01-eXtra eXperience
[da capo U eXceptional eXistence]
「水越主任。Minatsuの記憶領域に妙な部分あったんですが……」
「ああ、その辺置いといて」
天枷のデータメンテナンス担当がその書類を持ってきたのは、私が最近始めたカウンセリングについてのハウツー本を読んでいるときだった。
彼は天枷研究所の所員の中でもとりわけ目立つ方でも、かといってとりわけ無能であるわけでもなく、入れ替わり立ち替わり部屋を尋ねてくる研究員の一人以外の何者でもないと認識していた。
もちろんその時の私もいつも通り、大した応対はしなかった。相手もそんなものを望んではいなかったろうし。
「その辺って……えっと、ここ、置いておきますよ?
混ざっちゃわないかな……」
「大丈夫よ。それでもどこに何があるかは分かってるんだから。
勝手に片付けたらぶっとばすわよ?」
「は、はい! では、失礼します!」
彼が退出したあと、私は読んでいた安物のハウツー本を放り投げ――中古で100円の本にロクなのはない――、雑然と積まれた書類の一番上にほっぽり出されたそれを流し見た。
「ふーん」
私はすぐに興味を失い、その書類は雑然とした机の非重要エリアへ。更にエントロピーが増大したが気にしない。
時は二月十六日、午後八時半。私はハウツー本と一緒に買ってきたサイエンス雑誌を手にして、それっきり書類のことは忘れてしまった。
○ ○ ○
私がそれを再び思い出すのは、二月二十六日。
μである種のエラーが頻発し、サポートセンターの連中がてんてこまいだった頃だ。
「水越さん、前回のデータの件、見てもらえました?」
食堂でのすれ違いざま。件の研究員にそう言われた私は、そういえばそんなこともあったななんていうことを思い出した。
それがあからさまに顔に出ていたのだろう、私が返事をせずともその研究員は「頼みますよ〜」なんて言って食堂のカウンターの方へ。
自分で言うのもアレだが、私にとってこんなのは珍しいことではない。だいたいデータチェックなんぞしなくても深刻なエラーは天枷自身の口から私に報告されるし、逆に研究員が懇切丁寧に調べあげて浮かんでくるエラーなど、人間に例えれば「鼻が詰まった」とか「蚊に刺された」みたいなものくらいしかないのだ。
まあ研究員はそれを調べ上げるのが仕事だし、一応主任研究員である私のチェックがない限り仕事をしていることにはならないので、彼が情けなくも催促するのは分からないでもない。
そんな軽い気持ちで、私は部屋に戻ってからその書類を読んだ。まあ、その書類を雑然とした机から探し当てるだけで相当の苦労をしたのだが。こんなことなら提出されたときに全てチェックしておくべきだったな、なんてことを思いつつ書類に目を走らせる。
そして私は、驚愕した。
別にその報告が重大だったとか、意図を取り違えていただとか、彼の洞察力が凄すぎたとか、そんなことで驚いたのではない。
報告内容自体はそれほど重度のものではない。が、とりわけ無視すべきものでもなかったのだ。
驚いたのは、なぜ私がこれを”非重要”と割り振ったのか、だった。
記憶領域の破損。茶飯事、というほどではないが、たまに起こるエラー。直すのにそれほど手間はいらないし、放っておいてすぐにどうというものでもない。
それでも私はそういった報告――つまりは記憶領域の報告には特別の配慮を常日頃からしている。それは天枷をヒトとして扱っているから。生物が生きる上で記憶喪失は何ら生物学的損失を与えないが、人間的な喪失感はとてつもなく大きい。私は天枷にそういった経験をさせたくなかったから、記憶領域部分でのエラーは逐一報告させることにしているし、すぐに対処させているのだ。
なのに十日前、私はこれを”非重要”として無視した。
本を読んでいたとか、そんな程度で狂う判断力では仕事をしていない。研究者は頭で商売をしているのだ、アルコールが入らない限りそんなミスをするはずがない。
だとすれば、なぜ私はこの報告を無視したのか。その疑問は、報告内容と比するまでもなく私の心を捉えた。
明くる二十七日。その疑問に真剣に取り組む間もなく、とんでもない事態が起きた。
早朝、私の携帯に入った一本の連絡。
――HM−Xのプロトタイプがひとりでに起動した。
取るものも取らずに研究所へ駆けつけた私を待っていたのは、間違いなく開発途中でお蔵入りとなったはずのHM−X試作機の姿だった。
手足こそ縛ってはいないが、厳重にロックされた部屋の先で、警備員に囲まれたままの状態で立っていた。
そこは何もない部屋。感染性細菌の研究などを行うための部屋のうちの一つ。出入り口は私以外が開閉することは許されていない場所。そこに、HM−Xは連れてこられていた。
「開発ネーム、設計者、識別コードを言いなさい」
せめてもの配慮か、あるいはお蔵入りにするときに着せたのか、HM−Xは現在市販されているμと同じ服を身に纏っていた。
やや憮然と立っている様は、μには搭載されていない態度。
「……分かりません」
鈴の鳴るような声。HM−Xはこんな声をしていたのかと、どうでもいいことにまず感心。
そして”分かりません”、ときた。
「あなたたち、この部屋から出なさい。ちょっとこのコと話をしてみるわ」
「じょ、冗談でしょう、水越主任?
我々はあなたを守る役目が……」
「冗談を言っているように見える?
HM−Xのデータを私は知っているし、あなたたちが知り得てはいけない情報があるのも分かっているわね?
ドアの向こうで待ってなさい。いいわね?」
「……はい」
神妙に頷くと、彼ら警備員は二重ドアの向こうへと出て行った。
その様子をHM−Xは不思議そうに眺めている。
「貴方、自分の識別コードが分からないって言ったわね。
それじゃ勿論、私のことも分からないのね?」
「はい、分かりま――あ、いえ、ミズコシ?
ミズコシマイカ……水越舞佳様でいらっしゃいますか?」
そこに来て、私の疑問は頂点に達した。
HM−X。HM−A08「ミフユ」と同時期に開発が始まったそれは、素体はHMシリーズの造型を流用しつつも、人工頭脳に関して全く新しい知見からの開発が試みられた。
その開発上の前身は、ヘイフリック限界が人類とほぼ同等の値を示す人工細胞を人工知能に搭載したミナツ。HM−Xの人工知能には、この人工細胞すらも自然発生的に創造しようという案が盛り込まれている。
RNAワールド仮説やその他発生学的な起源の論争は十数年前に決着を見たが、これはそれの起源と同様の状態を作り、結果としていわば生物の発生・進化の過程を人工的に引き起こそうというものである。
無論微生物が発生しても仕方がないので人工細胞――特に神経細胞――が発生するように組み替える必要はあるが、それでもその淘汰の過程は夢物語でしかなく、結局その原始のスープは放置されたままお蔵入りになったのである。
ゆえにHM−Xの自動起動は神による生物創生という奇跡の再現として理解することは可能だったのだが、ここに来て再び疑問が生じる。
なぜHM−Xはこの私――水越舞佳のことを知っているのだろうか。私のことを知っているのならば開発コードなんかは覚えていてもいいはずだし、逆に開発コードを知らないのならば私の名前を知るはずがないのだから。
だとすれば、これは奇跡の再現以外の何かだろうか。
そう仮定することはできても、それ以上の何かを思いつくのは無理だった。
「……水越様、あなたが私を作ったのですか?
アマカセミナツ、ですか――? 天枷美夏様、という方と同様に?」
「ちょ、ちょっと待って、これ以上私を混乱させないで。
どうして今起動したばかりのあなたが、私だけじゃなく、天枷のことまで知っているのよ?
説明できる?」
頭が痛い。
何もかも想定外で規格外だ。好奇心を感じるとか、問題が解けなくてイラつくとかいうレベルを超越している。
訳が分からない。何なのだ、これは一体。
「……かしこまりました。ただいまから状況を述べさせていただきます」
「え、ええ、お願い」
HM−Xのどこかおかしかった言葉遣いが、いきなり流暢になる。表情も凜として、背筋を伸ばしてこちらに対峙した。
端的にいえばモードが切り替わった、というような。その仕草はμにそっくりだ。
「現在私、開発コードHM−X エボリューション、識別番号ゼロゼロハチゴーナナナナサンゼロハチエム、は正常動作中。
本日二月二十七日午前二時四十五分三十八秒、稼働確認。原因は不明。
地下開発室より当研究所員に連れられ、午前三時三分、この場所にて待機。以上です」
「オーケー、また疑問が増えたわ。
あなたさっき、開発コードと識別番号分からないって言ってなかった?」
「少々お待ち下さい」
疑問を挟むと、HM−Xはまたモードが切り替わったように視線を私から外した。
その目はどこか虚空を見上げていて、ぼそぼそと独り言のようなことを呟いている。
もう、まったくもって意味不明。ここはそういった諸動作の理由追及は諦めて、HM−Xの言葉を聞く方が賢明だろう。
幸い人工知能は想定以上の水準で稼働しているようだし。コミュニケーションは完全に取れている。
「――説明させていただきます。
私は現在、おそらく私以外には見えない人と通話可能な状態にあります。
水越様、私の左隣に居る方が認識可能でございますか?」
HM−Xは平然とそんなことを言った。左手を人を紹介するかの如くに持ち上げながら。
視線を走らせるが、もちろんそこには何もない。
「いいえ、残念だけど、あなたの言うことの通りに従うなら、私には何も見えないわ。
もちろん声も聞こえない」
「……そうですか。私は現在、その方と通話することが可能になっております。
水越様、天枷美夏様の両名の氏名もその方が口にした名前です」
疑問を挟むとかそういうレベルじゃないくらいに話が飛躍してしまった。
HM−Xの次は幽霊とでも言うつもりか。
「で、どこの家の自縛霊よ、それは。
私の知り合いなんでしょ?」
HM−Xは虚空――よく見ると左隣前方――を見上げてぼそぼそと呟き、うんうんと頷いた。
演劇には疎い方だが、にしてもその仕草はやはり演技には見えない。本当に幽霊と交信可能なロボットなのか? だとすれば、私に追及の手立てはない。あまりに人知を超越しすぎている。
「言っても無駄、とのことです。記憶から抹消された、無いことにされている人間だから、と。
知り合いであるのは事実のようです」
「言っても無駄ぁ〜?」
ここに来て変化球。というか、元々変化球だったのが、今度は趣の違う球になったというか。
ナックルボールがジャイロボールになったような感じ。どちらも魔球ながら、それぞれ全く異なるタイプ。
だいたい記憶から抹消されたって、一体全体なんなのか。霊魂の上に今度は魔法? 本気でいい加減にして欲しい。
だが今日は四月一日ではないし、もし四月一日だとしてもここまで大がかりに嘘をしくんだ時点で警備員は全員解雇だ。まさかそんなことをするはずはない。
「分かったわ、とりあえずその仮定の下で話を進めましょう――」
私は嘆息しながら、頭を強引に切り換えた。
○ ○ ○
幾つかの質問。そのことごとくを、この起動直後のロボットは答えて見せた。
それは初音島に住む人間ならすぐに分かる問いだ。商店街はどこだとか、学校の名前は何だとか、そんなような程度の。
その次。今度はその人物に関する質問に話が向いた途端、HM−Xは質問を拒否し始めた。
もとい、HM−Xの言によればそれを拒否しているのはHM−X自身ではなく、そのHM−Xが通話可能であるとしている見えない人物がであるが。
どうせ分かるはずがないから――そんな巫山戯た理由で。
もっとも、そこまででも分かる情報は少なくない。
私としてはこのロボットの二重人格説――神経細胞からなる人工知能が存在するのなら、脳を持つ人間と同様に精神病が存在してもおかしくはない――などを捨て切れてはいないのだが、どちらにせよこのHM−Xが持ち得ない知識を持つ人格が存在すると仮定するならば、それはおそらく以下の特徴を持つ。
まず、近年初音島で生活経験のある者。これは桜が咲いているのを知っていることから、ここ十年以内だと考えられる。
そして飛び抜けて賢いわけでも馬鹿なわけでもない。私から何らかの情報を引き出そうという意図は見られないからだ。
また、どことなく独りよがりなところがあり、なおかつ純粋さも見えることから、少年から青年の間くらいの人間だろうとも推測できた。
もちろんそういった予想を聞いてみるなんて、馬鹿正直な真似は私はしないが。
最後にその見えない人物――以降は”彼”と呼ぼう――の事情を聞いた。
どうしてそうなったのか。どういう事情でそんな状況になっているのか。
それは彼の個人情報に触れない範囲で。彼が私の知り合いであるのなら、風見学園の生徒だった可能性が高い。悪いが私は、風見学園ではそれなりに人望はある方なのだ。彼はきっと話してくれるだろうという確信があった。
そうして彼は話してくれた。事ここに至る顛末を。
もちろん委細は話さない。だが、何らかの魔術的な力により自分が消滅してゆく存在だったこと、そもそも存在しないはずの人間だったこと、それを叶えたのは願いを叶えるとされる一本の桜の木であること、消えゆく過程での友人達との別れなどを、彼――勿論HM−Xが”代弁”したのだが――はとつとつと語ってくれた。
その感情の昂ぶりはHM−Xを見ているだけでも充分に伝わってきた。作り話にするにはあまりにリアルで、現実の話とするならあまりに夢想的。それでも、その感情は本物に違いなかった。
これを錯覚や幻覚、妄想の類と断じるのは容易い。だが私には、それ頭ごなしに否定するわけにはいかない事情があったのだ。
それはHM−Xというロボットが媒介となっていること。そして今のように”見えない人物が見える”という状態は、記憶領域にエラーとして蓄積されること。
実はμで頻発していたエラーというのは、天枷とほぼ同様で記憶領域に関することだった。彼らはカメラという装置により、映像を記憶できる。だからもしその映像に映っていない人間を”そこに居る”と人工知能が認識しているとすれば、記憶と判断の間に微妙な影を落とすことになる。
仮定に仮定を重ねることになるが、もし霊的・魔術的に何らかの異常が発生したとするなら、それがロボットたちの記憶領域にエラーとして排出されることは、一応筋が通っているといえる。実験経験がないせいで断言はできないが、ないとはいえないし、エラーがあそこまで頻発することはそれほどまでに異常なことでもあるのだ。もはや超常現象にその原因を求めたくなるほど、μたちロボットに齟齬はない。
さて、ここまでくればあとやることは決まっているだろう。
○ ○ ○
「うーむ、何か違和感はあるのだが、かといって何がと聞かれても美夏にも分からん。何もないと言わざるを得ない」
それが、HM−Xの周りの空気を見てもらったときの感想だった。
ある意味では予想の範囲。どのロボットでも見える、というわけではないらしい。天枷などまだ良い方で、イベールをはじめμたちはほとんど分からないと言っていた。
そうして大した成果もないままHM−Xを連れて自分の研究室へと戻った私は、一通りμのエラーに関する報告を読み返した。
当然そこには魔法や霊魂なんて単語が載っているわけもなく、それらはシステム系のエンジニアが苦心して探し出した些細なエラーの末尾に「これが原因の一つであると思われる」なんてついてるだけの、何の参考にもならない文書でしかなかった。
「信じてくれるのかどうか聞いてくれ、とのことですが」
「信じるかどうか、って今聞くことなの? ふつう、もっと早めに聞くべきじゃない?」
ゴミを捨てた後、私はいつもの椅子に座った。ぎい、と失礼にも背もたれが軋む音が響く。
ちなみに来客用のソファを薦めたもののHM−Xが座る気配はなく――もっとも、そのソファの上に書類が散乱していたせいもあろうが――、私は廊下で買った缶コーヒーを飲みながら、こうしてHM−Xと――そして”彼”と――話すことにしたのだ。
「研究者ってのは信じるものを探す集団なのよ。だから最初は何も信じない。実験を繰り返していって、だんだんと信じていくようになる。
そうね、重力ってあるじゃない?」
「……はい」
返事のテンポが遅いのは、彼の頷きを見てからHM−Xが再現しているせいだろう。
「あれだって自明のようで、信じるかどうか聞かれたら微妙よ?
あると仮定されているだけで、実際には”その存在を仮定した方が万事説明がつく”ってだけにすぎない。
量子色力学が生まれてから百年近く経っているくせに、人類は未だにグラビトンを見つけられないんだもの。見えないもの、ないものを信用しない、っていうのなら、重力だって信用できないわ。
そしてまた逆に、あると仮定して都合がよければ、それはあるの。私はアナタという存在を仮定すれば色々説明がつくことが多いから、アナタという存在があるとしているにすぎない。だから、信じてるわけ」
無論、致命的な反例が見つかれば即座に”妄想の産物”に落ちるわけだが。
やはり話は難しかったようで、HM−Xはかなり曖昧に頷いた。しかも彼の反応を見ながらだから、視線と首の上下運動があっていない。かなり奇妙な頷き方で、また逆にそれは彼の存在を表す根拠の一つでもあった。
「それじゃあ本題だけど。いい?」
「……構いません」
「あなたは私たちの知り合い。けど、私たちの記憶が抹消され、その存在が消滅した。そして私たちはそれを不都合に感じていない。
”不都合に感じないから消滅した”のか、”消滅したから不都合を感じない”のかはこの際パスするわ。自由落下と重力仮定のどっちが先に消滅するのかは、ここでは意味がない議論だもの。
ともかくあなたは消滅した。しかし、再び意識体のような形で現世との繋がりを得た今、何らかの形でこちらの世界に復帰したい。そうね?」
「はい」
今度は明確に頷いた。
「物理的にあなたという個体を生成するのは不可能だわ。もっとも、私としてはどうやって消滅したのかも興味があるところなんだけど。
だから復帰するには哲学的な面から攻めるしかない。”不都合を感じないから消滅した”のなら、”あなたという存在の消滅に不都合を感じる”人間が大多数になればいい」
自分でも詭弁を言っているな、という自覚はある。
だが仕方がない。そもそも相手が論理に聞く耳持たない超常現象なのだ。召還魔術だろうがシュレーディンガーの猫だろうが、そういったギリギリのものをぶつけていくしかあるまい。
「そうするにはどうすればいいですか、とのことです」
「いえ、方策を決めるにはまだまだ分からないことが多すぎる。
けれど、仮定の上でも”やってはいけないこと”は分かるわ。
――あなたは、絶対に名前を知られてはいけない」
「……?」
HM−Xが首を傾げる。
そこまでは話についていけていることを確認して、私は続けた。
「いい? 記憶は喪失ではなく封印の可能性が高いの。HDDで例えれば、喪失は媒体自体の破壊だけれど、封印は媒体内部のプログラム改鋳でできる。そしてその方が物理法則からのはみ出しが少ない。
だとすれば、もしあなたが自分の存在を知らしめたくて本名を私に語った場合、私はその名前とリンクする情報を上書きまたは削除してしまう可能性があるわけ。例えばあなたが『田中太郎』という名前で、過去私の患者として接点があったとする。それを知った私は、あなたは田中太郎という名前で、患者として接点があったという情報は受容するけれど、私の脳内に存在する田中太郎に関する体験を発火するには至らない。むしろその発火点を今聞き入れた情報だけで上書きして、もし他の人があなたを思い出したとしても、私だけは”消滅している状態の”田中太郎についてしか覚えていないという状況になりかねない。
つまり、あなたは知人に対してその正体を知られてはいけないの」
「……結論だけは分かりました」
「それでいいわ」
これは私の本来の職務であるμのエラーの原因になっている可能性がある話である。
また”私が美夏のエラーに関心をもたなかった理由”にもおそらく関係しているのだろう。
そして、なにより好奇心を惹かれた。当然だ。こんなことに立ち会って、興奮しないのは科学者ではない。
――科学者は、得てしてロマンチストなのだ。古代より、科学と哲学に呆けるのはロマンチストの暇人と相場が決まっている。
いいだろう。私はこの話に乗ることにした。HM−Xの研究とμのエラー原因という、今研究所を揺るがせている二大問題を一手に引き受けるというのだから、職務上の障壁は何もない。
”彼”がHM−Xの妄念の結果だとしても、それはそれで研究価値はある。
「ちょっと失礼。
……もしもし、イベール? すぐ来てちょうだい」
携帯を弄くってイベールを呼び出す。私は研究室では一人っきりで研究を進めたいタチだから、イベールは普段は所内の他の場所に居ることが多いのだ。
言うまでもないが、イベールというのは私の専属のμである。水越病院に用事があるときなんかは、わりと伴うことも多い。
呼びつけの5分以内には来いと言明してあるせいか、ほどなくしてイベールが研究室に入ってきた。
「イベール。HM−Xのデータは入ってるわね?」
「はい。人工知能部以外のデータは揃っています」
「よし。それじゃあ今から言うことをやってちょうだい。
まずはこのHM−Xが見ているという人物の素性確認。分かる範囲でいいわ。但し個人名の特定は厳禁。
それが在る程度把握できたら、その人物が居たと想定される場所の周りで”もの忘れ”について聞いて来なさい。”彼”の話では一月後半に親しくない人から順に忘れ去られたらしいから、その日付の偏りを調べてきて。
あとはHM−Xと協力して”彼”を何らかのデジタルおよびアナログ媒体にコピーすることを試みなさい。それを再生して、どこで”彼”についての情報が消失しているかを調べるわ。美夏にも協力させるから、使ってやって。
それとμの例のエラーについての報告を纏めてよこしなさい。データだけでいいわ。無駄な考察は必要なし。
あと確か一月ごろに超常現象騒ぎがあったわね? あれについても調べておいて。
そんでもって本島にある程度影響力を出せそうな人間も居たら捕まえておいて。蝶が羽ばたく程度でいいわ。
最後にこのHM−Xを風見学園の任意のクラスに転入させなさい。私の名前を使って良いわ。ただしそこで使う偽名とクラスの決め方は、私には絶対に知らせないこと。私が知ることになりそうな書類は全て処分すること。
以上よ、いいわね?」
「了解しました」
矢継ぎ早に出した指示をイベールは悉く了解する。
これだけやらせておけば充分だろう。私は私で調べるべきものがある。
それは桜公園の奥に咲く、一本の大きな桜の木についてだ。
あれに関しては随分前から趣味で調べているが、未だに全く素性が分からない。
そもそもどうして年中咲いていたのか。それにすら明確な回答が出せないでいる。
HM−Xの言う通りあれがキーポイントとなっているのなら、私は過去にやったあの木に関する研究を再開しなければならないだろう。
私が分かったのは、あの桜のDNA配列が人為的に操作されたものであるという、ただそれだけ。そのゲノム配列は神が作ったパズルのようで、それを配列したのは限りない天才としか思えなかった。
だから私は諦めたのだ。あの暗号は私には読み切れない、と。
それに再び挑戦しなければならない。雑事にかまけている暇はなかった。
「水越様」
声が似ているが、イベールではない。イベールは私のことを博士と呼ぶ。
だから私はHM−Xに振り返った。
「何?」
「風見学園転入についての理由が聞きたい、とのことです」
「あなたが風見学園の生徒だと思ったからよ。それ以上でもそれ以下でもないわ。
……ああ、肯定も否定もしないでちょうだい。私は個人を特定するつもりがないから。
生徒でないならそれはそれで構わないし、生徒であるならあなたが加入することによる影響も興味がある。それだけよ」
「……分かりました」
調べること、やるべきことが膨大すぎる。
そこから仮定される結果から更に次のステップの仮定を統合していくと、いくつか青写真は見えてきた。だがそれはまだまだ胡乱なものだ。
当面は現状の把握と超常現象の解明に全力を尽くす。
私はイベールに仕事を急かし部屋から退出させた後、更に詳しい事情を聞くためにHM−Xを書類の散らかるソファに座らせた。
next
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