オーバー・・オーバーラップ

[divergence x.xxxxxx]
 さくりさくりと、かき氷を食べる音だけがラボの中に響いている。
 夏休み。うだるような暑さから逃げ帰ってきた俺とまゆりは、つい先ほどまゆりが買ったかき氷を仲良く並んで食べていた。
 部屋の隅では以前ゴミ捨て場から拾ってきた扇風機が、ややぎこちないながらも一心不乱に首を振っている。時折吹き抜けていく生温い風。エアコンなどという高級品がないこのラボでは、これでも充分ありがたかった。
「ダルくんはまたお買い物かなー?」
 ぱくぱくといつも通り豪快に食べ進め、ときどき頭痛に「はうー」と悲鳴をあげつつのまゆりが、誰も座っていないPCラックを見つつのんきにそんな言葉を漏らした。そういえば昨日の夜も、何かを買うと言っていたような。聞けばやっぱりエロゲだかなんだかだったので、はいはいと頷いて返したような覚えがある。
「どうせろくなものではないだろう。それにまあ、居たら居たでまたうるさく言われるんだろうしな」
「うーん、ダルくんも恋人さん作ればいいのにねー?」
「簡単にできれば、ダルだって苦労はせんだろう……」
 気を使ってくれてるならちょっと悪い気がするなー、とぽやぽやっと言って、まゆりは再びかき氷へと意識を戻す。
 ダルくん「も」、というのはつまり、前提としているのは俺とまゆりの関係だ。人質から恋人のクラスチェンジ、とまゆりは口癖のように言うけれど、まあつまり、そういうことである。以前とあんまり変わっていないようでいて、けれども少しだけ違うそんな関係。今だってまゆりはかつてでは考えられなかったほど俺の近くに座っていて、暇さえあれば「えっへへー」とかなんとか言いながら俺に身体を預けてくる。それに強く言えない俺もまあ、意識してないと言えば嘘にはなるが。
 ここに至るまでの紆余曲折は、ことさら強調する必要もないだろう。以前はβ世界線と呼んでいたこのゆるやかな時間。ラボの中をぐるりと見渡してもそこに「彼女」が居ないこと、それはある意味で当たり前のことでありながら、それでもいまだに俺の心を落ち着かせるには至らない。
 幸せになりなさい――。まゆりに夢で語りかけたという当人は、何日も前にラジ館屋上で亡くなっていた。こっそりと載った記事で知ったその事実。当時の新聞のコピーは、「あの」サイエンス誌とともにいまでもラボの机の上に置いてある。捨てられるはずがない。未練がましいと分かっていても、俺には割り切ることなど出来るはずがなかった。
「ねー、オカリンオカリン。もうみらいがじぇっとの研究って、しないのー?」
 開発室に目をやってる俺の視線に気付いたのだろう、まゆりがかき氷を食べる手を止めて俺にそう声をかけてくる。質問自体は以前も話した内容だ。以前も言ったろう……と返しそうになって、気付く。まゆりはそんなに馬鹿じゃない。だからこれはそれを聞きたいがためというより、俺が黙考してたことに対するまゆりなりの心配なんだろう。
 相変わらず変に鋭い俺の恋人に、俺はあえて頬を緩めて返してやった。
「研究をしなくなったら、未来ガジェット研究所ではなくなるだろう。またやるさ、気が向いたらな」
「えへへー、そうだよねー。うんうん、オカリンもダルくんもそうじゃないと。でー、とりあえずまゆしぃは、電子レンジがほしいなー」
「それは研究品ではなく、備品としての問題だろう……」
 でもまあまた落ちてるのを見かけたら、拾ってきてダルと一緒に直してやるから。そう言うとまゆりは「ありがとー」と言ってぱあっと顔を綻ばせた。そうして再び、ぱくりとかき氷を口へと放り込んで、「くあー」とか言いながら頭をふらふらっと揺すっている。頭が痛いならペースを落とせばいいだろう、と言うと、だがそれがいいんだよー、と返ってくる。それがいいのか。なら仕方ないな。
「しかし、暑いな……」
 俺もまゆりほどでないにしろかき氷を食べ進めているというのに、暑さは一向に収まらない。開けはなったラボの窓からはぬるーい空気が入ってくる。秋葉原の夏は暑い。これでもPCを稼働させていないからまだマシなのだが、もう何度も「この夏」を過ごしている俺にとってすらも暑さは例外ではなく――
「――っと、誰だ?」
 暑さに対して誰にでもなく愚痴をつらつらと考えていると、ぴろぴろと胸ポケットに入れた携帯から着メロが響いてきた。Beginning of fight。久しぶりに聞いたそのメロディに俺は携帯を取り出し――って、ちょっと待て!
「なん……だと……?」
「んー? オカリン、電話ー?」
「いや、電話、なんだが……」
 Beginning of fight。今となっては皮肉すぎるタイトルのそれは、かつて俺が電話の着信音として設定していたメロディだ。「あの」頃は頻繁に使っていたし、きっと俺の記憶に残っていない着信をどこかの俺もたくさん聞いていただろうと思う。
 だが、それはもう昔の話だ。この世界線で――いや、この世界でまゆりと付き合いだしてからは、もう聞くまいと設定を変更しておいた。今の着信音はまったく違う音楽のはず。なのに、なぜ……?
「……オカリン?」
 まゆりが俺の顔を心配そうにのぞき込んでくる。分かってる。妙な気分になっていることは自覚している。液晶を見ても、着信相手は当然のように非通知だ。ぼうっとそれを眺めている間も、Beginning of fightは流れ続ける。
 ただの設定ミス? あるいはソフトのバグ? それとも俺の勘違い?
 そんな現実的な回答を、俺の直感はしかし確実に否定していた。
 これは、違う。
「オカリン、出ないの?」
「いや……」
 思わずまゆりの顔を見ると、俺の右手が勝手にまゆりの手のひらをぎゅっと握りしめていた。完全に無意識の行動。でもすぐにまゆりは両手でそれを握り返してくれて、ああ、だから、大丈夫だとなぜか思った。
 空いている左手で、俺は着信ボタンを押す。すぐに携帯電話を耳に当てて――
『よお、リア充』
 懐かしい声が、俺の脳髄を貫いた。





       ○  ○  ○





「紅莉栖……っ!? おい、紅莉栖か!? 生きて――いや、それよりいま、いまどこにいる!?」
『……そっか。うん、ありがと岡部。あと、ぬか喜びさせてごめん。私はたぶん、もう死んでる』
「は……?」
 聞き間違えようのない声。つい勢いのままに立ち上がってしまった俺に対し、返ってきた言葉は相変わらず天才特有の、俺の理解を遥かに超えた返答だった。思わず自分でもどうかと思うくらいの間抜けな声が口から漏れる。
 あまりの出来事にままならない思考のまま、とにかく何でもいいからなんとか声を絞り出した。とにかく、何か言いたかったのだ。
「お前、紅莉栖、紅莉栖だろう……!?」
『うん、そう。もうずっと会ってないだろうに……声だけで、分かるんだ?』
「忘れるはずがないだろう!? 俺は、俺は……!」
『……ごめん、今の、ちょっと自分でもどうかと思うくらい誘い受けだった。けど今でもそっちのあんたがそう思ってくれてること、嬉しいって思ったのも事実だから』
 紅莉栖の言葉は以前のように冷静だ。俺の頭は混乱しきっていて理解がさっぱり追い付かない。紅莉栖からの電話。そんなことはありえない。だとしても、それでも歓喜するはずのそんな事態であるにも関わらず、俺は思うように口から言葉が出てこない。
 もどかしい。そしてまた、電話口からですらいつものようにそんな俺の様子をあっさり看破したのだろう、紅莉栖がことさら落ち着いた口調で更に言葉を重ねてきた。内容よりも、俺はその声音で少し泣きそうになってしまいそうになっていたけれど。
『……これ以上期待を持たせるのも悪いから、結論から言うわ。いま私は、そっちとは違う世界線から電話をしてる』
「な……? 違う、世界線から……?」
 しかし吐かれた紅莉栖の言葉に、俺の混乱はとうとう限界に達しようとしていた。
 久しく思い出していなかったアトラクタフィールド理論を頭の隅から引っ張り出し、紅莉栖の言葉と照らし合わせる。違う世界線からの電話? そんな、まさか。それこそ、絶対にありえない。タイムリープやDメールをあれだけ使った俺から言わせれば、そんなことは理論的に、死者と再び会うことよりもずっとありえてはいけない話だった。
 世界線理論におけるそれぞれの世界線は、平行世界では断じてない。世界線とは多重に存在するのではなく、あくまで世界は一つのままで「切り替わる」もの。だからダイバージェンスメーターなるものが存在したし、だから俺のリーディング・シュタイナーも存在できていたはずだ。
 それが何だ、別の世界線から電話? 未来から過去への電話ならともかく、別の世界線からだと?
『正確に言うと「重複した世界線」ってことになるけど……まあいいわ。そっちは1%オーバーの、いわゆるβ世界線でしょ? ということは、まゆりは無事なのね?』
「あ、ああ、もちろんそうだが……」
 言われて、ぎゅっと握ったままの手と、その先にあるまゆりの顔を見る。俺の一変した態度にもまゆりは不思議そうな表情は見せず、ただ普段通りのまま、じっと俺と俺の携帯電話を見つめていた。
 リーディング・シュタイナー……とはいかないまでも、「幸せになりなさい」という言葉を受け取ったまゆりには、漠然とだが何か理解ができているのかもしれない。俺と目が会うと、何かを聞きたげにまゆりがちょっとだけ小首を傾げてみせてくる。だから俺が携帯を手にしたまま首肯を返すと、まゆりはにこりと笑って頷いた。
 たぶん、伝わったと思う。
「しかしでは、その言い方からするとそっちはα世界線なのか……?」
 本当は、それよりもっと直接に紅莉栖のことを聞きたかった。今どうしてる。何がどうなってる。けれどそんな思いとは裏腹に、俺は紅莉栖の冷静な口調につられるようにそんな言葉を吐いていた。
 いつだってそうだ。あまりに混乱している事態でも、紅莉栖の言葉に従っていけばこんがらがった事象も段々見えてくる。身に染みついたそんな教訓にのっとって、俺は努めて気持ちを抑えつけながら紅莉栖にあわせて話を進めた。当然、紅莉栖もそれに答えを返してくる。
 ままならない思考と口が、もどかしかった。
『うん、そういうこと。残念だけどまゆりはもう……。でもSERNはまだ私たちを拉致しに来ていない。そんな、ちょっとした合間の時間よ』
「信じられん……そんなことが本当に可能なのか」
 重ね重ねの驚愕の事実に対して呆然とする俺に、紅莉栖はいつかのようにかいつまんだ解説を俺にしてくれた。
 アトラクタフィールド理論には穴があること。
 どこかの世界線の俺がその話を別の紅莉栖から聞いていたこと。
 何度か実験した結果、その穴――”破れ”がどういう条件で成立するか分かったこと。
 そして――
『だから、良かったわ。まだ余裕があるうちに、こうしてそっちのあんたと話すことができる世界線に辿り着いて』
「んなっ……? お前、それは――」
『ポリシーはポリシーよ。確かに私は自分の過去を受け入れてる。でも……でも、どうしてもそっちの世界線に行くことになったあんたに、伝えたいことがあったから』
 それはこの私の「過去」とはまったく別の問題でしょう、と言い切って、受話器の向こう、紅莉栖が携帯電話を持ち替えたのがなんとなく分かった。これは何か大切なことを言おうとするときのあいつの癖だ。今になって、そんなことを思い出すなんて思いも寄らなかったけれど。
 紅莉栖は少しだけ言い淀んで、けれどしっかりと、ときたま見せる優しい口調で言う。
『ありがとう、岡部。私は、あんたがまゆりを助けてくれたことを、心の底から感謝してる。私はそれを、そっちのあんたに――そっちに行くことを選択したあんたにずっと伝えたかった』
「それは……しかし、俺は、」
『言うな。「張本人」がそう言っているんだから、あんたが苦しむ必要はない。それはたぶん、あんたがこっちに居るときの私も、散々言ったことだとは思うけど』
 そう言われ、ラジ館の屋上、雨に打たれた日のことを思い出す。あのときも紅莉栖は言っていた。あんたはまゆりを助けるべきだと。まゆりを犠牲にしてまで、自分は生きていたくはないと。
「……ああ、言われたな。そうしなければ恨むとまで言われたよ」
『うん。だから、ありがとう。こっちの岡部はそれができなかったわけだけど……やっぱり、それを恨むのはお門違いよね』
 電話口、紅莉栖が溜息のような吐息を漏らす。呆れてるような、納得してるような、あるいは何らかの諦めのような。ちょっとだけ自嘲気味である気すらした。
 けれどそんな、俺に改めてその言葉を伝えたいがために、ポリシーを曲げてまでこんなありえない技術を実現したと? だとすればとんだ天才科学者だ。そう告げると、それは褒め言葉として受け取るわ、なんてあっさりした言葉で返された。
 気持ちは分かる。死者への言葉――いや、この場合は死者からの言葉か。今生の別れに少しでも悔恨があるのなら、どうにかして届けたいと思うのは誰しもが願うことだ。それはかつて、フェイリスが父親に感謝の言葉を言えなかったことととてもよく似ている。
 紅莉栖が立脚しているのは、誰かを犠牲にしているという事実。そして、誰かを犠牲にさせてしまったという事実。
 だから俺はまだ混乱収まらぬ頭のまま、聞く。
「……まゆりと話すか?」
 俺は紅莉栖から――犠牲になった本人からこうして言葉を受け取った。ならば、紅莉栖だってまゆりと話をするのが筋だろう。少し会話から離れて頭を落ち着けたいというのもあった。加えて「かすかにリーディング・シュタイナーらしい記憶もあるようだ」と話すと、『うん、話したい』と紅莉栖は言うが、続けて、
『でも私よりずっとずっと、まゆりと話したがってるやつが、こっちには居るから。そっちが先になりそうかな』
「まゆりと? ……ああ、もしかして」
『そういうこと。だから、かわってあげてくれる? 説明はしづらいと思うけど……うん、まゆりなら、ちゃんと分かってくれると思うから』
 そう言って、紅莉栖が携帯を誰かに渡す音がする。だから俺も耳から話して、ずっと手を繋いでいたまゆりにそれを渡してやった。「うんー? 知ってるひとー?」とまゆりは俺の携帯を受け取って、そっと自分の耳元へ。そして向こうの第一声が聞こえたのだろう、大きな目をさらに丸くして俺と携帯を見比べ始めた。
「わ、わ、わ、オカリンだー? んんーっ?」
 きっと、しっかりと理解はできないだろう。けど、まゆりなら分かる。受話器の向こうに居る俺が、決して嘘などついていないということを。そして、それをまゆりは受け入れてくれるということを。そのくらいには俺たちはまゆりを信頼している。
 だから俺は受話器の向こうからかすかに聞こえてくる涙声に胸を締め付けられながら、一層強くまゆりの手を握りしめ、二人の会話をじっと見守ったのだった。





       ○  ○  ○





 α世界線からの電話は、まだ続いている。
 まゆりはしばらく『俺』と話し、そのあと紅莉栖とも話をしたようだった。こちらのまゆりは紅莉栖のことをほとんど知らない。だというのに、おそらくリーディング・シュタイナーの影響だろう、会話にまったく不自然さはなく、まゆりは「夢だと返事ができないから」とか何とか言って、今が幸せであると力強く告げていた。それに紅莉栖もまた泣きそうになっているだろうことは、声を聞くまでもないことだったけれど。
「それじゃ、オカリンにかわるねー」
 それからしばらく話し込み、再び俺に携帯電話が戻ってくる。
 向こうの言葉より早く、軽口で応じてやった。
「まゆりに泣かされたな、紅莉栖」
『うるさい! べ、別に泣いてなんか……!』
 ごしごし、と目元をする音。気持ちは俺にも充分分かる。
『岡部。まゆりを大切にしなかったら、それこそ死んでも呪いに出てやるからね』
「分かってる。だからお前も、まゆりを、その、どうすることもできなかったことを、その選択をした俺やお前自身を、決して責めないでやってくれ。まゆり自身が決してそれを望んでいない」
『それくらい分かってる。あれが正しい選択だったと胸を張ることはできないけれど、こっちはこっちでなんとかする。いつ来るか分からないSERNに怯えながら、だけどね』
 半分自嘲めいた紅莉栖の言葉は、もうその時期が近いことを暗に告げていた。世界線の収束。たとえまゆりの死因がSERNの襲撃でなくなったとしても、俺や紅莉栖、ダルがSERNに拉致される未来そのものは変わらない。そしてそれを知っていたとしてもなお、あちらの『俺』は紅莉栖を諦めてしまう選択ができなかったのだろう。
「なあ、紅莉栖」
『ん?』
「こうして電話をかけられるのに……俺たちには、どうすることもできないのか?」
『……』
 それは電話がかかって以来、ついにしなかった質問だ。
 世界線が重複している、と紅莉栖は言った。より正確には、俺がDメールを送る時間を跨いで俺以外の誰かがDメールを送ったりタイムリープをしたりすると、世界線を重複させることができるらしい。いくら聞いても理屈をうまく理解することはできなかったけれど、言わんとするところは分かる。
 でも、その結果がただ電話をかけるのがせいぜいだなんて。いつか求めた二律背反を解決する世界線への到達は、やはりできないということなのか。
『……ごめん。そこまでは、今の私たちには分からない』
「そうか。……いや、こっちもすまなかった。できるのなら当然やっているだろうし、俺はこうして……そしてたぶんそっちのお前たちもそうだろうが、こうして話せただけでも過ぎた願いだったと思うから」
 電話をしながら、横目でまゆりを見る。まゆりは溶けていくかき氷には目もくれず、じーっと俺の様子と、携帯電話を眺めていた。俺の視線に「ん?」と首を傾げてもみせる。俺は携帯を肩と耳で挟み、空いた手でぽんぽんとその頭を撫でてやった。
「紅莉栖。思うにこの電話、二度かけることはできないんだろう?」
 俺の言葉に、紅莉栖が一瞬息を呑む。けれどそれもすぐに溜息へと変わり。
『相変わらず無駄に鋭いのね、こういうことに関しては。……その通り。この電話は、切れたと同時に世界線の重複が解消されるわ。取り消しDメールと似たようなもの、と言えば分かるでしょ?』
「ということは、お前とまゆりには……?」
『そう、電話したという記憶は一切残らない。でもそれでいいの。私は岡部が覚えていてくれればそれでいいし、この電話がまたエシュロンなんかに捉えられた日には、何もかも無駄になっちゃうでしょ?』
「それはそうだが……」
 だからこれでいいのよ、と紅莉栖は続けて、俺は渋々ながらも頷いてみせる。
 紅莉栖は嘘をついている。分かっていたけれど、指摘する気にはなれなかった。
『――っと。そろそろ容量限界が近いわ。ねえ岡部、繰り返しになるけど、絶対幸せになりなさいよ。それがあんたの取った選択への、責任の取り方なんだから。いいわね?』
「分かってる。言葉を返すことになるが、お前もあんまり気に病むなよ。それと、『俺』をあんまり責めないでやってくれ。俺は本当に、お前のこともまゆりのことも同じくらいに大事に思っているはずだから」
『ちょっ、まっ……そんな、本人に面と向かって言うな! それにあれだ、まゆりにも失礼じゃない!』
「まゆりなら隣で笑っているぞ。それに『俺』のことだ、それこそまゆりに気を使ってはっきりとは言っていないんだろうからな」
 俺はまゆりと恋人になって、まゆりが生きているからこそそんな言葉をはっきりと口にできる。まゆりが死んでしまっていたなら、そんなことは口が裂けても言えないだろうから。
 だからこれは、俺から『俺』への餞別でもあった。
「それと、お前とまたこうして話せて本当に良かった。隣にまゆりが居なければ、多分泣いてしまっていたと思う」
『……そう。こっちの岡部はまゆりと話せて目を赤くしてたわよ。たぶん、まゆりもあんたの目が赤いことくらい、気付いてるんじゃない?』
「言ってろ」
 せっかく、今の今まで気にしないようにしてたのに。けれど俺の言葉がよっぽどつっけんどんだったのだろう、くすくすと軽い笑いが漏れてくる。くそ、このセレセブめ。
『……うん。なんかどう別れようかって気を張ってたのが、今ので力抜けちゃった。とにかく、あんたとまゆりは幸せになりなさい。まゆりにもそう伝えておいて』
「ああ、分かった。……元気でな、紅莉栖。俺は、お前のことを絶対に忘れない」
『ありがとう、岡部。そっちも元気で』
 その言葉を最後に、紅莉栖の気配が遠ざかる。さよなら、紅莉栖。俺は声には出さずにそう呟いて。
 がさがさと物音がして、電話の相手が交代する。
『……俺だ。もう、いいのか?』
 そうして電話口に出た声は、俺の喉から出ている声とまったく同じものだった。
 途端に、携帯電話でカラオケでもやっているのかというくらいの違和感に襲われる。相手もきっとそう思うのだろう。タイムリープで何度も掛けていた相手とはいえ、こうして対話をするのは考えてみれば初めてだった。
 自分と自分が話している。双子ですらさえないそれは、ほとんど冗談めいていた。他人から見たら俺たちのこの会話はどんな風に映っているのだろう。そんなことを考えながら言葉を返す。
「大丈夫だ。それに、もう時間がないんだろう?」
『ん、ああ、そうだな。だからかわったんだが……お互い「俺」ではな』
 言い淀む。お互い俺では、話さずとも気持ちは分かるだろう。きっとそう言っているのだろうし、そう予想できてしまうことが何よりの証拠になっていた。俺が頬を掻いているように、向こうもおそらく似たようなことをしているはずだ。
 まゆりともう一度話すかと聞けば、それにはおよばないと答えられる。かわりにでは紅莉栖と話すかと聞かれれば、もう別れは告げたからと断った。
 お互い、違うのは立場と世界線くらいなもの。あるいは隣にいる人か。だから俺は、再び自然と口を開いていた。きっと『俺』なら答えてくれる。そう確信を持ったまま。
「なあ。さっき紅莉栖は世界線が重複してると言っていたが……」
『ああ、それが?』
「電話が終わったら、そっちの世界線は消えるんだろう?」
 紅莉栖がついに隠したままだった嘘を曝く。
 電話の相手は驚きも戸惑いもなく、あっさりと言い切ってみせた。
『ああ、そうだ。俺たちはここで”降り”る』
 ”降り”る。
 聞いたことのない表現だったが、俺はなぜだかすぐに理解した。きっとどこかの世界線で耳にしていた言葉なのだろう。
「それこそ、いいのか?」
『良いも悪いもない。元はと言えば、お前が選択した時点で消えていたはずの世界線だ。言葉を届けられただけで充分だろう?』
 清々しいくらいの態度は、きっと本心からのもの。『俺』のことだから確信をもってそう言える。
 これはだから、紅莉栖の言葉を届けたいと思った『俺』が、無理に割り込ませたほんのわずかな夢みたいなものなんだ。電話が終われば世界線が変わり、俺以外の誰もがそれを覚えていない。それはきっと、夢以外のなにものでもないと俺は思う。
『む、そろそろ時間だ。NDメールを今の俺たちなりに応用したんだがな、まだ観測範囲内でのタイムリープ回数分しか限界容量を拡張できんのだ』
「NDメール?」
『ああそうか、NDメールはそっちの俺は知らないんだったか……。フッ、そうだな。この鳳凰院凶真の偉大な発明のうちの一つ、とでも言っておこうか』
「自分相手に、よく言う」
 呆れつつも、俺は自分の口が軽く笑っているのを自覚する。
 NDメール……おそらくはあの”ノスタルジア・ドライブ”の頭文字を取りでもしたか。どんな理屈かに興味はあったが、今の俺には必要のないことだった。
 だから、俺は言い返す。迫ってくる別れの時間。相手が『アレ』で来るならば、俺もそれなりに対応しよう。
 つまりは最後の「報告」だ。
「ならば鳳凰院凶真よ。”人質”は預かった。これで”機関”の連中も手出しできないに違いない。だから、安心するがいい」
『ククッ……そうか。では後は任せたぞ、もう一人の「俺」よ。俺のオペレーションはここで終了だ』
「ご苦労だった。あとは、任せてくれ」
 携帯を手に。
 俺が向こうの紅莉栖を思うように、きっと向こうの『俺』もこちらのまゆりへと思いを重ねながら。
 最後は、もちろん。
「エル――」

『プサイ――』

『コングルゥ――」





       ○  ○  ○





 さくりさくりと、かき氷を食べる音だけがラボの中に響いている。
 冷たさとの格闘はもう終盤戦。まゆりに至ってはもう底面の半分溶けてる部分にまで届いていて、カップを持ち上げてしゃくしゃくと氷を口へと放り込んでいる。
「そう急ぐな。頭痛はともかく、腹を壊してはたまらんぞ」
「んー、そうだねー。えへへ、オカリンは優しいなー」
「それだけ豪快にかき氷を食われては、俺でなくたってそう注意するだろう……」
 そうかなー、なんて言って、一旦かき氷を食べる手を止めるまゆり。ストローを切ったスプーンを口にくわえたまま、ぷらぷらとそれを弄びはじめる。退屈しないやつだった。
「あっ、そうだー」
 そうして今度は何を思ったか、まゆりは懐をごそごそと漁って自分の携帯電話を取りだしてみせた。メールも電話もそう頻度が高くないためあまり見ることのない、緑色のかわいらしい携帯電話。何をするのかと問えば「ちょっと待ってねー」と言ってかちかちと操作をし、次いで俺の胸ポケットがぴろぴろとまゆり専用の着信メロディを奏で始める。
 また、まゆりのわけの分からない遊びが始まった。文句を言うのも面倒で、しょうがなく電話を取ってやる。
「……で、まゆり。何がしたいんだ?」
『えーとねー、なんとなく、オカリンの声を電話越しで聞いたみたくなったの。オカリンの声はねー、電話だとちょっと印象が違うのです』
「違うって……どんな風に?」
『うーんとね、直接話すとオカリンの顔をじーっと見るんだけど、電話だと耳に集中するでしょー? だからね、電話だとオカリンの声がすごいオカリンっぽいんだー』
「意味が分からん……」
 でも今はオカリンが隣にいるからあんまり変わらないやー、とかなんとか言って、うんうんとまゆりが唸り始める。やっぱり意味不明だった。恋人でも掴みきれないところくらい、ある。
「で? 満足したか?」
「うん。やっぱりね、オカリンはオカリンだなーって」
「禅問答でもしてる気分だぞ……」
 それっておいしいの? とか言ってるまゆりをよそに、携帯を切ってテーブルの上へと放り出す。まゆりもあっさりと携帯をしまって、余りのかき氷をもそもそと口へ流し込んだ。
「まゆり、俺のぶんも食べるか?」
「うーん、今はいいかなー。オカリンが食べ終わるまで、ちょっとここでのんびりとしてよっと」
 言って、ぽふ、と俺の膝をまくらにしてソファにまゆりが寝ころぶ。いつものことなので、わしわしとその黒くてちょっとくせのある髪を撫で付けてやった。
「……なあ、まゆり」
「うんー?」
「いま、幸せか?」
「うん、とってもー」
 そのまままゆりが頭上に手を伸ばす。
 いつかどこかで見た体勢。けれど今は、俺が手を出すとしっかりと握り返してくれて。
「えへへー。ありがとね、オカリン。それと、――」
 はっきりと口に出してそう言って、まゆりはころんと身体を横にし瞳を閉じた。
 そのまますぐにその胸が規則的な呼吸を刻み始めて、俺は念のために白衣を脱ぎ、まゆりの身体にかけてやる。
 何が俺が食べ終わるまで待つ、だ。幸せそうなその寝顔に苦笑しそうになってしまう。
「だとさ、紅莉栖」
 白衣をかけてから、机の上に放り出た携帯電話を指で弾きつつそう言って。
 静寂なラボの中、それからしばらくの間は俺のかき氷を食べる音だけがさくりさくりと響いたのだった――。

++++++++++


Short Story -その他
index