A Nonsense Day

[divergence x.xxxxxx]
 夏を過ぎてなお稼働を続ける扇風機の奮闘を見ながら、俺はふわあとあくびをした。
 暑さも一段落し、そろそろクーラーがないことにも不満を覚えなくなったころ。ラボでは殊勝にも昼前に出勤してきたクリスティーナ・通称紅莉栖とともに昼食を食べた後、二人してソファに座って何をするでもなくのんびりとくつろいでいた。のんべんだらり。いかな天才マッドサイエンティストといえど気を抜くことはあるもので――ではなく、いや実際はこれも”機関”を欺くための勇気ある行動のひとつなのだが、だらけることで何をどう欺くのかなんて質問をされても困るのでその辺りは特に説明したりはしません。とにかく欺くのだ。聞かれても答えません。ご了承ください。
 テレビではさっきっから誰も見ていないバラエティが垂れ流しになっている。そもそも、主にテレビを使っているのはDVDを持ち込んだりするまゆりと、徹夜するときに深夜アニメを見るダルだ。俺はどちらも付き合いで見る程度だし、紅莉栖もはじめこそ色んな番組を珍しそうに見ていたが、今では「つまらない」の一言のもとに興味の大半を失っていた。それでもつけっ放しにしているのは、やっぱり耳が寂しいからかもしれない。
「……」
 そしてその紅莉栖は、わざわざこの二人がけのソファで俺の隣に座り、さっきっから小難しそうな本に目を通している。横から覗けば書いてあるのはすべてが英語。にやにやしながら「読む?」なんて聞かれもしたが、あまり自分が優秀であると”機関”に知られると困るので渋々ながら断っておいた。天才はその才覚を隠すのにも気を使わなければならないのだ。ちなみにどう困るのかはやっぱり聞かれても困るので、これまた質問されても答えません。ご了承下さい。
「それにしても、そこに積んであるのも合わせるとずいぶんな量だな。読み切る気か?」
「まあ、それなりに優先順位はあるけれど。っていうか洋書読めとは言わないけど、あんただって少しは勉強したらどうなのよ。腐っても理系なんでしょ?」
「何を言っている。この鳳凰院凶真に読むべき学術書があるとすれば、それは俺自身が書いた論文だけに他なるまい! まあノーベル賞やフィールズ賞の発表くらいになれば、目を通すこともあるが」
 あと教科書のテスト範囲とか。期末の過去問とか。
「はいはいワロスワロス。レポート1つ満足に書けないで何言ってるんだか」
 視線一つよこさずそう言って、無表情のままページをめくる紅莉栖。その目の動きは俺にしてみれば流し読みと区別がつかないほど。実際に読んでいるのか疑いたくもなるが、まあこいつのことだ、実際読んでいるんだろう。流石は我がラボのラボメンNo.004である。002にちょっとばかし見習ってもらいたいような、わりとそうでもないような。
 紅莉栖が読書を再開したので、俺は手持ち無沙汰のままソファにぐでっと背中を預ける。ぼけーっとしながらテレビの雑音を右から左へ。視界をまわしても汚い天井の他は紅莉栖の後ろ姿くらいしかなく、なんとなしにその長い髪へと手を伸ばす。
「……なに? ゴミでもついてた?」
「いや、そういえばクリスティーナの髪はさらさらだったなと思って」
「なによ唐突に。褒めてる……と受け取っていいの? そもそも岡部がそういう価値観を持ってたこと自体が驚きなんだけど」
「失礼な。助手よ、お前は俺をなんだと思ってるんだ」
「あ、いや……その、気分悪くしたなら謝るわ。褒めてもらって嬉しくて、つい」
 ぷいと俺とは逆の方を向いて、紅莉栖が自分の髪の毛を両手で梳いてみせる。シルクのようなとか、指に吸い付くようなとかよく言われているが、こいつのはいわゆるそういう類のものだ。ずっと触っていたくなるタイプ。
「うむ、その髪は誇るといい。いやなに、少しばかり黒魔術にハマってたことがあってな、これでも髪の毛にはうるさいのだ。ちなみにまゆりは少し硬めで、ダルは意外に柔らかいぞ」
 髪を梳いていた紅莉栖の動きがピキッと止まる。
 ククク、助手のやつ、あまりの褒められぶりに恥ずかしくなっていると見える。もう一押し。いったんは手放したその髪にもう一度手を伸ばして。
「ちなみに黒魔術だけでなく東洋呪術でもこういう髪は重宝されてい――ちょ待っッ」
 ばごんっ、と脳髄を揺らす衝撃。喋っている途中、紅莉栖が振り向きざま、回避する間もなく。
 ……最後に見えたのは、さっきまで紅莉栖が読んでいた分厚い本の背表紙だった――。





       ○  ○  ○





「あれ、もうこんな時間?」
 俺がようやく鼻血が止まったことにホッとしたのとほぼ同時に、紅莉栖が読んでいた洋書から顔をあげて呟いた。俺も鼻を押さえながらそっと掛け時計へと目をやれば、なるほど確かに、示されているのは予想よりはかなり進んでいる時刻。窓を見れば夕日が沈みかけていて、さっき昼食を済ませたかと思えばもう夕飯を食べ始める時間だ。
「結局まゆりたちは来なかったわね」
「ダルもまゆりも、バイトが長引くと言っていたからな」
 携帯を取り出して受信したメールを改めて確認する。二人それぞれからバイトが長引く旨の内容が送られてきていて、ダルは直帰するとも言ってきていた。見ないふりして『ドクペが少なくなってきたから買ってきてくれ』とも送ったが、『だが断る』と返ってきて以降は催促にも応答はない。ダルめ、それでもスーパーハカーか!
 あてにならないラボメン二人に溜息を吐いて――もちろん隣の紅莉栖に聞こえる大きさで「ハァ……」だ――、携帯を待ち受けに戻した後でテーブルに放り投げる。
「それでクリスティーナよ、晩飯はどうする? それとも帰り際に食べるか?」
「岡部はここで食べてくんでしょ?」
「当然だ。ここは俺のラボだからな」
「いや、そのりくつはおかしい。……でも岡部が食べてくなら、そうね、一人じゃ寂しいだろうから付き合ってあげる。二人の方が美味しいでしょ」
 そう言って読んでいた洋書をぱたりと閉じる。そのままテーブルの上の片付けまで始めるあたり、そのこれみよがしな表情とは裏腹にここで食べていく気満々のようだった。
「ふむ。そうか、助手は一人で食べるのが寂しいのか」
「私がどうやって夕食が寂しいって証拠だよ!」
「あー分かった分かった。で、ラーメン缶でいいか?」
「……えと、ハコダテ一番がまだ2つあったはず」
 相変わらず注文の多い……。
 溜息吐きつつソファから立ち上がって食料庫を漁ると、色んなお菓子に紛れて紅莉栖の言うとおりハコダテ一番が2つだけ見つかった。相変わらずの記憶力、なんという才能の無駄遣い。このぶんだと賞味期限まできっちり把握してそうである。
「お湯、沸かすわ」
 俺がカップ麺の包装を剥がしていると紅莉栖がやおら立ち上がり、いそいそと台所に火を入れはじめた。今の今まで同じくぐーたらしていた癖に、何かを始めるとなると本当に早い。切り替えが早いというか。いやまあ、単にはやくハコダテ一番を食べたいだけかもしれないが。
 まゆりに劣らず食い意地が張っているな、という印象は俺の心の中に留めておく。べ、別に以前口に出してしまい、その凍てつくような目に膝を折った経験があるからとかそういうわけでは断じてない。ないったらない。ご了承下さい。
「しかし、火を使うとさすがにまだ暑いな」
「すぐに換気扇をつけただけで寒いようになるでしょ。ていうか、暑さはともかく寒さはまずいんじゃない? 暖房くらい入れたら?」
「ふむ、助手の言うことも一理ある。次からはゴミ置き場で暖房器具を重点的に漁ってみるか」
「壊れた暖房器具を使うなんて死ぬ気か。安いのあったら買っておけって言ってるの」
 秋葉原ならいくらでもあるでしょ、と続けて、紅莉栖が食器を棚から出してくる。フォークと箸一膳。いい加減箸の練習でもすればいいと思うのだが、道具としては非効率だなんだとかで今のところそのつもりはないらしい。使えないわけではないと言うから一度だけ煽って箸で食べさせたことがあるのだが、そのときは食事というよりは新しい実験器具を試す研究者みたいになってしまった。当然時間がかかって麺が伸びきってしまい、なぜか俺が説教される羽目になったのは未だによく覚えている。
 あのとき、なぜ俺は怒られたのだろう。紅莉栖が四苦八苦している横で、「じゃあ俺はフォークで食べてみるか」なんて言いつつこれみよがしにカップ麺を2つも完食してしまったせいだろうか。あるいは紅莉栖がアテにしていたラス1のドクペを一気に飲み干してしまったせいだろうか。どっちにしろ紅莉栖はちょっと気が短いんだと思う。
 当時の理不尽を思い返していると、ほどなくしてピーッとヤカンが自己主張を始めた。
「ん、沸いたわ。フタ外した?」
「フゥーハハハ! 誰に物を言っているのだ、クリスティーナよ! ……ちょっと待ってくれ」
 急いで包装ビニールをゴミ箱へと放り込み、紅莉栖のぴりぴりした睨み目にちょっぴり気を払いながら、そそくさとカップ麺のフタをぴりぴりと半分ほど開ける。くそう、こういう作業こそ助手の役目ではないのか。まったく何の為の助手だと思ってるんだ。
「まったく何の為の助手だと思ってるんだ!」
「……そう。確かに私は助手じゃないし、岡部はそのままバリバリ食べるからお湯はいらないってことか。過ぎた真似だったみたいだし、残りは捨てておくわ」
「は、早まるなクリスティーナ! なにか……そう! お湯を沸かしておきながら使わず捨てるなど、それでは今どきのエコに反するではないか!」
「私、エコ活動とかそういうの嫌いだから」
「ええい、面倒くさい理念を持ちおって!」
「いやお前が言い出したんだろ」
 言いながらも、紅莉栖は2つのハコダテ一番にお湯を注いでヤカンを台所へと戻した。そこからてきぱきとフタに重しを乗せて、ちらりと腕時計を確認。無駄のないその動き方、研究所で実験するときもこんな感じなんだろう。性分か。
「なに?」
「いや。……それより飲み物はいらんのか?」
「あっ……」
 そしてやっぱり実験でもちょっとは抜けてるんだろうなあ、こいつは。
 慌てて冷蔵庫をのぞき込む紅莉栖の後ろ姿を見ながら、そんなことを俺は思ったのだった。





       ○  ○  ○





 季節の移り変わりは、昼間の気温よりも日の短さでもっと顕著に感じられた。
 カップ麺を食べ終わり、相変わらずぐうたらとテレビを眺めていると、いつの間にか窓の外がずいぶんと暗くなっていた。先日までならまだいくらか明るかった時間帯。それが今では近くの街灯やビル明かりが窓に映り混むくらいにはなっていて、急激に短くなっている日の長さに秋の訪れを感じずにはいられない。
 隣を見れば紅莉栖もまた相変わらず読書を続行していたが、読んでいるのはさっきまでのおカタい洋書ではなくまゆりが置いていった漫画本だった。合間合間には携帯でどこか――まあ言うまでもなく@ちゃんねるだろうが――をチェックしている素振りも見せていて、これ以上ないくらいのリラックスモード。学術書のたぐいはすでに部屋の隅へと追いやられている。今日はもう読むつもりはないらしい。
「そろそろ帰るか?」
 言いながら、立ち上がって窓をがらっと開けてみる。少しばかり温い風。見上げれば、大きな月といくつかの星がすでに天上に表れていた。
「あれ、もうこんな?」
 振り向くと、真後ろから紅莉栖の意外そうな声。漫画を置いて同じく窓際まで来たらしい。空を見上げ、きょろきょろと視線を動かす。その後で腕時計へと視線を落とし、これまた意外そうに「へえ」と呟いた。……おお、その意外そうな驚嘆はなかなかいいカンジだ。今度なにかで使わせてもらおう。
 うるさいな、なにかったら何かだ。聞かれても困る。ご了(略)
「けどまったく、今日は朝から居たっていうのに。相変わらず何もできなかったわね」
「おい助手よ、何を他人事のように言っているのだ。それに文句なら俺ではなく不義理にもラボをサボったラボメンどもに言ってやれ。俺が許す」
「研究室じゃ、成果の出ない責任は全てボスがかぶるのが常識でしょ。……ま、今日はうるさくなかったし、たまにはこういうのもいいと思うけどね」
 別にあんたと二人きりだったからとかそういうんじゃないから、なんてツンデレをわざわざ付け足して紅莉栖が窓から離れる。
 蛇足についてはともかく、たまにはいいんではないか、という意見は俺も思ったことだった。暦の上では半年かそこいらのラボ歴。それでも俺の主観では良いも悪いも含めて長い時間研究を続けたような”錯覚”があって、それだけに何もしない、のんびりとした一日というのもそれはそれで充分価値のあるもののように思えてしまう。
 いつかまゆりが言っていた。俺がラボを設立して、ダルが入るまでの一月半。その頃は未来ガジェットが1つもなく、俺とまゆりは終日なにもせずここでのんびりと過ごしていた。飯を食って、まゆりの裁縫を眺めて、暇があればDVDでも見て。そんなのんびりとした時期のことを「懐かしい」と表現したまゆりの感情、それが今ならよく分かる。
「明日は来るといいな、ダルもまゆりも」
「へ? ええそうね、まあ、まゆりは当然としても、橋田も居なきゃ居ないで物足りないわよね。居たら居たでやかましいもんだけど」
「牧瀬氏、その言い方はひどいお……」
「あはは、それ似てる。さすがHENTAI同士」
「一言余計だ! ――っと」
 窓を閉め、ガスの元栓を閉めたところで携帯が鳴る。見れば、「まだラボにいるのかなー?」から始まるまゆりからのメールが届いていた。バイトがようやく終わったよー、とのこと。紅莉栖にも文面を見せれば、呆れたようにくすりと笑って。
「帰るのが遅くなりそうね。コーヒーの用意でもしておきましょうか」
「ああ。あとからあげを入れる皿もな」
「はいはい」
 お互いに苦笑い。俺は携帯を再度開き、今来たメールに返事を書く。
 懐かしいと感じたのんびりとしたこの空気が、今日はもうしばらく続きそうだということ。
 そのことに言いようのない感覚を抱きながら、俺は再びその身をソファに沈めたのだった。

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Short Story -その他
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