[An episode after true story]
3.五時になります(練習用)


 ローレル・リングの出し物は、いわゆるバザーというやつだった。持ち寄られた服や書籍などを売却し、売上金はその全てを慈善団体へと寄付する。もうケチのつけようがないくらいの慈善事業だ。これで弁当代すら出ないというのだから、敬虔というかなんというか。
 ……あれから俺たちは雪丸を抱えたまま礼拝堂へと向かい、白ちゃんにたいそう感謝されつつそのバザーを見て回った。ローレル・リングの制服をまとっている人が白ちゃん以外にも何人か居て、おそらく彼女らが件の幽霊部員か、あるいはOGたちといったところなのだろう。
 そうして伽耶さんとぶらぶらと売り物を見ているうち、雪丸を檻へと帰しに行っていた白ちゃんが再び俺たちのところまでとてとてと戻ってきて。
「あの、伽耶様。シスターが是非ご挨拶をしたいと仰っているのですが……」
 畏まって言う。
 聞いて、予想通り伽耶さんの眉がぴくっと上がった。腰をかがめて商品を見ていた体勢から、ゆっくりと振り返る。赤い瞳が白ちゃんへと向けられて。
「天池が?」
「はい。あの、瑛里華先輩と伊織先輩のお母様が来ているとどこかで聞いたらしくて、是非会いたいと」
「そうか……」
 腕を組み、考え込む姿勢。
 シスター自身は伽耶さんのことを知ってはいない。それでも本人は会長や副会長のことをよく知っているし、教員としてその保護者に挨拶したいというのはわりと普通の感情だろう。まして白ちゃんとも懇意にしているとなれば尚更だ。
 しかし、伽耶さんの側からはそうも言えない。紅瀬さんを襲わせた件、そして三十数年前の会長との件。シスター天池自身が知らないうちに、彼女は伽耶さんにとって無視できない位置にその存在が置かれてしまっている。
「……」
 会うだけなら簡単だろう。会って、息子と娘が世話になっている旨を告げ、別れる。至極簡単な社交辞令。今の伽耶さんならば造作もないことだ。白ちゃんとて、それ以上のことを要求していたつもりもあるまい。
 だがそれでも、伽耶さんは考え込んだ。それはつまり――
「いいだろう。会おう。どこに居る?」
 承諾の返事。
 俺はそれを、素直に賞賛したいと思う。
「それが、バザーのお客様のお相手をしていて、えっと」
「構わん。連れていけ」
「あ、はい」
 白ちゃんが先だって歩き出す。行き先は、二人からは見えないだろうが俺からは見える、今も勤勉にお客の相手をしているシスター天池自身のスペースだ。ローレル・リングの制服は何人も居るが、あのカソックはシスター天池のみ。背の高い俺からはよく見える。
 そうして白ちゃんは俺の予想通り、そこへ俺と伽耶さんを導いていって。
「あの、シスター。伽耶さ……瑛里華先輩たちのお母様をお連れしました」
「あ、東儀さん。そちらの方が?」
 様、という敬称を避けて白ちゃんがそう告げる。シスターがそれに振り向くと同時、伽耶さんが一歩、白ちゃんの前に出た。その仕草はあまりに鮮やかで、言うなればどこぞの貴婦人のそれ。伽耶さん自身が島で影響力を持っていて、それゆえ外交術はそこそこ長けているはずだという会長の言は正しかったらしい。
「瑛里華と伊織がいつも世話になっているようだ。二人の母で伽耶という。礼を言おう」
 シスターはその口調か、容姿か、あるいは服装か、少しばかり面食らった表情を見せたものの、すぐにいつもの穏やかな態度を取り戻して。
「いえ、とんでもない。お二人は学院にとってなくてはならない存在です。私も助けられてばっかりで。それとすみません、本来は私から出向くべきところを」
「なに、気にするな。伊織がかけている迷惑に比べれば、これくらい」
 これにはシスターも笑うしかない。しかもそれでも否定しないあたりが、シスターのシスターたる由縁か。俺もなんとなく会長のかわりに心の中で謝罪しておく。
「……それと」
 そしてそんな中、伽耶さんは更に半歩身を引いて。
「か、伽耶様っ?」
 白ちゃんがそう声を漏らした。
 しかし、そりゃ驚きもする。伽耶さんがシスターに対して頭を下げたともなれば。
「あの、えっと、千堂さん?」
「お前には余計な迷惑をかけた。申し訳ないことをしたと思っている」
「そんな、私は何も……。と、とりあえず頭を上げてください」
 戸惑いながら、シスターが伽耶さんの肩に手を置く。
「伽耶様、お顔を――」
 白ちゃんもそれに続こうと手を伸ばし。
「……え? あの、支倉先輩?」
 俺はそれを制した。
 不思議そうな瞳に、首を振って応える。
 そう。伽耶さんにとって、この問題は避けては通れない、そして先延ばしもできないものだ。三十数年前のことではない。今伽耶さんが謝罪したのは、先日の、紅瀬さんにシスター天池を襲わせた件。それは彼女が、「お前」という言葉遣いをしたことからも分かる。シスターの母親は、この謝罪に含まれていない。
 そしてその理由として、二つの問題はその本質が大きく異なっていることが挙げられよう。伽耶さんはまだ、吸血鬼と人との対立、それに端を発したいくつかの罪を受け入れられてはいない。それは例大祭に顔を出さないと決めている態度からも分かるし、会長と未だに仲良くできていないこともこの問題の範疇と見ていい。
 しかしながら、彼女は家族内での、つまりは会長や副会長との間での対立、そして紅瀬さんに対する束縛については、そのことを反省しひとまずは受け入れている。また副会長に対しては珠を消すときに謝罪もした。きっと紅瀬さんに対してもしているに違いない。
 だから彼女は、シスター天池に対してもまた謝らなければならなかったのだ。いま確かに伽耶さんはこう言った。『余計な』迷惑をかけたと。それはつまり、シスター天池を襲わせた件は完全に余計だった、問題の本質ではなかった、無意味に巻き込んでしまった、という意味を含んでいる。家族内の、それも会長への意趣返しという点だけにおいて命の危機に晒してしまったことを、強く詫びているのだ。それは会長との対立を反省する以上、当然必要なことである。
 伽耶さんが、二百五十年にも渡る人との対立、その間に犯した罪を受け入れるにはまだまだ時間がかかるだろう。しかし、罪とは積み重なっているもの。彼女がシスター天池に謝罪をしたのは、その受け入れへの第一歩と言って差し支えないに違いない。
「千堂さん……」
 おそらくそれを、伽耶さん自身も分かっている。問題の解消、行為への贖罪をしていこうという志向、その志向を受け入れた時点で、彼女は俺や副会長たちの導きによらずに己を省みていかなければならなくなった。それが分かっているから、あるいは実践しようという気持ちがあったからこそ、彼女はこうして頭を下げたのだ。一度もしたことないであろうその行為を、始めの一歩として踏み出したのだ。
「……分かりました。伽耶さん、と言いましたか」
 そしてその一歩目。
 相手がシスターであったことは、もしかしたらとても幸運だったのかもしれないと、俺はシスター天池の態度を見て思う。同時、言いしれないほどの感謝の念をも抱いて。
 彼女はそのまま伽耶さんと同じ高さまで目線を下ろし、正面からはっきりと向き合った。伽耶さんの顔は俺からは見えないが、きっとシスター同様、強い意志の籠もった表情をしているに違いない。あのときのような泣き顔でも、子どものように不機嫌そうな顔でもなく、きっと一人の人格者としての。
「私には身に覚えのないことですが、あなたはしっかりと自己の責任を見据え、謝罪した。懺悔する必要はありません。そしてまた、私が被害者なのであれば、許すも許さないもありません。私はあなたに許すべきなにものをも持っていないからです」
「……それは、そうかもしれないが」
「それに、今日はお祭りでしょう? こういう話があります。お祭りとは、開催される前から既にその成否が決まっているものだと。それはつまり、お祭りに参加する人たちが、お祭りができるだけの余力があるかどうかという話です。私は現にこうしてお祭りに参加します。だから私には、何の被害も、お祭りに出られないような何ごとの被害もないことを、この参加自体が証明しています。
 そして伽耶さん、あなたもこのお祭りの参加者です。参加している以上、あなたがお祭りに出られないほどの重大な何かを抱えているということはありえません」
 ……どうやら以前に会長が話してくれた「祭の意義」とやらは、シスター天池からの受け売りだったらしい。会長がまともなことを言うなんてと思っていたら、そういうことだったわけだ。
「あたしが、祭に参加を?」
「ええ。修智館学院の文化祭だって、お祭りであることに変わりはありません。参加し、楽しめていること、それそのものがあなたにとっても重要な意味を持っていると思います。そうでしょう、支倉君?」
 そう言って話を振ってくるシスター。顔に浮かぶ優しげな笑みは、どう見ても俺の考えを見抜いているそれだった。
 そうだ。伽耶さんを文化祭へ誘い、さらにこうして方々への案内を続けている理由。それは単に俺が生徒会役員であるからだとか、伽耶さんが副会長の母親であるからだとかっていうわけではない。俺は伽耶さんに文化祭を楽しんでもらうと同時に、もっと自身と周りの関係について見て欲しかったのだ。
 朝。俺は伽耶さんに会長と副会長の働きぶりを見てもらい。
 昼。東儀先輩と例大祭について話をしてもらったりして。
 いま、白ちゃんとともにシスターへ挨拶をしてもらった。
 もちろん全てが俺の計画というわけじゃない。東儀先輩との話題で例大祭のことが出たのも、シスターがここに居て伽耶さんが謝罪をしたのも、偶然だ。でも、それでも伽耶さんが自分を取り巻く環境と接触することで進めていける何かがあるとは思っていたし、それは確かに事実そうだった。
 つまり、この穏やかで優しい空気との接触なのだ、今の伽耶さんに足りないのは。
 だから俺は、彼女をみんなの所へ連れていく。今日は白ちゃんとシスターまで。明日は紅瀬さんに加えて、かなでさんや陽菜、司の所へも連れていこうと思っている。屋敷の外、その広い世界では紅瀬さんや白ちゃんは別の顔を持っていること、そしてまた屋敷では会わないかなでさんたちのような人も、伽耶さんが思っているよりずっとずっと優しいということを知ってもらうために。
「……あ、あたしは自分の意志で来たのだ。瑛里華の様子を見るためにな。だからその、別に、別にな、支倉に担がれたからというわけでは」
「担いでなんていませんって。俺は役員として、伽耶さんを案内しているだけですよ」
「ふん。その満足げな顔が気に入らん」
 んな殺生な。
「ふふ、あまり支倉君をいじめないであげてくださいね。今や学院の次期副会長なんですから」
「そういえばそうだったな。瑛里華に負担をかけさせるわけにもいくまいし、ほどほどにしとくとしよう」
 どちらにせよわりと酷いことを言いつつ、伽耶さんは身体を反転させる。意図を察し、俺もそれに続いて。
「時間を取らせた。今日はこれで失礼するぞ」
「はい。よろしかったら、またご覧になりに来てくださいね」
「暇だったらな」
「あ、伽耶様。礼拝堂の外までお送りさせていただきます」
 そうして俺たちは、白ちゃん、伽耶さん、俺の順に並んで、シスター天池に見送られながら礼拝堂の外へと出たのだった。
 伽耶さんの足取りにどこか安堵の色が見えたのは、致し方ないことだろう。



 夏であるがゆえに日没まではまだまだありそうだったが、しかし、俺は驚かざるを得なかった。日の傾き。本敷地、噴水前には既に人だかりが。急いで時計を見る。
「うわ」
 午後四時半。想定していた時間よりずっと時計は進んでいた。
「どうしました、支倉先輩?」
「いや、白ちゃん、時間が」
「はい? ……わっ」
 自らの腕へ視線を落とし、白ちゃんの丸い目が驚きでいっそう丸くなる。
「な、なんだ、どうした? 終了は五時だろう?」
「ええとですね……とりあえず、白ちゃん」
「あ、はい。シスターに声を掛けてきますっ」
 言って、白ちゃんが礼拝堂の中へと駆け戻っていく。それを伽耶さんは不思議そうに見送って。
「どうしたのというのだ?」
「その、ですね。あ、白ちゃん、副会長たちによろしく!」
「はい! 伽耶様も是非、ご覧になっていってください。瑛里華先輩や紅瀬先輩もご出演なさいますから」
 俺たちの横をすり抜け、伽耶さんにそう言いつつたったっと走り去っていく白ちゃん。その行き先は噴水前の人だかり。小さい彼女はそのツインテールを揺らしながら、もぐるようにしてその群衆へと分け入っていった。
「今日はもう終わりでしょう? だから明日の練習も兼ね……えっと、今日の締めとして、寸劇をやるんですよ」
「ほう。それに瑛里華や桐葉も出ると。しかし瑛里華はともかく、桐葉がそんなものに出るのか?」
「ええ、随分嫌がってましたけど、最終的には押し切られて」
 あのときの紅瀬さんの困りようといったらなかった。ああ見えてかなり押しに弱い紅瀬さん、特に純粋な好意からの頼まれ事は断りづらいようで、白ちゃんとかなでさんのダブルアタックにあえなく轟沈したのだ。
 ……もっとも、そのとばっちりとして俺は激辛チゲを奢る約束を要求されたのだが、まあ、そのくらいはやってあげてもいいだろう。
「どれ、そういうことなら一つ見ていくとしようか。娘の演劇を見るのは、母親の重要な役目だと聞いている」
 いや、それは幼稚園とかそういう段階での話だと思うのだが。
「ほれ、どうした。さっさとあたしを連れていかんか。不本意だが、お前が居ないとあたしがあの中でまた蹴り飛ばされることになるからな」
 噴水前の人だかりを見て、呆れたように言う。開会式でのことは覚えていたようだ。
 苦笑しつつ右手を差し出すと、伽耶さんの小さな左手がぎゅっとそれに応えてきて。
「さて、お前の人徳と腕っ節、見せてもらおうか」
 ……無茶を言う。
 これってつまり、「最前列で見たい」というのと同義じゃないか。
「できないのか?」
「――いや、俺も近くで見たいんで」
「そうか」
 ならばよし、と呟いて伽耶さんは俺に先立って歩き始めた。引っ張られるようにして俺もそれに続き。
 ……仕方ない。ちょっとだけ、職権を濫用させてもらうとしよう。



 さて。
 そうこうして、当然のように簡易ステージ前、最前列を確保したとき、寸劇はもう開始直前といった頃合いだった。
 今日の寸劇はあくまで明日の演劇の練習用だ。照明や音響の実際の影響を確かめるための、本番を兼ねたリハーサル。準備というものを好まない会長を納得させるためには、こういう形式を取るより他になかったのだ。
 そうして数分待ち、伽耶さんの顔に退屈の色が見え始めた頃。
「さあ! 今日の文化祭はそろそろ終わりだ! だが、俺たちにはまだ明日もある! みんな、まだまだ疲れてないだろうね!?」
 うおおおおおお、と歓声。当然それを一身に受けるのは、たった今ステージの上へとあがって、マイクを手にしている会長その人である。ちなみに服装はいたってノーマルな学生服だ。何時の間にやらタキシードは脱いでいたらしい。
「客入りが上々だった出し物! 明日も気合入れていけ! 客があんまり来なかった出し物! 明日は今日より人が多い、まだまだ巻き返せるぞ! ――さあ! というわけで今日は閉会宣言がないため、かわりにこの僕とあの寮長・悠木姉が考えた脚本による寸劇で締めることにしたい! 一瞬だから見逃すんじゃないぞ!?」
 おおおおお、と再び会場が沸く。
 いやしかし、かなでさんまで脚本に一枚噛んでいたとは聞いていなかった。会長に脚本を任せるというだけで不安だったのに、かなでさんまで絡んでいるとなれば不安は一気に数割増しになってしまう。
 そう、それはあたかも、硝酸と塩酸を混ぜたときの危険性に似ている。
「本当にあの男、相変わらず威勢だけはいい。大方、ずっとああなのだろう? あれに付き合うお前たちの気が知れんな」
「いや、まあその」
 否定する材料が見当たらないのが困りもの。言葉を選ぶと言うより、むしろ言葉を探す感じで思考を巡らせていると、伽耶さんは俺に態度から全てを悟ったか「ふっ」と微かに笑って。
「始まるみたいだぞ」
 言って、顔を舞台の方へと向けた。つられて俺も見れば、会長は舞台奥へと消えていくところで。
 今回、リハーサル代わりに何かしようと提案したのは俺だったが、その内容まで知っているわけではない。そもそもかなでさんが脚本に絡んでるのを知らなかったのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
 しかしそれでも、「リハーサルだから」という理由でやっている以上、参加者は分かっている。副会長、紅瀬さん、かなでさん、陽菜の四人と、それに加えて今日だけでもと参加をした白ちゃんの計五人が主役だ。会長が出るかどうかまでは、ちょっと分からない。
 ちなみに「寸劇」とは前々から言っていたが、会長がさっき言った「一瞬だから」というのはどういう意味なのか。そんなに短い、いわゆる一発芸みたいなことをする気なのだろうか? にしては、少々予算がかかりすぎている――東儀先輩が渋い顔をしていた――気がするのだが。
 そんなことを疑問に思っていると、無人になったステージ、いまかいまかと待ちわびている会場のざわつきをかき消すように、空砲が遥か遠くで一発鳴った。
 視線を向ける。監督生室のほぼ真上の上空に、煙が残っていた。
「なんであんなとこから……?」
 更なる疑問。
 次いで、空砲はなおも続く。二発目。別の方角。
「礼拝堂だ!」
 誰かが叫んだ。聞き覚えのある声だと思ったのは、きっと気のせいではないのだろう。
 声に従って見れば、やはり礼拝堂の上空、空砲の名残が宙を漂っていて。
 そして、今度は打ち上げ音。ドンドンドン、と三回続けて聞こえてきた。近い。
「伽耶さん、耳を――」
 当然、間に合わない。
 俺の声は、直後、本敷地上空で破裂した三連発の空砲音でかき消されて。
「――……!」
 きーん、と耳鳴り。
 ありえない。こんな近くで鳴らすなんて。見れば会場も静寂から一転、再びざわめきを取り戻していた。なんだ一体、次はあるのか、どうしてあの位置で、などなどその内容は混乱したまま右往左往。
「伽耶さん、大丈夫ですか?」
「う、ああ、何とか……。あ、いや、別にこれくらい何のことはない!」
 しがみついていた右手を俺の腰から離して、伽耶さんはそう強がった。これなら心配あるまい。逆の手は繋いだままだし、うん、ならやはり大した問題はない。
 そうして会場のざわめき、それがピークに達しようとしたところで、声。
『むむむ……このV字は……』
 スピーカーから発せられたそれは、間違いなく俺の知り合いの人のもの。「悪い子には風紀シールっ!」とか言い出しそうな、元気いっぱいの声だ。いくらシリアス風に「このV字は……」とか言ったところで、緊迫感がないことかなでさんの如し。
「しかしV字って……ああ」
 監督生室、本敷地、そして礼拝堂。確かに五つの空砲が鳴った場所を結ぶと、V字の形ができあがる。「この」というのはそのV字のことだろう。
 会場もまた俺と同様の解答へ至ることができた頃合い、スピーカーからは次の台詞。
『こりゃもうやるしかないっしょ! アレを!』
『……やっぱり私、帰るわ』
『ちょ、ちょっと紅瀬さん! あなた、この期に及んで……』
『あ、あの、紅瀬先輩、瑛里華先輩、マイク、マイクが』
『えーっと、お姉ちゃん!』
 ……。
 なんと言っていいものか。これが演技ならばそりゃもう臨場感抜群どう見ても感情がこもっていて演技には見えないリアルさ溢れる最高の芝居なのだが、ほぼ間違いなくというか完全に間違いなく確実にそうではないのだろう。オブラード百枚くらい包んで言えば、アドリブというやつか。
 陽菜の声の後、再びスピーカー。未だに五人はステージ上に姿を見せてはおらず、その周り、見渡しても準備をしているようには見えない。会場がまたざわめき始めた。
『修智館学院に集いし、美女五人っ!』
『清く正しく美しく』
『珠津島の平和を守りっ』
『愛と勇気と希望の学院生活を盛り上げる!』
 そうして副会長の声が終わると同時、会場。聞き覚えのある、誰かの声。
「上だっ!」
 叫びに呼応し、俺を含めた会場中が空を見る。紅の空、まるで鳥かと見紛うそれは。
 ――影が二つ、遙かな虚空を舞っていた。
「ちょ……っ!」
「ふむ、瑛里華と桐葉か」
 まるでムーンサルトのごとき華麗な後方宙返り。二人の対照的な色の、それでいてともに美しい長い髪が空を泳ぐ。
 そしてまた、二人は更に他の誰かを抱えてもいた。頭がこっちを向いた体勢のまま、綺麗な放物線は寸分の狂い無く噴水前の簡易ステージへ同時に着地。軌道から考えて、おそらく旧図書館の屋根あたりから跳んできたのだろう。なんという跳躍力。
 ちなみにどうして普通に跳ばずに宙返りを選択したのかと言えば、おそらくは見られることを回避するためなのだろう。いや、何をとは言わないが。
 まあともかく、二人はステージへと軽やかに着地し、それぞれが抱えていたその他三人を解放して。同時、パンパンパンパンと空砲の連弾。おそらくは決めポーズが設定されていたのだろう、かなでさんだけが得意げに、副会長と陽菜と白ちゃんは恥ずかしげに、紅瀬さんは何もせず立ったまま、せーので声を重ねて。
「我ら、ふぉーちゅんファイブ!」
 瞬間。
 辺り一面、まるで稲妻が直撃したかのような轟音と共に、ステージから射抜くような光が溢れて――――



 ……さて。
 かなでさんのぐだぐだな脚本と、おそらく会長提案であろう爆発オチという二つのイレギュラーが混じり合った舞台が終わり、これにて文化祭一日目は終了となった。
 そして当の劇だが、おそらく東儀先輩が居なかったからだろう、会長は電気やら火薬やらを使いたいだけ使ったようで、劇終了後は辺り一面煙まみれで散々なことに。結果として彼は副会長にもの凄く怒られながら、しぶしぶと噴水周りの掃除に精を出している。副会長はその会長の監視兼掃除手伝いで、紅瀬さんは様々な報告書の作成にもう移っていた。白ちゃんは既に珠津島神社へと向かったし、だから手の空いている人間は俺しか居ないわけで、
「ふむ。この、祭の最中、一時の休憩時間というのも、なかなか趣深いものがあるな」
 からころと下駄を鳴らしながらそんなことを言う伽耶さんを、正門まで送り届ける役目
はやっぱり俺へと回ってきていた。
 夏のせいか、日没まではまだやや時間がある。それでも段々と暗くなっていく中、どのクラスも機材を片付けるでもなし、しかし営業するでもなし、独特の保留状態を維持して明日に備えようとしていた。スペースの机に布を被せただけのような出し物も多々ある。
「明日のがお客さんは多いでしょうからね。みんな、今日の疲れが残ってないといいですけど」
「なに、疲れが残っていようがいまいが、二日程度ならどうということもあるまい。今日と明日の疲れなど、明後日取れば充分だろう?」
 わりとひどいことをさらっという伽耶さん。一応生徒たちはここ数日間、準備で徹夜したりして、しかも明後日は片付けもあるのだが……まあ言いたいことは分からないでもない。
 生徒会も試験休みならぬお祭り休みがあれば嬉しいのだけれど、そんなものはあるはずもなく。というかそもそも、祭自体が平時に対する休みみたいなものなのだし。
「しかし、そうか、明日のが人入りが増えるのか。となれば出し物も?」
「当然増えるでしょうね」
「ほう。それは楽しみだ」
 明日への活気を秘めた出し物を眺めながら、伽耶さんは珍しく期待を率直に言葉にした。冷静な表情の奥では、きっと明日の巡回ルートをもう作り始めているに違いない。大きな赤い瞳だけが、きょろきょろと忙しなく動きまわっているからだ。
 そうして正門へと続く歩道を歩き続けて、数分。明日への買い出しか、あるいは週末だけ実家に帰る連中か、それなりの数の生徒が往来している正門にたどり着いて。
「それじゃあまた明日、ですかね」
「うむ。明日こそは遅れるでないぞ?」
「いえ、午前中俺は仕事がありますから。多分副会長が迎えに来ると思います」
「そうか。なれば安心よな」
 ふっと笑いながらそう言って、伽耶さんはそのままゆったりとした足取りで正門から出て行った。追従するように着物の袖と長い髪が舞って、からころという下駄の音が遠のいていく。俺はそれを、見えなくなるまで見送って。
「……さてそれじゃ、会長を手伝いに行くかな」
 どこかから聞こえてきた篠笛の音に耳を傾けながら、俺は広場へと足を向け直したのだった。

back / next

++++++++++


index