目覚めに甘い珈琲

[divergence x.xxxxxx]
 目覚めは比較的快適だった。
「ん……っ」
 己のうめき声を耳にして、俺はふっと意識を取り戻す。眠っていた。身体はすっかり乾いていて、うめきは外に漏れたかどうかすら怪しい。それでもゆっくりと覚醒していく中で、段々と周りの様子が分かってくる。
 まず、視界が暗い。加えてざらざらした感覚が顔を上から覆っていた。触れていたのは紙、もっと言えば雑誌だった。姿勢は仰向け。ソファに沈む暖かいその身はかちこちで、俺は雑誌を読みながら寝てしまっていたらしい。いわゆる寝落ちというやつ。読んでいた雑誌を目隠しに使う辺り我ながら計算高い。ちなみに開かれていたのはどこぞのパソコンショップのコラムだったが、あいにくその内容はさっぱり覚えちゃいなかった。
 ……それで、いま何時だ?
 状況から、身体はかなり長く眠っていたと告げている。雑誌を読み始めたのは三時過ぎ。とすればもう夕方か。すぐに雑誌を除けて時計を見――ようとして、けれども失敗した。腕が思うように動かなかった。なんと毛布がかけられていたのだった。
「……うん?」
 雑誌を読みながら眠ってしまったのだ、自分でかけたはずはない。妙に暖かく感じたのはこのせいか。ゆっくり身を起こし、ようやく雑誌を顔からどかす。ラボの明かりはついていて眩しさに一瞬目が眩む。
 時刻はやはり夕方だった。横合いから差し込む夕日の光。寝ぼけ眼をごしごしこすると、今度はかちかちという音が聞こえてきた。目を向ける。紅莉栖がこちらに背を向け、PCの前に座っていた。
 声をかけるべきか否か。迷った末に現状維持を選択する。というか声を出すのもかったるかった。かちかちというマウスの音、合間にコーヒーを飲みつつ、モニタには全画面で専ブラが開かれている。生粋の@ちゃんねらー。ぼうっとその後ろ姿を眺めていると、紅莉栖はふたたびずいっとコーヒーを一口。そして反対の手でマウスをかちりと押して。
「ぷっ……!」
 立ち上がる鼻から抜ける笑い声と、直後、けほけほっという品のない咳き込み。紅莉栖は肩を揺らして見事にコーヒーを吹きそうになっていた。慌ててカップを置いて口元を拭い、直後にキーボードをかたかたと叩き出した。内容は見えない。しかし何を打ったかはなんとなく分かる。
 それから紅莉栖は足を組み替えて、何ごともなかったかのように再びコーヒーに口をつけた。見ようによっては優雅な仕草。眺めているのが@ちゃんねるで、しかも自分の書き込みの反応を待っている、という条件がなければ完璧だ。
 そしてそんなことがしばらく続き、コーヒーを飲み終わった紅莉栖が面倒そうに立ち上がる。そのまま台所に向かおうとして、こちらに気付いた。
「あ、なんだ岡部、起きて――」
 自分の言葉を止めた紅莉栖の、そこからの動きは素早かった。空のカップを乱暴にテーブルに投げ出したかと思えば、すぐさまマウスを掴み瞬時にウィンドウ右上をクリックする。閉じられる専ブラ。入れ替わりにダルの設定した萌え萌えデスクトップが姿を現した。
「はあ。もう、起きたなら声かけなさいよ。もしかしてずっと見てた?」
「いや、そんなには。お前がモニタにコーヒーを吹いたところくらいからだ」
「……鬱だ」
 紅莉栖が肩を落とす。けれどそれも一瞬で、気付けば新しいコーヒーをカップに注いでいた。まだ@ちゃんねるを見るのか、と思ったら、「はい」とコーヒーカップを渡される。
「目覚めの一杯、どう?」
「口止め料か?」
「悲しいけど、今更口を止めたところでねえ……。単なるお節介よ。いらない?」
「いや、もらおう。助手らしい気遣いができるようになったではないか」
「はいはい。でもかわりにカップ、洗っておいて」
「んな……っ!」
 ただではひかないヤツである。けれど喉がからからだったのも事実なので、俺はコーヒーをぐいっと喉へと流し込んだ。ほどよい熱さと、甘ったるい味。コーヒーには紅莉栖好みの砂糖が入っているようだった。角砂糖二個。文句を言うと、寝起きは糖分が必要でしょ、なんて返ってきた。
「……ふう」
 コーヒーを半分ほど飲んで一息つく。紅莉栖は椅子に座ってこちらの様子を眺めていた。
「どうかしたか?」
「ん……別に。それよりこれから、どうするの? 夕飯食べていく?」
「あー……もうそんな時間か?」
「とんだ寝ぼすけね」
 紅莉栖が笑う。俺も笑った。
「否定はしない。ダルとまゆりは?」
「二人とも用があるって」言いながら立ち上がって、呟く。「私は食べていこうかな、って思ってるけど」
 じと、とさも何かを言いたそうにこちらを見つつ、だ。あからさまな意見に顔が綻びそうになる。俺も紅莉栖に合わせて立ち上がった。寝起きの身体も、糖分過多のコーヒーでわりとしゃっきり目覚めてくれた。
「連日カップ麺というのもアレだな。日が落ちる前に買いに行くか」
「ん。あんたがそう言うなら、そうしてあげる」
「ったく……」
 紅莉栖が嬉しそうにPCの電源を落とす。出掛ける準備。俺もそれに続こうとして、テーブルの上に置きっぱなしのコーヒーカップが目についた。
「紅莉栖」
「ん? なに?」
「毛布、ありがとな」
「ふぇっ?」
 ストレートに感謝の言葉を述べながら、労いの意味を込めて半分ほど中身の残るコーヒーカップを手渡す。紅莉栖は案の定、顔を赤くしてあうあう言いながら両手でカップを受け取った。別にあんたのためじゃなくてどうたら、私がいれたコーヒーなんだから全然礼じゃないかろうなんたら、という言葉を呟きながら、ちびちびとカップに口をつけ始める。それを見届けて言ってやった。
「ではカップはお前が洗っておくのだぞ、助手よ」
「な……!? ちょ、おま、それが狙い!?」
「フゥーハハハ! この俺がそう易々と礼を言うとでも思ったか! ククッ、飲み残しのコーヒーごときに釣られるとはな!」
 作戦の成功に気分を良くしながら、俺は財布と携帯をポケットに突っ込んで外出の準備を完了させる。紅莉栖は俺に睨み目を向けながらも律儀にコーヒーを飲み干して、はあ、と大きく溜息を吐いた。
「……ま、いいわ。どうせあんた、食器洗うの雑だしね」
「そうか? ダルよりはマシだろう?」
「どっちもどっち。あれじゃ将来、実験器具を洗うときにも不都合よ」
「ああ、なんで料理はダメなのに洗うのは得意なのかと思っていたが、そのせいか」
「何か言った?」
「イイエナンデモアリマセン」
「そう。……準備いい?」
「いいぞ」
 ぱちり、と紅莉栖が部屋の電気を落とし、二人並んでラボを出る。外は思ったほど冷えてはおらず、このぶんだとコンビニまでの往復は比較的楽に済みそうだった。
「お前は弁当、何にするんだ?」
「んー、見てから決めようかなって。岡部は?」
「俺もそうするかな」
 なんでもない言葉を交わしながらコンビニへと向かう。
 今日の夕飯は、いつも通り楽しいものになりそうだった――。

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