観測

[divergence x.xxxxxx]
 たぶん、少し疲れていたんだと思う。
「オカリン、どうかしたのー?」
 ラボで昼ご飯を済ませ、大した用事もなくソファに座って雑誌を読んでいる途中。特にその内容がつまらないというわけではなかったのだが、急な眠気が唐突に降って沸いて出た。
 ぐん、といきなり沈んでいく思考。少なくない満腹感とほどよい暖かさに目蓋どころか頭全体が重くなり、俺は手にしていた雑誌をテーブルへと放り出した。
「岡部? 眠いの?」
「昨日は夜遅かったみたいだよー。ダルくんと一緒に何か作ってたんだって」
「そう。ま、こんな陽気じゃ眠くなる気持ちは分からなくもないけどね」
「ん……あぁ……」
 対面する椅子に座るまゆりと、俺のすぐ隣に座っている紅莉栖の声がやけに遠い。かくん、と首が落ちることで自分の意識が少しだけ戻るのは、なんだかつまらない講義を聞いているときの眠気ととてもよく似ている。
 眉間を揉んで少し首を振っても効果無し。これは少し眠った方がいいなと、自分自身でも思い始めた。
「寝た方がいいんじゃないかなー? 何か用事があるなら起こすよ、オカリン」
「ああいや、特に用事は……」
「あんた、どんだけ眠いのよ。別に顔にいたずらしたりしないから、寝るならさっさと横になりなさい」
「ん……、そうさせてもらうか……」
 紅莉栖の苦笑気味な声に、俺はテーブルを少し押しやってソファに足を持ち上げた。重い身体。もう動くのも面倒くさい。お言葉に甘えて、もうこのまま寝てしまおう。
 そのままソファめがけて、いつもどおり頭からぱたりと倒れ込む。
「ちょっ――」
「わっ、わっ――」
 ぽすん、と俺はいつもよりもずいぶんと柔らかく感じるソファの角を枕にして。
 なぜか慌て始めたまゆりと、これまたなぜか真上から聞こえてくる紅莉栖の驚きの声にちょっとばかりの疑問を覚えながらも、眠気に負けてそのまま意識を沈めてしまったのだった。





 ……。
 ふわふわとした意識が、少しだけ浮かび上がってくる。
 まだ、眠い。
 呼吸は安定していて、不快感もない。ほどよい陽気は俺の意識を惰眠に押し留めるには充分なほどで、俺はしばらく心地良いまどろみの中に停滞していた。
「それでねー、オカリンってば――」
「なんだ、昔っから全然――」
 聞こえてくるのは二人の声。なんとなく囁くような小声になっているのは……ああ、俺がまだ眠っているからかもしれない。気を使ってくれているのだとしたら、ずいぶんとありがたいことだと思う。
「でもね、まゆしぃが熱を出しちゃったときとかは――」
「そういうところも、相変わらず変わってない――」
 優しい声音。そんな中、ふと何かが横になっている俺の頭に触れてきた。撫でるような感触は、おそらくは誰かの指先だ。母親が寝ている息子をあやすかのような、ゆっくりとした優しい触れ方。
 不快な感じはまったくしない。それどころか俺はそこに安心感さえ覚えてしまって、浮かびかけた意識が再び沈んでいくのを自覚する。
「まゆりには話したっけ? こいつ、私が買い物で困ってたとき――」
「えへへー、それはオカリンなりの照れ隠しだよー。だからね、そういうときは――」
 俺の話を、しているんだろうか……?
 どうせあれだ。紅莉栖が愚痴を言って、まゆりがにこにこと微笑んでいるに違いない。一言いってやってもよかったが……まあ、別にどうでも良かった。そんなことより俺は眠りたい。
 ふかふかのソファ。ほどよい陽気。さらにいつもと違って柔らかい枕に鼻をくすぐる良い香り、頭に感じる強い安心感で、俺に起きる気はさらさらなかった。これほどの安眠は久しぶり。思っていた以上に疲れていたみたいだし、そのまま俺は寝続けてしまうことを選択する。
 その前に少しだけ、頭の位置を確かめ直して。
「ん……」
「わっ、オカリン、気持ちよさそー。まゆしぃもそこで寝たいなあ」
「ば、馬鹿いわないでまゆりっ。だ、だいたいなんでこんなことになってるのよっ」
「えー、でもクリスちゃんがよければ、オカリンのためにももう少しくらい、ね?」
「まったく……。私だって、こんな気分良さそうに寝てなければとっとと叩き起こしてるわよ……」





「……、おい、岡部……!」
 ゆらゆら、と意識が揺れる。
 かくかくと動かされる三半規管。急速に持ち上げられていく意識。外部からの運動でまどろみは一気に突破され、くっついたまぶたをこすりながら俺はゆっくり目を開いた。
「ん……紅莉栖か……」
 強い光に何度か目を瞬かせる。
 横になって眠っていた俺の身体は、いつの間にか起こされてソファにその背を預ける形になっていた。俺の身体を揺らしていたのは隣に座る紅莉栖。「ようやく起きたか……」なんて呆れ気味に呟いてる態度には、どうしてか少しばかりの疲れと安堵が垣間見えていて。
 まあ、こいつがよく分からん気苦労をしているのはいつものことだ。気にせずあたりをぐるりと見回す。
「ああ、そうか……雑誌を読んでいて、寝てしまったんだったか……」
 顔をこすり首を伸ばしながら、視線は壁に掛けてある時計へ。身体の具合からもなんとなく分かりはしたが、だいぶ時間が経っていた。昼寝にしては長すぎるくらいだ。たいした爆睡である。
「しかし、久しぶりによく眠れたな……」
「オカリン、熟睡してたもんねー。すっごく気持ちよさそうだったよー」
「うん? まあ、そうだったのかもな」
 ぐい、と背中のあたりをストレッチしながら、まゆりのやけに嬉しそうな言葉に返答する。
 別にもう、こいつらに寝顔を晒したところでどうこう思う精神なぞ残っちゃいない。そもそも俺がこのラボで泊まったときなどは、朝方にやってきたこいつらに寝起きを何度も見られている。むしろ寝るのを邪魔されなかっただけありがたいくらいだ。
「ねー、クリスちゃん? オカリン、よく眠ってたよねー?」
「へっ? え、ええ、そうね。これで眠りづらかったなんて言われたら、脳みそ取り出して強制睡眠させてやるんだから」
「それじゃ永眠だろう……というか、なぜそこまで言われねばならん……?」
「し、知らないわよっ! このHENTAI!」
「うん……?」
 頭を掻きながら、首を傾げつつあくびをかます。ぐっぐっとストレッチを続けて、ようやく目が覚めてきた。ついでだからと立ち上がり、ラボの窓も開け放つ。
 低い角度から差し込んでくる日の光と、流れ込んでくる新鮮な空気。寝起きの頭は一気に覚醒していった。
「あ、丁度いいわ。岡部、ついでに喉渇いたからドクペとってくれる?」
 そうして今度は雑誌を片付けようとしたところで、ソファに座っている紅莉栖から声がかかり――
「っておい、なにがついでだ、なにが。お前の位置からのが冷蔵庫は近いだろう。どうして俺がぐるっとラボを回ってお前にドクペをやらねばならん」
「うるっさいな。いいでしょ別に。はやく取ってよ」
「オカリンオカリン。クリスちゃんはねー、たぶん、足が痺れてるんだと思うなー」
「ちょ、まゆり!」
 足を……?
「なんだ。助手よ、読書に熱中しすぎでもしたのか?」
「く……っ! なんだっていいでしょ! いいから早く取りなさい!」
「お、おい、取る、取ってやるから。そんなに怒ることはないだろう」
 なぜかぷんすかし始めた紅莉栖をなだめ、あわてて冷蔵庫へと走る。そのまま紅莉栖のぶんのドクペと、自分のぶんのドクペを一本ずつ確保。やはり紅莉栖がラボに居ると消費量が半端ない。冷蔵庫にはだいぶ空きが見えてきていた。
「まゆりは?」
「まゆしぃは喉渇いてないからいいかなー。あ、それとね、さっきダルくんがコーラ足りなくなってきたって言ってたよ」
「ダル? 来たのか?」
 時間を考えれば来ていて当然ではあった。けれどその痕跡はとうになく、いつもダルが使っているPCにも特段変化は見られない。
 なんだ、来たなら声をかけてくれても良かったろうに。首を傾げていると、紅莉栖が相変わらず不機嫌そうに答えてくれた。
「来たけどすぐに帰ったのよ」
「帰った? なんだ、忘れ物でもしたのか」
「さて、どうなんでしょうね」
 いや、だからなぜそんなにさっきからつっけんどんなんだ。
 だというのにまゆりはその紅莉栖の態度すらにこにこと楽しそうに微笑みつつ、
「あ、そういえばねー。まゆしぃはね、ダルくんから、オカリンへの伝言を預かったのです」
「伝言? なんだ?」
「んーとね、すっごく怖いカオで『リア充爆発しろ』だって」
「何を言っているんだあいつは……」
 相変わらずよくわからんやつである。ラボで昼寝をしただけで、どうしてそこまで言われなければならんのか。あいつこそ昼寝のときなぞげへげへ笑いながら床で眠りこけているくせに。
 まあ用があるならメールでもなんでも連絡来るだろうと思い直し、俺はソファに座り直して紅莉栖にドクペを一本渡す。
「ほら、注文通りドクペだ。まったく、ものぐさな助手だな」
「……はあ、反論する気力もなくなってきた。ま、いいわ。別に恩を売ろうとしたわけじゃないし」
「うん? 何の話だ?」
「こっちの話よ」
 ぷしゅっとフタを開けて、紅莉栖がドクペに口をつける。俺も首をかしげつつ自分のぶんを喉へと流し込んだ。寝起きの渇いた身体に炭酸はずいぶんと心地よい。
 そしてその様子を、なぜかまゆりはいっそう嬉しそうににこにこと眺めてきていて。
「まゆり、どうかしたのか? さっきからずいぶんと楽しそうだが」
「んー? んーとね、なんか、いいなーって。まゆしぃも久しぶりにドクペ飲んでみようかなー」
 いや、まあ、余っているのだし、飲むのを別に止めはしないが。
 にこにこ顔のまま「トゥットゥルー☆」とか言って冷蔵庫を開き始めたまゆり、そしてなぜか若干顔を赤くしてこっちをさっきから睨んでいる紅莉栖の様子に首を傾げながら、俺は再びドクペをあおったのだった。

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