Time Scraper

[divergence x.xxxxxx]

『関係者以外立ち入り禁止!』

 暗い通路、汗ばむくらいの暑さにつつまれた長い階段。それらを抜けたその先、踊り場に掲げられたそんな注意書きに意識せずとも鼻が鳴った。関係者以外立ち入り禁止。その皮肉、「鳳凰院」でなくとも声が漏れるほどに笑えてしまう。いや実際に、声に出したりはしなかったけど。
 階下からはいつかと違い、うるさいくらいの店内BGMと、そこに存在する人々の声が聞こえてくる。営業中のラジオ会館。うるさいにきまっている。もしそこから音が消えるなんてことがあるとすれば、それは営業時間外か、営業停止中か、あるいはビルそのものが無くなったときくらいなものだろう。どちらにしても”今”からすれば妄想の類。線の向こうへと消えたそんな静寂に別れを告げて、申し訳程度に存在する立ち入り禁止の境界線を乗り越える。
 その先にあるのは屋上へと続く扉。ノブをぐるっと回すと鍵はやっぱり開いたままで――
「やはりここだったか」
 扉を押し開けた途端、差し込んでくる強い日差し。突き抜けるような青空が暗い通路の残像を焼け焦がし、籠もるような熱さはビル風で一瞬にして運び去られた。思わず白衣の胸元を押さえ、関係者以外立ち入り禁止の屋上へと身を躍らせる。
 開けた視界。視線を回すまでもなく、目的である探し人はすぐに見つかった。得体の知れない樽形駆体が置いてあるわけでもない、ましてや床が崩壊しているわけでもないその空間。金網で区切られたような箱庭めいたその場所で、紅莉栖は”壁”を背にしたまま大空へその目を向けていた。
「……岡部か。よくここが分かったわね」
 寝起きのような気怠い声。ちなみに言葉とは裏腹に褒めてる様子は全然ない。牧瀬紅莉栖の平常運転だ。
「1人になりたいって言ってたからな。確率的に見て、ここに一番いそうっていう解を導き出したんだ」
「その照れ隠し、やっぱり笑える」
 言いながら自分で薄く笑って、紅莉栖は空からこちらに視線を移した。頭を起こす。その拍子で長い栗色の髪が風に舞い、そのままどこかへ行ってしまいそうな錯覚を覚えた。
「こんなところでなにをしている?」
「……考え事」
「わざわざ営業中のビル屋上に不法侵入までしてか」
「悪い?」
「そりゃ良いか悪いかで言えば悪いだろう」
「あら、あのマッドサイエンティストがついに遵法精神に目覚めた?」
「悪いか?」
「そりゃ良いか悪いかで言えば良いんじゃない?」
 ちっとも信じて無さそうな顔でそう言って、紅莉栖が再び視線を外す。見上げた先は青い空。それでも大の字で寝ていた”あの時”とは仕草も表情も異なっていて、だから俺は平静でいられた。歩み寄り、隣にならって――そしていつかのように――金網へと背を預ける。
「……飲むか?」
「あ、ドクペ? 買ってきたの?」
「どうせここだと思ってたからな、下の自販機で」
「サンクス、もらうわ」
 白衣の両ポケットに1本ずつ入れてきたドクペの缶を1つ渡して、俺は自分のぶんをぷしゅっと開ける。紅莉栖もすぐに続いて、俺より先にドクペへと口をつけた。隠そうとしない飲みっぷりが少なからず心地良い。
「っ、はあ……。うん、おいしい」
 満足そうに笑みを浮かべ、ほう、と重い空気を吐き出す。意地でもしないとは思うが、げっぷをしたって似合うのではないかと言うほどの飲みっぷり。少なからず翳っていた憂いの色が、ただそれだけで和らぐのだからドクペの一本や二本安いものだ。
 続いて、俺も空を見ながら強い炭酸を喉の奥へと流し込む。ダルの好む暗黒飲料とは桁違いの独特な味。味覚に嘘をつくつもりはないが、これもそろそろ卒業すべきなんだろうか。ドクペを飲み始めたきっかけ――つまりはタイムトラベルを題材にした映画のことを思い出し、感覚の中に薄く苦みが混じる。
 今となっては、当然ながらそこに憧れはない。
「思ってたより喉が渇いてたみたい。珍しく気が利くわね」
「珍しく、は余計だ」
 日頃の行いのせいでしょ、と軽口を返して紅莉栖が再びドクペをあおる。対して俺は、中身が半分ほどに減った缶をゆらゆらさせながら問いかけた。
「――それで、お前はここで何を考えていたんだ?」





       ○  ○  ○





 屋上での考え事というと、俺は2つの出来事を思い出す。
 1つは、俺自身が悩んでいたときのこと。
 もう1つは、雨に降られたときのこと。
 どちらにしても俺は――あるいは俺たちはここから空を見上げ、見えるはずのない別の世界線へとその思いを馳せていた。地上よりずっと空に近いこの場所で、決して届かない無限遠の彼方へと。とすればだから、俺はあの「星屑との握手」を一笑に伏すことなどできはしない。
 行くべきか行かざるべきか。全能と独善の境界面上で悩み続けたあの葛藤は、今でも時折夢に見る。
「だから、これは”例えば”の話なんだけど」
 ドクペの缶を弄びながら、空ではなく屋上のアスファルトへと視線を向けつつ。
 紅莉栖そう言って、論文のIntroductionを読み上げるかのように言葉を紡ぎはじめる。

 ”例えば――そう、それは全て例えばの話ではあるけれど。”
 ”例えば、世界線というものがあったとして。”
 ”例えば、過去を変えられる装置があったとして。”
 ”例えば、牧瀬紅莉栖と岡部倫太郎は互いを大事に想っていたとして。”

「そうでありながら、もしも、そのどちらか一方が近いうちに不慮の事故で亡くなったりしたのなら。そうしたら私たちはどうするのかなって、そんなことを考えてたの」
 さらりと言って、紅莉栖は視線を上げる。今度は金網の向こうへと広がる風景へ。果てにあるのは、妄想と仮定にまみれた水平線だ。
「……お前それはまた、ずいぶんと」
「うん。極論だし、ひどい話だし、有り得たくないと思ってるけど」
 でも、考えておかなくちゃいけないことだと思うから。そう続けて、紅莉栖はあおるように炭酸をぐいっと飲み込んだ。
 ……例えば。それは”この”紅莉栖が使う合い言葉みたいなものだ。「そんな現実はここにはないけれど」、そんなニュアンスを込めた例え話。恥ずかしいのか、確信が持てないのか、あるいは俺をからかっているのか。どちらにせよ分かって使っているだろうその言葉に、俺はいちいちやきもきさせれるのを自覚する。人の悪さは相変わらずだ。
「過去を改変できる可能性。例えばそんなものがあったとして、それを使えたとするのなら。だとしたら、行使したいという欲求を抑えなければいけないのは、何もできずに後悔するのと果たしてどっちが辛いんでしょうね」
 ことさらに固有名詞を排除して、紅莉栖が視線で問うてくる。
 過去の改変。それがDメールやタイムリープという”ここ”には無いものを指していることは明らかだ。ラボにはもう電話レンジ(仮)はないし、ダルの携帯にタイムスタンプが未来のメールも入ってはいない。けれど42型ブラウン管テレビはあるし、紅莉栖や同大学の研究がなくなったわけでもないし、リーディング・シュタイナーだってなくなったわけでもないのだ。
 俺の主観で、一番はじめにタイムリープをしたとき。それはまゆりが銃で撃たれたときだ。ラウンダーの突入。それは”あのとき”の俺には徹底的に非現実で、突如現れた理不尽に対し、俺は自分で禁忌を踏んだ。まゆりの死。俺はそれを認めたくなくて、過去を変えたくて、独善のままに世界線を変動し続けた。そうしてその果てのどうにもならない現実を前に、鳳凰院凶真はそこで死んだんだ。
 独善的なんかでいられるか。自分で言ったあの言葉は今でも頭にこびりついている。
「お前なら、どうする?」
 話を振る。紅莉栖は少しだけ唇を尖らせて、
「それを考えてたと言っとろーが。……ま、だいたい答えは出てるんだけど」
「というと?」
「あんたに合わせる。岡部がしないっていうなら私もしないし、逆も然りね」
「おいおい、そりゃ無責任だろう」
「とか言いつつ、答えは決まってるんじゃない?」
 片目を閉じて、お見通し、とでも言いたげな表情で腕を組む。相変わらずの研究者然とした態度。着てはいないのに背後に白衣が見えた気がした。
「……そうまで自信満々だと、素直に頷くのが癪ですらあるな」
「恥ずかしいんですね、分かります。でも、例えば私たちの間に強い信頼関係があったのなら、そういう結論が導かれるのは当然ですらあると思うけどね」
 強い信頼関係があったのなら、ね……。
 相変わらず決定的なYes/Noは避けて、紅莉栖が身体を持ち上げた。かしゃん、と金網が揺れる。
「なんだか核戦争のスイッチを握っているみたいな気分。しかもそれを押せば、願いは叶えてやると囁いてくる悪魔が居るような」
「そんなもの無視すればいい。少なくともお前がそんな誘惑に騙されるほどヤワじゃないと、俺は信じてる」
「だと、いいんだけどね」
 弱気な声に、頭の片隅で凶真が笑う。フゥーハハハ! この俺の眼鏡にかなったクリスティーナがそんな間抜けであるはずがないだろう! それにこの世は既に俺によって混沌へと塗り替えられた! 浅はかな正義感で秩序を戻すこと、神が許そうとこの鳳凰院凶真が許さんぞ!
 そんなことを思ったけど、恥ずかしいので言わなかった。ご了承下さい。
「私、今までは研究倫理とかの話で、アインシュタインは核兵器を作ったから悪だとか、ワトソン・クリックは神を冒涜したとか、そういう話を聞くたびに何言ってるんだろうって思ってた。使う人次第のものを、どうして研究者が責任取らなきゃいけないんだって。でも、最近はとてもよく分かる気がするの」
「なんだ、得意の論破癖が発動しないのか」
「得意とか言うな。……SFとかでよくあるじゃない。ロストテクノロジーとか、オーパーツとか。そういう風に技術を沈めることって、時には必要だって思うようになった」
「ほう、大した自信だな。その口ぶりだと過去改変はできるけどやらない、とでも言いたげだが」
「それは――」
「タイムマシンなどどうあっても不可能。それでいいではないか」
 提唱されている11の理論にはどれにも大きな穴がある。12番目の理論など有り得ない。あるいはそれも、13番目の理論によって否定される。どれも”紅莉栖”自身が己の口で語った言葉だ。
「だいたい、起こっていないことにそこまで気を揉んだって仕方ないだろう。未来が悲劇的だと思いこむのは、あまりよくない傾向だぞ」
「そりゃまあ、そうだけど」
「それに、この先タイムマシンなんてのが作られないことは、既に世界が認めてる。他の世界線の影響は受け付けない――それが運命石の扉の選択だ」
 そうだろう? どこかの世界線、遥かな未来のマッドサイエンティスト。
 だから心配することなんて何もない。俺は紅莉栖が俺と同じ間違いを犯すだろうなんて思っていないし、俺だって再びタイムリープをしようだなんて思ってはいない。もしも俺の大事な誰かが死んで、それを覆したくてタイムリープなどしようものなら、今度こそ俺はその世界線で当人相手に説教を食らうことだろう。「なんで私を生き返らせたの!」なんて、神をも驚く皮肉をさ。
 もちろん、リーディング・シュタイナーが前提ではあるけれど。
「ほれ、納得はそうそうできんかもしれんが、悩んでいたってどうなるものでもあるまい。いい加減戻るぞ、今頃ラボではまゆりが腹を空かせてぶーたれている。それに今度から悩みがあるなら1人でこんなところに来るんではなく、さっさと話せばよかろう。心配するではないか」
「ん……、ごめん。なんか岡部には相談しづらくて」
 気持ちは分からないでもないが。
 やけに素直に、そしてしおらしく謝る姿に頬を掻く。
「それと……ありがと。心配されたくなくてこうして1人で居たのに、心配して来てくれたのは、嬉しかった」
「なんだそれは。典型的な構ってちゃんだな」
「う、うるさいっ。ほら、今度こそは雨に降られる前に戻りましょう!」
 いつもと違い鋭さの欠片もない瞳でこちらを一睨みした後、紅莉栖はふっと身体を翻して階段へと続く扉の方に歩き出す。やれやれ、言葉にはせず溜息吐いて、それでも凜とした姿のその背中を追って俺も金網から身体を起こした。
「雨に降られる前に、ね」
 余ったドクペをぐいっと飲み干して、紅莉栖に続いて歩を進めながら空を見上げる。
 そこでは鬱陶しいくらいに輝く太陽とともに、突き抜けるような青空がどこまでも広がっていた――。

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