 困惑する陽菜は助けを求めるように俺を見てくるが、しかしこれには何を返すこともできず。
「ほひ、ひひは! はっはほひふほほっへほひ!」
「だから分からないわ、伽耶。もっと欲しいの? テラ辛を」
「へひへひは!」
「――」
 伽耶さんが言うと同時、まるでそんな素振りがなかった紅瀬さんががたっといきなり椅子から立ち上がった。本人も驚いているようで、それはまるで自分が動くことを知らされていなかった操り人形のよう。そして事態を理解したように溜息を一つ吐いて、そのまま調理スペースへと消えていった。
 ……まさか。
「はっはふ、ひふほほほひはんはふへ」
「あの、お水は……?」
「いや、陽菜、大丈夫だ。たぶん紅瀬さん、水取りにいったんだよ」
「そう? ならいいけど……」
 間違いない。伽耶さんの「へひへひは!」という言葉。これを通常の日本語へと戻すとこうなるのだろう。「命令だ!」と。
 だから紅瀬さんも溜息を吐いたのだ。吐きたくもなる。たこ焼きが辛すぎたから水を持ってこい、なんてことで「命令」を使われては。……ということは、紅瀬さんは伽耶さんの言葉を理解できていたのだろうか? それともできていなくとも伽耶さんの意志が優先されるのだろうか? うーん、難しい。
「伽耶、持ってきたわよ」
「っ!」
 紅瀬さんの持ってきたコップを奪い取るように手にする伽耶さん。両手で支え、そのままこくこくと水を口へと流し込んでいく。その必死さ、申し訳ないが普段の落ち着きぶりを知っているだけに、随分と可愛らしく思えて。
 ……まあ、それだけ普段が大人びているということだ。うん。
「ん、く……けほ、けほっ。おひ、桐葉! ほ前はまったふ、ほんなものか食えると思ふておふのか?」
「私はテラ辛くらいで丁度いいのよ。食べたかったくらいだわ」
「お前ほ基準にふるでなひ」
 ふん、と落ち着きを取り戻したように振る舞う伽耶さん。背筋はぴんと張り直したものの、しかし口をはひはひと開け閉めしていては威厳はそこから逃げていくわけで。火照ったか、扇で顔を仰ぎ始めもする。
「あー、負けはえりりんのお母さんだったかー」
「おい孝平。ここは保護者を立てる場面だろ?」
「んな無茶な」
 文句があるなら確率を内包していたたこ焼きに言ってほしい。
「まあよひ。桐葉も居ることだし、その方らの昼食代はあたしが出すことにひよう。そういう約束の元での勝負だったからな」
「マジっすか?」
「そんな、千堂さんのお母さん、いくら何でも悪いですよ」
「よい。瑛里華や桐葉、それと伊織がかけている迷惑料のようなものだ。しばしば茶会とやらで馳走にもなっているようだし、うむ、受け取りづらいというのならその代にでもあててくれればよい」
「あら? 伽耶、私はあの二人ほど迷惑をかけているつもりはないわよ?」
「あたしが見る限り、どっちもどっちだ」
 そうだろう、と同意を求めてこっちを見てくる伽耶さん。俺はやっぱり笑って誤魔化すより他になく。
 そしてまた、「そういうことなら」とかなでさんがいくらかお金を預かって、俺たちはロシアン・タコヤキに続く別のメニューを注文し。
 たこ焼き同じような騒ぎを繰り返しつつ、そうして文化祭二日目の昼食の時間は過ぎていったのだった。

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