今夜はきっと雪

[da capo U short story]
「今までが、カンニングだったんじゃないのか?」

 別に、その一言がどうだった、というわけじゃなかった。記憶の大半が忘却の渦に飲まれたこの頭でも、それが客観的に見て一番妥当な推論であると思う。かつての私だったらどんな重病であっても、あれほどの点数を取ることはできなかった。考えるまでもなく分かってしまっていたのだから。

「おいっ、今言った奴――」
「待って」
「……けど!」

 義之と渉はそれなりの悪評で通っている。けれど妥当性が相手の方が高いこの状況では、それは反発の種にしかならない。今の私には反論する手だてすらなく、義之たちを盾として嫌疑の目を遠ざけるしかなかった。

 場違いだ、ということは分かっている。今日は二月二十一日、月曜日。試験休みという期間のまっただ中であり、また赤点を取った生徒の補講日程期間でもある。今までの私は赤点というものをある種の羨望で見ていたけれど、それを他の人たちが理解してくれるわけもない。彼らは私のことを、高嶺の花が実は野菊だったかのような幾ばくかの失望と、それを上回る多大な嘲笑で迎え入れてくれていた。

「杏ちゃん、いくらなんでも少しは言い返さないとダメだよぅ。認めることになっちゃうよ?」
「……分かってる。けど、いいのよ。もうあんな点数は取れないんだから」
「よくないよぅ〜」

 幸か不幸か、エスカレータ式の卒業直前の期末考査は入学試験も兼ねており、赤点のラインが普段よりも高めだった。茜や義之が補習を受けているのはこのためでもある。足りない点数は私なんかよりずっと少ないのだから補習に出る必要はそれほどないはずなのだけれど、それを指摘するのは流石に躊躇われた。

 机の中の教科書を鞄へと放り込む。それに気付いた茜に指摘される前に、椅子から立ち上がった。

「……帰るわ。義之、先生には何か言っておいて。そういうの得意でしょ?」
「あ、えっと……ああ、分かった。何か言っておく。
 それで、その……」
「ありがと。じゃあね」

 茜と渉の制止の声よりも、義之の沈黙に後ろ髪を引かれたけれど、みんなのその気遣いが息苦しかった。自覚して、なおかつ解決策がないのだから始末が悪い。

 なぜなら。

 雪村杏は、一度死んでいる。




二月二十二日(火) 曇り

 我ながら女々しいな、とどこか冷たく思う。
 今日は布団の中で一日過ごそうと思った。学校なんて、行く気はなかった。だから今こうして、自分が図書室に居るのはなんだか妙に感じられる。

 学校を欠席して、一日中布団の中に居れば、義之は絶対に見舞いに来てくれる。それを分かった上で、昨日は床に着いたのだ。女々しいなんて分かっていた。打算的だなんて、言われるまでもない。返事をしなかった携帯の着信履歴を見ながら、恥と期待とないまぜにして眠った。
 恥が勝ったのは朝食の用意をしていたとき。仮病を使ったときの、何気ない「普段通りの」行動。誰に見られているわけでもないのに、背信の罪悪に駆られた。これでは何のために芳乃家を離れたのか分からない。心配されたいのなら、芳乃家に留まれば良かったのだ。事実、義之は言ってくれた。二月十九日、試験が返却された後の初めての週末のこと。


       ○  ○  ○


 確か、朝ご飯を食べた後、義之の部屋でのんびりしていたときだったと思う。

「杏、今日はどっか行くか? 週明けからは色々忙しいし、遊んでおくなら今しか――」
「ごめん、義之。私そろそろ向こうに戻ろうと思うの。荷物、この二日で運んでおこうと思って」

 話の切り出し時だと思った私は、飲んでいたウーロン茶の波紋を見つめながら義之の言葉を遮った。このときの義之の表情を、私は見ていない。驚いたか、あるいは悲しんでくれたか。俯いていたことを、義之の表情を思い出せないことで知った。

「ま、まあ、確かに俺の看病のために居てくれたし、もうよくなったけど……それはタテマエだったろ?
 由夢が何か言ったとかなら、謝る。杏さえ良ければ、その、居て欲しいんだけど」
「ううん、義之たちは何も悪くない。全部私の都合。勝手に押しかけて、勝手に出て行くなんて勝手だと思うけど……許して欲しい。それと、信じて欲しい。私のことが本当に好きなら。私は、義之のこと、本当に好きだから」

 嘘はついていない。でも、どこかに強烈な自己嫌悪。好きなら信じろなんて、ひどい話だ。義之はそれを否定するはずがないし、それを私も分かってる。だから、自己嫌悪。
 結局義之は、恨み言も泣き言も、励ましも感謝も、何も言わずに準備を手伝ってくれた。このときの私の心境は何とも言いがたい。どこかで義之に「行かないでくれ」と縋って欲しくて、でもどこかで「そんなことで幻滅したくない」と思ってた。だからどこかで不満で、どこかで満足。何がしたいのか、この時点で分からなくなっていたのかもしれない。

 翌二十日の去り際。私はこう言った。

「義之は何も悪くない。けど、一人で考えたいことがあるの。だから、私の家にはしばらく来ないで。
 ううん、学校には行くから。変わったのは私。義之は何も、悪くない」

 このときの義之の顔は覚えてる。なんて気丈で、なんて素直な。
 何かを忘れることができるようになったこの頭。それでも、やっぱり忘れたいことは忘れられないみたい。


       ○  ○  ○


「――って、違う。私はそんなことをしに来たんじゃない」

 義之のことを思うなら、こんな、図書室なんかに来るんじゃなくて、今すぐ全部謝って、家財一切を持って芳乃家に行くべきなのだ。それをしないのはなぜか。
 それを、今から証明する。

 手に取った本はかつて読んだことがあるはずの、この図書室には数少ない「持出禁止図書」。ルネサンス紀にフランスで書かれた哲学書の邦訳版。
 私にとって「何度も読んだ」という修飾語は不必要だった。一度で完全。読み直す、という行為は思い出すという行為に等しくて、その度に理解が深まることは確かだけれど、それを「読む」という行為に属すべきかは分からない。

 この哲学書の成立年代は1600年代前期。理性の構築と科学の浸透の時代、まず民衆の理解こそが不可欠と考えた著者は、より平易な言語で理性とは何かを教え、科学の基礎を教えようとしてこの本を書いた。現代科学の祖と呼ばれるのはこのためで、特に彼自身、二次元座標や演繹法といった類で今でも名を残し、かの有名な「我思う、故に我あり」という言葉は――

「……っ」

 詰まる度に吐き気がする。自分の弱さに涙すら出ない。昔あれほど破棄することを望んだ能力を、今になって切望する。あまりに弱い。矛盾が過ぎる。あれは異常だったのだ。
 では異常を破棄するのが正常とすれば、今は正常なのか? それは違う。

「私の周りには、それを『正常』とみなす環境だけが残った」

 冷静に見れば異常だった雪村流暗記術。それを失うこと、つまり私が「普通の」記憶力に戻ることは、正常な行為なはず。なのに、社会はそれを許さない。私はあの「雪村流暗記術」という突飛な能力があってこその私であって、それが無い私は「異常」なのだ。誰もが私のことを病気か、カンニングか、などと疑う。それは今の私が異常だから。「正常な」雪村杏に戻れと、「異常な」能力を取り戻せと。

「そんなの、無理に決まってるじゃない……」

 全てが読み飽きた本に思えたこの図書室も、今では未知のものばかり。遙か昔の私はそれを「光り輝くもの」として、いつまでも覚えておきたい代物として見たけれど、今はそうとも思えない。
 雪は、二度と積もらない。

「助けて……」

 義之、とは言えなかった。



二月二十三日(水) 曇り

 おめかしをするかどうか、数刻迷った。余り気合い入れていくのも義之に悪い。そう思えるほどには、私は義之のことを想っていたのだと安堵した。
 結局学校に行く程度に身だしなみを整えて、いつもの私服に着替えて待ち合わせの場所へ行った。時刻は昼過ぎ。この時間を指定したのは一緒に昼食を取るのが面倒だったからで、他意はない。私がその場所――桜公園に着くと、ほどなくして待ち合わせていた相手が現れた。

「悪い悪い、ちょっと抜けてくるのに手間取った」
「ええ、随分待ったわ」
「かーっ、そこはせめて『今来たところよ』とか言えねーのかよ!」
「そういうのは小……月島に頼みなさい」

 ふおおおお、と猛っている渉は私服だ。持っているのが学生鞄であることから考えると、やはりというか何というか、女性にはそれなりに気を遣ってくれるタイプらしい。

「それで、どういうつもりだよ。杏が学校を休むことには何を言うつもりもないけどよ」
「あら、分からないの? 学校を軽んじるほど、渉のことが必要なのよ。だとしたら、理由なんて見当つくでしょ」
「え、ええええ!? い、いや、その、だなあ、ほら、義之のこともあるしさ、だだだだいたい俺は昔っから月島一筋で義之が杏とくっついたらラッキーなんて思ったり思わなかったりそんな感じで」

 さらっと本音が混じっている様子だけれど、ここは学校を早引きしてくれたお礼として聞き流してあげようと思う。幸い、今は試験休みの期間。昼間っから公園で騒いでいても、何の違和感もありはしない。

 曇天の空がやや翳る。雨は降らないだろうが、降ったら困る。主に渉が。多少の懐古を覚えた優越を振り払って、用事を告げた。

「荷物持ちよ」
「でででででも杏が本気だって言うなら――へ?」
「だから、に・も・つ・も・ち。本を買いたいから、持って頂戴」
「あ、なーんだ、荷物持ちかー。俺はてっきり……」
「てっきり、何?」
「いいいいいいいいやいやいや、何でもないぞ、何でもない。
 っていうか、荷物持ちかよ!」

 そのツッコミの遅さが何ともいえない。渉を選んだ理由はこれに尽きる。

 バカだから。


       ○  ○  ○


「はああ、やっと終わった……。
 なあ、これ本気か?」
「なにがよ?」
「いや、なんだ、本ってそんなに早く読めるもんなのかと思って。
 これ全部漫画だったとしても、俺には読み切る自信がないね」

 玄関先に積まれた本のタワー。しかも門松がごとく、何本も連なって一大臨海都市を築いている。渉が二桁を超える回数、古本屋とここを往復した成果だ。

「……私には読めるの。一度読んだものだもの、読めないはずがない。
 これ全部、居間まで運んでくれる? 外で読むわけにはいかないし」
「うへ、まだ運ぶのかよ。
 っていうかこの家、居間までかなり距離あった気がするんですが!」
「だから言ってるんじゃないの。近かったら自分で運ぶわ」

 渉は恨み言と泣き言をぶつくさ言いながら、結局は運搬を開始する。お礼に今度小恋とのデートのセッティングでもしてあげよう。それがいつになるかは、まだ私にも分からない。

「うひゃっ、マジか!?」

 玄関の中から渉の叫び声が聞こえる。読心術なんて使うまでもなく、その驚嘆は玄関の中に積まれている本の山だろうことは容易に想像がつく。渉に頼む以外にも、本を様々なルートで回収した。売りさばかずに残っていたもの、図書室で貸し出し可能になっていたもの、通販で取り寄せたものなどなど。部屋では私のプリンタが今も自動で黙々とネット上の文書を印刷しているだろう。

「どこに置けばいいんだー?」
「床の板が見える場所ならどこでもいいわ。重ねると分からないから、一番上の本の表紙くらいは見えるようにしておいて」
「はいはいっと。しかしこりゃ……」

 渉は印象をそのまま口にする。

「『異常』だな」

 その言葉は救いでもあり、呪いでもあった。


       ○  ○  ○


「はあ……」

 本を暗記することは、無味乾燥なものではない。暗記した中でも、好き嫌いははっきりと区別していた。つまらない本も暗記してしまう、という条件つきで。
 だからこうして本の山から一つを手に取れば、それが好みだったかそうでなかったか、くらいの漠然とした判断はできるのだ。全てを暗記して、全てを無味乾燥なものと捉えるまでは、私にだって印象に残る本はたくさんあった。だから、手に取った本がかつて自分が好きだった本だったりすると、えも言わぬ感情が押し寄せる。期待してしまうのだ。
 そして、文章に目を通すと、やっぱり知らない日本語がつらつらと続いている。

 予想外だった。覚えているとは思っていない。覚えられるとも思えない。けど、何かしら、そう、何かしらは発見できると考えたのだ。
 けれど結果は無惨だった。予想以上に、無惨だった。私が今やっているのは「覚える」作業でも、「思い出す」作業でもありはしない。「否定する」作業になってしまったのだ。今の私を。かつて雪村杏というものを構成していたこれらの本が、今、私は「雪村杏」ではない、と批難する。

 泣きそうだった。私は変わったのだ。忘却を覚えた。親戚の顔も忘れてしまえた。「正しい道」に戻った、はずだった。
 けれど雪村流暗記術は、それを捨て去った後でも私を縛り付ける。雪村流暗記術は確かにありえない力だったけれど、それでも確かに私の中にそれは有り、またそれを保有した私はそこに在ったのだ。その過去こそが、今の私の切望の対象であり、今の私を邪魔だてするものとなった。

「……っ、これも、ダメ」

 投げた。かつてはお気に入りとしていた本も、その他大勢の本の一つに紛れる。内容自体は確かに面白い。けれど、過去の残滓が悔しさと悲しさを先に出す。読めたものではない。投げ出すしかなかった。
 時刻は午後八時。渉が帰ってからずっと本の相手をしていたが、何かを得るどころか、今の私をズタズタにするものしか、これらの本は持っていなかった。渉もとうに帰った頃だろう。礼の電話をかけようとして携帯電話を手にしたそのとき、表門の呼び鈴が鳴り響いた。

 困惑した。

 義之だったらどうしよう。
 義之だったらどんな顔をして会うべきか。
 義之だったらなんといって弁解しよう。
 義之だったら本の山を見てなんと思うだろう。
 義之だったら……

 呆けている間にも、呼び鈴はなおも鳴る。まるで私が留守ではないことを知っているかのような。昨日は夜遅くまで図書室に居たせいで、茜の来訪には気付かなかった。今日渉に聞かされて始めて知ったくらいだ。着信履歴の時間と照合すればすぐに理解できた。

「っと、とにかく出なくちゃ。勧誘かもしれないし」

 そうであったらどれだけよかったろう。インターホン越しに応答する。返ってきた声は、予想外の人物だった。

「あ、えっと、朝倉音姫です。雪村さん、ちょっとお話したいことがあって……」
「音姫先輩……? すみません、今日のところは――」
「いえ、弟くんのことじゃないんです。
 雪村流暗記術のことでお話ししておこうかと」


       ○  ○  ○


「どうぞ、召し上がれ」

 あのカレーの日以来使われることもなかったダイニングから、音姫先輩がお盆を持って出てきた。卓に出されたのは見紛うことなきハンバーグ。もちろん出来合いのものなどではない。インターホンの前に立っていた音姫先輩は、両手にビニール袋を下げていたのだ。私が既に夕食を終えていたらどうするつもりだったのだろう。

「さて、と。それじゃ、いただきまーす」
「いただきます」

 湯気を出すハンバーグを前に、パキ、と割り箸が小気味の良い音を立てて割れた。割りやすくなる力のかけ方、なんて豆知識をどこかで拾った覚えはあったけれど、今となっては思い出せない。

「このハンバーグね、とっても美味しいんだよー。
 前にね、弟くんから教えてもらったの」

 自画自賛とも取れることを良いながら、ほくほく顔でハンバーグを食べている。ハンバーグを箸で区切ると、中にはキノコが入っていた。わざわざ「教えてもらった」というだけはある斬新さ。音姫先輩のその言葉が自慢や嫌味に聞こえないのは、音姫先輩や義之の人徳の為せる技だろう。私が冷静なせいではないと思う。

「あれ? 雪村さんの家って、テレビないの?」
「ええ、私、テレビは見ませんから。
 何か見たい番組があるなら持ってきましょうか。別の部屋に、あるにはありますから」
「あ、そういうわけじゃないんだけどね。ただ食卓にテレビがないのって、珍しい気がしたから。
 それよりどう、味のほうは?」
「美味しいですよ。料理上手とは聞いていましたけど、ここまでとは」

 聞いていた、というより、聞かされた、が正しい。主として渉から。
 とりあえず今はどうでもいい。

「それで、『弟くん』のことですか?」
「へ? 弟くんがどうかしたの?」
「どうかって……私と『弟くん』のことで来たんでしょう?」

 私が言うと、音姫先輩は一度、明確に首を傾げてから

「私が来たのは、学校を無断欠席してる赤点者の面倒を見るためだよ。生徒会長として」

 大嘘を吐いた。



二月二十四日(木) 雨

 補習なんてついぞ受けたことがなかったから知らなかったけれど――あるいは忘れてしまっただけかもしれないけれど――、どうやら補講日程の最終日に試験があるらしい。いわゆる「追試」と呼ばれるそれは赤点者のセーフティネットのようなもので、これで特定の点数以上を取れば赤点を免れるという。私は最終試験は全てが赤点だったので、追試で合格しなければ卒業が危うい。そんなことを昨日、音姫先輩は説明してくれた。

「本もいいけど、まずは目先の勉強をしないと。欠席で先生の心証が悪くなるのはどうしようもないんだから、追試の点数で稼がないとね」

 そんなことを私は起き抜けに言われた。というか、音姫先輩に起こされたのだ。夕食のあと、音姫先輩は一度帰宅してまた戻ってきた。家事の一切は引き受けるからここに住まわせて――確か、そんなようなことを言われたと記憶している。

 意図が分からない。人の行動の意図は、どれだけ小説を暗記していた過去の私でも、確実に分かるものではなかった。今回は輪をかけて分からない。理由を聞いても

「じゃあ学校来るの?」

 と、まるで弟をたしなめるような口調で諭されてしまう。そうして言葉に詰まるうちに、いつの間にか承諾したことになってしまっていた。
 リビングで食後のお茶を飲みながら、対面に座る音姫先輩に詳細を聞く。

「……それで、追試はいつなんですか?」
「来週の金曜日。それまでは私がみっちり教えてあげるから、覚悟してね、雪村さん」

 明るい表情で微笑みかけられる。直視できず、目を逸らした。懸念事項はそんなに多くない。
 そもそも、今の私が勉強できないのは様々な理由が重なったからで、先輩から教えてもらうというのはそのうちの一つを解決するに過ぎない。音姫先輩も何か色々考えているとは思うのだが――でなければ、わざわざ泊まり込みまでしないだろうし――、何をしようとしているのかはよく分からない。

「『弟くん』はいいんですか? 私よりは良かったけど、放っておいていい点数だとは思わないんですけど」
「大丈夫、弟くんたちの面倒はまゆきに頼んだから。杉並くんが悪ささえしなければ、きっと大丈夫だと思うよ」

 その付帯条件がかなりの確率で引き起こされると思うのだけど、それは言うまい。卒パで何かを企んでいることは疑い得ず、また生徒会側がそれを把握してないはずもない。

「ああ、そっか。だから高坂先輩なんですね」

 義之たちの面倒を見ることにかこつけて、義之・渉の監視と杉並の捕獲を狙っているに違いない。勿論、面倒見の良い人だからちゃんと責務も果たすだろうが。

「そ。それで私が雪村さんの勉強を見に来たの」
「それでも私、勉強は……」
「だめだよ、そんなこと言ったら。誰だって好きで勉強をしているわけじゃないんだから。
 弟くんたちだって頑張ってるんだから、雪村さんだって――」
「――っ、何も知らないでよくそんな!」

 義之たちだって頑張ってる?
 冗談じゃない。そんな勉強じゃ済まされない。頑張れば挽回できるなんてどうかしてる。私は、私は――

「へ? 雪村さん……?」

 音姫先輩の声で、机を叩いて立ち上がっていたことに気付いた。気遣うようなその声が、尚更頭をぐちゃぐちゃにする。
 分からない。衝動的に身体が跳ねた。私は何にそんなに怒ったのか。何がそんなに、泣かせるのか。

「……っ、すみません、先輩」
「いや、私のことはいいんだけど……どうしたの?」

 驚きの表情が殊更癪に障る。本当は分かっているくせにと罵ってしまいたくなる。
 今の私には分かるものと分からないものの区別がつかない。音姫先輩が何をどこまで知っているのか、今の私では推測することすら許されない。だから腹立たしいのだ。先輩に対しても、自身に対しても。

「いっそ全ての記憶を失って、別の場所に行った方が幸せだったんです、私は」

 無関心な顔を装えない。涙はなぜか止まらない。暴れたくなる身体を押さえるので精一杯。動悸が速い。眼前のもの全てを蹴り飛ばしたくなる。

「雪村さん、そんなことは……」
「もう、何もしたくない。放っておいてください。いつか――私が、私を忘れるまで」

 私は本で一杯になったリビングを出た。



二月二十五日(金) 雨

 夢を見た。人形劇、スキー旅行、看病、誕生日。全て義之との夢だった。
 明晰夢。私は泣いた。夢は選べないにしても、どうしてこんなものを今の私に見せるのか。過去の私が嗤っている。「今のお前にはできないだろう」と、私の無知を罵倒する。

 ……結局この日、私は起き上がることすらできなかった。



二月二十六日(土) 曇り

 自殺を図るつもりはないけれど、自殺を否定する気もなかった。死ぬことは怖くもなくて、でもわざわざ死ぬのも億劫だった。生きている限り、惰性に身を委ねれば生き続ける。私はいままさに、それだった。

 一日十回は鳴る携帯が、また鳴った。毎日寝る前に、女々しくも履歴だけ確認する。茜と義之からは毎日かかってきている。普段は聞こえないように布団の中に仕舞うのだけれど、今は私がまだ布団の中。携帯が鳴る度にびくりとする。

 死ぬ前に一度くらい、と思ったかどうかは分からないけれど、携帯に出てみようと思った。充電していないから電池も切れそう。理由はなんでもよかった。縋りたかったのかもしれない。

「もしもし」

 喉はからからだった。一昨日から何も食べていない。この声なら仮病でも誤魔化せるかななんて、変なことを思った。
 相手は義之か、茜か。あるいは小恋あたりか。そう見当をつけたけれど、返ってきた声は茜以上に騒々しく、小恋以上のハスキーボイスだった。

「もしもし、杏先輩! 桜内が杏先輩を泣かせたと聞いたが、本当か!?」

 思わず首を折りそうになった。落胆半分、安堵半分。いくら何でもあまりに直球すぎる物言い。昔の私ならともかく、今は多少不快だ。それでも久しぶりな声に温かい気持ちになれたのもまた事実。
 おそらく赤点ではないだろうこの電話の相手に、聞いてみるのもいいかもしれない。

「丁度良いわ。あなたに相談したいことがあるの」
「ん? 杏先輩が相談とは珍しいな。美夏でいいなら相談に乗るぞ!」
「ええ、珍しいけれど、あなたにしか相談できないわ、天枷さん」
「? あまか――」
「記憶障害についてどう思う?」
「って、え? え? きおくしょうがい? ちょ、ちょっと待ってくれ。きおく……記憶障害……」

 美夏が何をしているのか、手に取るように分かる。携帯を壁に叩き付けたくなった。

「ん、分かったぞ。記憶障害――記銘、保持、想起といった記憶の一連の作業のうち、何らかの理由でどこかに異常が見られ、正常な働きをしなくなった状態のこと。
 杏先輩のいう記憶障害とは、健忘のことか? それとも記銘障害のひとつ、学習障害のことか?」
「……記憶喪失のことよ」
「きおくそうしつ……全生活史健忘のことか」

 やっぱりどうかしている。人と話すだけでこんなにもボロが出る。記憶障害なんて曖昧な言葉を使い、健忘という言葉の意味すら忘れて。だから私は、戻れない。

「んー、そうだな。現在の医療ではそれなりの確率で記憶が戻るらしいから、大丈夫だと思うぞ」
「いいえ、戻らないという前提で考えて。
 そうね……あなた、自己を保ったまま記憶を消去できるかしら?」
「どういうことだ?」
「いいから答えて。できる? できない?」
「んー……美夏の記憶領域と行動プログラムの優先順位は相互連携しているから、記憶だけというわけにはいかんと思うぞ。
 記憶を消去すれば性格――行動ルーチンの判断が変わるはずだ」
「そうでしょうね。50年近く前に何があったか私には分からないけれど、おそらくその記憶を消去すると、あなたの『人間嫌い』という性格も消失する可能性が高い。
 私はいま、その状態なのよ」

 美夏には私が何を言いたいのか分かっただろうか。一般の人が何となく感じている思考の過程も、美夏はきちんとトレースできる。だから断絶を想像することもできるし、その障害についても分かるはずだった。

 珍しく沈黙が降りる。雑踏の音。美夏はこの寒さの中、外出先から掛けているらしい。あるいは私の家に来る途中だったのかもしれない。布団にくるまっている為に私の身体は温かいが、美夏の様子を想像すると少し寒気がした。

「……じゃあ杏先輩は、もし美夏の記憶データが抹消されたら、美夏を美夏として見てくれないのか? 美夏自身がそれを自覚していたとしても?」
「え? それは……」
「もしそうなら……美夏は悲しいぞ。美夏は美夏だ。『天枷さん』ではない」

 頭が真っ白になった。美夏は私の言いたいことを理解しすぎている。
 分かっている。それが美夏の本心で、私を傷つける気はないことを。その素直さが今は本当に憎い。どうして配慮をできないのかと、怒鳴りつけてしまいたくなる。

「……」

 答えられないでいると、ゴォンと玄関の呼び鈴が鳴った。ぱたぱたと音姫先輩が小走りする音が聞こえる。動揺が動揺を上書きした。

「ごめんなさいね、美夏。お客さんが来たから切るわ」
「う……うむ、分かった」

 歯切れの悪い返答を吹っ切るように、携帯を閉じた。


       ○  ○  ○


「杏」

 障子を開けて部屋に入ってきたのは、音姫先輩だけではなかった。黒い詰め襟を着て、薄い学生鞄を持った同級生。視線を顔へと向ける前に、すぐに布団をかぶった。顔を見れば、どうなるか自分でも分からない。

 その足は板の間である廊下から、畳の上へ。音だけで動作まで分かってしまう。私が返事しないで居ると、もう一度呼びかけてきた。

「杏」
「ウチには来ないでって、言ったでしょ。帰って」
「そういうわけにも……」
「帰って、桜内くん」

 自分で言って、泣きそうになった。せめてこうして会わなければ、話をしなければ、そこに目を向けずにすんだのに。涙は出ても、布団に顔を押しつけているせいで自分ですらそれと分からない。目を開けているのかどうかもあやしい。

「雪村さん、弟くんはこれが二回――」
「待ってくれ、音姉」

 布団を剥ごうとした音姫先輩を義之が制止する。私は、もしかしたら強引にでも剥いで欲しかったのかもしれない。けれどそうはならず、私は閉じたまま、その言葉を聞く。

「忘れてるかもしれないけど、明日は日曜だ。
 明日の1時に、高台で待ってるよ、――」

 義之は一度明確に躊躇ってから、

「――雪村杏」

 私は返事をしなかった。



二月二十七日(日) 雪

 気分は最悪だった。
 まず、よく眠れなかった。自分を誤魔化すだけの論理力も今はない。波のようにうねる感情は、私の制御の外だった。
 加えて、もう春が近いというのに雪が降った。他人がどう思おうと、私にとって雪は絶望と嫌悪の象徴だった。魔法みたいなあの暗記力がかつて持っていた負の側面、そしてその負の遺産すら手に入れることができない現在の絶望感。降り積もる雪は、見たくなかった。

「どうかな、調子は。おかゆ作ったけど、食べる?」
「音姫先輩が食べてくれて構いません」

 時刻は昼過ぎ。朝から雪は降り続けている。電気をつけていないせいで、部屋は暗い。その暗い部屋、床に散乱する本を器用に避けながら音姫先輩はおかゆを持ってきた。

「だめだよ、ここのところずっと食べてないんだから。栄養失調で倒れちゃうよ」
「お腹空いてませんから」
「嘘つかないの! はい、あーん」
「おと――むごっ」

 反論しようと口を開いた途端、レンゲが口内に滑りこんだ。気付いたときには遅く、いつの間にか咀嚼し嚥下していた。身体は食料を求めていたんだろうか。
 音姫先輩はにこにこしながら、レンゲでおかゆを掬って私の口へ運んでいく。つられて口をあける。二杯、三杯……。

「ごめんね、雪村さん。私たちのせいで」
「……」

 懺悔する声音。打算のない、純粋に許しを請う弱い態度。私が黙っていると、音姫先輩は質問をかぶせてきた。

「雪村さん。雪村流暗記術のこと……憎んでる?」
「何でそんなことを聞くんですか?」
「ダメ……かな?
 私にはそれを聞く権利すら無いのかな……?」

 自省の念に駆られるように、先輩は目を伏せた。

 聞く権利がない人なんて、どこにも居ない。むしろ私は聞いて欲しいとすら思っているんだ、きっと。
 だから、私は思っていることをそのまま口にした。昔みたいに、頭の中で吟味することなんてできないから。

「憎んでいるかと聞かれれば、憎む気持ちは確かにあります」

 予想通りだったろう返答に対しても、音姫先輩の表情は目に見えて落ち込んだ。

「雪村さん、私は――」
「でも」

 そう、例え今は憎んでいたとしても。

「私は確かにあんな風な力を望んでいた。それは私の弱さから。
 今は忘れてしまったけれど、その力が手に入った六年前、私はたとえ短い一時であっても、その力が手に入ったことを嬉しく思った」
「雪村さん……」
「神さまだって魔法使いだっていい。もし私の願いを聞き届けて、あの力を与えてくれた誰かが居るとしたら、私はその人に感謝と謝罪をしなくちゃいけない。
 私の願いを聞いてくれてありがとう、と。
 期待に応えられなくてごめんなさい、と」

 異常なまでの能力。その力を憎みつつ、利用していたのも事実だ。私は自分の弱さから目を逸らし、その能力を利用して、その力を憎んだ。完全な自家撞着。だから謝らなくてはならないのだ。私ではあなたの期待に応えられなかった、と。

「……うぇ……ひっく」
「音姫先輩?」
「ぐすっ……ごめ、んね……バカだよね、私……なんで……ひくっ……泣いて……」

 音姫先輩が子供のように泣きじゃくっている。無言で抱き寄せる。彼女が唯一弱さを見せることのできた人は、私がもらってしまったから。泣かせてしまったのは、私が不甲斐なかったから。ならば、これは私の役割だ。

「ごめんなさい、音姫先輩」
「えぐ……っ、うああああぁぁっ……!」


       ○  ○  ○


 携帯が微動だにしないことが、逆に私の不安を煽った。
 時刻はとうに日没を過ぎた。音姫先輩は私の布団で眠っている。私の家に来てからずっと、何か精神的な重荷を背負っていたんだと思う。その人に家事まで押しつけていたのだから、悪いのは私だ。

「それでも私では、『弟くん』の望む私では――」

 どうしようか迷っていると、不意に呼び鈴が鳴った。廊下へ出る。外が暗いのは天候のせいだけではあるまい。暖房のついた部屋から飛び出したおかげで寒さが芯に来る。
 誰が来たのか。もう充分に夜といえる時間帯。用のある人間しか来まい。音姫先輩が寝入ってから私服に着替え終えていた私は、少しだけ前髪を気にしながら玄関の戸を開けた。

 まず見えたのは、睨み付けるような視線。
 パシン、と高く響き渡る音。

「何やってるの! どうしてのこのこ出てこれるの!?」

 頬を叩かれたのだと気付いたのは倒れた床の感触を感じてから。来訪者が小恋であると気付くには、更にしばらくの時間を要した。

「……何か用? 今は誰とも会う気は――」

 言ってから、小恋が未だ興奮状態なことに気がついた。言葉を止めて視線を逸らし、慎重に立ち上がる。

「誰とも? この期に及んで、まだ義之と会う気がないの?」
「どうして知っ――」
「どうしてもなにも、義之の様子があれだけおかしければ誰だって分かるよ!
 茜だって渉くんだって由夢ちゃんだってみんな心配してるのに……どうして杏が平然としてるの!?」
「それは……」

 言い淀んでいると、一歩踏み入った小恋に胸ぐらを掴まれた。ぐいと引き寄せられ、小恋と目線が揃う。

「義之がどれだけ憔悴してるか知らないでしょ! 会っても居ない、電話にすら出ない杏には!
 何考えてるの、杏? 分からない、全然分からないよ……」
「……離して」
「嫌。わたしが納得する説明を聞くまで離さない。わたしは杏がこんなことするとは思ってなかった! そんなことする杏に、義之を諦めるはずなかった!」
「――っ、離しなさい、月島!」

 右手で小恋を突き飛ばす。小恋の力はそんなに強くない。すぐに離れた。

「月、島? 杏……?」
「花咲や板橋、朝倉さんがなんて言おうと、今の私は『杏』ではないの。
 分からない? 分かるでしょう。今のあなたは、私よりもずっと賢いんだもの」
「杏は、杏でしょ。どうしちゃったの、杏……?」

 私は一つ息を吐いて、冷静になるように努めてから口を開いた。

「あなたたちが言う『杏』は、知力抜群の雪村杏でしょ? 毒舌で、どこか達観した態度を示す雪村杏。そういう態度を過去の私が示していたという記憶は、今の私にもある。
 けどね、考えてもみなさい。毒舌も達観も、その異常なまでの知識量に裏打ちされた結果だった。相手より一段上の議論を吹っ掛けて、議論上の優位を確保する。それが毒舌や達観に繋がった」
「何が言いたいの……?」
「今の私はそれができないの。言葉尻を捉えて揚げ足を取ることも、豆知識で会話を引き寄せることも、諧謔的な表現を当意即妙に受け答えすることも、今の私ではできない。
 あなたはそれを『雪村杏』と呼べる? 何をするにも物覚えが悪くて、そのせいで引っ込み思案になったり、自身をダメな子だと思う人間のことを、『雪村杏』と認識できるの?」

 抜群の知識量で会話をリードした自信満々の毒舌娘と、学習障害のせいで自信喪失の引っ込み思案になった娘では、もはや別人だ。
 人は過去からできている。経験からできている。記憶喪失になった人間は、遺伝子配列は一緒でも違う人間になってしまっている。
 人間は、純粋で、素朴で、確実な存在なんかじゃ、断じてない。

「……できるもん」
「嘘をつかないで。あなただって、今の私に『杏がおかしくなった』と違和感を覚えたでしょ。
 それは、杏がおかしくなったんじゃない。私が『杏』でないだけなんだから」
「嘘なんかついてないよ! 杏、忘れたの? 茜は杏があの暗記術を覚える前からの友達だったんでしょ!
 わたしだって杏がもの忘れがひどくなってからもずっと杏は杏だと思ってたし、義之なんか自分のことが忘れられてたのに杏のこと好きだったんだよ!? わたしたちは杏の性格や仕草を杏だと思ってるんじゃない。ましてや辞書のようなものだなんて思ってもみない」
「だからって……」

 辞書のようなものだと思っていなくたって、私を認識するのにそういうように形容される概念を経由しているのは確かなこと。
 茜のことだってそうだ。暗記術の獲得は未来に影響を与えるけど、その喪失は過去への断罪。性質がまったく違う。

 ……けれど、それは暗記術を持たなかった、いつかの雪村杏と他者との接点と考えることができるかもしれない。

「わたしたちは雪村杏っていう友達自体が好きなの。わたしたちだって三年前とは性格も体格も違うじゃない。だからって別人だなんて思わない。付き合い方は変わっても、付き合いが続いていることに変わりないでしょ?
 だから今更何が変わっても、わたしたちにとって杏は杏なんだよ」
「……」
「杏なら分かるでしょ。杏と義之が付き合いだしてから、わたしも杏も変わった。義之が好きだった……ううん、この際だから言うけれど、今だって好き。それでもわたしたちは何も変わらなかったじゃない。
 なのに杏は、どうして今更そんなことを気にしてるの? もっとわたしたちを信じて、もっとわたしたちを頼ってよ。わたしたちが杏をかばうのは、打算でもなんでもないんだから」

 ……やっと理解した。
 いや、もしかしたら私は最初から分かっていたのだ。

 外部の変化に対応するのは容易い。それは例えば、友人がある能力を失ったことに対して、自らの意識を改革すること。
 内部の変化に対応するのは、時間が必要だ。例えば、私がある能力を失って、それを私が受け入れること。

 その違い。私は自分の変化が受け入れられなくて、周りとの関係さえ構築できなくなった。みんなが手を差し伸べてくれていたのに、中心に居る私だけがその手を信用しなかった。何か、全く異質のものに見えたのだ。かつて自分が繋いでいたのと同じ手だというのに。

 かつて、自らが零した言葉を思い出す。

『内面が変わらなくても、関係性が変化すれば、見た目の行動は違って見える』

 私が義之に「杏は変わった」と言われて、返した言葉だ。今回はこの逆。内面が変わってしまったから、見た目の行動はそれを補おうと無理をきたし、関係性は変わっていないにも関わらず変化しているように見えてしまった。期せずして過去の私は、皮肉にもその聡明さゆえに自らの結末を言い当てたのだ。

「杏……?」

 小恋の顔が困惑に染まる。これは「言い過ぎちゃったかな」と後悔しているときの表情だ。これだけ内面と行動が直結していれば、私も違った過程を歩めただろうに。

「私はやっぱり、バカになったわ」
「そ、そんなことは……あわわ、わたしが言ったのはそういうことじゃなくてね、その」
「いいのよ、小恋。あなたが言ったんだから。これからは私が教わる立場になっただけ。付き合いが続くことに変わりはない、でしょ?」
「へ?」

 小恋は私の唐突な言葉を理解できずに暫し呆けたが、独り言のようにぶつぶつ私の言葉を繰り返すと、納得の表情で顔を上げた。

「――うん! これからもよろしくね、杏!」
「ええ、もちろん。それと……」

 居住まいを正して、小恋に対面する。分からないだろうに、つられて小恋も姿勢を正すのがまたおかしく、ひどく懐かしい。緊張するくらいなら、しなければいいのに。

 胸に手をあて、私は問うた。

「ひとつだけ質問、いいかしら?」



二月二十八日(月) 雪

 いたずら小僧のような心境だった。いたずらの成功と、いたずらによる罪悪を同時に感じている。有る意味では自己矛盾。それでもいい。自己の矛盾には、もう慣れた。

 吐く息が白い。降り積もる雪。空、黒と白のコントラストは、綺麗でもあり怖くもあった。ひらりはらりと桜の花のように舞う雪は、さて祝福か慰めか。

 街の外れにある高台は、時間と相まって通行人は皆無だった。枯れた桜たちは傍観者。冷たい空気は雪を溶かすことを許さないが、それでも私は不快ではなかった。
 連なる桜の木、私を誘うかのような一本坂。その坂を上がり終えて、一歩踏み出す。

 みし、と足下の雪が鳴った。

「ずいぶんな遅刻じゃないか。廊下でバケツ持ちくらいじゃ済まないぞ」

 手すりに背をもたれかけている、見覚えのある青年。肩と頭にはごまんと雪が積もっている。溶けずにしんしんと堆積する雪。逃れられない呪縛だったそれを、彼はいとも簡単に振り払った。

「約束は1時でしょ? 5分前についたんだから、いいじゃない」

 彼は一瞬驚いた顔を見せて、懐から端末を取り出した。ついに繋がることのなかった携帯電話。時間を確認して、爽やかに笑った。

「そうだな、1週間待ったんだ。11時間と55分なんて、あってないようなもんだよな」

 嫌味の欠片も感じられないその言葉。おそらくは本心なのだろう。私の周りには、私の気持ちも考えずに本心を述べる人間が多くて困ってしまう。これでは、謝らないわけにはいかないではないか。

「悪かったわ。踏ん切りがつかなかったの」
「そうか。らしくないじゃないか」
「ええ、本当、らしくないわね」

 そうしてお互い、笑った。互いの『らしくなさ』に。

「その分だと、大丈夫そうだな?」
「ええ、おかげさまで。でも重要なことが残っているの。これを聞くまでは、安心できない」

 心拍が跳ねるのを自覚する。手すりに近寄って、雪を払い、飛び乗った。「あの時」と同じ体勢。時間も同じくらいか。

 胸に手を当て、私は問うた。

「ひとつだけ質問、いいかしら?」
「……どうぞ」

 肺に入った冷たい空気は、熱い蒸気になって吐き出される。彼は私に対面する位置にまで移動した。あのときの告白と同じくらいドキドキする。けれど、あのときみたく回りくどい表現を、今の私はできない。

 だから、聞きたいことをそのまま聞いた。

「この『雪村杏』を、好きでいてくれますか?」

 言った。私を殺すことができる選択肢を含む質問。どこかで信頼し、どこかで不安な。けれど彼は、その不安を当然の如く振り払う。

「もちろんだ、杏。俺は雪村なんて、呼ばないからな」

 彼がいつものように笑う。
 全身が熱くなった。安堵じゃない、安堵以上の何か。言いしれぬ歓喜に身体が跳ねようとしたとき、その動きを彼が手で制止した。

「待て待て。こっちの質問がまだだ」
「え……?」

 呆けたが、確かに彼が質問をかけるのは道理だ。どんな質問が来るのか身を強ばらせる。何か、抉るような質問をされるくらいの義務が、今の私にはある。
 けれど私の心構えとは別に、彼は言い淀んだ。恥ずかしそうに。昔の私なら、彼の言葉を推測できただろうか。

「いまのお前――杏は、俺のことを、その、なんだ」

 一瞬首を傾げてしまったが、ああそうかと思い当たる。彼の狙いを悟って嬉しくなった。
 ここで彼に言わせてはいけない。そう思った途端、手すりから着地し、その身体に飛び込んでいた。万感の思いを込めて。

「――好きよ、義之っ」
「ちょっ、杏、うわっ!」

 義之が私ごと背後から雪へ倒れ込む。私は笑った。下になっている義之も、笑い返してくれた。
 それだけでいい。心が空洞のようになってしまってからは、久しく感じられなかった義之自身の温かみ。その包容力のある抱擁に身を委ねて、涙した。





三月某日 快晴

 追試の手応えがいくらあったとしても、結果を見るまでは安心できないものだ。今まではそんなことを感じたことがなかったから、この一週間余りはドキドキしっぱなしだった。折角試験が終わって和解もできたのに、思い切り遊べなかった。その辺りでは義之自身も不満を感じていたに違いない。……まあ、義之自身も一応追試を受けなければならない成績だったわけだけれど。

「さて、それじゃあいよいよ公開といきましょうか」

 追試の結果が返却された、その日の放課後。義之の机にみんなで集まっていた。義之、茜、渉、小恋、音姫先輩、杉並――

「って、なんであなたたちが居るの?」
「ほう、居ちゃ悪いというのか、雪村?」
「そうだよー、杏が心配で見に来たんだからー」
「あ、あははは、ほらほら、弟くんたちも早く見せてよ」

 気付いているのか居ないのか、音姫先輩と杉並という異色の組のせいで、教室中の注目を集めている。ちょっと恥ずかしい。

「う〜、私ぜんぜん自信ないよぅ。杏ちゃんは?」
「茜より良い……と言いたいけれど、正直どうだか。期末は渉とどっこいだったんだから」
「さて、それじゃギャラリーも居ることだし、いっせーので行くぞ。
 いっせーの……せっ!」

 義之のかけ声でそれぞれの答案を机の上に晒す。ほとんどの視線が私の答案に集まったのは、まあ、予想通りだった。しばしの時間、空気が停滞する。

「……ふむ」

 一番最初に声をあげたのは杉並だった。流石に回転が速い。今はちょっと、恨めしいけれど。

「これって……」
「だよね?」

 小恋と音姫先輩が示し合わせるように頷く。その後に義之、茜、渉と続いた。流し見た限り、点数と同じような順番なのは因果か皮肉か。

「……良かったな、杏」
「ええ、ありがとう、義之」

 頷き合う。それを見てか、みんなも笑った。

「いやー、腐っても杏だな、やっぱ。よくやった!」
「腐ってもなんて、渉くん失礼だよ〜」
「でも良かったよ、本当に」
「頑張ったもんね、雪村さん」

 その祝詞に、思わずうるっと来た。『頑張ったから』。この言葉が、これほど嬉しいものだとは思わなかった。
 だから、杉並が何かを大声で言ったのが、聞こえなかったのだ。寸刻の後。

 ワァァァァァァァッ……!

 教室中から声が上がった。重なって響く拍手の音。何が起こったのかと思いきょろきょろ見渡すと、義之が笑い、みんなも笑った。まるでコントの登場人物にでもなったかのよう。

「雪村さんの努力は、みんな見てたんだよ」

 音姫先輩の言葉で、ようやく何なのか飲み込めた。泣き出すより早く、あまり知らない男子生徒が歩み寄ってきた。

「……?」
「雪村……すまん。カンニングなんて言って悪かった」
「え――あ」

 張り詰めていたものが、一気に途切れた。止め処なく流れる涙、みっともなく泣いてしまった。音姫先輩が肩に手をかけて、抱き寄せてくれる。その胸に縋り付いた。

「許してあげるよね、雪村さん?」

 肯定の返答は嗚咽になってしまったけれど、ちゃんと伝わったみたい。音姫先輩とその男子生徒は一言二言話を交わして、謝辞を告げて男子生徒はその場を離れたようだった。その様子を見て教室がまた沸いたみたいだったけれど、私にはよく分からない。分かったのは、一層深く音姫先輩に抱き留めてもらったことだけ。とても安心できたから。

「あーあ、音姫先輩に美味しい役どころ取られてやんの」
「な、べ、別にそんなこと思ってなんか……」
「はいはい強がらない強がらない。ほら、杏、義之だよー」

 小恋の声に従うように、音姫先輩の腕が私の肩を掴んで、ゆっくりと反転させた。濡れた視界でも分かる、照れた表情の義之。

「義之……っ!」

 駆け寄って、飛びついた。今度は倒れずしっかりと受け止めてくれた。回された腕が温かくて、安心できて、また泣いてしまったけれど、これだけは言わなくちゃいけない。

 今までありがとう。
 これからもよろしくね、と。

++++++++++


Short Story -D.C.U
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