[An episode after true story]
8.エピローグ


 数ヶ月後。
 冬休みも終わり、正月気分もとうに抜けきった頃。既に引退した身ながら会長はこの監督生室に入り浸っていて、暖房の利いた部屋、会長の暇そうにお茶を啜る音と、瑛里華がキーを叩く音が見事なまでの不協和音を奏でていた。
 カチ、ずずず、カチカチ、ずずずずず。机で作業している俺からは、瑛里華が小刻みに震え始めているさまが手に取るように分かる。いや、もとい、会長とて気付いていないわけではないのだ。分かってわざと、音を立てて茶を飲んでいる。それもとびっきり熱いお茶を。
 カタン、と一際強く叩かれたエンター。とばっちりが来る前に仲裁しようと俺がペンを止めたそのとき、丁度カチャっとドアが開かれて。
「失礼します」
「おや、白ちゃん。外は寒かったろう。『熱い』お茶でも飲まないかい?」
「……兄さん? お茶を飲むだけなら、寮に戻って一人で飲んでてくれないかしら?」
「何を言うんだい、瑛里華。この寒い中、僕がこうしてここに居るのは、若者達がちゃんと次代を担ってくれるかどうかが心配だからで――」
「あの、みなさん」
 会長の――ああまあ、今はもう会長ではないが――冗談まじりの話をいつものようにふいっと流すかのごとく、白ちゃんが言葉を挟んだ。これが天然なのだから、紅瀬さんだって瑛里華だって怖れない会長も、白ちゃんにだけは敵わない。俺が初めてここで白ちゃんと会ったときからずっとそうだ。
 まあ、それはともかく。
「どうしたの、白? 征一郎さんから伝言でも預かった?」
「あ、いえ、そうではなくて」
 白ちゃんは居住まいを正して。
「伽耶様が、旅に出られました」
「あら?」
「ほう?」
「……」
 ちょっとだけ意外そうな瑛里華。会長は興味深げに吐息を漏らし、俺は随分唐突だったなと思ったくらい。
 瑛里華の詳細を促す視線に白ちゃんは頷いて、説明を続ける。
「わたしもすれ違いざまに話しただけで、詳しくは分からないのですが。どこか雰囲気が違ったので声をお掛けしたら、『少し出てくる』と。おそらく紅瀬先輩も一緒だと思います」
「あの人が出て行くぶんにはどうでもいいけど、紅瀬ちゃんまで連れて行ったか。ひどいなあ、これで生徒会の綺麗どころが半減しちゃったよ。華は白ちゃん一人だけじゃないか」
 瑛里華を勘定に入れず、会長が軽い口調でそんなことを言う。そうしてお茶をずずっと一口。おそらく、本当にその程度の感想しかないに違いない。
 それをどうとるかは、見方によって違うだろう。恨みを通り越して、無関心になってしまったとも受け取れなくはない。だとすれば悲劇だ。一歩も前に進んでいないどころか、遥か彼方に遠のいてしまったのだから。
「ちょっと兄さん、それどういう意味かしら?」
「どうって、そのままの意味だよ。お前じゃ紅瀬ちゃんのような美しさは無理じゃないか。白ちゃんは何年かすればあんな感じになると思うけどね、瑛里華じゃおしとやかさが全然足りな――ッ!?」
 ずどん、と俺の目にも捉えられない速度で投擲されたのは、手元にあった筆箱か何か。神速のその仕草、誰かの扇打ちを思い出す。
 椅子から転げ落ち、コントのように足をひっくり返している会長から瑛里華はさっさと視線を外して。
「ま、兄さんはともかく。母様も唐突よね。せめて何か言ってくれればいいのに。白には何か言ってた?」
「いえ、わたしは何も聞いてませんでした」
「孝平は?」
 問いかけに、首を振る。
「そう。ま、らしいといえばらしいけど」
 伽耶さんが旅に出た。そのことに誰もそうは驚いていないのは、その予兆をみんな薄々感じていたからに違いない。俺と瑛里華はあの文化祭の日、伽耶さんから直に聞いている。いつか旅に出るのだということを。
 なぜ今なのか。理由は色々考えられるが、おそらくは――
「一区切りついたんだろう、自分のことに」
「兄さん……」
「どうせ死なないんだ、自分の為したことを評価するために、お勉強をしようという意気込みは買うよ。それに、そのくらいはしてもらわないと」
 お勉強、という単語のイントネーションを強めて、会長がぶっきらぼうに言い放つ。
 そう。会長は分かっている。伽耶さんの狙いを、意図を、その意味を。だからこの人は無関心なんかじゃなくて、未だに伽耶さんを恨んでいるのだ。自らの罪の大きさを知れと、そう言っているのだから。
 そしてだからこそ安心できる。この人はそうでなくてはならない。恨んでいるのは繋がっている証拠。そして自らの罪を知れと怒るのは、恨んでいるが故の復讐感情と、その更に奥、本当にかすかに、それこそ家族でしか気付けないような小さな変化によるものだ。またそれを自覚できるくらいには、会長は賢くもある。ゆえに心配なんて、ありはしない。
「でも絶対また会えると思います。伽耶様は、ご家族を大事になさるお方ですから」
「……だといいんだがね」
 またも会長の流れをぶった切った白ちゃん。会長は珍しくまるで本音を突かれた少年のように冷静な表情を浮かべて無関心そうに言葉を紡ぎ、その仕草に瑛里華がどことなく微笑んだ。しかもそれを引き起こした張本人の白ちゃんははてな顔を浮かべていて、その一連の連鎖に俺は頬が緩むのを自覚する。いつの間にやらこの流れの一員だ、俺も。
「きっと征一郎さんは気付いたでしょうね。あの人、鋭いから」
「だろうね。しかしそれに気付けないとは、会長もまだまだですね?」
「いやいや、それでも俺と征は君たちよりは分かり合ってるさ。ケーキ1つで喧嘩なんかしないしね」
「……うぐ」
 瑛里華が呻く。きっと俺が生徒会役員になりたてだった頃に起きた事件、それと同様のことがつい先日起きたことについて言っているに違いない。触れてはいけない事件というやつだ。
「まあともかく、伽耶さんならきっと大丈夫です。俺たちは分からないですけど、会長なら分かるでしょう?」
 とにかく話を脱線させたい会長に、直球勝負で言葉を投げる。
 少しばかり驚きの表情を見せた後、それをしっかり受け止めた会長は、二重の演技をする演技者めいた態度を作って。
「俺には俺の責任がある。そんな日が来るのなら、二百五十年後だとしても見てみたいもんだよ。征や紅瀬ちゃんと一緒にね」
 その言葉に、瑛里華の顔が緩む。続いて白ちゃんが微笑んで、最後に俺が息を吐いて。

 ……うん、だからきっと、大丈夫。伽耶さんが不幸になんて、なろうはずがない。
 理由はとても簡単なこと。だって伽耶さんの周りには、とっても優しくて、穏やかで、何十年どころか何百年だって待ち続けていてくれる世界がこうしてあるのだから。



(「文伽祭 -An episode after true story-」   了)

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