a Day of Valentine

[divergence x.xxxxxx]
 その日、椎名まゆりは紙袋を持って家を出た。
 袋の中にはラッピングされた大小さまざま、色とりどりのお菓子たち。かさばることもさることながら結構な重みのあるそれを、まるで何でもないことのようにまゆりは軽々と持ち歩いていた。加えて肩には学生鞄。その真面目さから教科書の量も相当なものになっていたが、それでもセーラー服を着込んだその歩調に乱れはない。しっかりとした足取りで、というよりむしろご機嫌に飛び跳ねるウサギか何かのように、ぴょんぴょんとこれから向かう先――つまりは学校へと歩を進めていく。
「ええっと、これがるかくん、ダルくん、フェリスちゃん、萌郁さん、あと――」
 途中、忘れ物があってはいけないということで袋をのぞき込みお菓子をひとつひとつ指差し確認。最初はラボメンのみんな、続いて学校のクラスメイトたち。それとお世話になってる先生に、学年違いの友人知人、バイト仲間にコス友達まで。
 もちろんまゆりにとって、そこに男女の別はない。友達にはみんな配ろうと思っているし、だから自身も毎年たくさんのお菓子をもらう。さながらお菓子の大交換会。出費は確かに痛手ではあったものの、それ以上に楽しく、なにより知らないお菓子をいっぱいもらえることも彼女の心をわくわくとさせていた。特にるかくんとフェリスちゃんのは楽しみだなーなどと口に出す様は、もう完全に色気より食い気といった風である。
 だから悲しいかな、彼女からお菓子をもらったところで勘違いする異性なんかはありえなかった。もちろんまゆり本人だってそこに意味など込めはしない。それはまゆり本人の気質の為せる技でもあったし、そういう配慮ができるくらいにはまゆりだって女の子なのだ。
 そう。
 まゆりだって、女の子なのである。
「よし、と。あとは――うん、あるある」
 紙袋のチェックを終えて、今度は学生鞄を開く。
 重い本に潰れないよう一番上に置いてある、他とは明らかに違うハート型のお菓子――チョコレートがしっかりとそこにあることを最後に確かめて、まゆりはひとまず、本日のイベント会場である高校へと向かったのだった。





 橋田至は、既にチョコをもらっていた。
 送り主はなんとあのフェイリス・ニャンニャン。まるで高級な市販品のように丁寧にラッピングされ、専用の袋に入れられ、あまつさえ値札までついているそれは、間違いなく高級な市販品であった。1つ1500円也。一緒にもらったレシートには「メイクイーン・ニャン×2」の文字が印字されている。
 ……というわけで、彼は大学の一限目をサボって朝イチからメイクイーンに赴き、開催中のフェアにてフェイリス(彼に言わせればフェイリス”たん”)の名前入りチョコをゲットしてきたというわけである。
 だから、もらった、というのはちょっとばかりの語弊がある。確かにもらいはした。手渡しされもした。ただ、対価が必要だったという、ただそれだけの話である。
 つまり彼は買ってきたのだ。チョコを、自腹で。
「ふひ、ふひひ、サーセンwww」
 だがそこに後悔はない。現に秋葉原を出て大学に向かっている彼の顔は、もうこれ以上なくほくほくである。いまも@ちゃんねるのスレで「フェイリスたんのチョコ買えなかった売り切れ早すぎ!!」とわめいている輩を見ながら、彼は優越感に浸りきっていた。もちろん買えたことを自慢するようなレスはしない。紳士はただじっと己の幸福に酔うのみである。
 けれど、だ。
 けれど、その成果と携帯の別ブラウザで「バレンタイン撲滅スレ」に怒濤の書き込みをしていることとは、また別の話なのである。
 家庭事情からいわゆる最後の砦「カーチャン」のチョコすらアテに出来ない彼にとって、メイクイーンのチョコはあるとしても、基本的にバレンタインは滅ぶべきものなのである。一週間くらい前からその手のネタ画像(「バレンタイン終了のお知らせ」「お菓子会社の陰謀を許すな」「バレンタインの本来の意義」などなど)を作ってはうpロダにアップロードしまくっていたし、VIPに「バレンタインに向けて彼女作りたい」なんてスレがあれば鬼畜安価に精を出した。そのくらい、彼にとってバレンタインは憎き仇敵でもあるのである。
 しかも今年はなんと盟友の一人が陥落してしまったのだ。一緒に魔法使いになると誓った仲なのに、今ではリア充っぷりを遺憾なく発揮させているあの厨二野郎のことである。今ごろは橋田至が出るはずだった講義に出ている(そして彼の代返をしている)頃だろうが、むしろそのくらいでリア充っぷりに目を瞑ってあげてる僕って神じゃね、と橋田至はわりと本気で思っていた。
 だから彼はフェイリスのチョコを買えたことに誇りを覚えながらも、今日も一日講義を聞き流しながら@ちゃんねるを見るために大学へと向かうのだった。きっと今日の@ちゃんねるはどこもかしこも同類の叫びでいっぱいになっていることだろう。橋田至は誇りを胸に、その応援に向かうのである。
 ……そう、だが彼はまだ知らない。
 彼はこの日の夕方、その”厨二野郎”のおかげもあって今度は世の男性の大半から羨まれてしまうほど、とある女性たち――つまりは”ラボメン”たちからチョコをもらう機会が、これから控えているのだということを。





 地鳴りのような声を響かせてむせび泣くその大男を、桐生萌郁はまだ小さい彼の娘とともに温かい気持ちで見守っていた。
 予感はあった。喜ぶことは分かっていた。この大男――すなわち天王寺裕吾に決して悟られないよう、周到に準備を進めていたのだ。彼の自宅のキッチンを使うのは彼が仕事に出掛けてきてから。ゴミが多くなりそうだと思ったときには、作業場を萌郁のアパートの台所へと変えて。彼女は裕吾の愛娘、つまりは天王寺綯とともに、このサプライズプレゼントに向けて二人三脚で準備と練習を重ねてきたのである。
 材料費は萌郁が出したが、お菓子作りでメインを張ったのはむしろ綯の方だ。日頃から父親のぶんまで料理を手がけるこの健気な少女は、毎日をカップ焼きそばで過ごす萌郁より料理の腕は遥かに上だった。無かったものといえば年相応のお金とラッピングなどについての知識。そのあたりは疎いとはいえ年の功、萌郁がカバーしたというわけである。
 そしてその成果がコレだった。
「お父さんは、お父さんは……! く、うおぉおぉぉぉぉぉ……!!」
 愛用の42型ブラウン管テレビを背に、天王寺裕吾は胸に二つのラッピングされた箱を抱いてなおも男泣きを続ける。丸太のように太い腕に包まれて箱が潰れてしまうのではないかとさえ思えたが、しかしそれをかかえる力は我が子を胸に抱くかのように繊細で、包装紙には傷一つつきはしない。喜んでもらえるとは思っていたけれどここまでとは、と萌郁は予想以上の反応に内心とても驚いて、けれどそれ以上に嬉しく思ってもいた。
(えへへ。良かったね、萌郁お姉ちゃん)
 感涙にむせぶ父を前に、綯もまた嬉しそうに小声でサプライズの成功を萌郁に告げる。うん、大成功。娘に劣らぬ笑顔とともにこちらも小声で頷き返し、萌郁は綯の頭をさすさすと撫でつける。よくできました。年齢の割に素直に育った少女は、姉のように慕う彼女からのそんな行為にも嬉しそうに眼を細めた。
 そうしてそうこうしているうちに、ようやく天王寺裕吾も落ち着いてきたらしい。まだ乱れる息を整えつつ、涙を拭って声を震わせる。
「はあ、俺はもうほんと嬉しくて嬉しくて……綯、それにバイト、お前もだ。本当にありがとうな。ぜんっぜん気付かなかったから、まさかこんなすごいものが貰えるとは思わなくてよう……」
「だってだって、お父さんには見つからないようにしてたんだもん! ねっ!」
「驚かせようって、思って」
「そりゃあおめえ、驚いたのなんのって! ああもう、いい、いい! 今日はもう店じまいにするぞ! 溶けっちまう前にみんなで食べようじゃねえか!」
 それがいいそれがいい、と天王寺裕吾は一人で大仰に頷いて、まだ泣き腫らした跡の残る赤い目のまま、ぱん、と一つ大きく手を叩いた。いいのかな、とちょっとだけ心配そうに見上げてきた少女の視線に、なかば予想はしていた萌郁はこくりと肯定をしてみせる。どうせこのままじゃロクに商売に集中できやしまい。愛娘に向けるでれでれとした視線そのままに、天王寺裕吾は二つのチョコを四方八方から眺め回し始めていた。そうしてひとしきり眺めたあと、丁寧に、本当に羽根が落ちるかのようにふわりと机の上にそれを置き直して、「おいバイト」と続ける。
「んじゃあれだ、もう閉店の札下げてくれ。どうせ客も来ねえだろうしな。あ、シャッターはまだいいけどよ」
 指示を承諾し、萌郁が入り口へと向かう。するとその拍子に隠れていた萌郁の私物が天王寺裕吾の位置からも見えて、はてあれはなんだろう、なんてしばらく考えを巡らせた後、再び萌郁が戻ってくるあたりで彼はようやくそれに気が付いた。そういった事情に疎いのは半分自覚しているが、今回はなぜかあっさり分かってしまった。そのことに彼は言いようのない喜びも覚える。
 ともかく、だ。今日は気分が良いから、あのやかましい野郎が少しくらいいい目を見ても気にはすまい。そう自分の中で結論付けてから、いつの間にかすぐ近くまで寄ってきていた娘の頭を撫でつつ天王寺裕吾は告げた。
「おうバイト、他にも渡す相手が居るならさっさと渡してこい。そのくらいの間は待っててやるからよ」
「あっ……」
「んだよ、別に隠すこともねえだろ。ほれ、どうせ暇してるんだろうから行ってこい」
 唇の端をにやりと上げながら、くい、と親指を立てて天王寺裕吾が天井を指し示す。
 それに対して萌郁は珍しく恥ずかしそうに俯いてぺこりとお辞儀をしたあと、置いていた鞄から小さな箱をひとつ手に取って。
「あ、まゆりお姉ちゃんが居たら呼んでもらってもいーい?」
 綯からのそんな呼び掛けに萌郁は再び頷きを返して、たった今閉店の看板を下ろした入り口から心持ち小走りで外へと駆け出していく。
 天王寺裕吾に渡したそれとは違うラッピングのそれを、とある人物に渡すために。
 ……ちなみにその際、彼女は橋田至のことを完璧なまでに失念していて、自分用にとひっそりとっておいたチョコを取りに慌てて戻ってくるのだが、それはもうちょっとだけ後の話ということで。





 漆原るかは、非力な身体に鞭打ってようやく自宅へと到着した。
 なかばふらふらになりながらの彼の手には、椎名まゆりが朝持っていたのと劣らぬ大きさの紙袋があった。ちらりとのぞいて見える中身も同様にラッピングされたお菓子の数々だったが、もちろんまゆりのそれをそのままもらったというわけではない。
 端的に言って、彼はこのイベントの一番の人気者だった。
 友人のそう多くはない彼ではあったが、そのコミュニティの大半は女性が占めていたといっていい。加えて端正な容姿――というだけならばまだしも、その中性的な振る舞いはチョコを渡す相手としての敷居をほとんど友チョコと同等レベルにまで引き下げていて、今日というこの日、高校にて彼はひっきりなしにプレゼントをもらう立場となってしまうのである。
 もちろん料理が得意である彼もお菓子を作れぬわけではない。ちょっぴり出過ぎた考えになってしまうが、お菓子を色んな人からもらえるであろうことはあらかじめ分かっていたのだ。だから自作のクッキーやらチョコやらを、彼なりにではあるがありったけ作って交換用にと持っていきはしたのだ。残念ながら一つ一つの大きさは小さかったが、その数で言えばそれは出掛けの椎名まゆりが持っていたそれに勝る数だったはずだった。気が小さい彼にとっては分を越える量だった。だったはず、なのだ。
 なのに。
「はあ、それにしてもこんなに……ボク、食べられるのかなあ……」
 へとへとになりながら神社の縁側にどさりと紙袋をのせて、漆原るかは改めてその数に自分のことながら溜息を吐く。
 用意していた交換用のお菓子は始業のベルが鳴る頃には消え失せていた。瞬殺だった。朝登校して、まず机からはみ出してもはや堂々と机の上に重ねられていたチョコレートの山にまず驚愕。数少ない男友達やまわりの席の子に「漆原くんだったらしょうがないよね」なんて生暖かい目で見守られながら、差出人を調べて律儀にお返しのチョコを渡すだけでまず半分消えた。それから彼の登校を待っていたかのように狙い澄まして訪ねてくる女の子とお菓子を交換してさらに半分。無くなる前に、ということでクラスメイトに男女問わず渡し終えたころには、彼がこれまたひいこら言いながら一生懸命持ってきた紙袋の中身はすっからかんになっていて、代わりに溢れんばかりのチョコレートが手元に残ることになった。
 全て、始業ベルより前の出来事である。
「申し訳ないけど、まゆりちゃんたちにもちょっと手伝ってもらうことになりそうかな……」
 どう考えても食べきれない量のそれらを前に肩を落とし、毎年のことではあるがその使い道をどうにかこうにか思案せざるを得ない。できれば全部食べてあげたい。でもそんなこと、漆原るかのその小さい身体には限界を超える努力を以てしてもなお余りある難行だった。そして心優しい彼は罪悪感を感じながらも、腐らせちゃうよりは、ということで椎名まゆりやその他の友人とお菓子三昧の日々を乗り越え、なんとか消費することになるのである。こんなときは自分もかなりの数をもらっているはずなのに、それでもなお人のお菓子を食べられるあの健啖な親友がちょっとだけ羨ましくあった。
「……って、あっ! 時間、そろそろ行かないと……!」
 嬉しそうに甘いものを頬張る当の親友、まゆりのことを思い浮かべて、連鎖的にこれからの予定を思い出す。慌てて自室に飛び込んで、学生服から私服へと着替え。そのまま冷蔵庫に向かって、学校には持っていかなかったとびきりの、かつ唯一無二のラッピングをした自作チョコを取り出した。急いでそれを鞄に詰めて、同様にそれよりはやや劣るものの、それでも確かな重みを感じる幾つかのお菓子をその上から放り込んで、漆原るかは再び屋外にとって返す。
 ――あまり遅くなっても迷惑だから。
 そろそろ大学は終わってるはずだよね、と独りごちて、彼はくたびれた足に再び活を入れ、一路秋葉原電気街の北限を目指す。
 そう。
 彼のこの日のイベントは、むしろこれからが本番なのである。





 最後の店員をロッカールームで見送って、フェイリス・ニャンニャンはふぅっと一つ息を吐いた。
 毎年のことながら、今日はすごい人の入りだった。人の捌けた更衣室でフェイリスは独り今日の喧噪を思い返す。朝から雪崩れ込む客の列。コミケさながら、飛ぶように売れていくチョコレートやそのセット。店内の飾り付けもこの日のために用意した豪華仕様で、朝も早くから来てくれたご主人様たちの気分が盛り上がっているのを肌で感じ、フェイリスはとても嬉しかった。
 仕事柄ということもあるし、そもそもの性格ゆえということもあるが、彼女は別に今日この日、メイドカフェにチョコを買いに来るような男性を特別どうとは思っていない。考えは人それぞれだ。@ちゃんねるでくだを巻くもよし、リアル彼女からチョコを渡されて爆発するもよし、想い人にチョコを渡そうと朝からどきどきするもよし。色んな選択肢がある中で、自分が運営しているメイドカフェにチョコを買いに来てくれるというのであれば、それは誇らしくはあれど、恥じ入るようなことは決してない。とすればその価値を共有するご主人様たちをバカにするようなことは、彼女にとってそもそも思考の埒外だったと言っていい。
「フニャ、でももうちょっと用意できれば良かったかニャー」
 誰も居ないロッカールームで、自分専用のロッカーを開けてメイド服を脱ぎながら独りごちる。
 フェイリス・ニャンニャンの名前入りのチョコレートは、これまたコミケの企業ブースかといわんばかりの速度で完売してしまった。なんせ開店前から並んでいても買えない人が出る始末だったのである。一時は暴動になりかけたそれを、けれども念のためと用意していたサイン入りの代替品を放出することでなんとか収めたのは彼女の手腕のなせる技でもあった。彼女自身、イベントで買えない商品があったときの落胆を知っているがゆえの行動である。
 もし来年もあるならそのときは今日の倍でもいいかニャー、なんて考えながら、慣れた手つきでその身に纏う洋服をメイド服から普段の私服へ。その間もずっとネコミミは外さない。以前その話をラボでしたら、「流石ではないか、フェイリス・ニャンニャンよ!」なんて妙に褒められたのを思い出す。「俺も白衣を着たまま着替えられればいいんだがな」とも言っていたけれど、それはどう考えても無理だろう。
「……ニャ。ニャーニャーニャー」
 そうだ。それで思い出した。
 ……いや、実は最初から覚えてはいた。みんなが帰ってから着替えたのだってそのためだ。ハンガーに引っかけたメイド服の下、ロッカーの棚には普段は置いていないはずの、シックな色合いで彩られた小さな箱がひっそりと佇んでいた。朝、誰よりも早くここに来て、誰にも見つからないうちにしまっておいたその小箱。彼女手ずからラッピングしたその中身は、フェイリス・ニャンニャンではない、もっと普通の人名が書かれたメッセージカード入りの、お手製のチョコレートである。
 それを彼女は引っ張り出して、今度こそそこで彼女は頭についたネコミミを外した。そうして一度だけ、ぎゅっ、とその小箱を軽く胸に抱く。
「……喜んでくれるかな」
 ぽそりと呟かれた乙女の弱音は、けれどすぐさま消え失せる。彼女は再びネコミミをつけ直し、用意しておいた他のいくつかのお菓子の入った紙袋に、それとなくその大事な小箱を重ね入れた。「フニャ!」と戻ってきた猫語とともに気合一発持ち上げて、ぱたんとロッカーの扉を閉じる。
「ニャンニャン、喜んでくれるに決まっているのニャン」
 姿見の前で軽く猫ポーズを決めて、彼女はもう一人の自分の本音を吹き飛ばす。垣間見せた静かな調子はまるで幻想だったかのよう。中の人など居ないニャン、と言わんばかりに笑みを浮かべ、そのまま軽い足取りでぴょんぴょんと飛び跳ねるようにロッカールームを出て行って。
「さ、それじゃーラボに向かうのニャー」
 誰にでもなくそう宣言し、彼女はぱちりとロッカールームの明かりを落としたのだった。




        ○         ○




 ……皆が帰った後も、岡部倫太郎はラボで時間を潰していた。
 立春を過ぎたものの、外はもう夜の帳が降りている。夏の暑さほどではないが冬の寒さもラボでは厳しく、古びた電熱ヒーターとよれよれの毛布がなんとか暖かさを保っているくらいなものだ。そんな中でソファに身を沈めぼけっとテレビを眺めながら、彼は今日の慌ただしさに人知れずそっと溜息を吐く。
 狂気のマッドサイエンティストを自称していただけあって、浮ついたイベントに他の男性陣――例えば橋田至ほどの執着は彼にはない。今となってはさほど斜に構えた見方はしなくなってはいたが、それでも好んでどうこうしようという気はさらさらなかったのだ。どうせ今年もまゆりと、あとはルカ子あたりからもらえるだろうか、なんて予測はしていたが、結果はその予想を遥かに超えるものだったと言っていい。
「はあ……」
 溜息は、さながら嬉しい感情を持て余したがゆえに、ちょっと悪ぶってみせる中学生みたいなものだ。いまも冷蔵庫には今まで見たこともない数のチョコが押し込められている。その場で味見を薦められたものは口にしたし、そのどれもが今まで彼が食べたことのない、美味しくて手の込んでいるものばかりだった。判別をつけられるだけの知識も舌もなかったが、反応を見るに全て手作りだったと見るべきだろう。そういった判断ができるくらいには、彼とて物を知らぬわけではない。
 もちろんもらったのは岡部だけではなく、ラボに来た女性陣は一緒に橋田至にもお菓子を手渡していた。岡部とのラッピングの違いが分かったのは、必ず先に渡された岡部の方だけだっただろう。それでも橋田至にしてみれば天恵には違いなく、彼はついさっきまで@ちゃんねるのあらゆるイベント関連スレに顔を出してはありとあらゆる自慢を書き込みまくっていたりした。「チョコをもらった数だけ文字が打てるスレ」「負け組を笑うスレ」なんかは言うに及ばず、「もらえなかった奴ら集まれ!」「今日チョコ買った奴ら涙目www明日からは半額以下ww」「今年もカーチャン以外からはゼロだったやつの数→」などなど、本来の目的とは違うスレでまで自慢話を書き込んでいったのだから大したものである。お陰で今日一日はラボのPCで他スレに書き込みができないほどになっていた。IDでバレてすぐさま叩かれる始末なのである。
「ま、気持ちは分からないでもないがな」
 言いながら、岡部は橋田至の喜びっぷりを思い出して苦笑する。お菓子をもらうたびに彼は一喜一憂していて、フェイリスから改めて手作りクッキーなんかをもらった際には鼻血まで出し、続けて「プライベートだから他のご主人様には絶対秘密ニャン♪」と言われた時には失神するんじゃないかと思うほどだった。さらにさっきなどはメールで知人から贈り物の連絡を受けたとかで、何かわけの分からぬことを叫びながら飛ぶようにラボから出て行ったばかりである。きっと相手は冬コミマで出会った彼女だろう、と岡部は判断する。きっと彼にとっては、それこそが一番嬉しいに違いない。
「……」
 そうしてそれを思うと、これだけチョコをもらったというのにどうして自分はここにこうして居るのだろう、という思いが岡部に重くのしかかってきた。自分もまた冷蔵庫のチョコを抱えて、さっさと帰るべきなのだ。だというのに、何の用もないというのに、どうしてこう糞寒いラボで淡々とテレビを眺めてなどいるのか。せめて冷蔵庫のチョコを食べたらどうか。そんな考えが次々に岡部の中から沸いて出る。
 ――でも、もしかしたら。
 それは彼にとって自覚したくはなかった考えだった。何か気の利いた言い訳があればそれを寄る辺にラボに留まることもできただろうが、あいにく『機関』の監視にももう用はない。今外に出ると俺を狙う刺客が、なんて冗談も、一人で呟けば空寒いものでしかないと、岡部はもう十分に理解していたのだ。
 だから、彼はテレビ番組が一区切りついたところで、はあ、と大きく大きく息を吐いて、観念したかのように肩を落として立ち上がる。
「……帰るか」
 帰って自室でひっそりともらったチョコを楽しもう。自宅の冷蔵庫は使うまい。だってそんなことをすれば両親が黙っちゃいないだろうから。ともかく、それぞれの手作りチョコの味を想像しながら冷蔵庫を開き、紙袋に詰めて、さて部屋を辞そうと思った――ちょうどその時。
 ぴんぽーん、とラボの滅多にならないドアホンが静かな室内に響き渡って。
「……ッ!」
 彼は急いで来客に出る。
 扉を開けると、そこに立っていたのは営業的な笑みを浮かべた若い男性。だが一日の肉体労働にどこか疲れも見え隠れして、岡部はらしくもなく「おつかれさまです」と労をねぎらった。
 無論、相手自身に用はない。問題なのは相手が着ている運送屋の制服と、その手に抱える荷物であって――
 わざわざ実家から持ってきていた「岡部」の判を押し、彼は宛名がアルファベットで書かれている小包を受け取る。
 にこやかに退散する配達員を見送って、その足音が完全に階段を下りきるより先に、彼は丁寧に、けれど高鳴る胸の鼓動そのままにその包みを急ぎ開いて。
 そこにあったのは”彼女”自身を思い起こさせる真っ赤な包装紙に包まれたその箱と、リボンに挟まれた見間違いようのない、それでいてどこか懐かしい彼女の文字が書かれたメッセージカード。それを見て、彼は深く、本当に深く深く歓喜と安堵と吐息を漏らした。
「まったく……もっと早く送ってこいというのだ、バカめ」
 呆れたように言ってはみるものの、笑みを抑えることなど到底できはせず。
 それから岡部はしばしの間、はるばる海を越えてようやく辿り着いたその真紅のプレゼントとメッセージカードを、ただひたすらに眺め続けていたのだった。


 ――Happy Valentine’s Day!
 ――来月半ばには帰れそうだから、お返し用意して待ってなさいよ! ヽ(*゚д゚)ノ

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