相合

[divergence x.xxxxxx]
 傘を掲げて、空を見る。
 ――ラジオ会館屋上。ひたひたと雨粒のはね回る音を聞きながら、俺はただ呆然と灰色の雲を眺めていた。
 暑い日だった。もう夏も終わりだというのに秋葉原にはまだまだ熱気が渦巻いていて、最高気温は相変わらずの三十度越え。加えてこの雨でラボは蒸し風呂状態となり、ダルなどはさっさとメイクイーンへ避難するほどの暑さであった。
 それは日が落ちつつある夕暮れ時でも変わらない。むしろいっそう雨脚が強くなり、肌に張り付くじっとりとした不快感はことさら増した気さえした。解体寸前で排水機能が死んでいるのか、この屋上、足元はとっくに水浸し。ここに来るまでで白衣の裾もずぶ濡れで、一度立ち止まってしまったこの身体、再び一歩踏み出すのも億劫なほどに重くなったと感じられた。
「――これで、良かったんだよな」
 雨の中、呟く言葉は虚空に向けて。
 ぱちりぱちりと雨粒が傘を叩いていく。まるで傘の下、俺が居る場所だけが切り取られているかのように、雨はひたすら世界を埋め続けていた。視線は前へ。立派になった駅ビルが、終わりを迎えるラジ館を無表情のまま見つめていた。
「……」
 特に考えがあってここにやってきたわけじゃなかった。ラボは蒸し暑い。メイクイーンは金がかかる。だからなんとなくここに来ただけ――そう自分を欺こうとして、やっぱりあっさりと失敗する。
 理由は簡単――空が、似ていたのだ。
 記憶に未だこびりつく、あの日見上げたあの空に。
「……なあ、紅莉栖」
 だから続くのは、まるで今も背後に寄り添うように、けれど今はもうこの世に居ない女性へと。
 ――幸せになりなさい。
 そんな言葉だけを俺たちに残して、あいつはあっさり消えていた。確認できたのは新聞の隅の小さな記事だけ。たった四行に満たないその文章が、笑えるほどに息苦しかった。何度も見て、何度も読んで、一言一句違うことなく目に焼き付いている。その記憶は、きっと死ぬまで消えることはないのだろう。
「――っ」
 びゅうっと突風が吹きすさび、思わず右手が自らの肩を抱く。寒気がした。震えが来た。だから確認してしまった。白衣の左肩。
 もちろんそこに、裁縫の後などあるわけもなく。
「……俺は、お前を救えなかった」
 あの日以来、決して口にしなかった言葉を吐き出す。
 聞く人のないその呟きは、降りしきる雨の中へと消えていき――





 ――私は何を考えるでもなくそこに居た。
 雨の降りしきるラジオ会館、その屋上。わざわざ立ち入り禁止のテープまで乗り越えて、何をしているのかと自嘲せずにはいられない。手にしているのは安物のビニール傘。エレベーターは当然のように止まっていて、ここに来るまでの汗やら雨やらで不快感はとうに限界を超えている。
 秋葉原を覆うグレーの空。かつてどこかで見たそれを、私は再び目にしていた。
「――……」
 空に向かって言うべき言葉は何もない。
 ぽつりぽつりと雨が踊り狂う様子を耳にしながら、私は秋葉原駅に背を向けて、ただただ鈍い空を見上げる。
 ――どうして私は生きているのか。
 それはとても不思議なことだった。夏の終わり。つい一か月ほど前に死ぬはずだったこの身体は、なおも意識を保っていた。死を受け入れた、なんて大層なことを言うつもりはない。それでもこの身が思い通りに動いてくれて、さまざまなことを感じられること、それが私にはどうしても不思議でしょうがなかった。受け入れられなさで言うのであれば、この現状のが死よりもよほど受け入れがたい。
「……あんたは本当に、これでよかったの?」
 だから呟くその言葉は、たった一人の屋上で、傘に区切られたその空間、あたかも背後にあいつが居るかのように。
 ついぞ押すことのできなかったエンターキーに、あいつは今も苦しんでいた。それはあいつにとっての自責の念。私の前では決して見せないその苦悩、けれども張り付いている能面のようなその笑みで、一体誰が騙せるのだろう。自覚のないあまりに惨い痛々しさは、見ているこちらが先に参りそうだった。
 ……まゆり。
 本来なら私の代わりに生きているはずだった、たった三週間だけの親友に思いを馳せる。ふわりと花が咲くような、そんな笑顔はもう二度と見られない。そればかりかあの特徴的な挨拶も、元気いっぱいの食べっぷりも、それ以外のなにもかも、私たちはもう見られないのだ。
 だから。
「……ねえ、岡部」
 思い出す。
 あの日あのときこの場所で、私はあいつと対峙した。諦めきれないと嘯いて、あいつは結局私を生かした。希望などないと知りながら、あいつはそれを諦めきれず、私はそれをはね除けきれなかった。
 肩を抱く。あのときとは違い、傘のお陰で濡れてはいない。だというのにあの寒さが蘇ってきて、思わず膝が折れそうになる。
 ――相対的判断などクソ食らえだ!
 必死の形相で叫ばれたそんな言葉が今なお胸を強く打つ。
 あの時私は全力で拒絶したはずだった。苦しむあいつを罵倒してまで、未練を断とうとしたはずだった。たとえ私が嫌われようとも、まゆりを生かすはずだったのだ。
 でも、できなかった。振り切れなかった。諦めさせることができなかった。そんな馬鹿だとは思わなかったと、あの罵倒の言葉を取り消すつもりは今もない。
 けれど――ああ、けれども認めよう。その諦めの悪さに、私を選んでくれたことに、一切の感情を覚えなかったといえば嘘になる。顔に出すようなヘマはしない。それでも変に鋭いあいつのこと、それが見抜かれていないと思えるほど、私はあいつを信頼できていないわけでもなかった。
 つまるところ。
 甘かったのだ、私自身が。
「……」
 亡霊めいた私を苛むように、雨は強く強く降り続く。あいつはこことは違うどこかで、きっと今なお消えぬ傷痕に苦しんでいて。
 傘でぽっかり空いた私の背後。誰も居ないその空間に、私はそっと言葉を投げる。
「……私は、あんたを救えなかった」
 秋葉原駅に背を向けて、曇天の空を再び見上げる。
 聞く人のない呟きは、降りしきる雨の中へと消えていき――







 ――見上げた空は、先ほどから急に降り出した雨に濡れていた。
 JR秋葉原駅。並んで改札を出た俺たちは、同じく足止めを食らっている通行人に混じって屋根の下から空を睨んだ。
 快晴が一転、真っ黒と表現したくなるような曇り空。ざあざあと降り注ぐ滝のような雨に、隣から、はあ、と大きな溜息が漏れる。
「間に合わなかったわね……。ぽつぽつ来てるな、とは思ったけど」
 夕立なら少し待てば止むかしら、とあまりに希望めいた感想に、俺は失笑を返す。本人だって信じていないだろうそんな言葉、否定するには携帯で天気予報を呼び出すだけでこと足りた。
 面前で携帯を操作されるのを嫌うそいつに一言断りを入れてから、ネットで予報を流し見る。雨のマークが画面いっぱいに並んでいた。
「明日の朝まで降るそうだ。なんならまたホテルに戻って一泊するか?」
「馬鹿言いなさい。……はあ、せめて折りたたみでも持ってくれば良かった」
 普段から鞄を持ち歩かない紅莉栖が、腰に手をあてて呆れたように息を吐く。濡れるのを覚悟するか、あるいはどこかで時間を潰すか。ラボまで走り抜けるのは無理だろう。まゆりに連絡するのも気が引けるわよね、なんて紅莉栖が再び溜息を重ねたところで、俺は白衣のポケットから用意していたソレを取り出す。そうしてぽい、と紅莉栖に放った。
「ほれ」
「ふぇっ!? え、ちょ、折りたたみ傘……? あんた、持ってたの?」
 黒色の三段折り。コンパクトが売りのそれは白衣にすっぽり収まるサイズで、今日の朝、紅莉栖のホテルに向かうと言った俺にまゆりがわざわざ持たせたものだった。「なんか雨が降る気がするんだー」という天気予報を上回るその勘は、さすがというか何というか。
「ふふん、備えあれば憂い無し、転ばぬ先の杖、敵を知り己を知れば百戦危うからず……つまりはそういうことだ」
「いや最後のはちょっと違う気がするけど。でも助かった、これで濡れずに済むわね」
 嬉々として折りたたみの封を解き、ぱかりと傘を開く紅莉栖。カチッ、と完全に開いたところで、その様子をただ眺めていた俺にようやく気が付いた。そうしてそのままはっとする。
「岡部、もしかして……」
「……白衣に傘を二本も突っ込んでみろ、歩きにくくてしょうがなかろう」
 ばさ、と白衣の裾を持ち上げてその他の荷物は無しと主張する。
 要するに、傘は紅莉栖が手にするその一本だけしかないのだった。二人いるのに、傘は一本。だから電車に乗ってる途中で雨が降ってきていることに気が付いても、今ここに至るまでそれを言い出せなかったのである。だって……なあ? そんなこと、わざわざ言えるわけがないだろう。
「――ッ」
 案の定、この後の展開をおおよそ察して紅莉栖の頬が朱に染まる。対してこちらも予想していたとはいえ、俺もまた似たような表情をしてしまっているだろうことは容易に想像がついてしまった。だから言いたくなかったのだ。
「な、なにが備えあれば憂い無しよ。まったく、中途半端もいいとこじゃない」
「ふん。文句を言うならびしょ濡れになってラボまで走るか? 俺はそれでも一向に構わんが」
「別にそんなこと言っとらんわ! ただその……あんたはいいの? えと、その、折りたたみって小さいし、ちょっと濡れるかもだし……」
「気にするな、助手の不始末はラボの長たる俺の責任でもあるからな。まったく、助手の気のきかなさにも困ったモノだ。それとも本当に濡れて帰るとでも?」
「……でも、その。これはあんたの傘だし、私はひとっ走りしてどこかでビニール傘買っていくか、まゆりにお願いするかしても――ふぇっ!?」
 馬鹿なことを言い出した紅莉栖の手を引っ掴み、同時に横合いから広がる傘を掠め取る。ぐい、とその小さな肩を抱き寄せて、俺は有無を言わさずそのまま雨の下へと歩き出した。屋根から出た途端、ばちばちと雨粒が傘を叩く音が頭のすぐ上で響き始める。思ったよりも傘は小さくて、いっそう強く紅莉栖の身体を引き込んだ。
「ちょ、岡部、だから、そのっ……!」
「いいから。さっさとラボに向かうぞ、紅莉栖。濡れたくなければそのままにしていろ」
 つんのめる紅莉栖の方に傘を寄せて、そのままぐいぐい引っ張っていく。こちらの肩の辺りが濡れてしまったが気にしない。白衣は汚れるためにあるのだ、紅莉栖の綺麗な髪やパーカーが濡れてしまうよりずっと良い。
「わ、分かった、分かったから! ……もう、相変わらず変なとこで強引なんだから、あんた」
「お前が馬鹿なことを言い出すからだ。これ以上雨が強くならないうちに早く行くぞ」
 言い切って、やや強引ながらそのまま再度歩き出す。もちろん態度とは裏腹に、歩調は紅莉栖に合わせてゆっくりと。
 すると肩を寄せていた紅莉栖は傘を持つ手に自身の腕を絡めてきて、雨で冷えていた身体が一転、これ以上なく慣れた温もりに包まれた。同時にくすりと漏れた忍び笑いは、さて俺の頬が急に火照ったのと関係があるのか否か。努めて平静を装ったまま視線を逸らした俺にはその判断ができなくて、ふん、と鼻を鳴らして足を進めることしかできなかった。
 ゆらりゆらりと、アンバランスに傘が揺れる。時折ぎゅっと絡めた腕に力を込めるのは、手を繋げないがゆえの紅莉栖なりの甘え方らしい。そのたびに傘から流れ落ちる滴が紅莉栖に当たらないように気を付けてるのは俺だというのに、まあいいかと思ってしまうあたりきっと俺も甘いのだろう。
 ざあざあと雨が降る中、小さな傘で区切られたその狭い空間に、だから俺は紅莉栖と二人肩を並べて。
「ねえ、岡部」
「なんだ?」
「……ううん、なんでも」
 声が届く。
 温もりが伝わる。
 そのことにこれ以上ない幸福を感じ取りながら、俺たちはそのままラジオ会館前を抜け、雨の中、一路ラボへと向かったのだった。

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