Silent night

[divergence x.xxxxxx]
 今年の冬は、例年以上に寒かった。
 相変わらず貧相な台所事情のまま、カップ麺で夕食を済ませた午後八時。普段は温かさと満腹感に眠気すら覚えるそんな時間に、俺はなぜか急に息苦しさを感じてラボの外へと歩み出ていた。暖房ストーブが導入されているラボから出た途端、震え上がるような寒さが肌を刺してくる。思った以上に寒い。それでも俺は白衣の襟を気持ち狭めて、白い息を吐きながらビルの階段を下っていった。
 かん、かん、と鳴り響く自分の足音。ブラウン管工房はとうに閉店時刻を迎えている。降りていったところで誰かと鉢合わせするということもない。そして当然、店先にMTBが置いてあるわけでもなく。
「――寒いな」
 店先まで降りきって、わざと口に出しながら空を見た。昇りゆく白い吐息。鼻から大きく息を吸い込んで深呼吸すると、肺の奥まで詰めたい空気で満たされた後、暗い夜空に大きな白煙がゆっくりと拡散していった。
 溜息、だと思う。楽しい中に感じる、少しばかりの物足りなさ。”鳳凰院凶真”だったらそれを贅沢な悩みと怒るだろうが、それでも自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。
 何を意識したわけでもないのに、けれど右手は自然、携帯の入っているポケットへ。一時は文字通り命綱ですらあった、赤と黒のツートンカラー。正直ものすごい愛着が湧いている。電話をとるのは今でもちょっと躊躇うが、電話レンジ(仮)を解体しても、同じく象徴的だったこの携帯を手放す気にはなれなかった。
「さて、”例の件”の連絡は来てるかな」
 携帯を開きながら鳳凰院凶真っぽく独り言を吐いてみて、言ってるそばから後悔する。しんと静まりかえっている街並み。あまりに下らない言葉が白い息とともに反響する錯覚を覚えて、俺は恥の上塗りという言葉を強烈に実感していた。
 いやいや、何が上塗りだ。俺はべつに何か用があって携帯を取り出したわけではなく――いや、違うな、用があったけど、それは紅莉栖がらみではない用事だ、という方がこの状況の言い訳としては最適で――
「……って、アホか俺は」
 溜息を重ねる。もう考えれば考えるほど墓穴を掘る気がしてきた。開き直り、手慣れた操作で堂々と携帯をいじる。新着メール問い合わせ。かつては積極的に使うことなどありえなかった機能だ。わざわざ問い合わせなんぞせずとも、普通はメールが入ればすぐ分かるのだから。
 けれどここ最近、それが頻繁になっていることはダルやまゆりに指摘されずとも自覚している。でもそれは、べつに特定の紅莉栖からのメールを待っているわけではなくて、もっと緊急の用事が入っていたらまずいためで――いやいやだからもうそのネタはいいだろうというに。
「メールはナシ、か」
 当然の結果に、再び白い息が吐き出される。顔を近づけていたせいで、少しだけ携帯の液晶が曇ってしまった。
 メールは今から三日前、俺の誕生日を祝う旨の書かれたものが最後だ。ハッピーバースデイ。この歳になってその言葉に喜ぶとは思わなかったが、けれどそれ以来、ぷっつりと音沙汰がない。
 いや確かに、そのくらいの空白は今までだってあった。だらだらと大学に行っている俺はともかく、あいつはとかく忙しい。今も新しい研究プロジェクトが立ち上がったとかでアメリカじゅうをあっちに行ったりこっちに行ったりしている。紅莉栖が「今はアメリカの××にいる」と言ってくるたび、グーグルアースでその都市の場所を覚えるのだが、その移動距離は想像するだけで目眩がするほどのものだった。
 でもその……なんだ。
 クリスマスはともかく、そろそろ年末年始なのだし、帰国するかどうかの連絡くらいは欲しいな、とか思ったり思わなかったりするわけで。
「はあ……」
 携帯を閉じて、再び空へと目を向ける。
 それなりに高さのあるビルに挟まれた、都会の夜空。空気も汚いし、電線や電柱がロマンチックな幻想を綺麗に粉砕してくれているけれど、それでも晴れた空、月をはじめとした綺麗な星がぽつぽつと輝きを放っていた。
 360度の巨大パノラマ、とはいかない。俺が居る場所は徹底的な現実のそれだ。東京、秋葉原。地に足を着けた狭すぎるプラネタリウムは、だから俺を引きずり込むことなどできはしない。宇宙に、ブラックホールに落ち行く夢は未だに時折見るけれど、夜空を見上げてその恐怖を思い起こすことは今はもうなくなっていた。
 リーディング・シュタイナーを頼りに、世界線を移動し続けていたときは心底孤独だった。
 けれど、いまはもうそうじゃないから。
『手がね、届くといいなーって思うんだ』
 まゆりはかつて、星空を見ながらそう言った。
 星屑との握手。今ではあまり見せなくなったそれに、俺はかつて亡くなったまゆりの祖母の面影を見ていた。まゆりが星を掴もうとする。だが逆に、空がまゆりを連れ去ろうとしていると、幼い頃の俺にはなぜか思えて。人質だなんて発想は、今でも苦笑してしまいそうだ。
 空に手は届かない。それは当然の理屈だ。それは”物理的に”無理なのだ。
 だから。
「……よっ、と」
 だから俺もこの夜の秋葉原で、目を見開いたままゆっくり空へと手を伸ばす。かつて自らが落ちていった暗い空へ。そんなものが”物理的に”ありえないと、この身で証明するために。
 人は空へと昇らない。物質は無限遠へと到達できない。電波はブラックホールを抜け出せない。過去は決して改変できない。それらは全て、ニュートン力学の、アインシュタイン相対性理論の、そしてシュタインズ・ゲートの選択だ。
 だから安心して手を伸ばせばいい。世界が自分を食い尽くすなんて錯覚だ。孤独を感じ、目を閉じてしまう必要なんてどこにもない。広がる空は、地球上の誰もが見てる同じ空。そんなポエムめいた発想に気持ちを乗せるつもりはないが、それでもこの手を伸ばす権利くらい、俺たちにだってあっていい。
 ……伸ばした腕の先、白衣と同じ白い息が呼吸に合わせて空へと消える。そのまましばらく空を眺め続けていると、吐息がゆらりと揺れ出した。寒い夜空の下、少しばかり風が吹き始めたらしい。
「……戻るか」
 ゆっくりと手を下ろし、これ以上の寒さを感じる前に踵を返す。なんとなく、心も身体も落ち着いた気がした。そうしてかんかん、と再び階段を上っていき、ラボのドアの正面、そういえば今日は開いてなかったなと、広告だらけの郵便受けを念のためかちゃりと開いてみれば。

『To Mr.Rintaro Okabe』

 流暢な筆記体で宛名の書かれた、緑色の小振りな封筒が目に止まる。切手も消印もあまり見慣れない、国際郵便のそれ。郵便受けを開けた拍子に落ちてしまった広告になど目もくれず、その手紙をくるりとひっくり返す。
 そこには「あんたは英語読めないからね」と笑いながら言っていた、俺の期待したとおりKから始まるローマ字が記されていて。

『From Kurisu Makise』

 ――ホーリー・デイを一週間後に控えた、12月17日。
 俺はともすれば笑ってしまいそうになるのをなんとか必死に抑えつつ、何食わぬ顔でラボへの扉を開けたのだった。

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