[Farewell to the Divergence]
1.


 歓迎会である。
 牧瀬紅莉栖との再会を祝しての歓迎会。長期の休みになるたびにやっているために目新しさはとうにないが、誰がなんと言おうと飲み食い自由の歓迎会である。ノリとしては途中から誰のためのものであるか忘れてしまう誕生日会のそれに近い。
 テーブルにはおのおの持ち寄ったお菓子に飲み物、ダルの頼んだピザ数枚に、見た目からして美味しそうな料理の数々が並べられている。謎料理は一切ナシ。それもこれも『以前』の宴会での反省と、ラボメンナンバー006と007の尽力によるものである。
「あ、このサラダ美味しい。漆原さんが作ったの? さすがね」
「は、はいっ、あの、ありがとうございます。脂っこいものばかりになりそうだったので……」
「こっちのお菓子はフェイリスが作ったのニャン。たっぷりあるからどんどん食べてニャ」
「うは、フェイリスたんの手料理とか……我が生涯に一片の悔いなし!」
「ダル、涙はいいが鼻血はよせ。お前の頼んだピザを突っ込んで止血するぞ」
「トゥットゥルー、まゆしぃのからあげも食べていいよー? おいしいよー?」
 もぐりもぐりとそれぞれに箸と手を進める。食べ慣れているお菓子はともかく、ルカ子とフェイリスの料理は見事としか言いようのない手並みだった。二人とも、控えめながらも料理が得意だと口にしているだけはある。さらに当の二人が小食なのも相まって完全に作り手と食い手が別れているのだが、そのことについては完全にこっち側に来ている残る女子高生二人に猛省を促したいところだ。
 ちなみにまゆり、電子レンジで温めただけなのに他の料理と同列に扱うような主張をするのはやめなさい。
「ん、料理もそうだけど、やっぱりお菓子もこっちのがいいわね。美味しすぎて涙が出るわ」
 言いながら、ソファで俺の隣に座った紅莉栖がぱくりとポテチを口へと放り込む。まゆりもそうだが、もう少し自分の見た目というのを自覚したらどうなんだと思わないこともない。
「しかしアメリカこそこういうパーティーで飲み食い、ってイメージがあるが。不味かったのか?」
「んー、不味いというより極端なのよ。甘ければ甘い、塩辛ければ塩辛い。べっとべとにクリームがついたケーキとか、ソースでぎっとぎとの焼いた肉とか、見たことない?」
「え、牧瀬氏、ネットでよく見るああいう料理ってジョークじゃないん? いくら僕でも、リアルで食べたいとは思わねーお……」
「選べばまあ、まともなものもあるけどね。逆に言えば、油断するとああいうのがどんどん出てくるわけ。日本と同じ商品名のお菓子やジュースもあるけど、中身はほとんど別物よ」
 紅莉栖のちょっぴり苦みのある顔を見る限り、アメリカに行って何年と経っても食にはわりと苦労をしているようだった。研究のみならず、色んなところに見えない苦労があるんだなと心底思う。しかしでは、それだけの食に囲まれてこのスタイルの良さはなんなのか。ダルなど日本に住んでいながらにしてコレだというのに。
 ちなみに味覚は後天的なものだけじゃなく、遺伝子レベルで違う場合もあるから慣れればいいってものでもないのよね、なんて紅莉栖は脳科学者らしく続けて、今度はフェイリスの作ったクッキーへと手を伸ばした。ぱきっと半分に折って口に放り込むサマは、ポテチよりずっと絵になっている。
「うん、グッド。フェイリスさん、接客だけじゃなくて料理もできるのね」
「ニャハハ、ありがとニャン。でもお店ではほとんど作らないニャ。これはここにいるラボメンのみんなに対して限定ニャ」
「うう……。僕、今日ほどラボメンになって良かったと思うことはないお」
 ダルめ、よく言うわ。
 しかしまあ、次があればフェイリスの手料理を食べさせてやると「約束」した手前、少しばかり癪ながらもその義務を履行できたことには満足している。もっとも、その腑抜けきったダル面(※顔がダルっぽいこと)にはクリームパイの一つもぶつけたくなるが。
 ダルがフェイリスの手料理に集中している横では、まゆりがルカ子の料理に舌鼓を打っていた。おそらくは料理の話でも聞いたのだろう、その隣ではルカ子が懸命に火加減がどうだとか塩の量がどうだとか説明しているようだったが、むぐむぐと煮物をぱくついているまゆりにその言葉がうまく届いているようには到底思えない。あいつは料理は食う専門だし、コスプレは作る専門みたいなもんだ。もちろんルカ子はその逆である。
「岡部、ドクペまだある?」
 そうしてげっぷが出そうなくらいに良い食べっぷりをしているまゆりを見ていたら、隣からはそんな催促の声が聞こえてきた。
「む、もう飲んだのか。だが当然、準備は万端だ。お前が来ると消費量が増えるからな、箱買いしてやったわ」
 しかも500mLだけでなく2Lペットボトルのほうもいくつか用意した。冷蔵庫はドクペとダルのコーラ、あとはそれ以外の飲み物でほとんど埋まっている。冷凍庫はもはやからあげ専用スペースと化しているし、なかなかに偏りすぎだと思わないでもない。
 新しく2Lペットを空けて、紅莉栖のコップに注いでやる。言うまでもなくマイカップ。米国との往復でも持って行くあたり筋金入りだ。側面には「クリスちゃん専用☆」と書かれていて、「アメリカじゃ誰も読めないから恥ずかしくないのよね」なんて言っていたのを思い出す。「向こうに居ても、このラボの空気が感じられる気がして」とも言っていた。そういうのを真顔で言われると少し困る。どう困るのかはご了承下さい。
「サンクス。なんか自分の嗜好が知られてて、それが準備されてるのって、少し……ううん、かなり嬉しいかも」
「ふん、勘違いするなよクリスティーナ。俺はお前がドクペを飲むことで自分のぶんがなくなることを怖れたのだ。なにも一から十までお前のためというわけでは――」
「オカリンよく言うよ。この辺で売らなくなったからって、通販までしてハコダテ一番買ったくせしてさ」
「ぬぐ……っ、ダル!」
「おっと、親友キャラとしてちょっと手助けしてしまった感」
「凶真は優しいんだニャ〜」
「ぐぬぬ……」
 ドヤ顔のダルとにゃふふと笑うフェイリスに視線を送られ、なんとも言えず頭を沈める。くっ、ダルめ、あとでLHC萌えフォルダの中身を、全て俺のオカルト心霊写真画像と入れ替えてくれてやる。
「え、えと、岡部」
「……なんだ」
「その、……ありがと」
 ――……。
 エル・プサイ・コングルゥ。
 フェイリスは面白そうに、まゆりは嬉しそうに笑っているのを聞きながら、俺はしばらく顔を持ち上げることができなかったのだった。



       ○  ○  ○



 テーブルの上に山盛りあった料理を半分くらい消化したころ。
 ぴんぽーん、とドアホンの甲高い音が鳴らされた。ラボのリーダーであるこの俺がわざわざ立ち上がって直々に対応してやると、そこに居たのは桐生萌郁こと閃光の指圧師。一瞬どきりとしたが、何のことはない、ぱりっとしたビジネスウーマン風の私服に眼鏡付き、いつも通りの格好だ。そもそも呼んだのは俺のほうだと言うのに、姿を見て驚くなどというのも失礼な話ではある。
「……アルバイト、終わったから」
「あ、ああ」
 そうだ。いまの萌郁はブラウン管工房でアルバイトをしている身の上なのだった。ミスターブラウンも今日くらいは空気を読んで、少しばかり早めに店を閉じたらしい。
「フッ、よく来たなラボメンナンバー005、指圧師よ! まあ助手の歓迎会という名目の単なる宴会みたいなものだ、存分に楽しんでいくといい」
「岡部、聞こえてるぞ」
「くっ……、ま、まあ少なからず歓迎の意を示しつつ、そこらに座って食べるといい。だいぶ買い込んだからな、まだまだなくなりそうにはない」
 テーブルを指し示すと、萌郁はこくりと頷いてすたすた歩き、スナック菓子を一袋取って空いてる床に座り込んだ。『以前』の円卓会議では端っこで立ちっぱなしだったことから比べると、これでも進歩と言えるんだろうか。
 と。
「――んっ?」
 ぴろぴろという携帯の着信音は、俺ではなく紅莉栖のところから。ドクペを飲む手を止めて紅莉栖が携帯を開き、しばし眺めた後、
「サンクス。私もよ、桐生さん」
「……(こくり)」
 もはやディスコミュニケートにしか見えん。端から見てるとこんな感じだったのか。
「桐生さんが、久しぶりに会えて嬉しいって。あんたと違ってストレートに歓迎してくれたわ」
「言ってろ」
 くひひと嫌みったらしく笑っている紅莉栖の隣に戻り、どかっとソファに腰を沈める。食べかけだったピザに手を伸ばそうとすると、今度は俺の懐から携帯の着信音。当然のように差出人は萌郁で、当人を見れば何か言いたそうにこちらを見ていた。
 いや、だったら口で言えばいいんじゃないのか。言えばいいんじゃないのか。
『呼んでくれてありがとう。やっぱりみんな一緒にいると楽しいよね。  萌郁』
 こっちに向いたその表情はちっとも変わっていないように見えるのだが、文面を見る限りではそれなりに嬉しくて楽しいらしい。「そうだな」と返すと、ようやく少しだけ笑ったような……うん、たぶん、笑ったんだろう。
 相変わらずわかりにくい奴である。そしてそれはきっと、意識せずとも昔の記憶が先入観として介在してしまっていることも大きいのだろう。こればっかりは時間をかけて解決していくしかない。
「萌郁さん、トゥットゥルー。からあげ食べるー?」
「あの、良かったら……ボクの作った料理も、どうぞ……」
 そうしてぽりぽりとスナック菓子をかじりはじめた萌郁に対し、それに気付いたまゆりがすかさず攻勢をかける。つられるようにルカ子も自分の料理を勧めると、萌郁はテーブルに近づいて「……ありがとう」と言いながら――って、そこは喋るのか! 基準はなんなんだ!
「モエニャンは相変わらず恥ずかしがり屋だニャ。そんなんじゃ接客業のプロにはなれないニャ」
「構うものか。どうせブラウン管工房に客なんて来るはずないだろう。前居たバイトも接客に向いてるかはともかく、仕事自体はサボりまくってたからな」
「そうね、何かというと外でMTBを磨いてるイメージだったし」
「……え?」
「ん?」
 いや、まあ、なんだ。
 確かにそうなんだけれども。
「ニャニャ、モエニャンもメイクイーンで働いてくれれば、指導してあげられるのにニャ〜。クーニャンはどうかニャ?」
「何度聞かれてもお断り。桐生さんと同じく、接客業に向いてないのは自分でも分かってるから」
「残念だニャー」
 さっぱり残念でなさそうにそう言って、猫みたく気まぐれに、腹一杯でぐてっとしているダルの横を通って今度はまゆりたちの方へと絡みに行くフェイリス。ニャンニャンいいながら、ルカ子とともに自らの料理をアピールし始めた。
「あの制服は、すごいキュートだと思うんだけどね」
「……着たいのか?」
「見たいのか?」
「合うサイズがないだろう。まゆりとはサイズが違うからな」
「なっ! だっ、む、ぐ――そ、そうよ! まゆりより私のほうが、身長が高いもの!」
「何をいきりたっている。サイズと言ったらその通り、服のサイズに決まってるだろう。他に何のサイズがあるんだ」
「――ッ」
「い、痛っ! け、蹴るな! 踏む、踏んでる、足、痛いっ!」
 その無駄に長い足で人の指先をぐりぐりと……!
「あれー? オカリン、どうかしたー?」
「ううん、まゆり、気にしないで。岡部がちょっとドジ踏んだだけだから」
「踏んでるのはお前の、っつ――――!?」
「そうー? よく分からないけど、気を付けないとだめだよ、オカリン」
「そうそう。岡部は気遣いが足りないんだから」
「どの口が……」
 ようやくねじりこまれた足を離され、はあと一息つく。こういうときまで無意味に容赦なしなのだから始末が悪い。踏まれて喜ぶのはダルくらいなのだから、あの出張った腹を思う存分踏んでやればよかろうに。
「あ、でも……サイズがあってれば、着てもいいってことなのかな?」
 ドクペを手にし、ふと思いついたように吐かれた言葉。
 俺に向けたんだか独り言なんだか分からないそれには、足をさすっていたために聞こえなかったフリをした。
 だって、なあ?
 是非見たいだなんて、そんなことを言えるわけがないだろう。



 結局、宴会が一通り終了したのはだいぶ夜も更けた時間帯となってからだった。
 気持ち程度は片付けたもののラボの中はまだだいぶ散らかったまま。泊まっていくという紅莉栖、紅莉栖が泊まっていくならと同じく宿泊を決めたまゆり、既に寝ぼけているダルの三人以外はこれから帰るようで、俺はビルの前まで帰る連中の見送りに出てきていた。
 ちなみにまゆりと紅莉栖には寝床の確保を頼んである。床の面積的な意味で。
「それじゃ、あの、岡部さん、今日は楽しかったです。それと、その、牧瀬さんにもよろしくと」
『みんなの料理とお菓子、美味しかったよ。こうやって集まるのってなんかいいよね。また遊びにくるね!  萌郁』
「フッ、何を遠慮している。お前らはラボメンなのだから、いつでも好きなときに来てもらって構わん。それと、もう暗いから気を付けて帰ることだな」
 こくこくと頷く二人に対し手を振って、そのままその背が末広町駅の方へと曲がっていくのを見届ける。なかなかに奥手なルカ子と、見た目無口だが変に積極的な萌郁の組み合わせは、それなりに珍しくそれなりに仲がよさそうでもあった。何の話をしながら帰って行くんだろうか。気にならないと言えば嘘になる。
「ニャニャ! 二人とも先に帰っちゃったのかニャン?」
 そうして完全に二人の姿が消えた後、遅れてフェイリスがとんとんと階段を軽やかに降りてきた。慌てながらもその足並みが乱れないあたりは、さすがのプロ意識といったところなんだろうか。メイクイーンで突拍子もない歩き方をしてもトレーの飲み物が零れない、という技術は健在であるらしい。
「ああ、あの二人、方向が同じみたいだったからな。悪いがフェイリスには用事があると言って、先に帰らせた」
「ニャ? フェイリス、特に用事はないニャ。それとも何か話でもあるのかニャ?」
 わざとらしく小首を傾げて見せた後、見上げるようにツリ目が俺の表情をのぞき込んできた。チェシャ猫の微笑、とか言ってたか。こいつの瞳はメイドとしてご主人様を魅了する以外の、とんだ能力が秘められている。それはきっと、『今の』俺には話していない事実だろうけど。
「あ、分かったニャ! さては、フェイリスの魅力に凶真がめろめろだって話だニャ?」
「残念ながらそれは違う。……少し、真面目な話なんだ」
「ニャ、まさか『奴ら』が動き出したのかニャ!」
「あのな……だから、真面目な話だと言ってるだろう」
「ニャー」
 ちょっぴり不満そうな声をあげたものの、こちらの態度から分かったのだろう、すぐに真剣な面持ちで俺の話を聞く体勢になってくれた。この辺りの切り替えの速さとか、頭の回転なんかは、紅莉栖に通じるものがあるようにも思う。どっちも褒めるとロクなことにならないので、決して口にはしないけれど。
 しかし今日の帰りに話をつけよう、そう前から決めていたにも関わらず、いざこうなるとどう切り出していいものかなかなか見当がつかなかった。重い話題。軽々しく触れにくいそれに、どうやって到達したものか。何の曇りのないフェイリスの表情と態度を見せられ、少しだけ決心が鈍る。これでは既に話を通した紅莉栖にも呆れられてしまうだろう。
 しばらく思案し(意外にも、フェイリスはこちらが話し出すのをじっと待っててくれていた)、とりあえず予定通り直球で話をしてみることにした。どれだけうさんくさい話だったとしても、フェイリスは俺の決意を信じてくれるというのは分かっているのだから。今はこのチェシャ猫の観察眼を信じよう。
「フェイリス。少し先の話になるが……今度のコミマが終われば、その次の週はお盆だろう? それで一つ、頼みたいことというか、させてほしいことがあるんだが」
「お盆ニャ? まあ、そうニャけど。……てっきり何かを探して欲しいとか、そういうものかと思ったニャ」
「――」
 どうしてフェイリスはそう思ったのだろう?
 なんとなく分かる気もしたけれど、「今回の」お願いはそれじゃない。軽く首を振って、要求を話す。
 ……あれから一年。
 俺がずっと割り切れなくて、振り切れなかったこの考え。
 自己満足かもしれない。
 冒涜かもしれない。
 大きなお世話だなんて、言われるまでもない。
 やらなければと思い続けてはや一年。割り切ってしまうにはあまりにそれは短すぎて、納得するにはあまりにそれは重すぎる。
 けれどそれでも、俺には――俺たちにはきっとその義務があると信じるから。
 壁一枚向こうへと消えていった世界線へ、今の俺たちを報告するために。
「フェイリス」
 肩に手を置いて、全てを話せないにも関わらずこの話題を出さざるを得ないわがままに、心の中で謝りながら、言う。
 これが運命石の扉の――今の俺たちの選択だ。
「頼む。俺と紅莉栖を――――」



 ……さて。
 フェイリスを無事見送った後でラボに戻ると、あらかたのゴミはゴミ袋に収まっていて、どうにか寝るだけのスペースは確保できたようだった。既にごろ寝しているダルを蹴飛ばして端っこにどかし、俺の雑魚寝場所を確保する。さすがにソファはまゆりと紅莉栖に使わせる他ないだろう。
「んー、こんな感じかなー?」
「へえ、流石まゆりね」
「えっへへー」
 そしてその当の女子二人は、宴会の片付けを終えたテーブルにミシンを広げてなにやら談笑していた。コミマに向けた衣装作りの追い込み、といったところか。最近はルカ子もそれなりにコスプレに理解を示すようになったこともあって、まゆりのモチベーションも以前にも増して高まっていたようだった。
「オカリンオカリン、ちょっとこれ持って広げてくれる? びろーんって」
「お安い御用だ」
 足元のダルを踏んづけながら布を受け取り、両手で広げて見せる。びろーん。鼻血を垂らすアホも今は夢の中だ。
「ん、ありがとー。もうちょっと調整しなきゃだめかなー」
「これで完成じゃないんだ……」
「まゆりのこだわりは異常だからな。だからこその評価ともいえるが」
 再びためつすがめつしてから、ミシン作業へと戻るまゆり。その目は「トゥットゥルー☆」とか言っているときとは違って真剣そのもので、指先の動きも玄人のそれだ。その努力をもうちょっぴりとでも料理の方向に活かしてくれれば、我がラボの食糧事情も好転しそうなものなのだが、それは言うまい。
 隣では紅莉栖がまゆりの手元をのぞき込みつつ、合間合間に分厚い電話帳のような本をつらつらとチェックしていた。言うまでもなくコミマのカタログである。色ペンを使い分けて地図にサークルリストを書き込んでいくその様はとても初参加のようには見えず、尋ねてみれば「@ちゃんねるで勉強したんだよね〜」とまゆりの返答。サークルカットを見ている紅莉栖の表情はこれまた真剣そのものだ。
「しかし、そういうチェックならROM版を使ったほうが便利だろう。ダルがPCを使っているならともかく」
「ええ、後でサイトチェックに使うわ。でもリスト作成には使わない。ログが残るから」
「お前の趣味嗜好なんぞ知ったところで……って、コスプレ広場に企業にそれだけのチェック、まわりきれんぞ?」
「うん、だから初日はぐるっと全体を回って、午後から漆原さんたちと合流してコスプレ広場、二日目はサークルを回って、三日目は企業中心に行こうって思ってる。問題ある?」
「三日連続!? お、おいまゆり、お前クリスティーナに何を吹き込んだ……?」
「んー? クリスちゃんが『三日とも行きたいけどいい?』って聞くから、『いいよー』って」
 まゆりのぽけぽけとした脳天気な反応が恨めしい。そういう問題じゃないだろう? ……ないよな?
 確かにダルもまゆりも連日参加することはあったが、せいぜい紅莉栖はあの場の雰囲気を体験する程度に留めると思っていたのだ。それがどうだ、どうやら話しぶりを聞く限り人気企業や人気サークルにすでに目星をつけていて、コスプレまで堪能するつもりときた。まゆりが付き添うからにはそれほどの心配もなかろうが、やはり「それはどうなんだ」という気がかりは残る。
 いや、まあ、『去年』もこいつはコミマに行って、それなりに堪能していたからその見立ては間違いないんだろうけれども。だが紅莉栖よ、その日のお前は無茶苦茶疲れ切ったいたんだぞ。全日参加とか本気か。
「岡部も初日は来るんでしょ? 私はその日は特に欲しいものはないし、買い物手伝ってあげてもいいわよ? ただしHENTAI関連は除く」
「……余裕があればな」
 もちろんそれは俺ではなく紅莉栖の余裕が、ではあるが。
 しかしまあ、ふんふん、とご機嫌になりながらサークルチェックを続ける紅莉栖に、黙々とコスプレ衣装を縫っているまゆり。コミマの準備に明け暮れるそんな二人の様子を見ていると、俺までガラにもなくその日が楽しみになってきてしまうのだった。


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