媒介変数

[divergence x.xxxxxx]
「……ん、フェイリスか?」
 暑さも落ち着いてきた昼過ぎの、買い出しからの帰り道。俺がコンビニの袋をぶら下げてラボへの交差点を曲がると、ブラウン管工房の前で珍しく一匹の猫がひなたぼっこしている様子が目に止まった。小柄な身体を深くベンチに腰掛け、たいそう退屈そうに足をぷらぷらぷらぷら。メイド服ではなく私服姿であるあたり、おそらくはバイト帰りの猫だろう。両手を支えに、ぼーっと空を見上げている。その表情は、ちょっとだけまゆりに似ているようにも思えた。
「おい、どうした。珍しいな、お前がこんな時間に」
「あ、凶真! やっと来たニャ、待ってたニャー」
 結構な時間居たのだろうか、俺の呼び掛けに、フェイリスがやけに嬉しそうにぴょこんとベンチから飛び降りてきた。少し遅れてふわりと揺れる長い髪と、やっぱりつけてるいつものネコミミ。隣にある寂れたブラウン管屋とのミスマッチ感は極上だ。いや、まあメイド服じゃないだけマシといえばマシではあるのだが。
「待ってた? わざわざ外でか?」
「ニャー、ラボは誰も居ないみたいだったからニャー」
 室内でひとりぼっちは寂しいニャ、と続けて、だからここで待ってたのだと言わんばかりにフェイリスは両手を広げてみせた。脳裏をよぎる、どこぞの広々とした高級マンション最上階。すぐさま俺は首を振り、ここでは人通りなどないだろう、と返すと、ニャハハと乾いた笑いが返された。
 猫は、たいそう気まぐれだ。
「しかしまあ、そういうことなら別に――」
 言いかけて、けれど思い出す。
「……待て、ラボには助手が居たはずだが?」
「ニャ? クーニャン、居るのかニャン?」
 噛み合わない会話に、二人して二階にある窓を見上げた。ブラインドのせいで中の様子は窺い知れない。
 しかし、確かに紅莉栖は居たはずだ。俺がこうして買い出しに出るハメになったのも、ソファにふんぞり返って読書をしていた紅莉栖の「ドクペがなくなった」という発言が元凶なのだ。そこからどちらがパシるかのじゃんけんをして見事に俺が敗北したわけだが、それはまあひとまず置いておく。置いておくったら置いておく。ご了承下さい。
「でも、さっきラボを見に行ったときは、ノックしても返事がなかったのニャ。電気も消えてたから、あー、誰も居ないのかニャーって思ったんニャけど……」
 そういえば鍵までは確認しなかったニャ、と言って、フェイリスが首を傾げつつ俺を見る。いや、俺だって戻ってきたばかりだ、聞かれて分かるはずもない。
「……まあいい、行けば分かることだ。それよりフェイリス、お前の用事というのは?」
「大したことじゃないニャ。マユシィのバイトが終わるまで、ラボで待たせて欲しいってだけニャ。構わないニャ?」
「ラボは使用自由だ、好きに使うが良い。それが運命石の扉の――」
「それじゃ、早速お邪魔するニャン。なんだか久しぶりな気がするニャー」
「――って、おい!」
 人の話を最後まで聞く素振りなど毛頭なく、話の途中でフェイリスがとんとんとラボへの階段を上り始めてしまう。まったく、どうしてフェイリスといい紅莉栖といい、うちのラボには人の話を聞かない奴が多いのだ! 特に俺の話をだ!
「凶真ー、早くするニャー」
 はいはい分かった分かった。溜息混じりに声を返して、ドクペの入った袋を持ち直しつつ俺は郵便受けからラボの鍵を取り出そうとして――――





       ○  ○  ○





「……そういうことか」
 鍵のかかっていないラボの扉を開けて、俺はそう呟いていた。買ってきた物資は音を立てないようゆっくりと床の上へ。靴を脱ぐとフェイリスもラボへと入ってきて、すぐに理解したのだろう、大きい眼をちょっぴり真ん丸にしながら、眼前にある光景をあるがままに口にしてみせた。
「クーニャン、寝てるのニャン?」
 そう。俺をドクペの買い出しへと走らせた張本人は、あろうことか俺の帰りを待つまでもなく豪快に昼寝をかましていたのだった。
「まったく……とんだ助手だな」
 紅莉栖はソファの端で、まるで電車の座席に座っているような状態のまま無防備に眠りこけている。口をあんぐりと開いている……というようなことは断じて無く、足を揃え、頭は少しだけ背もたれから傾けて、ずいぶんと気合の入った姿勢の眠り方だった。ちなみにその膝の上には、先日ラボに導入したばかりの新しいうーぱクッションが抱かれている。以前のものがまゆり用なら、こちらは紅莉栖用だ。気に入っているようでなによりである。
「ここのところの暑さで疲れてたのかニャー?」
「さあな。ま、どうせそのうち起きるだろう。それよりフェイリス、お前は何を飲む?」
「ニャー……」
「……フェイリス?」
 俺が冷蔵庫に買ってきたドクペを詰めながら尋ね見ると、フェイリスはなぜか紅莉栖の寝顔を腰をかがめて眺めていた。見ようによってはいたずらをしようとしているようにも思えるその体勢。けれど俺が「いいぞもっとやれ」と言うより早くフェイリスは何に満足したのか、「ニャフフ」と笑いながらふっと顔を紅莉栖から遠ざけて、
「フェイリスのことはお構いなくニャ。ただ、あるなら麦茶がいいかニャー」
「む? ああ、麦茶ならあるが……どうした、紅莉栖の額に『肉』とか書くのではないのか? 油性ペンならそこにあるぞ」
「残念ながらそれはまたの機会にするのニャ。あっ、ありがとニャー」
 冷蔵庫の500ml麦茶を投げて寄越すと、フェイリスはぺたんとカーペットの上に腰を下ろした。テレビの前側、つまりはいつもまゆりが座っている場所だ。ニャンニャンと笑いながら、ずいぶんと機嫌よさげに麦茶を開ける。
「なんだ、やけに機嫌がよさそうではないか」
「んー、そうかニャー? それより凶真も何か飲むニャ。フェイリスだけっていうのは居心地悪いニャ」
「ん? ああ、そうだな……」
 買ってきたばかりのドクペのうちの最後の一本を手に、俺はフェイリスへの対面へと座った。そこはソファがある場所、つまり図らずも寝入ったままの紅莉栖のすぐ隣だ。なるたけ振動を伝わらせないようにゆっくりと腰を下ろす。使い古したソファがちょっぴり沈み、紅莉栖の身体が少しだけこちら側へと寄ってきた。ちらりと見たが、起きはしなかったらしい。ほっと安堵の息を吐く。
「さっきからずっと電気もつけないし、凶真はやっぱり優しいニャー」
「……言ってろ」
 フェイリスの茶化しをスルーして、ぷしゅっとドクペのフタを開ける。途端、沸き立つ知的飲料の香り。外を歩いたせいで少しばかりぬるくなってはいたが、それでもぐいっと飲み込むと爽快な喉越しが俺の身体を駆け抜けていった。
 うむ。やはり夏はドクペである。もちろん冬もドクペである。
「しかし……こう堂々とラボの真ん中で寝られては、特にすることもないな」
 暗い部屋を見回しつつ呟く。まだ外が明るいから電気はつけずとも不都合はないが、テレビはつけたらやかましかろう。かといってフェイリスが居る手前、俺まで昼寝をするというわけにもいくまい。
 さてどうしたものか。寝入る紅莉栖の姿勢を眺めて、だらんと広がっていたパーカーの裾を着せ直してやると、フェイリスはニャンニャン言いながらなんとも愉快そうに麦茶をくぴっと飲み込んだ。なんだか甘いものでも飲んでるみたいな飲み方だ。
「ニャー、フェイリスは凶真と喋ってるだけでもいいけどニャ。マユシィだって、そんなにかからないと思うニャ」
「そうか? ……まったく助手め、いつものようにPCで@ちゃんねるでも見ていればいいものを」
 それでもまあ、俺の知らないうちに勝手にどっかに行っていたりはしなくて良かった。心の中でだけ安堵して、ドクペに二口目をつける。
 と。
「凶真もクーニャンもよく飲むニャ。それにそのドクペ、ずいぶん遠くまで買いにいったみたいニャン?」
「――っ!? えほ、けほっ!」
 唐突だった。
 フェイリスのその唐突かつ意外すぎる言葉に、爽快感などどこへやら、俺は思わずドクペでむせかえる。慌てて隣を見るが……どうやらずいぶんと深い眠りについているらしい。起こしてしまったということはなかったようだ。
 となれば、問題はフェイリスである。
「何をいきなり……だいたい、ドクペくらいどこにだって売ってるだろう」
「ドクペは売ってるニャ。でも、凶真が持ってた袋に一緒に入ってたあのスイーツは、この辺じゃあまり見かけないものだったのニャ」
 きらん、とフェイリスの瞳が少し光った気がする。獲物を狙うときのネコ科の目だった。
「……やらんぞ?」
「ねだってはいないのニャ。ただ、どこで売ってるのかニャーって思っただけニャ?」
 ニャンニャン、とこれまた不敵に笑うフェイリス。なんという目聡さだろうか。どうやら俺が思っている以上に、フェイリスは甘いものに目がないらしい。なぜならどのスイーツがどのコンビニで売っているかなんて、紅莉栖どころかまゆりだって知りはしないのだから。
 しかし言ったとおり、ちょっとそれをくれてやるわけにはいかない。なぜかって? さあ、なぜだろうな。ご了承下さいというやつだ。
「アキバの電気街口のところにあるコンビニだ。前にも買ってきたことがあってな」
「ふうん。つまり凶真は、わざわざそこまで買いに出たってことなのかニャン? ここからだと、歩いて20分近くはかかるニャ?」
「もののついでだ。確か……うむ、今日はラジ館に用があったのだ」
「ニャーんだ、そうだったのかニャー」
 でも凶真はそこまでスイーツ好きじゃないしニャー、なんでだろうニャー、誰かのためにわざわざ買ってきたのかニャー、となんだかやけにあてつけがましい独り言を再び俺はスルーして、ドクペをぐっと喉へと流し込んだ。じわりと広がる炭酸の心地よさ。以前、件のスイーツを誰かさんがやけに気に入って食べていたときも、俺はこうしてドクペを飲んでいた。だから、まあ……なんだ、そういうわけである。
 そうして俺がドクペに一息ついていると、フェイリスはちらりと隣の紅莉栖を流し見てから、
「ちなみに、凶真」
「ん、なんだ?」
 完全に油断していたと言っていい。
 普段であれば気付くはずのそんなことも、早くラボへ戻ろうと急いでいたせいでまったく気付かなかったのだから。
 獲物を狙う目。しかしその獲物とは、俺がわざわざ買ってきたスイーツなどではなかったらしく。
「フェイリスの記憶が確かなら、今日はラジ館は休館日だニャン」
 相変わらずの魔性の笑みを浮かべて、いらん知恵をいらんところで見事に披露してくれたのだった。





       ○  ○  ○





 まゆりのバイトは、なかなかに長引いているようだった。
 電気をつけないままの、やや暗いラボ。紅莉栖は未だに眠りこけているし、ダルなんかが来るわけでもないしで、俺とフェイリスはだらだらと話をしながら時間を潰していたのだが。
「……で、思ったのニャ。クーニャンは本当に、凶真のことを心配してたんだニャーって」
「それを今さら言われて、どう反応を返せというのだ……」
 なぜか、その内容は紅莉栖についてのことが多かった。
 曰く、俺が体調を崩したときに色々とラボメンに助言を求めていた。
 曰く、俺が与えた白衣を相当大事に扱っていた。
 曰く、料理は諦めたものの隠れて裁縫の勉強をしていた。
 フェイリスが語る「紅莉栖」はどれもこれも俺が意識していなかったことばかりで、意外に思うたびにフェイリスはにゃふにゃふと愉快そうな笑みをわざと俺に見せてきた。聞けばだいたいはまゆりも知っていることで、むしろ知らないのは俺だけなのかもしれないとさえ言う。
 紅莉栖が努力家なのは知っている。言われるまでもなくよく知っている。
 しかし、しかしだ。フェイリスが語る紅莉栖の努力は、なんというか俺が反応に困るものが多く……まあつまり、有り体に言ってしまえばこちらが恥ずかしくなってしまうようなものが多かったのだ。紅莉栖とて、そんなことが俺に知られたと知れば堪ったものではないだろう。
「そういえば、先週だったかニャ? 突然雨が降ってきたときも、『こういうときに恩を売る』とかなんとかで凶真を駅まで迎えに行くって言ってたらしかったニャ。マユシィが止めなかったら絶対行ってたって言われたニャ」
「あー……」
 言われてみれば、そんな日があったのは覚えている。まゆりは俺が折りたたみ傘を持っていると知っていたから止めたんだろうが……そうか、そんなことがあったのか。
「まったく、助手の分際でそんな心配はせんでいいというのにな。こいつは俺がずぶ濡れになって帰ってきたのを、笑って馬鹿にするくらいがちょうどいい」
「凶真は逆の立場だったら、そうするのかニャー?」
「ああ、するな。2、3日馬鹿にしてやるわ」
「えー、それはクーニャンが可哀想だニャー」
 フェイリスはやけに残念そうにそう言うものの、しかしすぐに表情を入れ替えて、
「あれ、でもでも凶真、一昨日のにわか雨の時には確か、用もないのに傘を抱えて凶真がラボを飛び出していったって――」
「ぶっ――!!」
 むせるどころか、今度は吹いた。
「フェイリス! ……誰から聞いた?」
「さーてニャー。忘れちゃったニャー」
 すっとぼけるフェイリスを睨み付けてやるが、にゃふにゃふと笑って受け流されただけだった。どうせダルかまゆりだろう。あいつらはどうしてこう口の軽い……!
 いや、あのときはたまたま紅莉栖が用事で出ていて、たまたま帰ってくるころの時間帯にたまたま雨が降ってきたとき、たまたま用を思い出した俺がたまたま傘を持って出掛けたところ、たまたま雨に困ってた紅莉栖と鉢合わせになっただけという、ただそれだけのことだ。それだけったらそれだけだ。特に意味はないので二回言いました!
「まったく、寝ているからいいものの……」
 俺は紅莉栖が眠ったままなのを横目で確認しつつ、もうだいぶ少なくなってきたドクペをぐいっと飲み込む。こいつが起きているときにこんな話をしてみろ、ぎゃあぎゃあと騒がしくなること請け合いだ。
「あ、それとニャー」
「今度は何だ……」
「そのうーぱクッションだニャ」
「うん?」
 フェイリスがくてーっとテーブルに突っ伏しながら、今度は指先でちょんちょんと紅莉栖の抱えている新うーぱクッションを指し示した。以前からラボにあったまゆりのうーぱクッションと、ほぼ同サイズの色違い。紅莉栖がうーぱクッションを大層気に入っていたらしかったので、なんだかんだと理由をつけて俺が買ってきたものだ。
 い、いや、これだってもちろんラボの備品としてであって、別に紅莉栖のためだけというわけではない。旧うーぱクッションはまゆりのものだし、新しいのを使うのが紅莉栖くらいなものというのは結果論であって、別に紅莉栖のためだけに買ってきたというわけでは断じてない。ないったらない。大切なことなので三回言いましたご了承下さい。
「これ、クーニャンずいぶん気に入ってるみたいだニャ?」
「いや……まあ、なんだ。以前からまゆりのクッションをときどき借りてたみたいだったからな」
 今もクッションを抱えて眠りこける紅莉栖へと目を向ける。起きる気配は見られない。ただ長い髪が頬にかかってちょっぴり邪魔そうだったので、できるだけ触れないようにその髪を指で軽く払ってやった。
「聞いたニャ、凶真。このクッション、ゲーセンでたまたま取れたって嘘ついたんだってニャ? そんな大きなクッション、ゲーセンでたまたま取れるはずがないってこと、知らないのはクーニャンくらいなものだニャン」
「それは……あー、アレだ。アレだぞ、アレ、あー……そう! ただでさえこの俺の天才的頭脳に畏怖を抱いている助手が、このうーぱクッションの真の価値を知ることでこれ以上俺を怖れることがないようにという俺の配慮によるものなのだ!」
「な、なんだってーニャー(棒)」
「……その反応はなかなか腹が立つな」
「褒め言葉として受け取っておくニャ」
 ニャンニャン、とのたまって、ちょびちょびと麦茶に口を付けるフェイリス。そのさまは、まるで猫がミルクを舐めているかのよう。笑顔なのは、麦茶の味のせいなのか、はたまた褒め言葉とやらのせいなのかはちょっと判別付かないが。
 しかしまったく、どうして俺がこんな話をするハメにならなくてはならんのか。そう思う俺の意識を、突然響いたびー、びー、という携帯のバイブレーションの音が遮ってきた。俺ではない。フェイリスだった。
「ニャッ、メールニャ。マユシィからだニャ」
「む、まゆりめ、ようやく終わったか……」
 話の終わりを感じ取り、ふっと一気に気が緩む。俺はぐいっと、残るドクペを全て飲み干して早速一本目終了。買ってきたばかりでこれでは、いつまたなくなるか知れたものではない。とんだハイペースである。
 しかしまあ、これでこのなんとも言えない会話から解放されるのであれば安いものとも思えてしまった。これ以上続けていたら話がどう転んでいくか分からない。まして紅莉栖が起きでもしたら、それこそフェイリスの独壇場になってしまうことだったろう。
「で、まゆりとフェイリスはこのまま帰るのか?」
「そのつもりニャ。メールで、メイクイーンの前で待ち合わせしようって返信したニャ」
「なんだ、すぐだろう? だったらここで待っていればいいだろうに」
「クーニャンたちの邪魔はしたくないニャン」
 視線で寝ている紅莉栖をちらと見て、ニャフフ、と笑いながらフェイリスが腰を上げる。表現が気になったが、そう言うのであれば仕方ない。俺も送り出すために、紅莉栖を起こさないようゆっくりと身体を持ち上げた。
「悪いな、暗い中で、あんまり大きな音も出せずに」
「別に良いニャ。とっても面白かったからニャー。あ、むしろこれからかニャ?」
 フェイリスはとても上機嫌だった。あれだけからかえばそりゃそうだ。フェイリスはそういう奴である。
 次までには反撃の準備をしておくべきだろうか。しかしそれもどうせ墓穴を掘りそうだったので、浅い溜息とともにそんな考えは捨て去ってやった。紅莉栖に色々と聞かれてないだけマシだと考えるしかないだろう。
「……まあ、なんだ。まゆりにもよろしく言っておいてくれ。今日、お茶は買い足しておいたともな」
「了解ニャ。それじゃ、フェイリスはもう行くけど――」
 フェイリスがラボの戸に手を掛け、外へと踏み出そうとしたところでゆっくりと振り返る。送りだそうとしている俺、そしておそらくは背後のソファで寝ている紅莉栖の方をなんだかとっても食えない笑顔でにっこりと見つめて。
「……どうした?」
「凶真。帰る前に一つだけ、教えてあげるニャ」
 そうして”チェシャ猫の微笑”から、特大の爆弾がラボの中へと放られる。

「クーニャン、最初から起きてたニャン」

「えっ……?」
「ちょっ――!」
 絶句した俺に対し、戸惑いの叫びは俺の背後から。
 ――って、いやいや、背後からそんな、まさか、聞き慣れた声が……なあ? 聞こえるはずが、ない、んだ、が……。
「それじゃ、また今度ニャー」
「おいっ、フェイリス、待っ――!」
 俺の引き留めなど気にも留めず、フェイリスは満面の笑みとともにラボの扉から出て行ってしまう。ぱたん、と閉じるラボの扉。続いて、静寂。
 当然、俺はゆっくりと振り返るより他になく。
「……」
「……」
 ぱふん、と真っ赤な顔がうーぱクッションに埋められて、長い髪がぱらぱらとクッションの上に流れ落ちる。
 が、なんだ……その、真っ赤になった耳と首筋が全然隠れちゃいないんだが……。
「…………」
「…………」
 ごにょごにょと俺に聞こえない声で小さく呟き始めた紅莉栖に対し、俺は”機関”への報告も忘れ、しばし黙って頬を掻き続けることくらいしかできなかったのだった。

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Short Story -その他
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