[Farewell to the Divergence]
6.


 夢を見た。
 俺の主観では一年くらい前の出来事の。
 そして、いまこの世界では起きてはいない出来事の夢だ。
 ……あの世界線のダイバージェンスはいくつだったか。阿万音鈴羽の思い出を、秋葉留未穂の悔恨を、漆原るかの恋心を、あるいは桐生萌郁の絶望を全て踏み越えて辿り着いた世界線。念願のIBN5100をこの手に取り戻して、エシュロンへのクラッキングを実行しようとしていたあの世界線だ。
 そしてそれは、俺がそれまで以上に踏みとどまってしまった世界線でもある。
 思い出すだに恐ろしいあの究極の選択。忘れようもないそれに、俺は未だに震えを覚える。俺は未だに怒りを覚える。俺は未だに、安堵を覚える。
 笑い飛ばすことなんてできやしない。繰り返したタイプリープ。解の出るはずのない二律背反に、それでも俺は悩み続けていた。最後のα世界線。因果律のメルトダウンを前にして、俺はあのときもこうしてここに――ラジオ会館屋上に立ち尽くして、世界の果てへと目を向けていたんだ。
「……少し、冷えるな」
 空を見上げて息を吐く。
 久しぶりの雨が、秋葉原の空を包み込んでいた。閉館が決まり、がらんどうとなったラジ館の屋上。普段は見晴らしがいいそこも今日は雨粒がその視界を遮っていて、高いビルと黒い雲のカオスな不調和は明らかに「良い光景」とは言えなかった。
 けれど、そんな雨の日といえど秋葉原の人通りに大きな変化はない。見つからないようにこっそりと地上へと目を向ければ、色とりどりの雨傘が思い思いの方向へとその歩を進めていた。相変わらずの人の数。あれだけの往来の中、特定の誰かと不意に遭遇する確率なんていうのは、さて、どの程度のものだったのだろうとも思う。
 ぽつぽつと降りしきる雨。傘を叩くそのリズムにしばし耳を傾けていると、
「やっぱりここに居た」
 雨音に交じり、背後からのそんな呼びかけが聞こえてきた。フェンスを離れて振り返れば、声の主である紅莉栖、そしてその後ろに――
「まゆり……?」
「えへへー。オカリンどこ行ったのかなーって言ったら、クリスちゃんがね、オカリンはここじゃないかって教えてくれたの。すごーい、ほんとにいたよー」
 ふわふわと笑うまゆり。続いた「やっぱりクリスちゃんは天才だー」の言葉はともかくとしても、どうして分かったのかと紅莉栖に対し視線で問う。意味は通じたようだったが、紅莉栖は欧米風に肩をすくめて見せただけだった。
 なんとなく、か。苦笑するような表情に、俺もかけてやる言葉が見当たらない。
 けれどそんな俺と紅莉栖のアイコンタクトなど気付く由もなく、まゆりはぽわぽわとしたまま傘を揺らしてこちらにとたとたと寄ってきた。まるで、あるはずのない尻尾が元気よく振られているよう。まんま飼い主を見つけた犬である。
 ああまあ、飼い主というかなんというか、一応人質とその犯人ではあるのだけれど。
「オカリン、何してたのー? ここ、入っちゃいけないんだよー」
「……ちょっとな。夢見が悪かったから、気分転換に散歩でもと思って」
「悪い夢見ちゃったの? そういうときはねー、からあげを食べて忘れるのが一番なのです」
「それはお前の場合の解決方法だろう」
 笑って答えると、まゆりは「そうかなー」と言いながら納得しがたく首を傾げていた。
 からあげを食べるだけで気分が治る。安上がりのようにも見えたが、ああ確かに、思い返せば昼寝の起き抜けにもそもそとからあげを食べるまゆりを俺は何度か見ていた。
 ただ腹が減ったのだろうと思って見ていた行動。まゆりは意外にもそれ以外の意味をそこに込めていたようで、だから俺はすぐに笑っていた表情を引き締めた。気付いてしまったのだ、その、あまりの頻度の高さに。
 ああだから、それはつまり――
「まゆり。今度からは、そういう悪い夢を見たときは一人で抱え込まなくていい。俺でも紅莉栖でもいい、吐き出せればすっきりするさ」
「ほえ?」
 ぽんぽん、とその愛用の帽子ごと頭を軽く叩いてやる。
 まゆりの見る悪夢。俺の予想が正しければ、それは自分が死んでしまう夢だ。数えるのも嫌になるほど俺が目の当たりにしてきた光景。実際別の世界線で、まゆりはその夢を見続けていると祖母の墓前で報告していた。
 でも。
「でも、そんなのは現実じゃない。起こったわけでも、これから起こるわけでもない。気にする必要なんてどこにもない。だから、」
 それは少なからず、自分自身や世界に向けての言葉でもあり。
「だからまゆりが気落ちする必要なんて、どこにもないんだ」
 全ては世界線の向こうへと消えて――もっと言うなら、俺が承知の上で「消し去った」んだ。
 色んなものを犠牲にして、俺はこの世界線へと辿り着いた。だからもう、たとえ夢の中でさえ、まゆりには苦しんでほしくはない。眠っている間でさえ、こいつには楽しそうに笑い続けていてもらいたい。それは俺の偽らざる本心だ。
 だからそんなもの気にするな、改めてそう続けようとして、俺が話すより先にまゆりの手のひらが自身の頭を撫でている俺の手の上に乗ってきた。まるで、俺の手をそこから動かさないようにするかのように。
「まゆり?」
「ありがと、オカリン。でもでも、それって今のオカリンにだって言えることなんだからね? オカリンだって、いつでもまゆしぃたちに相談してくれていいんだよ?」
 ずいっと見上げてくるまゆり。くりくりとした大きな瞳は、正面からのぞき込まれると恥ずかしさよりも自分への反省が出てきてしまうから参ってしまう。まるで母親がたしなめるかのような視線は、とても年下とは思えない。
 ――まゆしぃは、オカリンの重荷になりたくないのです。
 思い出すのはいつか言っていたまゆりの言葉。こちらをのぞき込む心配そうな瞳はあのときのそれを俺に思い起こさせて、つくづく妙なところで大人びているなと、俺は笑いながら溜息を吐いてみせる。
 こいつは昔っからそうなんだ。
 そしてだから俺は、頬を掻きながらいつだって素直に頷いてしまう。
「……ああ、そうだな。今度からは、そうしてみようと思う」
「えへへー」
 俺の言葉にまゆりが破顔する。よくできました、とでも言いたげに。俺がそれに何て返そうかと考えていると、けれど俺より先にまゆりが口を開いて、
「だってー。良かったね、クリスちゃん」
「ちょ、そこで私に振る普通!?」
 まゆりは俺からぱっと顔を離し、今度はいつの間にやら近づいてきていた紅莉栖へと振り向きながら話を向けた。俺とまゆりの様子をにやにやと眺めていた顔から一転、突然の話題の転換に余裕を吹き飛ばされた紅莉栖は、見るからに顔を赤くしている。相変わらず、まゆりに劣らず表情豊かなやつだ。
 そしてよせばいいのに、まゆりがつらつらと説明を始めてしまう。
「だってねー、クリスちゃんここに来るまでずっと『今日の岡部、ちょっと疲れてたみたいね。何かあったのかな』とか、『そういえば起きてすぐ散歩なんて、気分悪かったのかしら』なんて言って、オカリンのこと心配してたんだよー。だからね、クリスちゃんに心配をかけないためにも、オカリンも困ったらどんどん相談してほしいんだー」
「紅莉栖、お前……」
「べ、別にあんたの心配してたわけじゃないんだからっ! たまたま、そう、たまたまよ!」
 いや、その言い訳は無理があるというか、どう考えても無理だろう……。
 けれど俺もそれをからかったりはせず、まゆりに先の言葉を誓った手前、ただありのままに感謝と謝罪の言葉を口にした。それに対して紅莉栖はまためまぐるしく表情をまわしていたが、その微笑ましさはまゆりにさえ「クリスちゃんは照れ隠しが苦手だねー」と言わしめるほどのものだった。助手形無しである。
 ……すまなかった。
 心の中で、重ねての謝罪。俺はいったい何をしているのか。昔のことを思ってここに来て、それで二人に心配をかけてしまっては本末転倒もいいところではないか。
 二人がただそこにいる。それだけで、今の俺には充分すぎる。
「雨の中、わざわざ迷惑かけたな。俺ももう大丈夫だ。悪い夢なんぞ気にしない。それが運命石の扉の選択なのだからな」
「はいはい、なんたらゲートなんたらゲート。用が済んだならさっさと戻りましょ。私たちは忙しいの。ねえ、まゆり?」
「あ、そうだねー。フェリスちゃん待たせちゃったら悪いからねー」
 言いながら、とんとんと屋上の水たまりを避けながら階段の方へと跳ねていくまゆり。なんとも楽しそうだ。飼い主に尻尾を振る犬から、長靴履いた小学生にランクアップしてやろうと思う。
「オカリンも勉強会、来るよねー?」
「あ、ああ、そうだな。途中で差し入れを持って行ってやろう」
「勉強は嫌なんですね、分かります」
「言ってろ」
 そういえば寝る前に聞いていた。二人はこれからフェイリス主催の例の勉強会をやるのだと言う。場所はメイクイーン+ニャンニャン。別に営業中の店内でやるわけではなく、休業日の今日、貸し切りという形で行う予定だそうだ。フェイリスと話はしたいが勉強はしたくないというダルとともに、途中で様子を見に行こうと思う。
 メンツについてはルカ子も来るとか言っていたか。すんなり勉強だけで済むとは思えないが、まあ、その辺りは口に出さずに後のお楽しみというところだろう。
「さて、それじゃ準備もしなきゃいけないし」
 紅莉栖がパーカーの裾についた水滴を払う仕草をしてから、まゆりを追って歩き出す。俺もそれに続き、すぐさま紅莉栖の横へと並んで。
「お前は悪い夢とか、見ないのか? まゆりじゃないが、気に病むくらいなら話してくれて構わないぞ」
「サンクス、岡部。でもおあいにくさま、夢とかそういう非科学的な事象って、徹底的に信じないタチだから」
「それもそうだったな」
 力強い言葉に、俺は笑うより他にない。こいつはいつでもそうだった。そういう奴なのだということは、聞くまでもなく分かっていたことなのに。
 徹底的に信じない。喜ぶべきなのかどうなのか。考えているうちにそのまま並んで階段へのドアに辿り着き、さきに紅莉栖が中へと入った。俺も続いてドアをくぐろうとして――
「岡部、気を付けなさいよ。今日はソーイングセット、持ってないんだからね」
 くすりと笑いながらそう言って、俺が何かを言うよりはやく紅莉栖は踊り場へと消えていったのだった。



 メールが来たのだ。
 雨も弱まってきた午後のこと。俺とダルがラボでのんびりとくつろいでいると、唐突にメールが二通やってきたのだ。
 一通はフェイリスから。
『ニャニャ、凶真! いますぐ来るのニャ! ついに我々は伝承に伝わるあの幻獣の召還に成功したのニャ! 凶真の力が今すぐ必要ニャ! 早く来ないとアキバの”マナ”が吸い尽くされてしまうニャ! 一大事ニャ!』
 もう一通は紅莉栖から。
『岡部、ちょっと立て込んでるから今は来ないでいいからね! 差し入れで来るときは歓迎してあげるから、今から三十分くらいは絶対に来るんじゃない! 来るなよ! 絶対来るなよ! 来たらあんたの脳みそがバターになるまでシェイクしてやるから!』
 着信時刻はほぼ同時。フェイリスはともかくとしても、紅莉栖のこれがギャグでなく本人なりの必死さの現れなのだから、メールを送っているときの慌てっぷりが容易に想像できて笑えてしまう。
 一方はすぐに来い。もう一方は絶対来るな。差出人を考えれば、俺の答えはたった一つだった。
「ダル! いますぐバナーナとからあげを持て! メイクイーンに激励へと赴くぞ!」
「お? なに、さっきのメール、まゆ氏がお腹空かせたって連絡でもしてきたん?」
「似たようなものだ。いいから急げ! どうにも急を要するらしい!」
「了解だお!」
 ……とまあ、そんなやりとりをして、俺たちは遠路はるばるメイクイーン+ニャンニャンへと赴いたのである。メール着信から五分の早業。面白そうなこととなれば俺もダルも本気を出す。
 見慣れたメイクイーンの入り口には本日休業の札がかかっていた。いつもは外に出されているボードの呼び込み看板も今はない。それでも扉にカギはかかっておらず、俺はラボに入るのと同じ調子でその扉を開け放ってやった。
 ノック? そんなものは必要ない。なぜならその方が面白そうだったからである。
「フゥーハハハ! この鳳凰院凶真が、お前たちに差し入れを持ってきてやったぞ!」
「ちょっ、岡部っ!?」
「ニャッ、よく来たニャ! お帰りなさいませニャ、凶真、ダルニャン!」
 どたどたばっこん、というすごい音を奥で響かせながら、気にした風もなくフェイリスがひょこひょこと入り口に顔を出す。休業中だというのにいつも通りの接客態度、それに対しダルが「フェイリスたん、ただいまだお(キリッ」とか言っているのはまあこちらもいつも通りだ。
 けれどそんなやりとりのさなかにも奥からどたばたと物音が続いていて、合間合間に「来るなって言ったのに!」「帰れ! いますぐ帰れ!」「こうなったらまゆり、ウィッグ貸して! 私だって分からないくらいのウィッグを!」なんて必死な叫び声も聞こえてくる。
 誰の声かは……まあ、言うまでもないよな。
「さ、凶真、ダルニャン。みんなお待ちかねだニャ。さっそく入ってニャー」
 いつも以上にフランクな態度で奥へと案内してくれるフェイリス。それに対し俺でもダルでもない誰かが「待ってないから! 全然待ってないから!」とか奥で叫んでいたが、そんなものは三人揃って無視である。
 そのままレジを通り視線よけの磨りガラスの先へと抜けると、そこには、まあ、予想通り、
「ほう。大した格好じゃないか、クリスティーナ」
「……くっ」
 顔を真っ赤にしながらこちらを睨んでくる、メイド服+ネコミミ完備の牧瀬紅莉栖がそこに居た。



「おいクリスティ・ニャンニャン、俺のぶんのグラスがないぞ」
「ニャンニャン言うな! 空きグラスくらい自分で取れ!」
「ダメニャ! クーニャンにはお客様を敬う心が足りないのニャ!」
「そんなもの最初っからないわよ! それとそこのHENTAI! 写真に撮ったら、そのデジカメをあんたの海馬もろとも切り刻んでやるから!」
「だめだよクリスちゃん、ここではねー、言葉にニャーニャーってつけないといけないのニャン」
「まゆりまで! ああもう助けて、漆原さん!」
「えと……あのう……頑張りましょう、に……ニャ?」
「そっちじゃない! っていうか無理矢理着せられたメイド服になんで適応しようとしてるの!? 可愛いけど!」
 クリスティ・ニャンニャン、大騒ぎである。
 ……俺たちは紅莉栖の醜態を楽しむため――もとい、紅莉栖にもっと社交性を身につけてもらうため、差し入れを食べる間はメイクイーン+ニャンニャンの店員として振る舞うよう厳命してみたのだった。メイクイーンの新人メイド、クリスティ・ニャンニャン。「ツンデレは居なかったから、牧瀬氏がバイトすればナンバー3は固いね。僕が保証するお(キリッ」とはダルの弁だが、当然紅莉栖にやる気なぞなく、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるだけの状態になっているという始末である。
 ちなみにナチュラルにルカ子もメイド服+ネコミミを着用させられていたが、本人なりに結構楽しそうなのでそっちは好きにやらせている。ふりふりエプロンと謙虚な接客応対、さらにネコミミで破壊力の増したその儚い笑顔は紅莉栖と違い、メイド喫茶の店員として完璧である。だが男だ。
「おいクリスティ・J・ニャンニャン。からあげが足りないぞ。レンジで温めてきてくれ」
「いや接客しないと言っとろうが。というかなにそのミドルネーム。J?」
「……? いや、『助手』のJだが?」
「なにその『何を言ってるんだ』的な目は! 分かるか! というか助手でJってどんだけ英語分かんないのよあんた! そもそも私は助手でもクリスティでもニャンニャンでもない!」
 ふんぬー、と鼻息荒くまくし立てる紅莉栖。まあまあ、となだめているフェイリスの横で、ニャンニャン言いながらまゆりがからあげのパックを持って電子レンジへと歩いていった。
 まったく。同僚にこれだけ迷惑をかけておいて何とも思わないのかね、このクリスティ・@・ニャンニャンは!(ちなみに@の説明は機関に知られると困るので割愛する)
「はあ……勉強教えに来ただけなのに。どうしてこうなった……どうしてこうなった!」
「それは、クーニャンが可愛すぎるのがいけないのニャン。ルカニャンともども、一度はメイド服とネコミミを着せたくなるというのがアキバに住む者としての心情だニャ。ダルニャンもそう思うニャ?」
「当然だお。はあはあ、けしからん。ああけしからん……るか氏るか氏、その格好でこう、『萌え萌えキュン』ってポーズよろ。こう、キュン、って」
「えと……萌え、萌え……キュン?」
「キタ――――――――ッ!!」
「駄目だこいつら……早くなんとかしないと」
 メイド服とネコミミを完備したまま、ずいぶんとミスマッチな憂い顔で紅莉栖が呟く。鼻血を出して興奮しているダル、わけもわからず恥ずかしがりながら慌てているルカ子、ニャーニャーと笑っているフェイリス、にこにこ顔でそれを眺めながらからあげを頬張るまゆり……。
 まあ、平常運転ではなかろうか。
「おい岡部! あんた、ぼけっとしてないで何か言ってやりなさいよ! 私たちは勉強しに来たの!」
「ん? じゃあ、そうだな……おいフェイリス、クリスティーナが猫語を勉強したいそうだぞ」
「ニャッ!? あの失われし古代言語を習得したいと言うのかニャン!? それには千年に一人とも呼ばれる天性の素質と、血の滲むような努力が必要ニャ……!」
「言ってないわよ! っていうかフェイリスさんも乗らない乗らない! ああもう、どうしてこうあんたたちは!」
「なんだ勉強しないのか。それなら、ほら、さっきから言ってるように俺のグラスが無いんだが?」
「はいはい畏まりましたニャン! 少々お待ちくださいニャ!!」
 ばん、と机を叩いて、ヤケクソ気味に食器棚へと向かうクリスティ・ニャンニャン。これは落ち着くまでしばらくかかりそうだなと、ペットボトルのドクペに口をつけながら俺は思ったのだった。



       ○  ○  ○



「はあ……まったく。来るなってわざわざメールしたのに」
 さんざん騒いで差し入れのバナナとからあげを食べ終えたころには、ことあるごとにこちらを睨んできていた紅莉栖もなんとか落ち着きを取り戻していた。フェイリスが用意したというクッキーをつまみながら観念したようにテーブルに肘をついている。ダルに言わせればダウナー系。恥ずかしさはまだあるらしいものの、それでもパキッと音を立ててクッキーの半分を口へと放り込み、
「それ、積分間違ってる」
「なっ!?」
 なんて、ちらりと俺の手元を見ただけで数式の間違いを指摘してくれやがるほどに冷静にはなっていた。
「ぬ、むう……」
 指摘に頭をかかえ、仕方なく消しゴムで計算途中の式を削る。
 ……どうしてこうなった。
 いや、それは別にこの式に対する問いではない。紅莉栖が早々にメイド服に慣れてしまったことへの問いでもない。
 ――どうしてこうなった!
 それはこの状況に対する問いである。この、俺がなぜか勉強をやらされていて、隣から紅莉栖が容赦なく間違いを指摘してくる状況に対する問いである。
 勉強会。それは分かる。紅莉栖は教える側。それも分かる。俺は差し入れに来た。それも分かる。
 だが、どうして俺が教わる側になっているのか。それがどうしても分からない。
 というか、どう考えてもおかしいだろう……?
「……なあ、助手よ。お前はまゆりたちの勉強を見に来たんではないのか?」
「そうよ。でも文系科目は、漆原さんがまゆりを見ることになったから。橋田はフェイリスさんに数学教えてるみたいだし」
 ちらりと見れば、テーブルの別の場所でもそれぞれにマンツーマンの授業が展開されていた。一生懸命なルカ子と目を丸くして首をひねっているまゆり、意外にも真面目に教えているダルとニャンニャン言いながらさらさらと筆を走らせるフェイリス。
 ああ、なかなか良い組み合わせだろうさ。紅莉栖の手が空くというのも理解できる。
「だから、暇ついでに俺の勉強を見ると?」
「そう。文句ある?」
「ありまくりだ馬鹿者! 俺は勉強するなど一言も言っていない! そもそもこの最高の頭脳を誇る鳳凰院凶真に勉強など不必要である! フゥーハ――」
「あ、あとここのスピン角運動量と行列の計算も間違ってる。ここに複素数が入るはずないって、見て分からない? 鳳凰院凶真さん」
「ハハ……は……は? い、いや、違う、そう、そうだ! よく気付いたな助手よ! それは俺がお前を試すために――」
「はいはいワロスワロス。いいからさっさと再計算しろ」
「くっ……」
 くそう。なんだこいつは。これでは本当に天才みたいではないか。
 俺の間違いを指摘しても別段偉ぶることはせず、それどころか暇そうにペンをくるくると回しているその姿と余裕は、メイド服とネコミミさえなければ間違いなく天才科学者のそれである。普段の眠そうな目をこすりながらハコダテ一番をすすって、合間に@ちゃんねるでコテハン書き込みをしているときとはえらい違いだ。
 けれどそれを指摘したところで大した意味はなく、俺は手元のグラスでジュースを一口飲んでから再計算に手をつけた。さらさら、という形容にはやや遠いものの、先ほどの間違いがどうして起きたかを自覚できるくらいには理解しつつ先へと進めて。
「ねえ、岡部」
「な、なんだ、また間違ったか?」
「へっ? ああ、違う違う。全然別の話よ」
「別の話?」
「あっ、そんな大した話じゃないから。問題は続けてていいわよ」
 わたわたと手を振る紅莉栖に、少しばかり不可思議さを覚えながら止めた計算を再開する。喋りながらできるほど簡単ではないのだが、まあ、構うまい。
 ええと、次はtを偏微分して――
「実はね……フェイリスさんのお父さんが、パパと知り合いだったらしいの」
「――っ」
 パキッ、とシャーペンの芯が折れる。
 ……いや、いやいやいやいや待て待て待て待て。
 たった今「大した話ではない」と言った口で、なんて地雷を踏んでくれるのか。tの偏微分なんかより遥かに重大すぎる話だろう、それは。
 フェイリスのパパさんが? ドクター中鉢と? いやいやまさか。そんな話はどの世界線でも耳にしたことはない。
 けれど俺の内心の動揺など気にした様子もなく、紅莉栖は差し入れの中から目聡く見つけたドクペを開けつつ話を続けた。
「音声データが残ってたの。そのうちの一人の声は間違いなくパパのものだった」
「聞いたのか?」
「フェイリスさんから、『バイト』の前報酬としてもらったわ」
 言って、ちょんちょんと自らのネコミミを指し示す紅莉栖。この勉強会がそうだと言いたいらしい。
 なんだ、本当にバイト扱いだったのか、クリスティ・ニャンニャン。
「メール、覚えてる? あんたが勝手に私のバイトを了承したって話」
「ああ……フェイリスのやつ、覚えてたのか?」
「そういうこと。だから断っとけって言ったのよ。ま、そのおかげで報酬を受け取れたって面もあるけど」
 はあ、と溜息を挟んで、紅莉栖が再びドクペに口をつける。このダウナー加減は、単にメイドコスプレを見られて騒ぎ疲れたからというだけではなかったらしい。
 しかし事実だったとなれば、俺にとっても驚きだ。紅莉栖がどれだけ想っていようと、俺の中でドクター中鉢の評価は変わらない。だから社会的にも人間的にもあまりに対照的な二人が、俺の中では繋がらなかった。
 完全に手を止めて、俺は紅莉栖に問いかける。
「どんな内容だったんだ?」
「なんてことのない、他愛ない話だった。A面も……B面もね」
「え……まさか、カセットテープ?」
「そう。そういうガジェットはよく知ってるわね、相変わらず」
 まあ確かに、古い話であれば音声データとしてカセットテープを使うことはむしろ自然なことではあるが……再生機ともども、よく残っていたなというのが正直なところだ。今はもうそのほとんどが生産を停止していると聞いている。
「ねえ。あれだけ北欧神話にうるさいんだから知ってると思うけど……バベルの塔って、あるじゃない?」
「なんだ唐突に。あれだろう? 神が言語を乱したっていう」
「ええ。音声を聞いて、私はそれを思い出した。皮肉よね。未来から届くメールより、過去から届いた音声データの方が、私にとってはよっぽど難解。哀心迷図のバベルの欠片は、今の私には翻訳できそうにないんだから」
「……どういう意味だ?」
「言わせんな恥ずかしい。……今さらパパの昔の心情を知ったところで、私を殺そうとした過去は変わらないって話よ」
 まぶたを落とし、ぎい、と背もたれに体重を預ける紅莉栖。その静かな嘆息に対し、俺はすぐには何も言えなかった。
 批難され、貶され、罵倒され。論文を盗用され、殺されそうになり、さらに亡命までされて。それでも紅莉栖は迷っていた。原因はささいなすれ違いなのだからと、話せば分かってくれると心のどこかで信じ続けて。
 俺は知っている。紅莉栖の、父親に対する並々ならぬ想いを。たとえ――そう、たとえ、その俺の『知っている』紅莉栖は父親からの盗作や殺害未遂の被害を受けていない紅莉栖だったとしても、あいつはずっと苦しく感じていて、哀しく思っていて、泣くほど怒られても電話をかけていて、ついには電車で遠く青森まで行こうとしていた。米国で暮らしている母親の言いつけに背いてまで父に会おうとしたそんな紅莉栖を、一体誰が責められようか。
 今、亡命したドクター中鉢がロシアで何をしているかはさっぱり聞こえてこない。要の論文も焼け落ちて、ロシアにとっても得はないだろう。傷害事件の重要参考人。日本の犯罪者を匿っているだけと知れれば、外交問題になりかねない。あるいはもしかしたら、誰にも連絡しないままひっそり日本に送還されているかもしれない。
「なあ、紅莉栖」
 娘を絞め殺そうと、俺を刺し殺そうとしていたあの態度を、声を、向けられた憤怒を思い出す。ドクター中鉢も単なる狂人ではない。プライドが高く、感情的なだけの人間だ。
 そしてだからこそ、俺はもう、ダメだと思うのだ。
「何よ。普通に呼ぶなんて、穏やかじゃないな」
「お前から振った話だろう」
 娘から論文を奪い、刃まで向けて、国を捨てた。あれはそれに何の罪悪も感じないほど度胸のある男ではない。遠い世界線で紅莉栖は言っていた。お互い悔恨があるからこそ、すれ違ったままなのだと。
 だからもう、無理なんだ。罵倒し尽くし、刃を向けた娘。その当人から「仲直りしよう」と迫られて、果たして素直に頷ける人間がどこに居よう? 認めたくはない自身への呵責と相手への心理的な投影で、バベルの塔が再び建設されることは未来永劫ありえない。
 少なくとも俺は、そう思えるようになってしまった。
「今日の帰り、ラボで少し待っててくれ。続きはそこで話そう」
「……そうね。ごめん、こんな場所で、こんな格好しながら話すことじゃ、確かになかった」
「今さらだと思うがな」
 お互いくすりと笑って、それぞれ飲み物に口をつける。まわりを見てもラボメンたちは意外にきちんと集中しているようで、こちらの会話を聞いていたような素振りはなかった。あるいはフェイリスあたり、聞こえていてわざと聞いていないフリをしている可能性はあったけれど。
「ああ、それと。ついでだからこの際言っておくが」
 紅莉栖が他のメンバーの勉強具合を見ようと立ち上がったところで、俺はそう声をかけた。椅子に押し留められていたメイド服のスカートがふわりと舞って、紅莉栖は期せずしてこちらに全身が見えるよう振り向く形に。
「なに、どうかした?」
「大した話じゃない。ついでだから言っておく、というだけだ。――似合ってるぞ、その格好」
 紅莉栖の動きがぴたりと、まるで凍りついたかのように固まって。
 俺だって面と向かって口にするのは恥ずかしい。けれど寸刻のあと、紅莉栖の顔はこちらが笑ってしまうくらい急激に真っ赤に染まり上がったのだった。



 しばらくして俺とダルが退散したあとも勉強会は続いていたようで、紅莉栖とまゆりがラボに戻ってきたのは空が少し暗くなってからだった。まるで遊園地帰りのような二人の表情には本当に勉強していたのかという疑念も湧いたが、まあ、別に試験が迫っていたというわけでもなし、楽しかったのならそれはそれで構わないとも思う。ことに紅莉栖は相当満足したようで、「また次もやりたいわね」なんて、まゆりに劣らずの笑顔でそんなことを言っていた。
「それで? 今日はどうする。晩飯はここで食っていくのか?」
「んー、まゆしぃは頭を使ってちょっぴり疲れちゃったのです。だから今日はそろそろ帰ろうかなーって」
「僕もどっかで食べて帰るお。エロゲも回収しなきゃいかんし」
「ふむ、そうか。じゃあ……」
 ちらりと紅莉栖を見る。それならそれでちょうどいい。
「私はちょっと、岡部と話があるから」
「おっ、告白フラグktkr?」
「うっさいエロゲ脳。そんなわけあるか」
 うはwwwサーセンwwwなんて言いながら、ダルがさっさとラボを出て行く。続いて荷物をまとめ終わったまゆりがふらふらとラボの出口へ。
「それじゃ、クリスちゃん、オカリン、また明日ねー。トゥットゥルー☆」
「ええ、また明日ね、まゆり」
「……まゆり」
「んー?」
 ドアの横に置いてあるブラウン管、その上に鎮座しているジョークグッズの数値を視界の隅で確かめてから、俺は支度の終えたまゆりの頭をぽんと叩く。
「また、明日な」
「えっへへー。うん、明日も来るよー。今日は二人とも、ありがとねー」
 ふわふわっと感謝の言葉を述べて、目の前だというのにぶんぶんと手を振りながらラボのドアからまゆりが出て行く。いつもは呆れてしまうようなオーバーリアクションにも、なんとなく今日は笑って見送ってやった。
 そのままぱたりとドアが閉じ、急に静かになる室内。
「……岡部が急にまゆりの頭を撫でた件について」
「ん? なんだ、不満か?」
「べ、別にそんなこと――」
「また明日も会える。まゆりに限らず、それが当然のように思えるってのは大切なことだと思うがな」
「ちょ……!」
 つっけんどんになっていた紅莉栖の頭に、俺はさすがに苦笑しながら手をのせた。くせっ毛のまゆりとはだいぶ違う髪の感触。ぽんぽんと二度三度叩き、そのままラボの奥へと向かう。
 俺にとってはまゆりも紅莉栖も、かけがえのない存在であることは変わらない。また明日も二人と会える。そのことを嬉しく思うくらいには、俺にだって不安はあるのだ。だからまあ、少し過保護になっていると言われれば、反論のしようもなかった。
 いやさすがに、いつかのように手を繋いで毒味をして、なんてお姫様扱いはしていないけれども。
「もう、なんなのあんたは! 誰も羨ましいとか言ってないでしょ!」
「は? いや、俺もそんな言葉を聞いた覚えはないが……それより、いいか?」
 かつてタイムリープマシンが置かれていたテーブルの椅子に腰掛けて、本題の話に入る。紅莉栖はなにやらぶつくさと「HENTAIのくせに」とか「これだから岡部は」とか言っていたが、やがて「ま、いいわ」という言葉とともに話を聞く姿勢に入ってくれた。この心強いほどの切り替えの良さは相変わらずだ。
 紅莉栖はパイプ椅子を引きずり出して、わざわざ俺の隣へと腰を降ろしてきた。髪がかかるほど近いこの距離感は、ブラウン管工房前のベンチで話し合ったときのことを思い出す。
「これ、本当は私自身の問題なのにね。なんかごめん、特に具体的な相談があるわけでもないのに」
「気にするな。それより――」
 そうして俺は、紅莉栖から音声データの具体的な内容について聞き出した。
 フェイリスのパパさんとドクター中鉢の、仲の良さそうな会話、活動報告、それに発明家としての基盤となるような出来事。それに思うところがないわけではなかったが、問題はそちらではなかった。
 カセットテープ。こっそりと録音されていた残るB面にこそ、紅莉栖をして「バベルの欠片」と言わしめた内容が収録されていたらしい。
「そこには、パパの後悔の言葉が入ってた。『娘に対してきつくあたって申し訳なかった』って。私がパパに誕生日プレゼントを贈って、それを捨てられたときのこと。私、今でも覚えてる」
「……そうか」
 とつとつと語る紅莉栖に、いつもの覇気も冷静さもない。父親の話となると途端に年相応の少女へと戻ってしまうこの態度は、刺し殺されそうになったこの世界線においても変わることはないらしい。
 なんて一途で、なんて切ない。俺ですらそう思う。
 だから――
「なあ、紅莉栖。お前は覚えていないかもしれないがな、俺はお前と約束したんだ。俺は、お前と父親の問題を解決する手伝いをしてやるとな」
 泣きそうな顔の紅莉栖に、俺ははじめて自分から他の世界線での出来事を口にする。
 今でも覚えている。咄嗟に出た言葉に食いついた紅莉栖、青森と言われて驚いた俺に撤回はさせないと迫った表情、新幹線か夜行バスかで迷いつつもはしゃいでいるようなメールの文面……それらはどれも、世界線の向こうに消えた思い出ではあるけれど。
 天才少女に、メランコリィは似合わない。今の俺だってそう思う。
「岡部のくせに……そんな約束したなんて、ずいぶんと大きく出てくれるじゃない」
「ああ、確かにな」
 だから俺は、この紅莉栖のためにも、そして他の世界線の紅莉栖のためにも、こいつと父親との問題を解決してやらなければならない。
 あのときの俺は青森に行って、父親との仲介をするつもりでいたけれど。
 論文盗用、殺害未遂、ロシア亡命。
 それはどうしたって覆しようのない過去で。
 時間はかかるだろう。
 紅莉栖とドクター中鉢の間にできた歪んだ関係、それが成立するのと同じくらい、あるいはそれ以上の年月がかかるかもしれない。
 でも、約束をしたから。
 だから。
「なあ、紅莉栖。……青森へ、行かないか」
「青森……」
 そしてその始めの一歩として、俺が選んだ言葉はそれだった。
 いま、おそらくドクター中鉢はロシアか、あるいは日本に居たとしても自宅には戻っていないはずだった。だからかつて約束をしたときとは違い、今の青森に行く理由はそれほどない。
 でも、きっとけじめは必要だろう。
 ドクター中鉢の過ごした土地。バベルの欠片はそこら中に散らばっているに違いない。あるいは、見切りをつけるだけのもっとひどい事実がそこにはあるかもしれない。だがそのどちらにせよ、今の紅莉栖には知っておいてほしいものだから。
「約束したんだ。一緒に青森へ行こうって。意味はさほどないかもしれない。だがそれならそれで、普通に旅行を楽しめばいい」
「そう。青森に、ね……」
 青森という地名で、この賢い天才少女はすぐに意味が分かったろう。そして当然、今の世界線ではそこに父親が居ないということも知っている。
 だからもしかしたら断るのではないか。そう思った俺の予想はしかし大きく外れて――
「……ねえ、岡部。あんたが私との約束を覚えているのに、私が覚えていないのって不公平だと思わない?」
「なっ……。いや、それは……」
 言い淀む。
 けれど紅莉栖の狙いは俺を戸惑わせることにあったらしい。返答を聞くより先に、椅子から立ち上がってこちらに言葉をかぶせてきた。
「知ってる、岡部? より強烈な感情とともに海馬に記銘されたエピソード記憶は、忘却されにくいのよ」
「ああ、それは聞いたことが――」
 いや待て。
 確かにそれは聞いたことがある。聞いたことがあるが、それは――
「そして同じ行為・感情によって連鎖的に思い出すことができるって話は、常識よね?」
「紅莉栖、お前、まさか」
「……あんたが悪いんだからね。わざわざこの場所で、青森行きの話なんかするから。私、あんたが一緒に青森に行ってくれるって言ったとき、本当に嬉しかったんだから!」
「おい、待て! いや待たなくてもいいが、お前、連鎖的もなにもとっくに思い出して――」
 とっさに立ち上がる。
 ぐい、と近づいてくる紅莉栖。俺は形だけでも逃げる姿勢を取っていたが、けれど身体は一歩も後ろに退こうとはしていなかった。く、くそっ、これも”機関”の――そう! ”機関”のせいに違いない!
「青森……そう、青森よ! あんたが一緒に行くって言ってくれた! それでメールして、あんたが頑張ってて、いなくなって、探したら私が死ぬって言われて、それで、それで――」
「お、おい紅莉栖……!」
「やばい、ほんとやばい。私、いまちょっとマジでやばいかも。なんか、切なかったり嬉しかったりで泣きそうで笑えそうで、頭の中がぐちゃぐちゃになってる。だからその……自分でも何するか、正直、わかんない」
「ばっ……馬鹿か! 何を言いだしてるんだお前は!?」
「馬鹿っていうな! あんたに分かる、今の私の気持ちが!? あんたとの別れ際のこととか飛行機キャンセルしてラボに走り込んだときのこととか一気にフラッシュバックしてもうほんとおかしくなりそうなんだから! あんたのことが好きだって言えなくてどんだけ後悔したか! ああもう、好きよ好き! その情けない顔も変に真面目なところも未だに青森行きの約束を覚えてくれてたところもなにもかもみんな好きなの! 大事なことだから何回だって言ってやるわよ! 私はあんたのことが好き! 今までだってそうだし、思い出してもそうだし、これからだってそう! だからあんたは、あの時みたく黙って私にキスされればいいの!」
「ちょっ――」
 勢い余り、紅莉栖の体重で背中からラボの床へと押し倒される。
 いや、いやいやいやいやいや。
 予想外も予想外、そりゃいつかは思い出してくれればと願っていなかったわけでもないが、それにしたってこの状況はどうなんだ。いくらなんでも「青森」一発でこれとか、あのときの紅莉栖がそれだけ嬉しかったということを間接的に知ってしまって俺はなぜだか恥ずかしい気分にもなってしまう。
 っていうかそもそもこれのどこが「同じ行為」だというのか! あのときはもっと、こう、静かな感じで――
「それともなによ、あんたはとっくに私のこと好きじゃなくなったわけ……?」
「――ッ」
 紅莉栖の目には既に涙が浮かんでいる。覆い被されているせいで、ラボの明かりが逆光だ。それでも紅莉栖の泣き顔なんて見たくはなく、俺はようやく自身の混乱を落ち着けた。
 そうだ。リーディング・シュタイナーに戸惑っているのは紅莉栖の方。そんな紅莉栖に俺がかけてやるべき言葉など、この世界線に辿り着いた時から決まっているではないか。
「俺はあのときの事が嘘だなんて言いはしない。今でもお前のことは好きだ。俺は、お前が好きだ」
 俺の言葉に、少しだけ目を見開いて。
「……当然よ。じゃなかったら、罰として脳みそかっさばいてやるんだから」
「おいおい、ヤンデレは笑えんぞ」
 目に涙を溜めながらくすりと笑い、紅莉栖はさらに言葉を続ける。
「青森、行きましょう。パパのこともあるけど、私、岡部と一緒に青森に行きたい。お互いコミマでお金を使っちゃったから、新幹線は無理そうだけど」
「そうだな。なら、ゆっくり鈍行でだっていい。時間はたっぷりあるんだ」
「それもそうね。――ねえ、ごめん。青森行きが決まって嬉しいんだけど、もう、これ以上我慢できそうにない。……いい?」
「ん?」
「目、閉じて」
「ああ……」
 かつてと異なり今度こそ相手の狙いを悟りながら、言われたとおりにまぶたを閉じる。
 のしかかってくる紅莉栖の重み。
 記憶と同じ、変わらぬ紅莉栖の甘い匂い。
 離れがたいほどの魅力を持つ紅莉栖の温かみ。
 近づいてくる紅莉栖の身体を俺は今度こそ遠慮無く抱き留めて。
 俺たちは、再びここで『初めての』キスを交わしたのだった――――。


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