カーテン

[divergence x.xxxxxx]
 ぽつん、と鼻に当たった雨粒で、俺はようやく空へと目をやった。
 ……湿った風の吹きつける、ある日の午後。俺は二人で買い出しに出かけたコンビニの店先で、ぼうっと紅莉栖の会計が終わるのを待っていた。
 ほんのりと暑さの残る秋葉原。もうそろそろ朝の天気予報で台風情報がなくなる頃だというにも関わらず、昼間の気温はまだまだ過ごしやすいとは言い難い。それでも今日は何日ぶりの涼しさだなんだとテレビでは言っていて、確かに昨日までの暑さと比べればよほど快適ではあった。クソ暑苦しかったこの白衣も、今日はなければ肌寒さを覚えてしまっていたことだろう。
「お待たせ。じゃ、戻りましょうか」
「ん」
 コンビニから俺と同じ袋をぶら下げて、紅莉栖が早足で出てくる。袋の中身、ちょっぴり顔を覗かせている500mlのペットボトルは俺と同じラベルのもの。それと一緒にジューシーからあげを買っているのを見ると、俺はなんとも言えない気持ちになる。今もラボで待っているまゆりの、あまりに想像しやすい笑顔が、やけに嬉しそうな声付きで脳裏をよぎった気がした。
 紅莉栖が財布をしまっている間に俺はその手からビニール袋を掠め取って、そのままラボへの道を歩き出す。思った通り、やっぱりちょっとだけ重い。後ろから聞こえてくる紅莉栖の間抜けな声は聞こえなかったフリをした。
「ちょ、岡部――」
「急がんと降るかもしれんぞ」
 遅れた紅莉栖に振り返りつつ、空を見上げて告げてやる。俺の持つ袋に伸ばした手がぴたりと止まり、紅莉栖は言われたとおり空を仰ぎ見る。
 黒い雲。今にも降り出しそう――というより、もうわずかながら降っている。言ってるそばから、ぽつ、と白衣に雨が当たる感触。ひたひたと地面にも点が滲みはじめた。
「これは一雨来るわね……でも、荷物くらい」
「いいから。それより、さっさと――」
 歩き出す。ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつと耳に届くくらいに雨が降り出したかと思えば。
 ……ああ、だから遅かったのだ。
 夕立があるかもしれないから、念のため傘を――そう言っていたまゆりの言葉が今更になって身に染みる。「ぜんぜん晴れているではないか」と笑い飛ばしたあのときの俺を、それどころか「まゆりだったらトロいから降られるかもな」と馬鹿にまでしたあのときの俺を、俺は思いきり蹴り飛ばしてやりたい。ちょっとだけふくれっ面になったまゆりに、今更ながら心の中で土下座する。
「ちょ、嘘、降り出した?」
 紅莉栖の言葉も、雨音で鮮明には聞き取れない。
 途端に始まる、バケツどころか雨雲まるごとひっくり返したような土砂降りの豪雨。ぽつぽつがざあざあという激しい音に変わっていって、俺はすぐに伸ばされていた紅莉栖の手を取り駆け出した。
 残念だが、この雨ではいくら袋に入っていても、俺の買ったPC雑誌はびしょ濡れになってしまっていることだろう。大変残念ではあるが、ダルに頼まれた買い物なので俺の懐は痛まない。南無。
「なんぞこれええええええええ!?」
「走るぞ、紅莉栖!」
 その耳に俺の声が届いたかどうかは分からぬまま。
 同じく慌てる通行人たちとすれ違いながら、俺たちはラボへと駆け出したのだった――。





       ○  ○  ○





『だから言ったのにー。もう、まゆしぃはがっかりなのです』
 電話口。耳に当てた携帯から、珍しくまゆりの怒ったような声が聞こえてくる。というか、「ような」ではなくもう明らかに怒っていた。それに対し俺は、言われたとおり頭を下げるより他にない。
「すまん、悪かった。だから……」
『分かってるよう。もう、これからは気を付けなきゃだめだよ?』
「恩に着るぞまゆり! 場所は――」
 そうして、俺は現在地をまゆりに伝える。
 ……というわけで、俺たちはこの雨の中、結局ラボまで走りきることはできず、途中にあった空きテナントの軒先で雨宿りをする羽目になっていたのだった。雨音にかき消されながらもなんとかまゆりに今居る場所を伝え終え、携帯を切って懐へと戻す。こればっかりは濡らして壊すわけにもいかない。
「まゆり、来てくれるって?」
「……怒られたけどな」
「それは自業自得。まあ、傘を持たなかった私にも非はあるけど」
 紅莉栖は溜息を吐くように呟いて、シャッターを背に雨のカーテンを呆然と見上げた。
 雨はさっきからずっと滝のように降り続いていた。びしゃびしゃと地面で跳ねまくっている雨水のせいで、膝から下はお互いもうずぶ濡れもいいところ。そもそもここに来るまでにとっくに濡れ鼠状態で、紅莉栖など普段はふわりとしているその長い髪が身体にびったりと重くのしかかっていた。そこまでひどくはないが俺にしたって似たようなもの。額に張り付く前髪がひどく邪魔くさい。
「しかし、本格的に降ってくるとはな……」
 俺の呟きに、聞こえなかったのか、あまり関心がなかったのか、隣に並んで立っている紅莉栖からの返事はない。あるいはもしかしたら、返答が俺の耳まで届かなかったか。それほどまでに、雨脚は強まっていた。
 見事なまでの土砂降りは、秋葉原の景色をも一変させる。つまりは視界がまるできかないのだ。もちろん霧のように歩けないほどではさすがにないが、大通りを挟んだ向こう側にいたってはほとんど見えやしなかった。見慣れた場所であるだけに、なんとか思い出して「ああ、言われてみれば確かに……」という感じである。ちょっと青っぽいからソフマップ、といったレベルだ。
「ね、岡部」
 と、ぼけっと見えない先を眺めていると隣の紅莉栖から声がかかった。はっきり聞き取れるほどで、やけに近い。
 振り向けば、耳元まで首を伸ばして声を掛けてきていたようだった。濡れた髪が張り付くその顔に、ちょっぴりどきりとする。
「ど、どうした? 別に内緒話みたいなことをせんでも、この雨ではどうせ誰にも聞こえやしないが」
「そ、そうじゃなくて。まゆり、どのくらいで来るかしら?」
「どうって言われてもな……。まあ、十分くらいしたら来るだろう」
 駅前まで買い出しに出ていたため、ラボまでは多少距離がある。まゆりだって雨の中を傘を差して走ってくるはずもなく、準備も含めて十分ちょっとといったところだろう。そしてそんなことは、紅莉栖にだって想像くらいつくはずなのだが。
「どうかしたのか?」
「ん……いや、なんでもないから。大丈夫」
 言いつつ、けれど紅莉栖は寄り添うようにしたまま俺の裾から手を離さない。不思議に思ってよくよく見れば、裾を引っ張るというよりは俺の腕をちょっとだけ抱くようにしていて、内緒話というよりは何かに怖がってひっついてくるような仕草だった。
 けれどこの雨の中、よもや雷様が怖いというわけでもあるまい。だがじっと紅莉栖の様子を観察すれば、また俺はいつかのようにHENTAI呼ばわりされるだろう。だから俺は紅莉栖にあわせて何でもないことのように振る舞いながら(というか、何でもない人間は「大丈夫」とは言わないものだ)、ようやくある予想を思いつく。
「助手よ。お前もしかして……寒いのか?」
「――ッ」
 俺の言葉に、びくりとパーカー越しの肩が跳ねる。見れば確かに、俺の腕にしがみつくと同時、紅莉栖は身を縮こませているようでもあって、ああだから俺の予想は正しいのだとそれで確信できてしまった。
「バカが! なんでもっと早く言わん! 風邪でもひいたら――」
「あ、ううん、そんなに、寒いとか、寒気がするとかじゃないから。ちょっと、さっきまで暖かかったから、ギャップというか」
「そういう問題じゃないだろう! ああもう、何かないか、何か……!」
 手持ちのビニール袋は役に立たない。ハンカチだって一応あるがずぶ濡れだ。とすれば俺の上着であるこの白衣くらいしかなく――
「ちょ、待って待って! だから言いたくなかったのよ……あんた、それ脱いだらその下、半袖じゃない。それをもらうわけにはいかないわよ」
「だが、しかしな……」
 俺が白衣を脱ごうとするのを、紅莉栖が止める。
 確かに俺は半袖だ。まだ暑い時期だったのだからある意味では当然のこと。昨日までだったら白衣でさえ邪魔くさいほどの暑さが残っていたのだから。
 しかし今日は違う。よりによって涼しい日。そんな中、今ここで濡れたまま半袖になれば寒く感じるであろうことは俺にも予想できたものの、だがそれでも紅莉栖が風邪をひくよりはずっとマシだろう。俺など風邪をひいたところで、実家で寝込めばいいだけの話である。
「だからこの白衣はお前が……」
「いい、いいから! ……うん、でもごめん、正直やっぱり寒いから……」
「お、おいっ?」
 紅莉栖は俺が白衣を脱ごうとするのを制したまま、俺の懐にぽすっと潜り込んできた。そうして俺が着たまま白衣を上から羽織るようにして、俺は俺で白衣で紅莉栖を抱き込む形に。
「ごめん、濡れてて……あんたが冷えそうなら、すぐ離れるから」
「い、いや、俺は構わんが……」
 俺の白衣にすっぽりと収まる紅莉栖が、そのまま身体をひっつくように寄せてくる。ずぶ濡れの洋服越しに伝わってくる紅莉栖の温もり。突然のことでどうしたものかと混乱したものの、けれどそんな困惑はぶるっと震えたその仕草で一気に吹き飛んでしまった。
「……寒いんだろう? もう、遠慮しなくていいぞ」
「……ん」
 俯きがちのその頭にそう声をかけて、背中に腕を回してやる。すると意図が伝わったのだろう、紅莉栖はこくりと頷いてぎゅっとより強く俺の身体に張り付いてきた。
 びしょ濡れになっているせいで、強烈な密着感がダイレクトに伝わってくる。胸元に感じる紅莉栖の温かさと柔らかみ。それでも恥を忍んで体温を求めてくるこいつのことを思えばこそ、下世話な感情が湧いてこようはずもなかった。
「まったく、世話の焼ける……」
 苦笑しながら、ぽんぽんと背中を二度三度叩いてやる。
 雨のカーテンは、完全に俺たちを覆い隠す形となっていた。突然の豪雨に通行人はほとんどない。防音だって完璧だ。それでも俺はなるたけ紅莉栖が外から見えないよう白衣をそっちに回してやって、ぎゅっと更にその思ったよりずっと小さな身体を抱き寄せる。白衣越しに背中をさすってやると、少しだけ紅莉栖の身体から強ばりが抜けた気がした。
「ん……、岡部」
「なんだ?」
「……その、ありがと」
「別に礼を言われるまでもない。お前に風邪などひかれては堪らんからな」
 ただでさえ短い秋葉原での滞在期間を、そんなもので消費されたくはない。そう言うと、紅莉栖はくすりと笑った気がした。俺の背中に回された腕に、ぎゅっと更なる力が加わる。そのたびに俺はまるで紅莉栖の体温と俺の体温が混じり合ったような錯覚を覚える。悪い気分ではなかった。
「……しかし、雨か」
 降りしきる夕立を見上げて、呟く。
 突然の雨。
 びしょ濡れになった俺と紅莉栖。
 そこから思い出すのは、遥か遠い過去の出来事。
 ……ラジ館の屋上でのこと。久しく顔を出さなかったその記憶が、俺の脳裏に蘇ってくる。
 明かりの落ちた、暗いラジ館の踊り場で。
 自らの死を、置いていかれる孤独を怖いと告白してきた紅莉栖の震えを、俺は未だに覚えている。
 あのときの俺に、こいつを抱き締めてやる権利はどこにもなかったけれど。
「なあ、紅莉栖」
「ん……?」
 見上げてくる視線は、頬を赤く染めてちょっとばかり弱々しく。
 それでも今はこうして、紅莉栖が目の前に居てくれる。腕の中にしっかり収まってくれている。一度は失ってしまったこの温もりが、こうしてここに存在してくれている。
 そのことに特別な感情を抱かないほど、俺は紅莉栖を想っていないはずがない。
 そのあまりに幸せすぎる現実に、俺は油断すると今でも涙を流しそうになる。
 今の俺は、紅莉栖をこの手でしっかり抱き留めてやることができるのだ。その震えを止めてやることができるのだ。その孤独を、解消してやることができるのだ。
 そのことが、俺にはどうしようもなく愛おしい。
「寒くは、ないか?」
「ええ。岡部が、その、……うん、とっても暖かいから」
「……そうか。ならいい」
 お互い背中に腕を回しあって、いつの間にやら俺たちはもうほとんど抱き合う形となっていた。寒くないという紅莉栖の言葉はわりと本当だったようで、その腕や身体から震えはとうに消えている。それでも俺の身体から離れる素振りはついぞ見せず、そのまままるで俺の心臓の鼓動を聞くかのように頭をこてんと俺の胸元に載せてきた。
 恥ずかしそうにこちらを窺う視線に、俺は苦笑で応えてやる。
「……まゆりが来るまでだぞ」
 俺の鼓動が高鳴っているのを、紅莉栖はさぞ明瞭に聞き分けていることだろう。悔しいが、こればっかりはどうしようもない。白衣で隠れた中、気持ちよさそうに眼を細める紅莉栖の顔を前にして、冷静でいろというのがどだい無理な話である。思わず余っている方の手でその濡れた髪を撫でてやると、紅莉栖の表情はいっそうふにゃっと崩れてしまった。
 きっと、俺だって似たような表情をしているのだろうとは思う。
「ね、岡部」
「どうかしたか?」
「ううん。ただ、あったかいな、って」
「……そうだな」
 ざあざあと降り続ける雨のカーテンの内側で。
 俺たちはまゆりが傘を持ってきてくれるまで、ずっとそうして互いの温もりを感じあっていたのだった。





       ○  ○  ○





 で、翌日。
「いやもうさ、もうなんていうか……何なん? ホント何なん? 君らそれマジでやってるん?」
「あー……、すまんダル……もうちょいトーンを落としてくれ、頭に響く」
 ラボの床に敷かれたタオルの上で転がりながら、俺は頭を抑えつつダルの言葉に抗議をしていた。いらだっているかのようなダルの口調。俺の反論にダルは、はあ、と大きな大きな溜息を吐いて、きいとPCの椅子を揺らして見せた。すると視線は、今度は俺ではなく紅莉栖の方へ。
 そしてまた、どうして俺がこうして寝転がるのにソファを使っていないのかと言えば、
「うー……やばい、ほんともう……さっきちゃんと食べておくんだった……」
 俺と同じく頭を抑えつつ、そしてこれまた俺もきっと同じなのだろう、高熱で顔が火照っている紅莉栖がソファで寝転がっているからだった。辛さ交じりに「あー」と声を吐き出すとなぜだか紅莉栖のそれとハモってしまい、直後再びダルの溜息が重なる。
「いやもう……なんて言えばいいのか分からんけどさ。二人いっぺんに風邪ひくとかもうさ、もうさ、さすがに心配する気もなくなるレベルっしょ。どんだけエロいんだよ。白血球爆発したんじゃね?」
「橋田、うるさい……。それに熱っていうのは免疫反応を補助する役割もあるから、白血球が爆発して熱が出るのは論理的に……あー……」
「フ、フフッ、こんなときに論破とは精が出るな助手よ……。流石は我が助手だけあって風邪になどあーまたズキズキし始めた……まゆり、まゆりはおらんのか……」
「いやだからそのまゆ氏が風邪薬買いに行ってくれてるんじゃん。昨日のこと含めて、オカリンも牧瀬氏もまゆ氏の菩薩っぷりに後で感謝しないと。あと見せつけられてる僕に慰謝料も。今度出るエロゲでいいからさ」
「前半は同意するが……あーやばいやばいきたきたうああああ……!」
「はあ……」
 沸き上がる頭痛の中、ダルの溜息が遠い。紅莉栖は紅莉栖で、ソファの上でごろごろしながらぶつぶつ言っているし。
「あーあ。まあガチで辛くなったら言ってくれれば面倒見るけど、そのまましばらく安静にしててって感じかね。その状態でちゅっちゅとかし始めたら流石の僕も電源切って家帰るお」
「ちょ、橋田! だ、誰がちゅ、ちゅっちゅとか……! って、ああダメ、大声出したら頭痛い……」
 尻すぼみになっていく紅莉栖の言葉に、ダルは再び溜息を吐いて。
 そうして俺たちは結局、まゆりが軽い食べ物と風邪薬を買ってきてくれたことに深く深く感謝をしながら、その日は始終横になって過ごしたのだった。

 ……ちなみに風邪が治るのにお互い三日かかってしまい、「治るのまで一緒とか」と再びダルに呆れられてしまったのだが、それはまた別のお話ということで。

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Short Story -その他
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