宇宙を

[divergence x.xxxxxx]
 それは、とある昼下がりのことだった。
 いまだ若干のカップ麺臭が残るラボの中。ひとしきりの片付けを終えた後、俺たちは思い思いにだらだらとした時間を過ごしていた。ダルはPC、まゆりはテレビ。ソファに座る紅莉栖は相変わらずお堅い書籍を読んでいて、その隣で俺はうつらうつらと舟を漕ぐ。特に何の用もない日の、いつもながらのラボの光景である。
 俺の頭を占めているのは満腹感から来るほどよい眠気。とはいえ意識を外に向けたところで、ダルがかちかちとマウスをクリックする音と、おそらくは気を使っているのだろう、小さな音量で流れてくるアニメ声、そして時折混じる本のページをめくる音だけが、静かなラボを支配しているだけだった。
 あまりの心地よさに、ふう、と大きく息を吐く。
 昼寝をするべきか否か。別に睡眠不足というわけでもなく、きっかけがあればそのまま起きていられそうな微睡みだった。ぐっすりと眠るには時間も眠気も中途半端。きっと俺が眠いと申し出れば紅莉栖はすんなりソファを明け渡してくれただろうが、けれどそれもなんだか申し訳なく、こっくりこっくり、頭をゆらしつつどうしたもんかと眠い頭で考えていると、
 ――かつん、かつん。
 ふと、ラボの外から新しい音が飛び込んできた。わりと甲高い、けれどもそれでいて重苦しい足音。のっしのっしとダルに勝る体躯からくるそれは、この階下に住むオーナー以外にはありえない。ほどなくしてごんごんという力強いノックとともに、「岡部、いるかー?」なんて野太い声がラボの中へと放り込まれた。
「オカリン、ご指名だお」
「眠いなら代わりに出るけど……あんた、またなんかやったの?」
「……記憶にないがな」
 どうやら今日の昼寝はお預けらしい。腰を浮かしかけた紅莉栖を手で制し、ソファから重い身体を持ち上げる。そのままぐっと伸びをして、かるめの深呼吸をひとつ。ミスターブラウンが痺れを切らさないうちに、スリッパを引っかけてラボの扉へ手を掛けた。ドアノブをひねって開ければ、そこには見慣れたILoveCRTの文字。相変わらず似合わないことこの上ない。
 もちろんそんな感想、顔にはおくびにも出しはすまいが。
「どうしました、ミスターブラウン。家賃の支払いはまだ先だと思いますが」
「おう、岡部。今、ちょっといいか?」
「へ? ……ええ、まあ、いいですけど」
 ラボの扉を埋め尽くさんくらいの大きな身体がぐいとラボの中へとせり出して、ミスターブラウンがくるりと内部を眺め見る。室内をチェックするというよりは、俺たちが忙しそうでないか確認しているような仕草だ。追って俺も視線を回すと、不思議そうにこちらを見上げるまゆりと紅莉栖、それにいつの間にやらエロゲのウィンドウを最小化してしれっとレポート作成画面(っぽい)ウィンドウを開いたダルの姿が目に止まる。どう見ても昼下がりの暇を持て余しているようにしか見えないし、きっとミスターブラウンの目にもそう見えたことだろう。
 よし、と店長はひとつ頷くと、今度は一転、こまったようにそのハゲ頭をかき始めた。
「実はな、俺の知り合いの中じゃあおめえたちが一番適任だと思うから、こうして来たんだけどよ」
「……? 珍しい、何か頼み事ですか?」
「ああ? ああ、まあ、そうなるのかなあ。特にそこの嬢ちゃん、ちょっといいか」
「へ? ええと、私にできることでしたら……」
 困ったような表情を浮かべたままミスターブラウンが指名したのは、珍しいことに紅莉栖だった。言われた紅莉栖も相当びっくりしたようで、目を丸くしながら助けを求めるように俺に視線を向けてくる。
 とはいえ俺だって事情はよく分からない。まあとりあえずこっち来てみろ、と手招きすると、紅莉栖は読んでいた書籍にしおりを挟んでソファを立った。後ろではダルもまゆりも物珍しそうにこっちの様子を眺めている。……ちなみにアニメは一時停止しているようだった。
「で、うちの助手がなにか?」
「おいちょっと、なによその言い方。助手でもないし、それだと私が何か問題起こしたみたいじゃない」
「ふん、違うという確証でも?」
「それは――」
 言葉に詰まり、紅莉栖がちらりとミスターブラウンの顔を見る。俺たちの言い合いを前に、店長は無骨ながらもにいっと人の良い笑みを浮かべて魅せた。ちなみに俺には絶対見せない表情である。
「安心しろ、嬢ちゃんが心配するようなことじゃねえよ。……っと、来たか」
「うん?」
 ミスターブラウンが笑みを見せると同時に背後から響いてきたのは、今度はまゆりやフェイリス以上に小柄な足音。ミスターブラウンが見せた表情の変化から見ても、続いて階段を上がってきた人物はただ一人しか有り得なかった。ひょこ、とドア口からのぞかせたその顔に、背後で見ていたまゆりがいの一番に反応する。
「わっ、綯ちゃんだー! トゥットゥルー☆」
「あ、まゆりお姉ちゃん、トゥットゥルー」
 ひらひら、と小さな手を振って挨拶しあう二人。微笑ましいやりとりに、ミスターブラウンともども苦笑するよりほかにない。
 しかしこうなると、綯が紅莉栖に用事があるということになるのだが……?
「それで、ミスターブラウン?」
 そろそろ用件を、と促すと、ミスターブラウンは再び困惑顔に。またも髪など残っていない頭を掻いて、「実はなあ」と言い辛そうに話し出す。
「綯がその……なんて言えばいいのか……ああーっと、ロケットとか、そういうのに興味持ったみたいでなあ」
「ロケット?」
 意外すぎる単語に、思わず紅莉栖と顔を見合わせる。
「いや、ロケットってのはあくまで例えで……ほらその、あったろ? 去年だったか、どっかの星に資源探査にいって、どうにかこうにか地球に帰ってきたってアレ」
「はやぶさですか?」
「そうそれだ。んでこないだその映画を綯と一緒に見に行ったんだが、それ以来そういった分野に興味持っちまったんだよ。それで色々聞かれるんだが、俺はブラウン管みたいな工学はともかく宇宙だの理論だのってのは門外漢だからよ」
「……それで私に?」
 紅莉栖の問いかけに、苦笑しながらミスターブラウンが大きく頷く。そういうの得意なんだろ、と聞かれて、まあ人並みにですが、と紅莉栖はやけに謙遜して応えて見せた。
 ……しかしまあ、なんだ。随分と予想外の申し出もあったものである。
 はやぶさ。ネットでの情報を発端に、ついにはニュースで大々的に報じられるくらいに熱狂的なイベントとなったのは未だ記憶に新しい。どこぞの小惑星へ資源探査に向かい、故障したのなんのと言われながらなんだかんだで大金星を挙げた、国家プロジェクトのことである。その不屈の闘志っぽさがやけに世間の人気を買って、映画が作られているという話は当時からあった。それがようやく封切られて、それにミスターブラウンたちが足を運んだということだろう。
 それに感銘を受けた、というだけなら話は早い。けれどもそこから派生して宇宙に関する理論に興味を持つ、というのは、綯くらいの女の子にしては珍しいことではなかろうか。しかもミスターブラウンを困らせるくらいには興味を持っているようで、なるほど確かに、そうなれば紅莉栖をはじめとしたラボの面子は適役ではある。腐っても理系、そういう部分の知識はさすがにある程度以上はあるつもりだった。
 しかし綯の興味を満足させるほどかどうかは――そんなことを考えていると、隣の紅莉栖がふっと膝を折った。そうしてそのまましゃがみこみ、俺たちのやりとりをじっと見ていた綯と視線を合わせた後で、ぽん、と綯の頭を軽くなでつける。紅莉栖にしては珍しい行動。ちょっぴりびっくりした綯を前に、続けて微笑みながら声をかけた。
「ええっと、私でよければ色々と教えてあげられるかもしれないけど……どういうことに興味があるの?」
 その態度は見たこともないほど優しげで。
 紅莉栖ってこんな表情もできたんだな、と俺はどうでもいいことを思ってしまった。
「えっとね、前に本で読んだんだけど――」
 そうして綯はおそらくはずっと抱えていたのだろう、本人なりの大いなる疑問を紅莉栖に真っ直ぐにぶつけ始める。漏れ聞く限りでは結構専門的なことを聞いているようで、ミスターブラウンに目で問うと「今どきは子供用の百科事典なんてのがあるんだな」との返答。ネットもあるし、ということで、どうやら本当に興味を持って色々調べたようだった。親からすれば、ちょっぴり苦労しつつも嬉しいことではあるに違いない。ミスターブラウンの表情もまたいつもの子煩悩ぶりを見せつけてくれていた。
「しかしシスターブラウンが宇宙とは……あまりイメージではない気もしますが」
 話し始めた紅莉栖と綯をよそに、俺はミスターブラウンに話を向ける。綯を馬鹿にしてるのか、なんていちゃもんをつけられそうだった言葉にも、けれどそう怒鳴られることはなく。
「綯はああ見えて結構、算数とか好きなんだよ。ままごととかよりもゲームなんかが好きだし、仕事柄工業製品も見慣れてるからなあ。父親としてはもうちょっと女の子らしくてもいいかと思うんだが」
 誰に似たのかおてんばなんだよなあ、と愚痴のような、そうでないような、そんな言葉を零しながらミスターブラウンが愛娘の様子に眼を細める。女の子らしくありたいなら適任のラボメンがいますよ、と言うと、そのときはまたよろしく頼むぜなんて、あんまり本気っぽくない声で返された。
 ちなみにもちろんルカ子のことである。だが男だ。
 そうしてそんな話をしているうちに、紅莉栖と綯の話も一区切りついたらしい、紅莉栖がふっと立ち上がる。
「ええっと……店長さん。綯ちゃん、しばらく預かってもいいですか? この部屋にも科学誌が何冊かあるので、見せてあげたいと思うんですけど」
 科学誌?
 まさか紅莉栖が読んでる英語の本じゃ――と考えたところで、思い当たる。そういえば暇つぶしに買った一般向けの科学誌が確かにラボには何冊かあったし、その中には宇宙関連のものも含まれていたように思う。思う、と曖昧な表現なのは、それが結構昔のことであるということと、結局途中で飽きてしまい読了していないせいである。今では開発室の片隅で埃を被っているはずだ。
 しかし紅莉栖が来る前のものだというのによくもまあ、この天才少女は覚えていたものだ。俺が明後日の方向で感心していると、ミスターブラウンはその提案は予期していたらしい、嬉しそうに頷いた。
「おう、もとよりそのつもりで来たんだ。嬢ちゃんさえ良ければ頼めるか?」
「はい。うちのバカ二人はちゃんと見張っておきますので」
「なら安心だ。綯、ちゃんといい子にしてるんだぞ?」
「うん!」
 ……バカ二人?
 はてダルともう一人は誰だろう。そんな思案を巡らせているうちに綯は靴を脱いで、ラボに上がると同時にまゆりに突撃しにいった。いつも通り交わされる熱い抱擁を苦笑とともに見送って、ミスターブラウンは踵を返す。
 けれど去り際、ドアを開けながら振り向いて。
「おう岡部。もし万が一綯に手ぇ出したり――は、もうしねえか」
「……はい?」
 いつもの釘を刺す言葉を残すのかと思いきや、けれどそれが続くことはなく。
 いや釘を刺されたいわけではないのだが、あまりに不思議なその態度に俺は首を傾げる。するとミスターブラウンは、なぜだか妙に嬉しそうな笑みを浮かべて。
「けっ。仲がいいのは結構だが、せめてそういうのは綯が帰ってからにしてくれよ」
 おっさんらしいジョークとともに、開発室へ本を取りに行ったそいつの方へと意味ありげな視線を向けたのだった。
 ……本当、その身体同様にたいへん大きなお世話である。





 結局、綯はブラウン管工房が店じまいをするまでずっとラボにいた。もうずっと、それこそまゆりが眠くなるくらいに綯は紅莉栖と宇宙論やらロボット工学やらの話をしていて、ラボのテーブルには開発室から引っ張り出してきた本が山と積み重なっている。途中からはネットで調べ物をしたりもして、綯の熱意とそれに悠然と答える紅莉栖に、残る俺たちは思わず苦笑。ダルとまゆりが帰宅してからも話は続き、ミスターブラウンにタイムアップを告げられたのがつい先ほどのことだった。
 だいぶ長く話していたというのに、綯は明らかに不満顔。紅莉栖の「また来てもいいのよ」という言葉に綻んだその笑顔と、ミスターブラウンの申し訳なさそうな、けれどどこか嬉しそうな顔を俺はしばらく忘れまい。
「しかし、意外だったな」
 そうして帰宅するミスターブラウンたちを見送って、俺たちだけが残るラボ、片付けをしながらふと呟く。テーブルの上は乱雑な本とともに、飲み残しのジュースが二本。途中から、綯も紅莉栖を真似てドクペを飲み始めたのだ。残量からするにあまり口には合わなかったようではあったが。
「まあね。でもやっぱり賢いわよ、あの子。将来は結構いいセン行くんじゃないかな」
 例えばJAXAとか入ったりして。冗談とも本気ともつかぬその言葉に俺は苦笑を返しつつ、けれども「そうではない」と首を振る。
「それも意外ではあったが、俺が言うのは紅莉栖の方だ」
「……私? そりゃ確かに宇宙工学は専門じゃないけど、あのくらいならあんたや橋田だって話せるでしょ」
「いや、内容じゃなくて……あーっと、なんだ、ああいう子どもの相手もできるんだな、と思ってな」
 綯の飲み残しを流し台に、紅莉栖の飲み残しを「飲め」というジェスチャーとともに手渡そうとしたら、「あげる」とそっけなく言われてしまう。しょうがないので口をつけると、炭酸の半分抜けたドクペが喉を通りすぎていった。甘い。
「意外かな?」
「普段の様子を見てるとな。あれではまるで気のいい姉というより――」
 紅莉栖と綯の関係。見ている分には、本当に仲が良さそうだった。今までちょっぴりぎくしゃくしていたのが間違いだったのかと思うくらい。けれどそれは例えばまゆりのようなお友達っぽいわけでもなく、かといって今は階下でバイトしている萌郁のようにお姉さんっぽいわけでもない。本当に初めて見たと言ってもいい、紅莉栖の慈愛に満ちたその表情は、
「――まるで母親、だな」
 勉強を教える母と子。端から見ているぶんには、俺にはそんな風に思えてしまった。
 もちろん紅莉栖はまだまだ若い。綯の母親というのはさすがに荷が重すぎる。けれどその表情から見えた本質は確かに母性のそれで、だから俺はこうして感心しているのだ。あの紅莉栖にそんな顔ができたのか、と。
 きっといい母親になるぞ。思った言葉をそのままそう口にして出すと、一瞬の空白の後、ぼすん、と後頭部に柔らかい感触が叩き付けられた。思わず振り返れば、俺の頭を叩いたのは見慣れたうーぱクッション。どうやら紅莉栖が投げつけたらしい。
「ちょ、おい助手!?」
「う、うるさい! このばか! ばか岡部!」
「なっ……! どう勘違いしたのかは知らんが、今のはどう考えても褒め言葉だろうが!?」
「知ってるわよ! ああもう、どうしてあんたはこう……!」
 紅莉栖は投げつけたクッションをわざわざ拾い上げ、ふたたびぐいっと俺の顔へと押し付けてきた。ぐいぐい、ぐいぐい。視界がうーぱの腑抜けた顔で埋め尽くされる。けれどその直前、ちらっと見えた紅莉栖の顔は、怒りというよりも羞恥で真っ赤になっていたように見えて。
「……」
 もがもが、とクッションを顔に押し付けられたまま、精一杯に反論する。もちろん言葉にはならず。
「はー……もう、あーやばい、あんたが変な事言うから……」
 もがもが。
「うっさい! ああもう、ばかじゃないの、ばかじゃないの! 大事なことなので二回言いました! ちょっとそのまま反省してろ!」
「ふごっ!?」
 ぐい、とひときわ強く押し出されて、そのままソファにすっころばされる。ぼふん、とクッションもろともソファに投げ出されて、俺は思いっきり脳内にはてなを浮かべながら紅莉栖を見上げると。
「……ばーか」
 紅莉栖は頬を真っ赤にさせつつも、けれど言葉とは裏腹にものすごーく嬉しそうな満面の笑みで俺を迎えてくれたのだった。

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Short Story -その他
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