To Myμ

[da capo U short story]

「人間にとってよい機械であること。
 それが、μにとっての絶対的な意味なんです」

 雨の放課後、教室でのこと。
 傘を忘れた俺に対し、わざわざ学園まで迎えに来てくれたμが、いつもの口調のままそう口にしたところまでははっきりと聞き取れた。
 μにとっては地球に重力があるくらいに自明なことだったのだろう。息をするように吐かれた言葉。だからその言動に特段の感情が込められていたようには思えなかったし、それどころかむしろ誇っていたようにさえ見えた。
 謙遜でも自虐でもない。疑問も不満もない。単なる事実の告白。顔色一つ変えずに告げられたそんな言葉はしかし、バンッ、という雷でも落ちたかのような強い音に遮られた。
「――――……帰るわ」
 眼鏡の奥、普段からきつい目元が更に一層つり上げて、ロボットに縁深いそのクラスメイトが椅子から立ち上がっていた。突然のことに集まる視線。しかし彼女は一向に意に介さない。机に叩きつけていた両手ですぐさま鞄を引っ掴み、俺の方をキッと一睨みしたあと、無言のままに踵を返す。
「あ、おいっ! 委員長!」
 硬直解けてすぐさま投げかけた、俺のそんな呼びかけ。それはけれど見えない壁にでも阻まれたかのように、相手を揺さぶることすらなく。
 委員長のいつも以上にぴんと張り詰められた背中が廊下の奥へと消えていくのを、俺たちはただ見送って。
「……」
 μを含めた、教室中に沈黙が下りる。
 唖然としているのは、目の前に居た茜や渉。
 小恋は困ったように視線をぐるぐるさせていて。
 隣では杏が眉を顰めており。
 当のμは、やっぱりいつもの無表情。
 俺はどうすべきか考えながら雨空へと視線を放り投げ。
 ――雨粒が窓を叩く音だけが、しばらくその場を支配していた。



       ○  ○  ○



「まあ、気持ちは分からなくもないんだけれど」
 雨が降りしきる帰り道。不自然な空気を破ってそう切り出したのは、案の定ずっと何かを考えていたような感じの杏だった。
 まだそう遅くない時間だというのに、もう夜かと見紛うほどに暗い空。花びら一つ無い桜並木はどこかおどろおどろしくもあり、傘の裏側で空を視界から消し去りながら俺たちは慣れた調子でその道を歩いていく。
 人数は三人。俺と、μと、杏。俺はμと二人で帰るつもりだったし、他の連中も気を遣ってかそうしてくれそうだったのだが、杏だけがどうしてもとついてきたのだ。言うまでもなく何か考えがあってのことだろうし、俺も必要以上に杏を退けはしなかった。
「分からなくはない、ねえ……」
 杏なりの言葉遊びか。「気持ちは分からなくもない」。その言葉に、主語はなかった。
 杏とは逆側で俺の隣を歩くμは、先ほどから顔色こそ変えないものの、委員長の態度が引っ掛かっているであろうことは明白だった。教室での沈黙、そこから復帰したのも、珍しく彼女が一番最後だったのだから。いつもであれば誰より冷静沈着な彼女が、だ。
 長い髪を従えたその端正な顔は、今もずっと前方を見つめている。盗み見とすら言えない、あからさまな視線をそこにぶつけても、いつものようにこちらを不思議がる素振りを見せることはなく。気付いていないのか。人間、それも一応は「ご主人様」である俺の方を気にかけていないというのは、μにとっては異常なことと言っても差し支えないだろう。
 声をかければその拍子に転んでしまいそうな危うさがそこにはあった。彼女の足取りをしっかりと目で追いつつ、杏に話の続きを促す。雨の音が心地よかった。
「杏はどう思ってるんだ?」
「そうね、委員長にしてはよく言いとどまった方だと思うわよ」
「それはそうだけど……そんなことじゃなくて」
「分かってるわよ。でも、委員長をとりあえず褒めておいてもいいでしょう? 美夏のためにもね」
 冗談っぽくそう言ってから、杏が視線を寄越してくる。その目が俺の他にμも収めているというのは容易に見て取れた。
 杏は一度何かを言いかけて、すぐに噤み、しばし言葉を選ぶような仕草をした後で口を再び開く。演劇部の杏のこと、それが演技かどうかなんて、雨粒越しの俺には一切分からない。
「……私はむしろ、義之が迷っているような感じのことの方がよっぽど不思議だわ」
「そう見えるか?」
「小恋以外なら誰でも分かるわよ。顔に出やすいってこと、自覚しなさい」
 相変わらずの皮肉節。笑って濁すか口を尖らせるか、どっちつかずになっているうち、杏が向き直って話を続けた。
 揺れた拍子、傘から滴がしたたり落ちる。ぱちゃぱちゃと跳ね続ける水滴は、いつもよりも落ち着きなく聞こえた。
「義之だもの、『そんなことはない』とか正義感に燃えた台詞を吐きそうなのに。μや美夏が機械扱いされていること、是としてるわけじゃないんでしょう?」
「当然だろ。だからこそ、この子を引き取ったわけでもあるんだし」
「そう。だったら、委員長の不満に同調してもいいと思うのだけれど」
 杏が推し量るように俺を見上げてくる。傘をずらしてまでのそんな仕草は、俺がフォローするのを分かってやっているのだろう。杏の傘に滴を落としながら、俺はゆっくりと考えを巡らせていく。
 ……委員長があんな態度を取った理由は、確かに分からなくもない。ロボットに対する意識が改心――という表現が適切がどうかは分からないが――してきた委員長のこと、結局持ち前の正義感で、μの発言が許せなかっただけだろう。あるいはその怒りはロボット開発者の持つ自責の念にも似たようなものなのかもしれない。だから彼女は別に、かつてのようにμが憎くてそう憤ったわけでは断じてないのだ。明日の朝あたり、μへの謝罪の言伝を頼みにくるその沈んだ表情が、容易に想像できる気さえする。
 μの発言。それに対する「正義感」の反発は、結局はμも”人間”だ、という考えに基づいている。ヒトではないけれど、人の間に生きる限り、彼女たちは紛れもなく人間だし、そう扱われなければならない。天枷が常々ついている悪態も、やっぱりそこから来ているに違いない。
 それはきっと、タダシイ考え方なのだろう。
 そしてだからこそ、その考え方に紛れもないこの”俺”だけは、賛成することかなわない。
「……」
 μを見る。人と変わらぬ見た目と特徴を持つ彼女たちが、人にとってよくあるべき、という観念に縛られているのを、不憫だと感じる心は俺の中にも確実にある。それに対して委員長のような人間が罪悪を感じるのも、納得のいく話だと思う。杏もまた、そうした正義感の像を俺に期待していたらしい。
 でも、じゃあこのμの表情は一体どう説明される? 彼女は確かに、人間のように扱っている俺や音姉たちに対して、途方もない感謝の念を抱いているように感じられるし、現にそう発言してもいる。本心だろう。そう扱われたことのない彼女にしてみれば、嬉しく思うのも想像に難くない。だのに、その彼女を以てしてさえ、委員長の態度にはこうして疑問と悲哀を隠しきれていないではないか。
 果たして何が違うのか?
 それは多分、”普通の人”には実感しづらいことなのだと思う。
「……ちょっと寄っていきたいところがある。来るか、杏?」
 だから思いついたのは、俺にとっての始まりの場所。
 あそこでならきっと、俺の迷いもあっさり晴れるに違いない。
「私から質問したのよ? 当然ついて行くに決まってるわ」
 クールに言って、傘を抱え直す杏。リボンと同じ黒白の傘からは、その感情を読み取ることはできなかった。
「キミも、いいかな?」
「え――?」
 はっとした表情で振り返るμ。珍しく感情を露わにしたそんな顔つきは、やっぱり少女相応のそれだ。その眉が俺の言葉を聞き逃したことに対し申し訳なさげに下がるより先に、その白い手をぎゅっと掴んで引き寄せる。
「あ、あの、義之様――っ?」
「ごめん、寄り道する。この雨じゃクレープ屋は来てないだろうけどさ」
 返事を聞かずに、道を曲がって歩き出す。
 雨の中でもこれみよがしに聞こえてきた杏の大きな溜息。同時、握った手の強さが少しだけ強くなった気がした。



       ○  ○  ○



 かつて、そこには大樹があった。
 まわりを同じ種に囲まれながら、それでも一目で区別がついたその存在感。遠目にも分かるほどに巨大だった、象徴的な桜の大木。
 今はぽっかりとくり抜かれたその空間を前に、俺はあの人の影を幻視する。
「ここは……?」
 不自然に広がるその場所を前に、μが不思議そうな声をあげる。以前であれば一目瞭然だったこの場の意味も、今は顔を上げたところで雨空しか視界に入って来はしない。
 ……ここから見上げる景色には、やはり突き抜けるような青空こそがよく似合う。
「色々と曰くがある場所なのよ。私も無縁なわけじゃないけれど……義之がここを選ぶとはね」
「意外だったか?」
「どうしてかな、意外なんだけど、来てみたらむしろ似合ってる気さえしてきたわ」
「なんだそりゃ」
 おどけて見せて、俺は開けた空間の中央にまで歩を進める。繋ぎっぱなしだった手に引かれ、当然のようにμはその隣に。杏も遅れてついてきた。ひたひたと湿った土が靴を滑らす。
「このμに縁が深い場所、というわけでもなさそうね。となると……」
 流石は杏、理解が早い。それでも俺がそういったことにはそぐわないという感情もあるのか、その目はどことなく自信なさげだ。降り注ぐ雨粒を挟み、俺はそうではないと首を振って見せて。
「俺が願い事をしたんじゃない。願い事をされた場所だよ」
 それも、2回もだ。
「願い事を……された? なに、義之の正体は桜の神様だとでも言う気?」
「まさか」
 笑って返し、再び空を見上げる。とんとんと雨が傘を叩く音が、少しだけ弱くなったように感じられた。思い出される誰かの可愛らしい笑い声。
「なあ。μは人のためになることをするために、生み出されたんだよな?」
 そのまま虚空へ投げるように、言葉を吐き出す。二人は意図を掴みかねたようだったが、これにはμ自身が答えてきた。
「はい。人にとってよい機械であれ、と。ですが――」
「いや、その先は今はいい。でもさ、人間ってそうじゃないんだよな。μはそういった目的のために作られたけど、人間は何かの目的のために作られるわけじゃない。合目的的じゃないっていうか……何かを目的として作られたわけじゃないから、人間はそれに縛られることもない」
 人は普通、生き方を自分で決める。何かを為すために生まれたわけではないのだから、何を為すかは自由だ。
 対して人間が作ったモノは、大抵目的を持って作られる。例えばペーパーナイフは紙を切るために作られ存在するのであって、その有り様は人間のそれとはあまりに対照的だ。
 そしてμは、この分類では確実に後者に属する。人のため――”商品”として言うなら口にできないような目的を達成するため――という明確な意図をもって生み出された。だから彼女らの有り様は、そんな目的に縛られない人間の目にはあまりに不憫に映ってしまう。
「ですが義之様。私は義之様や他の方々をお世話するのを、負担になんか思っていません。むしろ嬉しく思ってさえいます。縛られていると感じたことなど――」
「そう。そうなんだ、そういうことなんだよ、結局さ」
 違うのは、だからそれぞれの出自という点に集約される。それは立場とでも言うべきもので、優劣やその上下といった観点で語られうるものでは断じてない。
 μたちがそれを自らの意志でやっていると感じているものに対し、他人がそれを不憫に思う。それは有り体に言えば親切の押し売りだし、悪く言えば価値観の押しつけではないか。更に既に作られているμに対し、人間が「私たちがμをこんな風に作ってしまったから」などと自らを責めるようなことになれば、それこそいまこの時を生きているμという存在そのものに対する侮辱にすらなるだろう。それは存在そのものに対する否定と同義だからだ。
 ――そしてだからこそ、似ているのだ。俺とμは。
「いいじゃないか、目的に縛られているように見えたって。それが自らの内から湧き出た感情かどうかなんていうのは、いつまで考えたって分かりっこない。自分がその目的を是とする感情が確かにそこにあって、そうやって生きてきた生き方に自信と誇りを持てるなら、それを貫いて見せればいい。つまんない理由で自分の存在を否定しちゃ、誰にとっても不幸になってしまうから」
 そうして辿り着くのは、この”俺”がμの考えに同調したその理由。
 それはつまり、俺もまた目的を持って創り出された”何か”だからに他ならない。
 ……家族が欲しかった、とあの人は言っていた。みんなに愛される人になって欲しい、とあの人は願っていた。俺が少なからずみんなから信頼され、そしてあの人――さくらさんの子どもとして暮らして来れたこと、それがたとえそういった合目的性によって達成されたことだったとしても、俺は一向に構わない。なぜなら俺には自分の意志でこうして生きてきたって自負があるし、さくらさんのお世話をするのだって、さくらさんが喜んでくれれば自分も嬉しくなれたからだ。そこに誰かの意図が介入していたとしてもだから俺に不満なんてものはない。あるはずがない。
 けれど、そしてむしろそれ故に、さくらさんの家族であることや、誰かの手助けをするという俺のその性格、あるいはその人生を「不憫」だなんて決めつけれられれば、俺は途轍もなく強い怒りを感じることだろう。
 当たり前だ。それは俺自身のみならず、他ならぬさくらさんに対する侮辱ですらある。そんなもの、我慢できようはずがない。俺は好きでこうして生きてきたんだ。
「だから、キミはそれでいいんだ。こうして傘を持ってきてくれたことにも、普段から色んな世話をしてくれることにも、俺はとても感謝してる。嬉しく思う。大変だったら構わないけど、そうでないならこれからも続けて欲しいと俺は考えてる。それだけじゃ、不十分かな?」
 傘を揺らして、μの方へと向き直る。俺と少ししか違わない身長の彼女が、なぜだか妙に小さく見えた。それはきっと、彼女の表情が普段のそれからは想像も出来ないほどに感情的だったことと無関係ではないだろう。その大きな瞳が初めて丸くなったのを見て、ああ、やっぱりこんな顔もできるんだなと、異様に嬉しくなってみたりもする。
「不十分だなんて、そんなわけありません……っ! ただでさえ私の我が儘な上、義之様にそうまで仰っていただいて……」
「いいって。いま言ったとおり、俺も助かってるし、嬉しいんだからさ」
 言うと、μは傘を差したまま器用に深々と頭を下げた。けれどそれはいつもの丁重なお辞儀と違い、どこか粗雑で、そしてあまりに直情的な感謝の礼。普段は何をしても乱れないその長い髪が、雨の中大きく舞っていた。
「ほら、濡れるから。それよりこの雨じゃ買い物も難儀だ、手伝ってほしいんだけど、いいかな?」
「は、はい! 勿論です」
 μが顔を上げる。その表情を見ぬままに、俺はくるっと反転した。商店街の方向。けれど目の前にあったのは、黒い傘の下、いつもの杏のにやけ顔。
「言いたいことは多々あるけれど……ま、なんでもできるロボットと、それに世話されるぐーたら男なんて、どこかで見たことある関係よね」
「言ってろ」
 軽くあしらって、ぬかるんだ地面、公園出口へ歩き出す。いつものように俺に続いてμがついてきて。遅れて足を動かした杏、彼女は雨に紛れる小さな声で、俺だけにそっと呟いた。
「……大変よ、誰かの有り様を認めるっていうのは」
 それはまるで覚悟を問う言葉のよう。けれどその内容とは裏腹に、口調がどこか溜息混じりだったのは、おそらく俺の返答が分かっているからなのだろう。それは俺がμを引き取ったときからずっと分かっていたことだ。美夏を可愛がる杏には、きっとその気持ちがよく理解できるに違いない。
「承知の上だよ」
 それはもう、身に染みて、という形容をしたいほどに。
 ……さくらさんは俺の存在を認めてくれて、最後まで尽力してくれた。願いを求めた自らの弱さを責めつつも、俺の存在そのものについてはどこまでも嬉しく思ってくれていた。たとえ俺のせいで、どんな犠牲があったとしてもだ。
 だから俺も、μを引き取ったことに対する責任をどこまでだって引き受ける。それは罪滅ぼしでも、安易な恩返しでもなく、言うなれば幸せの継承。俺にはそれを為す義務が、きっとどこかにあるんだと思う。そうだ、誰かの存在を否定することなんか、この俺にできるわけがないではないか。
 それゆえの当たり前の返答に対し、結局杏は嬉しそうに笑って見せただけだった。視線をμへと移し替えて、急かすようにその手を取る。
「さ、雨が強くなる前に、急いで買い物を済ませよう。今日の当番はキミだし、期待してるからね」
「え? あ、は、はいっ。ありがとうございます、義之様。頑張らせていただきます」
「肩肘張るほどでもないけど、うん、でもキミの料理は美味しいから。音姉が褒めるくらいだし」
「へえ? ちょっと興味湧いたわ、私もご馳走になっていいかしら。ねえ?」
 杏の問いかけ。視線が俺でなくμに向いているあたり、間違いなく意図してのものだ。対してμ、「ええと……」なんて俺の様子をうかがってきて、俺は苦笑しつつも頷いた。半分は自分自身、半分は杏に向けてだ。
「いいよ。どうせウチは空いてるんだ、食べさせるかどうかは料理するキミ自身が決めてくれ」
「そ、そうですか? でしたら是非、雪村様もいらっしゃってください。食事は人数が多い方が美味しいですから」
「そ? それなら遠慮なく行くけれど。悪いわね、なんかたかったみたいで」
 よく言うよ、という軽口はかろうじて飲み込んで。どうせなら音姉と由夢も呼ぼうか、なんてことも考えつつ。
「んじゃ、行くか」
 雨の降りしきる桜公園。
 桜のかわりに紫陽花の咲き始めた梅雨の風景を背後へと流し、俺たちは一路帰途へと着いたのだった。

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Short Story -D.C.U
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