はいチーズ

[divergence x.xxxxxx]
 アルバイトは、今日も低調だった。
 秋葉原の外れに店を構えるここ「ブラウン管工房」は今日も元気に開店休業。お客どころか、冷やかしの見物人すら寄りつきはしない。どちらかと言えばこういうことに疎い萌郁から見ても、お店の狙い、店構え、立地、その他もろもろ、どれを取っても顧客ニーズに答えているとは思いづらかった。
 というかそもそも、顧客がいない。時代外れのブラウン管専門店。店長である天王寺裕吾はことあるごとに時代の変遷を嘆いているが、そもかつては繁盛していたのかというと、それもそれで疑わしいなと彼女は常々思っていた。

 それでも仕事がまったくない、というわけでもないらしい。
 現に、今日も店主はブラウン管の回収とやらで軽トラを転がしに行っている。
 客はどこでこの店のことを知るんだろうと、萌郁は普段は天王寺裕吾がそのいかつい身体を置いている、店の一番奥のパイプ椅子に座りながら思う。若干埃まみれの店内。自慢の四十二型ブラウン管テレビは眩しすぎるので消してあるが、店全体と、店の前の通りを見通せるその席からの眺めはそれなりに気に入っていた。散らかり具合とその狭さが自宅のアパートに似ているから……なんて言うと、叱責の一つももらってしまうだろうけれど。

 そうして、さて今日はどうやって時間を潰そうか、萌郁がそんなことを考え始めた矢先、換気代わりにちょっぴり開けている入り口の隙間から、いつもの声が流れ込んできた。

『あーっ、もう! あんたはどうしていつもいつも……!』
『やかましい! だいたいプリンだのアイスだのの一つや二つでぎゃあぎゃあ喚くな。育ちが知れるぞ、助手よ』
『それはこっちのセリフよ! っていうか一つ二つじゃなかろう!』

 だんだん、と地団駄を踏む音とともに響いてきたのは、萌郁にとっても聞き慣れた二人の声。いつもならばただでさえ強面の店長の眉がさらにきりりと吊り上がるところだろうが、今はあいにくの留守中である。運が良かったね岡部くん、なんて思っている合間にも言い争いはだんだんと熱を帯びていき、その苛烈さと、まったく歯止めの効いていない様子から、ああ、今日はまだ椎名さんは来てないんだ、と萌郁は冷静に分析していた。

『フゥーハハハ! 助手よ、貴様、どうやら最近体重が気になっているらしいではないか! ゆえにそんな助手のためを思って、俺は貴様が無駄なカロリーを摂取せんようにと――』
『屁理屈言うな! ああもう、信じらんない! しかもまた私の分だけ!』
『そう怒るな。また買ってくればよかろう』
『まったくもって正論だけど、あんたが言うな! はあ……』

 溜息と、それに続く高笑い。
 言い合いが一応の終結を見たのか、声はそれからぷつりと途絶えた。それでもどたどたと歩き回ってる音はして、ああ、二階の窓を閉めたのかと萌郁は遅れて気付く。聞き耳を立てている分際で何だが、閉め出されてしまったかのようで少しだけ居心地が悪い。うるさくて店長さん怒ってるよ、なんてからかいのメールでも出してみようか。きっと彼は血相を変えて通りに飛び出してくることだろう。
 その様子は、大変申し訳ないけれど、ありありと想像できてなんともまあ楽しかった。

『ったく、どうして俺まで――』
『当たり前でしょ。というか、パシらせなかっただけ有り難く思いなさい』

 そうして聞こえてくる再びの声。
 同時にかつかつと階段を降りる二人分の足音がして、会話もだんだんと明瞭になっていく。

「出掛けるの、かな」

 楽しそう。いいな。
 特に他意があるわけでもなく、萌郁はただそう思った。別に自分も出掛けたいというわけじゃない。でも言い合いながらも楽しげな二人の様子は、ただそこにあるだけで羨ましく思えるほどのものだった。

 できれば写真に収めたい。その考えは、萌郁にとっては当然の成り行きだ。だから行き先がきっと中央通りの方で、ブラウン管工房の前を二人は横切らないであろうことに若干の残念さを覚えたのだが――

「フゥーハハハ! ラボメンナンバー005、閃光の指圧師よ、しっかりとバイトに励んでいるようだな!」
「岡部……くん?」

 だから入り口の戸を無遠慮にがらりと開けて岡部が叫びだしたことは、萌郁にとって予想外もいいところだった。
 唖然とするその表情を前にして、隣で紅莉栖が申し訳なさそうに頭を下げる。息子の非礼を詫びる母親みたいだな、と萌郁は思った。

「ごめんなさい、桐生さん。こいつってば店長さんが居ないと見るとすぐ調子乗って……おい岡部。バイトの邪魔したら家賃上げるぞって、こないだ店長さんに言われたばかりじゃない」
「ふぐっ……! そ、そういえばそうだった……! ミスターブラウンめ、我がラボメンをバイトとしてこき使いながら、邪魔をすれば家賃を上げるなどと……横暴もいいところではないか!」
「まったく正当な理屈だと思うけど」
「こら助手! 貴様はどっちの味方なのだ!」
「私は常に論理的に正しい方の味方。つまり、私はいつだってあんたの敵よ」
「なっ!? 貴様、助手のくせして――」

 ピロリン♪

 言葉を遮る甲高い効果音。
 ベストショットが撮れたと、萌郁は心の中で小さく微笑む。

「な、な、なな……お、おい指圧師! 勝手に撮るなといつも言ってるだろう!?」
「……だめ、かな」
「どうせ撮ったのは岡部のマヌケ面でしょ? いいわよ、いくら撮っても」
「どうしてお前が許可を出す!? ええい、消せ! 今すぐ――」

 岡部が手を伸ばす。
 それが強引に携帯を奪い取ることは決してないと萌郁も知ってはいたが、それでも写真の消去は確認させろと言ってくるだろう。
 けど、それは困る。
 せっかくのいい画が撮れたのだ。だからどうにかして……と思い、彼女はぽそりと呟いた。

「店長、さん」
「――へあっ!? ミ、ミスターブラウンがどうかしたのか?」
「バイト、邪魔しないでって、言ってた」
「なっ……!? い、いや違うぞ! 邪魔ではなく、これは激励というか、何というか……」

 しどろもどろ。
 チャンスだ、と思った。

「だから、写真、消さないで、いいなら……言わない」
「こ、この鳳凰院凶真相手に取引をしようというのか、指圧師め!」
「……だめ?」

 じ、と目があう。
 気付けば萌郁は携帯を胸に抱くようにしてかばっていた。それを奪い取ろうとする岡部はどこからどうみても悪者である。身を抱くか弱い女性と、それに襲いかかる長身の男。この店の店主がそれを見たなら、憐れその白衣は真っ赤に染まってしまったことだろう。

「……」
「……」

 眼鏡越しに交錯する視線。
 はあ、という溜息とともに、先に折れたのは岡部だった。

「……そこまで頑ななら、まあ、なんだ。改めて聞くが、こちらに向けて写真を撮っただけだな?」
「そう。それ、だけ」
「なら仕方がない……フッ、これも有名税というもの、諦めなければなるまい」
「まったく、よく言うわ。あんたは店長さんが怖いだけだろ」
「ちちち違う! そんなことはない! だ、だが指圧師よ、約束は守ってもらうぞ! それと雑誌にこの俺の特集記事を載せる場合は事前に連絡を入れること! でなければ俺のこの封印されし右腕が……」
「……約束は、守る。言わない、から」
「ならよし。まったく、余計な時間を食ってしまった……」

 あんたがそもそもの原因だろ、という紅莉栖の突っ込みをさらりと聞き流して、岡部は白衣を翻しブラウン管工房から外へと出て行く。ぶわさっと白衣の裾が舞うような絵を本人はイメージしたのだろうが、風がないせいで白衣はへなへなと揺れるだけにとどまった。
 もちろん、気にする岡部でもない。

「フゥーハハハ! ではアルバイトを引き続き頑張るのだな、指圧師よ! それと助手、いつまで突っ立っている、早く来んか!」
「ああもう、どこからツッコんでいいやら……。ごめんなさい、桐生さん。あとでこの馬鹿に何か持ってお詫びにでも来させるから。それじゃ……って、ああもう、おいこら待て! 勝手に人を置いていくなと――」

 やんややんやとかまびすしい声を響かせながら、楽しげな言い合いがゆっくりと遠のいていく。

 後に残ったのは嵐の後のような静けさ。それでもぱかりと携帯を開けば飛び込んでくるその写真のおかげで、萌郁はまったく寂しさを感じはしなかった。

 本当にいい写真。誰かに見せたい。でも他の人に見せると岡部くんが怒りそうだよね。決めてしまえば早い操作も、けれどうんうんと萌郁は萌郁なりに色々と考えて――そうしているうちに、がらがらっと入り口の開く音がした。萌郁が顔を上げると、入ってきたのはこの店の主。仕事がようやく終わったらしい。

「おう、しっかり店番してたみてえだな」

 ブラウン管をその太い腕で軽々と抱えながら、店長が店の奥へと踏み入る。そのまま適当なブラウン管の上に、どすん、とそれを重ね起きした。ひどく不安定のようにも見えたが、これはこれで美意識というものがあるらしい。それを知っている萌郁は、特に口を挟むことはしなかった。

「ふぅ、よくもまあこんな型式が残ってたもんだ。おめえは知らねえだろうが、この時代のは手に入りづらくて――うん?」
「……?」

 店長の言葉が不自然に止まったことに、萌郁は首を傾げる。この型式が……何?

「なんだバイト、やけに楽しそうじゃねえか。何かあったのか?」
「……え?」

 型式、じゃなくて?

「おいおい、気付いてねえのか? いつもは楽しいんだかなんだか分からない顔してるくせに、今日はずいぶんと機嫌良さそうに見えるぞ。どうした、宝くじでも当たったか?」

 そしたら俺にラーメンの一つくらいおごってくれよ、なんて笑いながら言って、店長は再びトラックから荷物を運ぶために外へと出て行く。
 それを見送って萌郁は――再び首を傾げた。

「楽し、そう?」

 思い当たるのは、先ほど取った写真のことだけだ。
 いい画が撮れた。でもそんなことは今までもあったはずなのに――。

 ♪〜

「……メール?」

 携帯から、今度はメール着信音。
 店長がまだ外に居ることを確認して、バイト中にごめんなさいと心の中でちょっと謝ってから、萌郁はぱかっと携帯を開いた。

「title:さっきはゴメンなさい
 from:牧瀬さん
 sub:うるさくしたお詫びに何か買っていこうと思うんだけど、桐生さんは何か希望ある?
   もちろん岡部のお金だから気にしないで! 寿司でも焼き肉でもなんなりと!

   …あとさっきの写真、私にも送ってもらってもいい?
   あ、岡部にはナイショで!」

「ん……」

 そして今度こそ、萌郁は自分の口から小さく笑いが零れたのを自覚した。
 ……やっぱり、気付いてた。
 ぱちぱちと慣れた手つきで文面を打って、萌郁は最後に件の写真を添付する。そして、送信。ぴろりん、と送信完了のベルが鳴って、それを待っていたかのように店長が萌郁に声をかけた。

「おいバイト、ちょっと運ぶの手伝ってくれ。重くはないんだが、ずいぶんとでかくてなあ」

 こくり、と首肯を返し、携帯を置いて萌郁は席を立つ。

 ……ケバブ、楽しみ、だな。
 ……それと、写真の感想も。

 考えるだけで楽しくなる、そんなことを思いながら、萌郁は店長の求めに応じて軽トラの荷台へと向かう。
 閉じ忘れた携帯の画面では、一組の男女が楽しそうに言い合いをする姿がしばらくの間表示されていたのだった――。

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