の日の過ごし方

[a flagment of Twilight Sinsemilla]
 とにかく、その日は暑かった。
 身体もようやっと階段の上り下りができるようにまで回復したころ。東京のコンクリートジャングルをも凌駕するような熱波が、御奈神村一帯を包み込んでいた。
 去年を含めて考えても一番の熱気。居間に置いてあった水銀温度計は朝のうちから30度をゆうに超えていて、目盛りの見間違えかと思ったほど。ご飯を食べているだけで汗をかきそうになり、コップに入れた氷はみるみるうちに溶けていく。そんなうだるような暑さ。しかも今日のそれには普段の暑い日と決定的に違う点がひとつだけあり、それは、
「……止みそうにありませんね」
 自室の窓から外を眺めつつ、恨めしそうにさくやが呟く。
 この蒸し暑さの一番の元凶は、夜のうちからざあざあと降り始めたこの雨だった。





       ○  ○  ○





 東京ではクーラーを入れなければ耐えられない気温でも、こちらでは窓を開けるくらいでこと足りることが多かった。けれどいくら家屋の風通しが良かろうとも、雨で窓が開けられないのではどうしようもない。かといって濡れ鼠を覚悟したところで、入ってくるのはこれでもかと湿気の籠もった生温い風だ。室外機、あるいは熱い空気をかき回すだけの扇風機のごときそんな風を、誰が好んで取り入れようというのか。
 そんなわけで、自然、俺は冷房のない自室からこうしてさくやの部屋へと居場所を変えていた。大幅に下がる温度と湿度。たとえインドア派でなくとも、二度と部屋から出たくないと思わせるだけの魅力がそこにはあった。
「あまり雨の降らない印象があったんですが……よりによってこんな暑い日に降らないでもと思いますよね」
「せめて気温を下げてくれればなあ」
 快適な部屋。ベッドのふちに背中を預けながら、本を読みつつさくやの呟きに返答する。ちなみにさくやはベッドの上、やっていることは俺と一緒だ。こいつもこいつで、することがなく暇を持て余していたように見える。もしかしたら俺が部屋に来ることくらいはお見通しだったのかもしれない。
「晴れていれば川にも行けるんだが」
「雨だからなおさら暑いんでしょう?」
「本末転倒か……」
 言いながら、ページを捲る。
「ん……この話は前のと同じだな」
 俺が読んでいるのは、役場で借りてきたこの地方の歴史に関する書物だ。特に調べ物というわけではなく、純粋に興味から。おおよその事実を生き証人から聞いてしまった後からこういうものを読むのはどことなくチートくさい気もするけれど、それはそれで面白くもあった。なぜなら事実と異なる部分が、時代の中で変化してしまったところだということがよく分かるから。そこから為政者や編纂者、研究者や数多の語り手の考えを読み取ることだってできるかもしれない。
 遥か昔の1つの事実。時代を経て、変化したいくつもの物語。とある源流を祖とする二次的な創作めいたそれらを、語り手たちはどのような気持ちで紡いだのだろう。そんなことを事実と異なる記述を目にするたびに思ってしまう。
「レポートにでもまとめるつもりなんですか?」
「ん? ああ、いや……」
 何冊も似たような本を積んでいたからだろう、背もたれにしているベッドの上からさくやの疑問が降ってくる。確かに夏の課題を調べる大学生、みたいに見えたかも知れない。
「そのつもりはないかな。どっちかというと、単なる読み物気分。史実を知ってる歴史書を読むなんて経験、他でできるわけないからな」
「はあ……でも面白いですか、それ? なんだか強くてニューゲーム的というか、犯人を知りながらミステリーを読むというか……」
「近いものはあるけど。ただ、他の人がどう考えてるのかなんてのは、よく分かるよな」
「まあ、それはそうでしょうけれど」
 釈然としない口調。さくやは読む気はあまりないらしい。
 でも民俗学なんて突き詰めればそういうものだ。アカデミックで最もらしい理由だっていくらもあるし、もちろんそういった理念で頑張っている人もいるが、根底には確かに好奇心が存在する。対象が人である以上、悪く言えば覗き見根性に近い。そしてそれは民俗学研究者がよそ者として土地の人に排斥される理由でもある。
 俺だって”皆神”でなかったら、いろはに叩き出されてたかもしれないくらいなのだから。
「ま、返却するまでに暇があったら目を通すくらいはしてもいいんじゃないか。最近は自分の地元の謂れも知らない人が多くなってるし……生活の役には立たないけど、そのくらいは教養の範囲だと思うんだよなあ」
「それはまあ、兄さんがそういう方面の勉強をしているから尚のこと感じるんでしょう。文系の大学生なんて、それが専門みたいなものでしょうし」
「別に否定はしないけど、それだとまるで無駄なことばっかり勉強してるみたいな言い方な」
「いえ、特に他意はありません。私のしている受験勉強が実用的とはとても言えませんし、兄さんの知識はこちらに来てから充分役に立ったじゃないですか」
 しれっと言って、本に戻りページをめくるさくや。これだけ言ってるくせに本人の進路も文系だというんだから畏れ入る。つまりそれは、本当に他意がないのだという意味で。
「お前は今年受験だろ。いいのか、受験勉強が実用的じゃないなんて言って?」
「受験には役に立ちますけど、もっと大きな視点で見るとどうだろうという話です。兄さんだって、受験の知識を大学に入って一から十まで使いましたか?」
「そう言われると耳が痛いが……というか、そういうお前はさっきから何読んでるんだ?」
 まさか教科書とかじゃなかろうな、そう思って顎を上げる。ベッドの上、逆さまになった本の賑やかな表紙が目に入った。
「これは翔子ちゃんから借りた漫画本です。面白いということでしたので」
「へえ? ああ、そういえば本棚に色々あったっけ。俺も今度翔子ちゃんに借りてみようかな」
「どうでしょう……女の子向けですから、兄さんが読んで面白いかどうかはちょっと」
「そんなもんか」
「そんなものです」
 お互い言って、それぞれの本へと意識を戻す。
 それからしばらく、クーラーと雨の音に支配された部屋の中、黙々と読書を続けていたのだった。





       ○  ○  ○





「ああ、もうこんな時間か……」
 読んでいた本に区切りをつけ、ふと視線を上げれば時計の針は思った以上に進んでいた。集中力が切れた途端に沸き上がってくる軽い疲労感。読み物気分、なんて言ってはいたが、考えていたよりずっとのめり込んでいてしまったらしい。
 外は相変わらずの雨模様。屋根を叩く音がここまで聞こえるくらいだから、今日はずっとこの調子だろう。聞いているだけで蒸し暑くなってくる。
「夜には涼しくなってるといいんだけどな」
「このぶんだと望み薄だと思いますけどね。熱帯夜が続いていますし」
「東京なら蒸し焼きになってそうだ――って」
 やけに近い位置からさくやの返事が聞こえる。本を閉じて視線を落とせば、案の定、さくやは人の足を枕にしてくたりと横たわっていた。といっても頭を乗せて寝ているわけではなく、うつ伏せの状態でお腹に枕を抱え込んでいるタイプのほう。伸ばした手の先にはさっきとは違う雑誌が開かれていて、だいぶ前からこの姿勢に切り替わっていたらしい。……いくら慣れた体勢とはいえ、気付かなかった俺もどうかと思う。
「お前いつもそれな。わざわざ本物の枕とベッドを放棄してまでするか、その格好」
「いいじゃないですか。好きなんですから」
「それは俺が? それともこの姿勢が?」
「文脈から判断すると、国語の試験なら間違いなくこの姿勢と答えますね」
「……面白みの欠片もないツッコミありがとう」
 借りてきた本を放り出し、俺も身体の力を抜いていく。沈んでいく疲労感と、より重く感じられるさくやの温かみ。こればっかりはどんなに暑い日でも嫌いになれるはずもない。
「なんだかんだ、こちらに来てからはこうする機会もなかったので……」
「お互いインドア派って言ってるのに、外出することが多かったしな。まあお世話になっておいて、部屋に籠もってゲームするわけにもいかないけど」
「それ以前にゲームもネットもありませんからね……ふぁ……」
 小さくあくびをして、さくやは体重をいっそうこちらに預けてくる。既に視線の先に雑誌はなく、そのまま寝床を見つけた仔猫のように身体を丸めて擦り寄ってきた。
「兄さん、そのあたりにリモコンありますか? クーラーの」
「ああ、あるけど……寝るのか?」
「ええ、少し疲れているみたいで……」
「朝から暑かったからかもな」
 この姿勢のままでいいかどうかなんて、そんな野暮なことはお互い聞きやしない。冷房の設定を少し弱めてやると、さくやはその頭をこてりと俺の腹の上に転がした。そのまま自然、俺の手は撫でるようにその黒髪の上へ。
 そのまま寝入るかと思いきやしかし、その直前、さくやはぽつりと。
「あと、私は兄さんが好きですから」
「――」
 不意打ちに一瞬頭が空白に満ちる。先ほどの質問を受けてのことだと気付いたときにはもう遅く、さくやは俺とは逆の方を向いてすっかり眠り込む体勢になっていた。けれどその顔は、きっといたずらを成功させた笑みが浮かんでいるに違いない。
 知ってるよ。そんな気を逸した返答代わりにだから俺は溜息を吐いて見せ、その綺麗な長い髪を文字通り手慰みに撫で付けた。決して自分では口にしないが、なんだかんだで本人も気に入っているらしいこのロングヘア。でなければ手入れが面倒で、しかも祖先の面影を強く残すこの髪型を続けようなんて思うまい。さらさらと指の間を流れていく感触は、聞く限りでは触られている本人も気持ちが良いものらしかった。
「まったくなあ……」
 冷房の風が弱まっていき、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえ始める。
 さっきは「暑かったから」なんて言ったけれど、このところのさくやは俺の看病やらなにやらで気の休まるときがなかったようには見えていた。熱帯夜、加えて俺の様子を見るための早起き(もちろんさくや基準で、ではあるけれど)が続いていれば疲れるのは当然で、うん、だからこの雨はこいつにとってはいい休憩になるのかななんてことを今になって思う。そうでもなければ、こいつは自分が疲れていることにすら気付かないようなやつだから。
 さくやの身じろぎに髪を梳いていた手を離し、俺も一眠りするために腕を投げ出した。どうせ乗っかられては他にすることもない。冷房の設定をいじってから、俺もその目蓋を落とす。案外すぐ落ちてきたあたり、俺も少なからず疲れていたのかもしれない。
 おやすみ、さくや。聞こえないくらい小さくそう呟いて、俺たちは二人、翔子ちゃんがご飯の支度ができたと呼びに来るまでそのままゆったりと眠っていたのだった。


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