天女

[a flagment of Twilight Sinsemilla]
「皐月さん。ここにあるカップ入りのお酒、ちょっともらっていいですか?」
 夏休み終盤、そろそろ東京へ戻る準備を始めだした頃。一時期よりは和らいだ暑さも快適と言うにはまだほど遠く、いまだ本調子でない俺にとっては日中の炎天下を歩くのには少しばかりの躊躇いがあった。一歩歩けば汗を掻き、二歩歩けば息を切らす。そんな予感は当人のみならず見ている方にもあったようで、さくやと相談の下、俺たちはこうしてまだ暑くならない午前中のうちに用事を済ませることにしたのだった。
「構わないけれど、どうするの? 神社に持って行くなら、もっとちゃんとしたものもあるわよ?」
「いえ、ちょっとさくやと――」
「兄さん、いい加減そろそろ出ないと……って、呆れた。まだ準備していなかったんですか」
 俺が皐月さんにおうかがいを立てているのを見て、廊下から溜息を吐くさくや。これみよがし。「どうして昨日のうちに言っておかなかったんですか」とでも言いたげな顔つきだ。
「いや悪い、準備は終わってるから大丈夫だ。他に持って行くものもないしな」
「はあ、それならいいですけれど。それじゃあ先に玄関で待ってますので。ではいってきます、皐月さん」
「え? ええ、行ってらっしゃい」
 一礼して、すたすたと先行するさくや。皐月さんはそれを見送ってから、疑問の晴れない表情のまま俺へと向き直る。
「さくやちゃんとお出かけ? お酒を持って?」
「ええまあ、そういうことです」
 首肯。次いでもらったビニール袋にお酒を入れてから、いっそう首を傾げる皐月さんにむけてこれから向かう先を告げた。
「――ちょっと、お墓参りを済ませてこようと思うんです」





       ○  ○  ○





「……あー、……疲れた……」
「もう、本当です……はあ。夏祭は大丈夫だったのだからと思いましたけど、今思えばあのときは私一人ではなかったですからね……」
「いや、ホントすまん……。正直、もう少し戻ってると思ってた」
 整わない息に、土の上に座りながら深呼吸を繰り返す。
 出発からたっぷりの時間をかけて、俺たちは目的地へと到着した。お墓参り。その場所は炎天下を忘れさせるくらいに生い茂った木々の中。息を吸う度にその香りと湿り気を帯びた土の匂いが鼻をくすぐっていく。顔を上げればちらちらと日の光が数多の葉と複雑な紋様を描いていて、それを呆けるように楽しんでいるうち、吹き抜けていく風で身体の火照りはゆっくりと静まっていった。
「落ち着きましたか?」
「ああ。これじゃ、東京に戻ったらサークルのやつらに何言われることか」
 さくやに引っ張られ、土を払いつつ腰を上げる。さらに大きく息を吐いてようやく呼吸が整った。もう少し回復したら本格的にリハビリめいたことをやらないとまずいんじゃないかと、今更ながらに強く思う。
「それでは」
「ああ」
 ビニール袋からお酒を取り出す。
 墓参り。けれどそれは、この地を訪れた際にも向かった母さんのところではない。いま俺たちの目の前にあるのは墓石ではなく、加えて言うならここは墓地でもない。
 神社の裏山。数多の木々の合間、ひっそりと隠れるように立てられた祠。かつて一匹の狐が寝床にしていた横穴のある木の手前に存在するそれが、俺たちが目的としていた”お墓”だ。
「兄さん、お酒を」
「ああ。……いや、そうだな、このまま捧げてもきっとダメだろうから――」
 フタを外して供える前に一歩立ち止まり、その日本酒に少しだけ口をつける。怪我して以来控えていた強いアルコールの苦みが口の中に広がった。
「えっ……あの、兄さん?」
「毒味だよ。じゃないと飲まないだろ、きっとさ」
「……? ああ、そうですね、そうでしたね……」
 口の苦みを飲み込んで、残りを零さないように開きっぱなしの祠の棚へと供える。本来なら米やその他収穫物も供えるものではあるが、場所が場所だしそれは勘弁してもらうことにする。動物に荒らされたのではそれこそ意味がない。
 お酒の水面が収まったのを見計らって、一歩下がり合掌。これまた場所柄、火を使うことも許されないものの、やはり勘弁してもらうしかないだろう。
「あの……こういうものの拝み方とかって、なにかありますか?」
「特別なことは何も。相手が神様なら二拍手一拝、仏様なら合掌だろ」
「……そうですか」
 そう言って、俺と同じように手を合わせ黙祷するさくや。
 それはきっと、春日神社でやってみせたならいろはに一言二言いわれかねない行為だ。少なくともあっちでは”彼女”は神様として、豊穣祈願と結びつけられている。であればこその参拝で、であるがゆえの神社だ。過去にこの地を栄えさせてくれた神様に変わらぬご加護を祈願する。そこには何の間違いもない。
 そしてだから俺たちは神社ではなくこの裏山で、紙垂も扉もない祠に向かって祈願ではなく黙祷を捧げる。
「皮肉ですね。本当なら、こちらの役割をこそ春日神社が担うべきでしょうに」
 合わせた手を離し、祠の奥を見据えるようにさくやが呟く。
「その手にかけておいて豊穣祈願なんて。決して賛成はしませんが、しっぺ返しの一つも企みたくなるものです」
「……そうかもしれない。でもそれが誰にとっても正解なら、こんなことにはなってなかった」
「難しいですね、本当に」
 彼女が最後に残した想いを俺たちは知っている。
 ただ純粋に人間を敵だと見なしたならば。もしくはこの地の人間を見限ったのならば。そうであるなら、彼女はここまで人々を苦しませなかったに違いない。
 あるいはまた、二千年前のヨーロッパに現れた、火あぶりにされても愛を説く聖人のようであったなら、全てを飲み込んで歴史の闇へと消えていたのかもしれない。
 けれど彼女は――天女は人が思っていた以上に人間で、だから彼女の未練はこの地に何百年と留まった。
「春日神社の繁栄はこの御奈神村の繁栄だ。少なくとも彼女は最初はそれを願っていた。だから憎しみに染まってしまった感情の中に、その繁栄を願う心が残っていたかどうかなんていうのは、きっと本人にだって分かってないんじゃないかな」
「……それを肯定してしまうのは、少しばかり今の時代の人間本位な考え方な気もしますけれど」
「言い伝えとか宗教っていうのは結局今を生きてる人たちのものだ。だから春日神社は今もああして存在していて、俺たちはこうしてここに祠を設けた。それでいいんじゃないか、今はさ」
 日曜大工さながら、各方面に頼んで即席で用意したまだ綺麗な祠に目を向ける。
 あえて何かに例えるのなら、大きな鳥の巣とか、両面を開けた百葉箱みたいなもの。普通は存在する紙垂や観音扉は用意しておらず、お酒を置いた棚からは奥の横穴まで見通せるくらいにスカスカだ。理由は言うまでもないだろう。境界や扉なんて、ここに存在する祠にとっては皮肉がすぎるというものだ。
「俺たちは聖人君子じゃないんだ。人間として、自分に出来る事をする――そうだろう?」
「平然と、よく言います」
 呆れたように溜息を吐くさくやに対し、俺は笑って返す。
 知っているなら、それに応じた為すべき事を。俺がしたのはただそれだけだ。
「ただ……そうですね。それでもこうすることで、少しは彼女が救われるのだと信じてみたい気持ちもあります」
「ああ、俺もそう思ってる」
 再び、二人で目を閉じる。
 少し長い黙祷になりそうだった。





       ○  ○  ○





 あれから少しだけ祠の掃除をして、俺たちは帰路へとついた。
 湖の辺を通って神社の裏手へ。なるべく日陰を通りつつこまめな休憩を挟んで神社の表まで出てくると、いろはが珍しくこの時間帯に参道の掃除をしていた。ほどなくしてこちらに気付く。
「あっ、こーすけにさくやちゃん。体調はもう……って、あんまり大丈夫じゃなさそうね」
「ああ、見ての通り。情けないの一言だ」
 さくやの肩を借りてるさまを見せて、力なく笑ってみせる。
「さくやちゃんも大変ねー。例の祠?」
「ええ、そうです。すみません、無理言ったみたいで」
「いいのいいの。もとから祠があった場所だし、ばあちゃんにも話を通してたみたいだし。まだ聞いてないけど、曰く付きなんでしょ?」
「まあ……うん。聞いたかもしれないけど、管理は銀子さんに頼んであるから」
 いろはに返答した後、さくやの肩から手を離して近くの石段に座り込む。限界だ。はあ、と溜息とも深呼吸ともとれぬ息が肺から大きく吐き出された。
「だらしないわねえ。ま、どうせそろそろ休憩にするとこだったし、良かったらここで少し休んでいきなさいよ。飲み物くらいは出すから」
「えっ、いいんですか? 掃除の途中だったのでは……」
「いいのいいの。午後からはこの前のお祭りのことで村の人たちと話し合いがあるから、午前中は空けといたのよ。ほら、こーすけ、そこ暑いでしょうに」
「どうします、兄さん?」
「あー、じゃあまあ、お言葉に甘えて……」
 いろはの声とさくやの手に引かれ、本堂へと足を向ける。水撒きでもしたのか本堂周りは地面が濡れていて、その屋根の影に入るだけで随分と涼しくなったように感じられた。そのまま「じゃあ飲み物取ってくるから」と言って奥へと引っ込んだいろはを見送って、境内の見える位置にさくやと並んで腰を掛ける。
 鳥居の向こう、青い空と御奈神村の緑が木々の合間に広がっていた。
「いろはさんの邪魔をしてしまったでしょうか」
「いや、どうだかな……こんな時間に参道を掃いていた辺り、案外暇つぶしを探してたのかもしれないぞ。お祭り終わって以降、時間が空き気味になるってぼやいてたろ、確か」
「午後は埋まってるそうでしたけどね」
 そう言って、ふう、と一息つくさくや。やっぱりこっちも少しは疲れていたらしい。
「午後から……話し合い、って言ってたっけ。頭が下がるな、本当に」
「外から来ている人間には見えにくい部分ですね。いろはさん、本当に頑張っていると思います」
 さくやの賞賛の言葉に、一も二もなく同意する。
 春日神社の跡取りとして、いろはは本当によく頑張っている。村のため。神社のため。期待に応えたいというそれは、村の人たちが春日神社を確かな存在として受け止めている証左でもある。
 眼下に広がる御奈神村。繁栄を迎えたそれは、春日神社なくしてはありえないものだったはずだ。お祭りだってすごかった。外部の人間をあれだけ呼び込めるというのは、俺が訪れた色んな場所と比較してもまず間違いなく成功の部類入る。それには村の人たちの神社に寄せる期待と、それに応えたいろはの努力なくしては語れない。
 天女を祀る春日神社。
 遥か昔に誰かが願ったこの繁栄は、この地を恨んだその人物を祀った神社に支えられている。
「不思議なもんだ」
「何がですか?」
「ああ、いや……俺たちがこうして存在しているってことが、さ。――よっと」
 腰を上げて、本堂の手前から御奈神村を観望する。
 それはかつて銀子さんが見ていたものと逆方向。空へと上る誰かが数百年前に見た光景。
「……綺麗だな」
「ええ、本当に」
 寄り添うように立ち上がったさくやに肩を預け、しばし眼下に広がる緑の風景を眺め続ける。
 多くの人が長い時間をかけて築いてきたこの御奈神村。
 東京へと帰る前に、誰もが愛したその光景を俺たちは胸に焼き付けたのだった――。


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