1 to 0. -Irreversible Reboot


以前もしオラさん主催のこちらの企画へ寄稿した短編です。了解を得たので掲載しました。
挿絵を描いていただいたミシュさんのサイトはこちら

[divergence x.xxxxxx]
 空が青かった。
 ただそれだけのことに感嘆の吐息を漏らす。今はもう忘れてしまった、この世に生まれ落ちて初めてまぶたを開けたときの感動。その再現ではないかとすら思えるほどの色彩に、俺は寝そべりながら目を見開いて、ただただ息を吐いていた。
 2010年8月13日、午前。
 もう何度も経験した日付だった。因果を超えるタイムリープマシン。何千という回数繰り返したその日付。他の誰もが一度しか通過できないその時間に、俺は今日、ようやく別れを告げることになる。
「岡部倫太郎。ここまできて、なに辛気くさい顔してんのさ」
 呆然と空を眺めていると、視界の端からひょっこりと顔を覗かせたのは、相変わらずつかみ所のない笑みを浮かべている鈴羽だった。仮面のようで、その実、それは未来では決して育まれることのなかった本心のようでもあって。
 けれども服装はいつものジャージとスパッツ姿ではなく、どこで見つけてきたのか、この広がる空と色を同じくするコバルトブルーの水着姿だった。照りつける太陽の下でその肌は大胆に露出されていて、濃い青と白い肌の対比がことさら眩しくも感じられる。さらにファッションなのかなんなのか、漆黒の軍用ベルトやタクティカルグローブまで装備しており、それがまたなんとも鈴羽に似合っていた。
 別にこいつがいつも通りの天然ボケを発揮して、突飛な格好をしているというわけではない。広がる青い空。そこから少し視線を下げれば、俺たちの目の前には遥か水平線を望む大海原が広がっていた。
 海水浴。
 何千日も前に聞いたことがあるようなそんな娯楽に、俺はラボメン連中と一緒に来ていたのだった。
「ま、そりゃあ気持ちは分からなくもないけどさ」
 俺の返事など最初から期待してはいないのか、鈴羽が身体を横たえている俺の隣へと腰を降ろす。パラソルのない、砂浜に敷かれたビニールシートの上。まだ海には入っていないのだろう、水気を帯びていないにもかかわらず瑞々しい四肢が俺の視界に割り込んだ。
「せっかく海に来たのに、泳がないの?」
「……そういうお前はどうなのだ」
「あたし? あたしは岡部倫太郎が行ったら、行くよ」
「……」
 飄々とした言葉に、俺は息を吐いて身体を起こす。ただそれだけで合わなくなる眼の焦点。緊張感と既視感だけで繰り返してきた何千日という時間の残滓は、未だ俺に正常な感覚を取り戻させてはいなかった。
 思い出すのも億劫なほどの過去になった、予定外の、自由意志による自身の行動。自転車を漕いでるような錯覚をなんとか抑えて目に意識をやると、だんだんと海辺に像が結ばれていく。少し遅れて、隣の鈴羽が俺の肩を支えてくれていることに気付いた。
「……悪いな」
「ゆっくり慣れていけばいいよ。それに、間に合ったんだよ、君はさ。まだ君は、岡部倫太郎なんだ」
「だと、いいんだがな」
 鳳凰院凶真はこういうとき、どういう笑みを浮かべたんだったか。ニヤリと悪役っぽく笑おうとして、頬が引き攣り失敗する。
「ほら。椎名まゆりが手を振ってるよ。応えてあげたら?」
「あ、ああ……」
 像を結んだ砂浜で、俺が身体を起こしたことに気付いたのだろう、膝まで海に浸かりながら椎名まゆりがこちらに手を振っていた。その隣にはビーチボールを手にした牧瀬紅莉栖、違和感なく女物の水着を着ている漆原るか、そしてやや沖の方では浮き輪でぷかぷかと浮いているフェイリスの姿がある。
 みんな、俺が呼んだのだ。椎名――いや違う、そう、まゆりと、紅莉栖と、ルカ子と、フェイリス。まゆりに遅れて他の三人もこちらに気付き、何らかのアクションを俺の方へと送ってくる。
「ほらっ」
「……分かっている」
 鈴羽に促され、俺はそれに応えるように右手を大きく振って。
 ……ただそれだけのことが、涙が出るほど懐かしかった。
「しっかりラボメンのリーダーできてるじゃん、岡部倫太郎」
 ぽんぽん、と鈴羽が肩を叩いてくる。
 つい昨日までモノクロだった世界が、今度はじわりと滲んでいくのを自覚した。








 1975年へ旅立つ。
 不可逆のリブートは、俺にとっては起死回生のチャンスでもあった。
 まゆりを死なせない。
 鈴羽に悲惨な最期を遂げさせない。
 忘れかけていたそんな使命を、俺は鈴羽の提案によって再び思い出しつつあった。一緒に、過去へ。ギャンブルめいたそんな賭けも、死にゆく俺には救いだったのだ。
「岡部! 行ったわよ!」
「ん……? おわっ!」
 紅莉栖の言葉に、ややぼうっとしていた身体が反応しきれない。
 強引に誘われた海上ビーチバレーの最中だったことをすぐに思い出し、身構える。だが気付いたときにはもう遅い。視界を埋めていたビーチボールに顔面の直撃を食らい、俺は頭から海に倒れ込んだ。
「岡部倫太郎ー! 勝負の最中に余所見はいけないなー!」
「ニャフフ、凶真はきっとこの海に宿る精霊にその力を抑え込まれていたのニャ。魔獣リヴァイアサンめ、凶真を抑え込むとはなかなか侮れないニャ……!」
「そ、そんなことより、あの、おか……凶真さん、その……大丈夫、ですか?」
「ん……ああ、気にするなルカ子よ。少し、油断していただけだ」
 思いっきりかぶった海水を払って、塩気を感じる口内を不快に思いながら身体を起こす。ビーチボールは既にまゆりの方へと返されていた。
「えへへー、オカリン、ちょっと転び方派手派手だったねー」
「まったく、顔面レシーブとか漫画じゃあるまいし……。勝負もあったし、私、ちょっと休憩するわ」
「えー! 牧瀬紅莉栖、逃げるなー!」
「どうして私が点数で負けたのに逃げる呼ばわりされるのよ! 単にちょっと疲れたの!」
「じゃあスズさんスズさん、まゆしぃとあの浮いてる目印まで勝負しようよー。平泳ぎでー」
「なんで平泳ぎ? ま、いいけどさ」
 ビーチバレーは勝負アリ。それでも体力の有り余っている二人はすぐさまざぶんと沈み込んで、フェイリスによるスタートの掛け声とともに沖に向かって泳ぎ始めた。休憩する気もないらしい。元気なやつらである。
「岡部、大丈夫?」
 そしてそれをぼけっと眺めていると、尻餅ついたままの俺に差し出されたのは紅莉栖の手。返事をしながらそれを掴み、俺はゆっくり立ち上がる。
「どうする? 私、ちょっと休憩してくるけど。泳ぐ?」
「いや……俺も少し休むかな」
 平泳ぎで遠のいていく二人は、わずかにまゆりが優勢だった。それを眺めるルカ子とフェイリス。浮き輪でぷかぷかと遊んでいるフェイリスに一声かけてから、俺たちは一度海から上がって砂浜へ。
「はあ、ほんっと信じらんない。どこにあんな体力があるんだか。私なんか、昨日の疲れがまだ残ってるっていうのに」
 紅莉栖のぶつぶつという呆れ交じりの呟きを聞きながら、二人並んでビニールシートへと腰を降ろす。
 ちなみに昨日の疲れというのは、言うまでもなくビッグサイトまでのサイクリングのことだ。俺もタイムリープでは身体を鍛えることにはならず、少なくない筋肉痛がいまだ太腿に残ってはいた。
 今までなら、それも明日には完全に消えてしまうものだったはずだ。けれど今回ばかりはそうはならないという―――そしてある意味では当然の―――事実を示すこの痛みに、俺は少なくない心地よさを覚えてもいた。もっとも、紅莉栖の手前だ、そんなことを口に出しはしないけれども。
「そうだ、これ飲む?」
「ん? ……ああ、持ってきたんだったか」
「ま、余ったら余ったで、持って帰ればいいんだけど」
 紅莉栖がクーラーボックスからドクペを二本取り出し、一本を俺に渡してくる。かんかんに照りつけてくる真夏の太陽。ぷしゅっとタブを開けて、一気に喉へ。海辺で飲む冷えたドクペは、久しぶりということも相まって今の俺ですら叫びだしたほどに爽快だった。
「……うん。岡部、やっといい顔するようになった」
「ん……? なんだ、いきなり? 俺はずっとこんな顔だが」
「誰が顔の作りを言ったのよ。なんか昨日から、ちょっと沈んでたみたいだったから」
 濡れに濡れた長い髪を弄りながら、紅莉栖が横目で俺の様子を観察してくる。俺は何も言わずに視線を逸らした。
 後ろめたさともちょっと違う、なんとも言いようのない感情。普段の察しの良さがあればそれ以上踏み込んでこないだろうという判断もあったのだが、けれども俺の予想とは異なり、紅莉栖はさらに食いついてきた。
「……ねえ」
「なんだ」
「タイムリープ、したんじゃない?」
「―――」
 さすがの洞察力、というべきなのだろうか。あるいは鈴羽が気付いたことと同様に、俺がそれほどまでにおかしくなってしまっていたのか。
 けれどタイムリープマシンは、現時点では『まだ』完成していない。だというのにこの言い草、自分の作るマシンが完成することを信じ切っているようで、その力強さに俺は少しだけ笑ってしまった。
「タイムリープ、か。どうしてそう思う?」
「あんたは昨日、携帯の着信を取ってからおかしくなったように見えた。それだけよ」
「そうか」
「……」
「……」
 肯定は返さない。
 そのまま素知らぬ顔でドクペを飲み続けていると、紅莉栖は「はあ」とこれ見よがしに溜息を吐いて、「ま、いいけどね」なんて小声で呟いてもみせた。
 まあ、顔には「全然良くないんだけど」としっかり書いてあったが。それでも相変わらず諦めは良くないが切り替えは早い。ふう、とひとつ嘆息を挟んで、
「実はね。昨日の夜、あんたがいきなり海に行くって言いだしたときは、驚いたと同時に少し安心もしたのよ。ああ、あんたがおかしくなったって思ったのは杞憂だったのかも、ってね。……唐突なのはいつものことだし」
「なんだそれは。俺はいつもきちんと計画を持って行動しているではないか」
「どの口が言うんだ、どの口が。昨日のサイクリングなんか当日いきなりだったじゃない」
 紅莉栖が思い返したように苦笑する。こいつのこんな笑顔を間近で見たのは久しぶりな気がした。
 いや確かに、繰り返す日々の中でも笑顔がなかったわけじゃない。けれどそれは、もう次の日には「確実に消えている」笑顔だった。だから俺がそれを笑顔と認識することをとうの昔にやめていただけだ。
 ……それは多分、とても悲しいことだったのだと、今になってようやく思う。
「でもどうして海なんて。それに、まさかフェイリスさんや漆原さんにまで連絡するとは思わなかったわ」
「さあな。特に意味は無い。それでいいではないか」
「なんだそれ」
 海であることにそれほど理由はないが、二人にも連絡をとった理由は明白だ。
 俺が最後にみんなと遊びたかったから。心が擦り切れて、モノクロの世界をずっと生きてきた俺が、かつて過ごした日々の通りにみんなを思い出したかったから。この時間、この世界線から旅立つ前に、みんなとの思い出を作っておきたかったから。
 今この場で別れを告げるつもりはない。それでも二度と会えなくなるというのに、俺の記憶に残るみんながモノクロのままだというのは、やっぱり嫌だったのだ。
 だからフェイリスやルカ子の都合が悪くなかったのは僥倖だったし、嬉しかった。俺にはもう、今日この日しかないのだから。俺にとっての「明日」は、2010年ではなく1975年のどこかだ。
「じゃあもういっこ。阿万音さんと何かあった?」
「うん? 何かとはなんだ?」
「分からないから何かなのよ。なんか、ずいぶん仲良さそうだったから」
 俺がはしゃぐまゆりと悔しそうな鈴羽を見ていると、隣の紅莉栖から今度はずいぶんと妙な話題が飛んできた。鈴羽と仲が良さそうに……まあ確かに、こいつらにはそう見えたのかもしれない。今日の夕方には過去へ飛ぼうというのだ、お互いを特別視せざるを得なくもなる。
 だが、それはまた……なんというか。
「助手よ、まさか嫉妬か? それともお得意のスイーツ(笑)脳が無駄に回転を始めたか」
「なっ! ばっ、馬鹿じゃないの! このHENTAI! どうして私が岡部なんかのために嫉妬すんのよ!」
「冗談だ。そこまで熱くなることもなかろう」
「ぬ、くっ……!」
 ぐぬぬ、と紅莉栖が言い淀む。八つ当たり気味にドクペをぐいっと飲みこんで、まるで風呂上がりのオヤジみたいにぷはーっと息を吐いていた。忙しいやつだ。
 俺が旅立つことになれば、きっと紅莉栖には迷惑がかかることだろう。この世界線がどうなるのかは分からない。それでも、あるいはだからこそ隣で顔を赤くしている紅莉栖に、俺は心の中できっと許されることのない謝罪と感謝を述べていた。世界線が変わってしまえば、謝ることすらできなくなってしまうから。
「……はあ。なんか休憩のつもりだったのに、あんたと話してたら余計に疲れが溜まった気がする。気分転換に少し泳いでくるわ」
「悪かったな、気が利かなくて」
「大丈夫よ。そんなこと岡部に期待してないし、その方が岡部っぽいから」
 にやりと笑って、紅莉栖が海の方へと駆けていく。
 その姿を見送って、俺はドクペをぐいっと強くあおったのだった。



「オカリーン、トゥットゥルー☆」
「……まゆりか」
 シートの上からはしゃぐフェイリスたちの様子を眺めていると、後ろから「だーれだ」の仕草で両目を塞がれた。隠す気が微塵も感じられないそれにあっさりと正答を言い当てて、さっさとその白い手をのけてやる。
「お腹空いたからもってきたおやつ開けちゃったー。オカリンもはへふー?」
「食いながら言うな、食いながら」
 もぐりもぐりと持ってきたおやつとやら――アルミホイルに包んでからあげをもってきていたらしい――を見せつつ、隣に座り込むまゆり。せっかくだからと一つもらい、俺も口の中へと放り込んだ。
 言うまでもなく、ジューシーからあげナンバーワン。フルカラーな世界で食べる久しぶりの人間らしい食事は、びっくりするほど美味かった。
「あー! クーラーボックスの中が、ほとんどドクペで埋まってるよ〜……。お茶が少ししかないのです……」
 飲み物一つでやいのやいのとにぎやかなことである。何本か入っていたお茶のうちの一つを取り出して、からあげを飲み込むとともにぐびぐびとお茶を流し込むまゆり。炭酸でもないのに「ぷはーっ」と息を吐いて、間髪いれずに再びからあげをぱくりと食べた。完全におやつバカ食いモードである。
「あんまり食うと動けなくなるぞ」
「はふはう……んっ、く。えっとね、ジューシーからあげは別腹だから大丈夫なんだよー」
「別腹だろうがなんだろうが、腹は腹だろう……」
「でもねでもね、まゆしぃはお腹が空いて動けなくなるくらいなら、お腹いっぱいで動けなくなりたいなー」
「それはまあ、そうかもしれないが」
 そもそもそんな極端な二元論の話ではないのだけれど。
 けれど気にした風もなく、まゆりはぱくぱくとおやつを食べ進める。その食べっぷりは見ているこっちまで幸せになってしまうほどの表情で、じっと見ていたら「オカリンも食べたいのー?」なんて言われてしまった。いや、いい。それだけ幸せそうに食われればからあげの方も本望だろうから。
「そういえばまゆり、平泳ぎでよく鈴羽に勝てたな」
 もぐもぐとまゆりのおやつタイムを見続けているのもそれはそれで面白いのだが、ふと気になったことを聞いてみる。まゆりはからあげを飲み込んでから、
「えっとねー、まゆしぃは平泳ぎが得意なのです。スズさんはすっごい運動神経いいけど、泳ぎはあんまり得意じゃないんだってー。未来ではプールとか海水浴ってないのかなー?」
「そう、なのかもな」
 不思議そうなまゆりに、俺はなんとなく頷いてみせる。
 おそらくまゆりの言うとおり、プールや海での娯楽なんていうのはほとんど無いに等しいのだろう。同時に鈴羽はレジスタンスであって、海兵隊や海軍ではない。泳ぐ訓練は必要がなかったか、あるいはあったとしてもそれほど時間を確保できなかったか。そんなところなんだろうと思う。
 でもだからといって、鍛えている鈴羽に平泳ぎとはいえ勝ってしまうまゆりはなんなんだ。ぽけぽけっとしてるくせに伊達じゃない運動神経を誇っているだけはある。
「こんどはかけっことかもしてみたいなー。スズさん、足すっごい速そうだよねー?」
「……ああ、そうだな。機会があれば、やってみるといい」
「長距離でも勝てなさそうだなー」
 なんとはなしに口にするまゆりの願望に、俺は心の中で謝罪する。
 それは叶うことのない夢なんだ、まゆり。
 鈴羽。
 まゆり。
 その二人が元気に笑っている未来は、この世界線では有り得ない。
 そしてだからこそ俺は、俺たちは、35年もの過去へとタイムトラベルする。
 まゆりには、この先もずっと笑い続けていてほしいから。
「まゆり。運動もいいが、身体には気をつけてな」
「うん、気を付けてるよー。オカリンこそ、ケガとかしちゃだめなんだからねー?」
「ああ、分かってる」
 分かればいいのです、なんて言って、すっくとまゆりが立ち上がる。どうやらからあげを食べ終わったらしい。食休みも大してないあたり、つくづく元気が有り余っていると見えた。
「それじゃ、まゆしぃは泳いでくるのです。オカリンも行こー?」
「ん? ああ、そうだな。そろそろ行くか……」
 喋っているうちにやや不明瞭だった意識も覚めてきた。立ち上がって水着についた砂を少し払うと、すぐにまゆりに手を掴まれて。
 そのまま引っ張られるように、俺は再度海の水にその身を沈めたのだった。



「岡部倫太郎ー!」
「――ぶっ!」
 俺が海水に浸かりながら少し休憩のために岩盤に寄りかかっていると、真上から強烈な勢いで水をかけられた。バケツをひっくり返したというよりは、絞ったホースの水を浴びせかけられたような感じ。仰ぎ見れば、岩肌に片足を踏みかけてこちらにポーズをとりつつ、「ソレ」を掲げている鈴羽の姿が目に入った。



「エアガン……いや、水鉄砲か……?」
「ご名答〜。すごいよねー、こんなのがおもちゃとして売ってるんだもん。あたしのいた時代だったら持ってるだけで本物と誤認されて、殺されても文句言えないレベルだよ」
「いや、今の時代でもそんな水鉄砲は見たこと――痛っ! ええい、撃つな! っていうか何だその音!」
「ん? だって電動水鉄砲だもん。バースト射撃もできるんだって」
「そんな水鉄砲があるか!」
「あったよー。アソビットに」
 アソビット……恐ろしい子……!
 ではなく!
「なんでそんなもの持ってきてるんだ……子どもかお前は」
「ひどーい! これでもあたし、本物の銃を撃ったこともあるんだよ」
「え……マジで?」
「マジもマジ。大マジ」
 AKシリーズは未来でも重宝されてるんだーなんて、いらぬ情報まで喋ってくる鈴羽。確かにおもちゃ(というにはものすごい重厚感だが)の水鉄砲の構えもどこかサマになっていて、ああ、だから銃を携えた「あの」ラウンダー襲撃時にも落ち着いて対処できていたのかと今になって悟る。あのとき鈴羽は、確かに敵の銃を奪ってラウンダーに対抗できていた。
「本物か……」
 冷静沈着に敵の動きを読み切って、相手のAKで連中を撃ち殺していた鈴羽を思い出す。戦士だ戦士だと普段から冗談のように言っているが、あのときのそれはまさしく戦士の動き方だった。
 けれどまあ、今の表情はあのときのそれとは全然違ういい笑顔だ。本物と玩具。精神的な違いは比べるべくもないのだろう。
「やっぱり血が騒ぐよねー。あ、ベルトとグローブもこれに合わせて着てるし、ここについてるスコープはあたしの私物ね。光学機器ってすっごい貴重だったんだから」
「いや……聞いてないが……」
 というか、水鉄砲に本物の銃のパーツをつけるバカが居るか!
「実銃はやっぱり、実際の重さ以上に重みを感じるんだ。その点これはおもちゃだからさ、こうやって――」
「痛っ! だから撃つ――おいっ!」
「だいじょぶだいじょぶ、その辺りなら実弾でも一発二発じゃ死なないから」
「どういう理屈だ……」
 ざぶん、と海に入り、鈴羽は無邪気に笑いながら水鉄砲で肩だの髪だのを狙ってくる。弾切れが近づくとベルトに刺した予備マガジンですぐさま装填を終え、再び単発撃ちを繰り返し始めた。
 ……ちょっと、面白そうだった。
「おい、バイト戦士。いきなり撃った罰として、俺にもちょっと貸してみろ」
「えー。岡部倫太郎、壊さない? アサルトライフルって、素人が撃つとすぐジャムるよ?」
「水鉄砲だろうが! ……まあいい、じゃああそこでアホ面をしている助手を狙って撃ってみろ。俺が許す」
 そう言って、ここから少し離れた沖合でふわふわと浮いてる紅莉栖を指差す。フェイリスの浮き輪を借りたのか丸い輪っかの上に座り、眠そうな顔で空をぼけーっと眺めていた。無防備な顔丸出しだ。漫画であればそのまま眠ってしまって後ろにひっくり返りそうなくらいである。
「『俺が許す』とか言って、どうせ後で怒られるのは岡部倫太郎だよね」
「う、うるさい! そら! 狙うのか狙わんのか!」
「椎名まゆりだったら断ってたけど、牧瀬紅莉栖なら望むところだよ!」
「よし! その意気だ!」
 言うやいなや、鈴羽が海から上がり再び先ほどまでいた岩の上に陣取った。念のため新しいマガジン(予備いくつ買ったんだろう)に取り替えて、うつ伏せになりつつ銃口を岩の凹みに乗せてライフルスコープをのぞき込む。
 ……なんというか、ものすごーく本格的だった。
「お、おい、バイト戦士……? なにもそこまでせずとも、助手を驚かせるくらいでいいんだが」
「なに甘いこと言ってんの、岡部倫太郎。狙撃はね、一撃必殺が基本なんだよ。ワンショット、ワンキル。どんな教本にだってそう書いてある」
「教本て……」
 鈴羽がスコープの倍率を弄り、何やら手元でかちかちと操作をする。そうしてそのまましばらく黙り込み、いざ、撃つ! ……のかと思えば。
「ねえ、岡部倫太郎」
「な、なんだ? 撃つんではないのか?」
「……あたしさ、昔は狙撃を担ってたこともあるんだ」
「な! 本物か!」
 どうりで動作が本格的だったわけである。
 けれど、鈴羽が言いたいのはそこではなかったらしく。
「それでね。……あたし、牧瀬紅莉栖を狙ったことがある」
「――」
 それは初めて聞く話だった。
 SERNの手先、牧瀬紅莉栖。組織として敵対していたという話は何度も聞かされていたが、実際に殺し殺されの場面で遭遇していたとは思わなかった。
 おそらく、それは俺の死後のことだったろう。俺が生きていて、そして俺がレジスタンスのリーダーだったのなら、牧瀬紅莉栖を狙うだなんてことは絶対にするはずがない。
「でも、あたしはそのとき撃てなかった。失敗したんだ。そのせいで大勢の仲間がやられた。あたし自身、その失敗がトラウマで狙撃をすることができなくもなった。あたしがこの時代に来て牧瀬紅莉栖をことさら憎んでいたのは、そういう体験の裏返しでもあったんだ」
「そうだったのか……」
「だから、この時代で牧瀬紅莉栖を殺そうともした。結果はもちろん失敗。理由はたぶん、岡部倫太郎なら分かると思うけど」
「世界線の収束か」
「そういうこと」
 牧瀬紅莉栖は、少なくともこの世界線では、将来SERNによって殺されるその時まで死ぬことはない。そういうことなのだろう。
 また世界か。嫌になる。どうにもならない世界の力に、俺は忘れかけていた憤りを再び思い起こしていた。
 まゆりは何度死んだ?
 鈴羽はなぜIBN5100の入手に失敗した?
 それはかつて、俺が問い続けて答えを出せなかった問いだ。
「……でも、だからこそあたしは新しい道を探し出す。岡部倫太郎、君と過去にタイムトラベルするっていう、誰にとっても未知の選択肢で世界線を変えてみせる。この不可逆のリブートは、あたしにとっても賭けなんだ。牧瀬紅莉栖も、椎名まゆりも、そしてあたし自身も殺さない、そういう世界を夢見てる」
 スコープを覗く鈴羽の目が鋭さを増す。
 未来でも現代でも、鈴羽は紅莉栖を殺せなかった。
 世界の収束。それが阻むというのなら、だったら俺たちはそれ以外の道をどうにかして探り当ててやる。誰も死なない世界線。そのために俺たちはタイムトラベルを決意した。
「牧瀬紅莉栖。あたしは、お前を殺せない」
 鈴羽が呟き、遥か未来では引くことすらままならなかった引き金を引く。
 モーターの回る音とともに、水の弾丸が真っ直ぐ前へと飛び出していった。



       ○  ○  ○



 楽しい時間が早く過ぎることを、相対性理論に例えてみせたのは誰だったか。
 昼前から遊び始めたというのに太陽はもう夕焼けの赤みを帯び始めていて、俺たちはへとへとになった身体を引き摺って帰路へと着いた。まだまだ遊び足らなそうなまゆりやフェイリス、ぺこぺこと誘われたことへの感謝を述べるルカ子の声を聞きながら、みんなそろって秋葉原へ。そのまま帰宅していくフェイリスとルカ子を見送り、まゆりと紅莉栖がラボへの階段を登り始めたところで、俺は二人にようやく声をかける。
「ちょっと、バイト戦士と所用に出てくる」
「は? え、今から?」
「んー? まゆしぃたちも行こうかー?」
「いや、そんな大した用事ではない。野暮用というやつだ」
 突然の俺の申し出に、紅莉栖とまゆりが階段途中で不思議そうに振り返る。まゆりはぽけぽけーと首を傾げているだけだったが、紅莉栖にはどこか探るような目つきが見て取れた。単なる下衆の勘ぐり……であればいいのだが。
「牧瀬紅莉栖、椎名まゆり。今日は楽しかったよ、ありがとね。あと、橋田至にもよろしく」
「うん、伝えておくねー。ダルくんはね、今日一緒に行けなかったこと、すっごく気にしてたから」
「ま、タイムマシンの修理をさせておいて、私たちだけ海に行ったわけだしねえ……」
 紅莉栖が溜息吐きながら、再び俺の方を見る。
 でも、仕方がないことだった。そうしなければタイムマシンは直らないのだ。あるいはまたそんな事情があってさえタイムマシンの修理を延期しなかったことに、ダルも紅莉栖も何らかの理由を感じ取っているのかもしれない。海に行かない代わりにダルとは今朝方すこし話をしたが、殊勝なくらい愚痴を吐いてはみせなかったのだから。
 そしてそれなら俺は、深く感謝せねばならないだろう。つくづく気を利かせてくれる、ここで別れなければならないこのラボメンたちに対して。
「それでは、少し出てくるぞ。バイト戦士!」
「分かってるって。それじゃねー」
 手を振って別れを告げる。
 35年先、俺と鈴羽が生き残っているかは分からない。もし生き残っていたとしても、その世界線ではこのラボがあるかどうかも分からない。あるいはそうだとしても、この世界線、いま目の前にいる紅莉栖たちとは二度と会えないことに変わりはないわけで。
 さようなら。ありがとう。ありったけの思いを込めて別れを告げると、二人も笑って言葉を返してくれた。
「いってらっしゃーい。またあとでねー、オカリーン」
「岡部も阿万音さんも、あんまり遅くなるんじゃないわよ」
「……ああ、分かってる。ちょっと用事を済ませるだけだ」
 笑顔を振り切って、鈴羽とともに中央通りからラジ館方面へ。最後の嘘は、少しだけ辛かった。
「岡部倫太郎。……本当に、いいんだね?」
「お前こそダルと話をしなくていいのか。言ったろう、父親だと」
 いまごろそのダルは、俺の居ないところでぶつぶつと文句を吐いていることだろう。フェイリスまで来たことを教えてやれば、いっそう俺への恨み節を重ねるに違いない。
 でも。そんなダルのおかげで、やや不完全ながらも俺たちは1975年へと跳べるのだ。
「いいんだ。今の橋田至に話してもどうしようもないことだし……岡部倫太郎と一緒で、手紙は置いてきたから」
「……そうか」
 暮れゆく夕日に目を細めながら、俺たちはタイムマシンへと歩いていく。
 不可逆のリブート。
 一縷の望みに託した希望。
 無謀だと言うのなら笑えばいい。それでも俺たちは、1975年へと旅立つ。
 まゆりを救い、鈴羽を助けるために。
「きっと、大丈夫。あたしはもう、迷わない」
 鈴羽が懐から取り出したピンバッジを握りしめ、力強い足取りで歩を進める。
「いい顔だ、バイト戦士。もし記憶を失ったりしたら、俺が殴ってでも思い出させてやるからな」
 対して俺は、それでもどこか不安そうな鈴羽の細い手をとって。

 さあ、行こう。
 沈みつつある世界線から、変動率1%オーバーの幸福な未来を目指して。
 呪われた未来を変えるために、誰も知らない再びの過去へと――――。

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Short Story -その他
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