僕らはみんなきている

[Rui tomo short story]

「……久しぶり、という挨拶が妥当なのかな、この場合は」

 食堂で待つ僕らの前に。
 死んだはずの惠が、僕らの予想通り、かつてと変わらぬ姿で現れた――。






       ○  ○  ○






 郊外に佇む大きな屋敷の前に、僕は再びやってきた。
 歩行時間はだいたい三十分といったところ。リハビリ明けの両脚にはかなりこたえたが、暖かくなってきた陽気のせいもあり、痛みはさほどでもなかった。強く感じるのは車椅子生活によりだらけきった筋肉からくる疲労感だけだ。どことなく衛星軌道帰りのアストロノーツな感じ。いや、知らないけど。

「それじゃ、押すよ」

 言うと、隣で茜子がこくりと頷いた。
 今日は花鶏とああいう関係になってからはおそらく初めての、茜子と二人だけでの外出。もちろんごたごたはあった。中でも花鶏を言い含めるのは骨だったものの、最終的には花鶏は僕が嘘をついていることを承知の上で納得してくれたように思う。久しくなかった僕の「技術」に何か感じ入るものがあったのかもしれない。
 そこまで信頼されているという事実が、どこか嬉しい。

「またあのレズのこと考えてやがる。肉欲に溺れましたかエサAめ」

 ぼうっとしていると、真横からの舌鋒。

「……戸惑ってるんだよ」
「半分ダウト」

 相変わらず僕の天敵なアルティメットスキルだ。僕が苦笑を返すと、茜子はあからさまに嘆息して「早く押せ」と催促してきた。躊躇いを振り切り、人差し指、大きな門の横に備え付けられたインターホンをぐっと押し込む。
 響く呼び出し音。
 待機していると、ほどなくして。

「はい、どちらさま……――あら」

 佐知子さんだった。僕らの姿を見て、驚いたようにその言葉を止める。
 惠が運ばれて以来だから、数ヶ月ぶりだ。特に変わった様子は見られない。やつれているというわけでもなさそうだ。
 ただ、亡くなった主の友人が今更訪ねてきたとなれば、確かに驚くのも無理はない。
 けどそこにそれ以外の感情が交じっているように見えるのは、さて僕がここに来た用事と関係があるか否か。

「お久しぶりです。どうかなさいましたか?」

 そうして驚きから一転、柔和な笑みを浮かべる佐知子さん。それに対して疑いを持ってもしようがない。どうせ事実は分かるのだ。否定されても。残念だが、散々言われた「陰険姑息」という二つ名を返上するのはまだまだ先らしい。
 ないわけではない罪悪感。それでも茜子がしっかりと佐知子さんを見ていることを確認し、僕は今日訪問した目的を端的に述べた。

「急にうかがって済みません。今日は、惠に会いに来ました」






       ○  ○  ○






 ――――惠は生きているかもしれない。

 茜子が僕にそう告げたのは、僕のリハビリもようやく終わろうかという頃のことだった。
 惠が生きているかもしれない。
 意を決したようにそう伝えてきた茜子の態度は、冗談と毒舌にまみれたいつものそれではなかった。内容は当然のこと、状況だって冗談を言うタイミングではない。ほとんどの時間を僕の看病にあててくれていた花鶏が居なくなったほんの些細な隙を狙って、茜子は真剣な表情で僕にだけそう告げてきたのだから。
 意味を理解するのにあれほど時間がかかった言葉も珍しい。聞いた瞬間はまったく理解が追い付かなかった。リスクへの対処は得意なものの、僕は予想外の出来事にことさら弱い。悲しいかな自覚しているその弱点は、思わず大声をあげそうになって慌てて茜子に(あの手袋越しにだ)止められるというハプニングまで招いてしまった。もちろん「これで呪い踏んだらあなたの××が×××するまで××××して××し続けます」と罵倒されまくったのは言うまでもない。
 それから(主に花鶏の居ないタイミングを見計らって)断続的に話を聞き続けた結果、つまりはこういうことらしかった。惠の死には不可解な点が多い。そもそも呪いから逃げていたとしたら、花鶏が呪いを踏んだときのそれと比べてその時間的余裕に説明がつかないし、「誰か」によって行われた殺人なら救急隊員が気付くはずだという。茜子はまた三宅さんの死についても言及していて、惠のそれが飛び降り自殺として報道された一方、三宅さんの事件は極端に情報が制限されていることからして、それが意図的なものであるならば両者の原因は同一ではないのではないか――つまりはどちらかあるいは両方とも呪いは関係ないのではないか、と言っていた。

 しかしそれだけではまだ弱い。
 だが、加えて、あろうことか茜子はこうも言ったのだ。「あの屋敷のメイドは嘘を言ってました」と。

 惠の遺体が屋敷に運ばれた日。僕らは惠に会うことができなかった。思えば不自然だったようにも思う。わざわざ自室にまで運ばれたこと。あの日はなぜか浜江さんが居なかったこと。確かに僕に惠からメールが入ったとき、驚く佐知子さんに対し、浜江さんはまったく驚いた様子を見せてはいなかった。伏線はそこからもうあったのかもしれない。
 さらに、言われてみれば、と思い出すこともあった。飛び降り現場、救急隊員に本人確認を迫られたときのこと。僕と花鶏はあのとき、その傷だらけの顔からは惠を惠と断定できなかった。ではどうしたか? 髪型、服装、そして痣から、僕らはその死体を惠だと判断したのだ。妥当な方法ではあったろう。しかし、それらは全て偽装可能な部分でもある。

 ……疑惑は事実と絡まって次々と連結されていった。何故? どうして? 深まる疑問はしかし、確定した事実に立脚してこそ意味がある。僕らは推測にしかすぎないその先を棚上げし、こうして二人して再び惠の屋敷を訪れることに決めたのだった。






       ○  ○  ○






「……久しぶり、という挨拶が妥当なのかな、この場合は」

 そうして、屋敷。
 食堂に通された僕らの前に、果たして惠は現れた。無表情。かつてのアルカイックスマイルは鳴りを潜め、そこから感情を窺い知ることはきっと茜子でもできていないだろう。
 惠は僕たちを見、その視線で強く佐知子さんたちを制して部屋から退室させた後、僕らの対面の椅子にゆっくりと腰掛けた。そこまできてようやく口を開き、先ほどの言葉。かつてと変わらぬ、一時期男と勘違いしたのが嘘のような、とても澄んだ声だった。

「そうですね。まあ、あなたが惠さんの生き写しや生まれ変わりでないのなら、『久しぶり』であっていると思います」
「茜子、君は相変わらず手厳しい」

 薄く笑う。

「それで、久々にここを訪れた用事はなにかな。取材の申し込みだったら隣の廃屋の方をオススメするよ。うちには取材を受けるなという代々の家訓があってね」

 言って、あらかじめ佐知子さんが用意していた紅茶に口をつける惠。
 死んだと思っていた人物が眼前で紅茶を飲んでいる。不思議な感覚だった。本来では喜ぶべき状況の今も、しかしどうしてもただ安易に惠の生存を祝福する気分にはなれない。なんとも言えぬ感情が胸の中で渦巻くのを自覚する。
 茜子の話を聞いているうち、僕の中では惠の生存が確定事項になっていたのかもしれないと、このとき思った。

「惠」

 久々に口にした呼びかけ。対面の惠はこちらへと向き直った。
 同時、沸き上がってくる懐かしさ。儚さ。嬉しさ。悲しさ。あるいはそれ以外の何か。自分が抱える感情が理解できなくなりそうになり、だから僕はそのまま言葉を続けた。

「単刀直入に聞いていい? どうして君が今ここにこうして居るのかを」

 再会を素直に喜べないという行き場のないもやもやが、僕をことさら論理的にさせた。天気の話から入るべきだったろうか、なんてことを言ってから思う。

「ここが僕の生家だから、ではだめかな。お金のない学生の身分では、どこかアパートを借りるのもつらくてね」
「そうじゃなくて。惠、君は死んだと聞かされた。ならどうして君はこうして生きているの?」
「一般に、死んだ人間は生き返らないからね。生きているということは、死ななかったということを表していると思うよ、僕は」
「正論過ぎてぐうの音も出ませんね」

 茜子が溜息を吐くように言って、テーブル中央に置かれていたクッキーをぱくりと囓る。漂ってくる甘い香り。それでも相変わらず美味いのか不味いのか分からない無表情で咀嚼咀嚼嚥下し、次の言葉を探していた僕を制して茜子はそのまま口を開いた。

「理由は呪いがらみですか」
「そうだね。そのクッキーが美味しい理由は、きっと調理過程で蜂蜜を混ぜているからだろう」
「僕たちに理由を教えてくれるつもりはない、と?」
「知っていることは全て教えるつもりだよ」
「教えられないこともある、と言っています」

 茜子の発言に、惠の眉がぴくりと反応する。嘘だったらしい。
 けど、教えられないこともある……まあそれは当然そうだろう。でなければここまで隠蔽しようとする理由がない。呪いに関するなら尚更だ。

「そうか。智たちは確信がなくともここに来るとは思っていたが、その力が理由か」
「そうです。せっかく仏の顔も泣いて謝る茜子さんがこのシークレットちがらを教えてやったのに、失念していたとは不覚でしたな。あなたは白装束姿でもいいから、棺桶から出て茜子さんの来訪を止めるべきでした」
「……」

 伊代ならきっと、ここで「それじゃ意味ないんじゃない?」とか言ってしまったことだろう。
 そしてまた伊代に限らず、僕が茜子と二人だけで来たのもそれに近い理由からだ。こよりにはこの問題は難しすぎるし、裏切りに厳しいるいを連れてきてはおそらく話し合いになったかどうかすら怪しい。花鶏だって最近は丸くなってきたとはいえ、呪いのこととなれば思うところがあるに違いない。茜子が他人がいない時間を見計らって僕にだけ相談してきたのも、きっと僕と同じ考えが根底にあってのことだろうと思う。
 それでも、茜子と僕が二人だけで来たことを、惠はどう思っているのか。茜子の話を聞きつつ紅茶を飲んでいるその態度からは、そこまでは分からない。

「もう一度聞きます。偽装工作をしてまで死んだふりをしたのは、呪いがらみの理由ですね?」
「…………」

 惠は答えない。
 だが、沈黙は肯定と受け取って構わないだろう。そのことはまた惠自身も承知しているはずだ。
 茜子も分かっているようで、手袋をつけた人差し指をぴんと立てながら、そのまま続ける。

「それではもう一つ。あなたは誰かに呪いを移したり、移されたりしましたか?」
「茜子、何を――?」

 思わず茜子の方を見る。よもや、そんな質問をするとは思わなかったからだ。
 僕たちは惠を糾弾しに来たわけじゃない。惠が生きているなら会いたかったということと、死の偽装という不可解なものについて、可能であるなら話を聞きたかったという程度なものだ。後者はもちろん、できればまた仲良くできれば、という打算も含まれているが、しかし少なくとも僕は茜子の力を使ってまでその真実について曝こうとは思っていなかったし、茜子もそう思っているとばかり思っていたのだが。
 ただ僕の動揺に対し、茜子も、そして惠もこれといって慌てた様子を見せなかった。惠は思わせぶりに再び紅茶に口をつけてから、観念したように言葉を吐く。

「さあ、どうだろう。自分では分からないな」
「というわけで、彼女は移したり移されたりはしていないそうです」
「…………は?」

 思考が停止する。
 何が一体どういうことなのか? 茜子は誰かに惠が呪いを移しただとか、そもそも狙われているという表現自体が呪いを移されたことを示していたのだとか、そういうことを惠に問いただしたわけではないということだろうか。いやむしろ、そうでないと知っていたからこそ今のように聞いた?
 分からない。理解が追い付かない。茜子がそれを僕に知らせる理由も、そこから導き出される答えも。
 そうして、おそらく疑問が顔に出ていたのだろう、茜子が溜息を吐きながらめんどくさそうに教えてくれる。

「相変わらず不意打ちに弱いボクっ娘ですね。分かりませんか? 私は今ので確信しました。つまり、呪いは移したりすることはできないということです」
「え……? それは、どういう……?」
「より正確に言えば、少なくともそれは私たちが思っているような移し替えではない、ということですね。思い出してください。そもそもその『呪いの移し替え』、はじめに言いだしたのは誰でした?」
「ええと……僕、だっけ?」
「違います」

 言い切って、茜子は視線を惠へと向ける。
 それと同時、思い出した。あれは惠が初めて僕たちの溜まり場に来てくれたとき、三宅さんに力のことがバレたと話した後のことだ。

『そうだな、みんなにも僕の知っていることを話しておこう』
『昔、呪いを調べていた人が聞いた話なんだが、この呪いは人から人へ伝染するものらしい。「呪いに触れたものも呪われる」「呪いを移してはならない」』
『実際に目で見たわけではないから、半信半疑ではあるんだがね』

 そう話を切り出したのは、他ならぬ惠だった。
 これに花鶏の「わたしも聞いたことがある」発言によって、呪いの移し替えの可能性は僕らの中で一気に現実性を持ち始めたのだ。

「あなたが自分からそういうことを話すのは珍しいと思って、ただでさえ分かりにくいあなたの言葉を、より注意深く聞いていました。結果、しかしそこに虚偽はなく、でも、真実もなかったんです」

 かつての出来事を語る茜子に対し、惠はどこまでも無表情だ。笑うこともなく、じっとその言葉に耳を傾けている。
 僕が催促するまでもなく、茜子は続けた。

「その時は分かりませんでした。けど、いまなら分かる。あなたは、その『呪いを移す』という行為が私たちが疑心暗鬼に陥るようなそれとは異なるものであるということを、最初から知っていましたね? そして、その上でそんな発言をした」
「そんな……でも、それって」
「そうです。仲違いさせるために、彼女はその情報を私たちにもたらした。理由ですか? 簡単です。惠さんは、呪いを解きたくなかったからです」

 言いにくいことを相変わらずはっきりと断言する。
 そんな茜子に対して、惠は沈黙をもって肯定の意を返したのだった。






 惠が呪いを解きたくないのではないか、という疑念自体は、茜子は随分前から持っていた。呪いについて話し合った初めての日、現に彼女は言っている。惠の「(呪いを解く解かないは)難しい問題かもしれない」という言葉に対し、「本当は答えは決まってるんじゃないですか?」と。今にして思えば、普通は解きたいと思う呪いについて、回答を避けたと言うことはつまりそういうことだったのだろうと思える。

「おおむねいま彼女が述べた通りで間違いがない、と言ったら君たちはどういう反応を返してくれるのだろうね」

 そうして惠は自身の行いの意図についても暗に認めた。張り付いた能面からは相変わらず内面を察することはできない。理解しがたい感情の渦。落ち着かせようと事ここに至って初めて手をつけた紅茶は、けれどもとうに冷めていた。

「……」

 静寂が支配する場。僕も迂闊なことは口に出来ない。安易な質問は取り返しのつかない事態を招くことになる。なぜか? 茜子には、答える意志の有無にかかわらず解答が見えてしまうからだ。致命的なことは――そう、それは例えば僕に対し「あなたは男ですか」と尋ねるようなことは――口にした瞬間に不可逆的に関係を破綻させてしまう。

 疑問はいくつかある。

 なぜ惠は呪いを解きたくないのか? ――それは分からない。言いたくもないらしい。後者については、それは呪いの告白に等しく、それが僕のように教えた瞬間発動するものにしろそうでないにしろ、相手に生殺与奪の権利を与えてしまうことになるからだということで一応の説明がつくだろう。

 なぜ死の偽装などという回りくどいことをする必要があったのか? ――分からない。そういう呪いなのかもしれないし、あるいは何かから逃れるためだったのかもしれない。犯人でなくなるために死を偽装する、なんてのはサスペンスドラマではおなじみの展開だ。

 なぜ呪いの解く解かないを相談せず、仲違いを招くようなことを言ったのか? ――分からない。が、それが最適であると惠は判断したんだろう。僕らが協力しなければ「ラトゥイリの星」の解読は進まないし、そうすれば呪いが解かれることも――

「――いやちょっと待って」

 ラトゥイリの星…………!?

「まさか、ラトゥイ――」
「智さん。それは聞く必要があることですか?」
「――……っ!」

 制止。でかかった言葉を、かろうじて喉で押し留める。呪いを踏みそうになった気分だ。
 あれほど質問には注意しろと考えていたのに、思いついた瞬間口走るなんてバカか、僕は? 茜子の制止がやけに早かったのも、もしかしたら僕がそういうバカであることを見越して注視していてくれたせいかもしれない。情けなくなる。

「……」

 惠は黙ったままだ。茜子からも真偽の回答は聞かれない。なんとか大丈夫だったらしい。

「ごめん。ありがと、茜子」
「このドジっこ属性持ち天然貧乳はいつか勝手に呪い踏んで死ぬ」
「お礼言ったのに!」

 ラトゥイリ・ズヴィェズダー。そうだ、あれが今どうなっていようと、僕らにはもう関係がない。あの花鶏でさえあの本はもういらないと言っているのだ、いわんや他の誰かをや。あの本がなくても僕らは生きていけるし、呪いがあってもやっていけることを、僕らは既に知っている。

「……ん、待てよ?」

 そう。僕らは既に知っている。けど、それを知らない人間が居ないだろうか? それもすぐ眼前に。
 惠が僕らの前から姿を消したとき、僕らは確かにラトゥイリの星の解読を進めていた。その後の花鶏の狂乱ぶりは、佐知子さんや浜江さんから惠に伝わっていたとしてもおかしくはない。呪いの移し替えによる疑心暗鬼は既に始まっていた。そのときの様子から推測すれば、僕らが仲違いして同盟崩壊へと至るとするのがおそらく妥当であるだろう。
 惠の僕たちに対する印象はそんな時間で止まっている。ずっと隠れていたのは、今も続く崩壊した僕らに対する罪悪感もあるのではないだろうか? 惠にすれば、道半ばで解呪の望み絶たれた僕らがそれらの原因について今でも恨んでいると思うのは、まったく自然なことだ。

「――うん」

 ようやく動き始めた思考回路。見え始めた僅かな光明。
 僕はできれば、惠にだって幸福になってほしい。彼女が僕らの類で友ではないなどと、いまに至っても思っていない。生きていました、はい良かったですねで済む問題ではないのは確かだが、かといってその偽装工作を責めに来たわけでは断じてないのだ。あわよくばかつてのように、一緒に溜まり場で共に時間を過ごしたいとはやはり思っている。
 そうするには、どうすればよいか? そこへの道筋が、ほんのかすかに見えた気がする。
 ……そのためには、僕は惠にきちんと「今」を伝えなければ。






 どう話すかを悩みつつ、茜子に倣ってクッキーを口へと放り込むと、その間に黙っていた惠の方から話を切り出してきた。意識は自然、耳と思考へ。蜂蜜の甘さは全く感じられなかった。

「真実を曝く、というのは時に残酷な結末を招くとは思わないかい? 確定していない猫のままであれば、人は事実を都合の良いように解釈するだろう。けれど、その行いが幸福な未来を約束するというのなら、それは肯定されるべきではないのかな」
「政治家の歴史認識みたいなこと言いますね。だからあなたは死んだままで居た方がいいと?」
「今更過去の独裁者の国外逃亡・生存説が事実だったと分かったところで、民衆は困惑するだけだろう?」

 相変わらず持ってまわった言い方。
 惠は死んだ。そう解釈されていればこそ、僕らは彼女が「裏切った」という事実を知らないで過ごせていたのは間違いがない。惠がラトゥイリの星の盗難に関与していようがいまいが、三宅さんと同様死んでしまったと僕らが認識した時点で彼女はその容疑者の選択肢から外れた。家宅捜索を強行しようとした花鶏は、だからもしかしたらあの時点ではある意味正しい選択だったかもしれないのだ。あの屋敷の惠の私室にラトゥイリの星があった可能性を、惠が意図的に誤情報を流したという事実を、僕らは惠の死という嘘によって破棄したのだから。
 でも。
 それは果たして、誰にとって幸福であるのか。

「あなたは阿呆ですね。少なくともこのブルマリアンの阿呆っぷりをさっぱり理解していないくらいには阿呆です。茜子さんが保証します」

 さらっとひどいことを言って、茜子が再びお菓子に手を伸ばす。虚を突かれた惠の表情、対して茜子はもふもふとクッキーを囓り始め、その目は「さっさと説明してやれこのレズボク女っこ」と言っていた。ひどい。
 惠も茜子が言わんとしていることは分かったか、視線は発言を促すように僕の元へ。僕は頭の中を少し整理してから、ゆっくり口を開いた。

「……惠が死を偽装したのは、僕らを欺くためだった。そしてそれは僕らが惠を疑わなくて済むようにするためだった。そうだね?」
「だとしたら、どうなのかな?」
「うん。だとしたら、それってつまり、惠が僕らに疑われたくなかったから、そんなしち面倒くさいことをしたってことだよね?」
「……?」
「だって、惠は僕らの疑惑の目を逸らす必要がなかった。疑惑を抱えたまま、どこか遠くの土地へ逃げたって構わなかったわけだし、それどころか疑惑を否定するために僕らとずっと一緒に居たって良かったわけじゃない。でもそれをしなかった。それは、僕らに対して裏切りを行ったという罪悪感が強くあったからじゃないのかな?」
「それは……」

 困惑の表情を浮かべ、言い淀む惠。
 珍しい表情だ。茜子の力を借りずとも、それが本心の露出だということは容易に窺い知れた。
 蛇の道は蛇。嘘つきの道は嘘つきに。残念ながら、ふとした拍子に仮面が外れたときの動揺っぷりにかけて僕の右に出る物はいない。……言ってて虚しくなってきた。

「ねえ惠。僕は生まれて初めて、自分が仮面を外して接することのできる相手と出会えたんだ。痣を持ち合う者たちの群れ。一般の、普通の人とはできない会話だってできる。他人とはコミュニケーションを取れなかった僕らが、この群れの中でなら人間らしく振る舞える。その喜びを、惠が感じていなかったとは僕には到底思えない」
「…………」

 惠は返答を寄越さない。
 肯定できないのか、あるいは表面上の否定すらしたくないのか。どのみち示していることは同じだ。続ける。

「それを裏切るとなれば、並々ならぬ胆力が必要なのは僕にも分かる。僕の呪いは、惠のそれと同じようにみんなに明かしていない。みんなにすら明かせない。それは最初から分かっていたこと。だから、僕は最初、同盟からさっさとサヨナラするつもりだったんだ」
「君は……そうか、だから……」
「それでも僕は縁を切れなかった。分かるでしょ、惠なら。僕は彼女たちを、ついに振り切ることができなかった。悪意を持って裏切ることができなかった。自分の命がかかってるのに、だよ? 笑えるよね、本当に」
「……」

 僕がそれでも無理矢理に同盟を抜けようとするなら、やはり惠と同じような手を使ったのではないだろうかと思えてならない。僕は存在自体がみんなに対する裏切りを抱えている。それに耐えきれなくなれば、やはり彼女たちに幻滅されないように、失望されないように、理解されるように、自らの死を偽装することもしたのではないか。そうすれば僕は彼女たちに嫌な感情を残すことなく、ひっそりと消え去ることが出来る。もっともその場合、僕自身の心にぽっかりと穴が空くことは確実だったけれども。

「それでここからが本題なんだけど……」

 一度言葉を切って、茜子の方を流し見る。猫舌の彼女は今更紅茶をちびちびと猫のように舐めていて、我関せずを貫いているようだった。惠が過度に心情の露出を気にしないようにとの配慮か。僕の発言を止める素振りもない。視線を戻して、言葉を継ぐ。

「呪いを、踏んだんだ」
「なっ、呪いを――!? 智、君がかい!?」
「僕と、こよりと、花鶏がね。それぞれ別々に」
「――――!」

 これにはさすがの惠も驚きを隠そうともしなかった。目を白黒させているその態度に、本気で彼女たち、そして僕の安否を心配している様子が見て取れてこれ以上なく安堵する。
 やはり惠は、惠だ。

「しかし智、君は生きている……?」
「うん、大丈夫。花鶏もこよりも元気だよ。もちろん他の三人も」
「元気でーす」

 おどける茜子。それを見て、惠は安堵と疑惑の混ざった複雑な表情をなお一層堅くした。僕だって、何も知らないときにそんなこと聞かされたらそうなるに違いない。僕らを圧倒する呪いへの恐怖感。それは踏んだ瞬間に即死する代物としか思えないほどのものだったからだ。

「どういうことか聞く権利が、今の僕にあると思うかい?」
「心配してくれる人にそれを説明しないほど、僕たちは非道じゃないよ。細かいことはあとで言うから。でも今は結論を聞いて欲しい」
「結論……?」
「うん。呪いを踏んで、庇ったり、庇われたりして、僕らはその結論へと辿り着いた。惠は僕らが同盟を解体したと思っているかも知れないけれど、そんなのは間違いだ。茜子の言うとおり、僕は生粋の阿呆だったんだから」

 ばらばらになりそうだった同盟を必死で繋ぎ止め、呪いを踏んでも生き残り、花鶏を庇って事故っても、それでも僕はいまこうしてここに居る。阿呆と言われれば素直に首を縦に振るより他にしようがない。でも、今はそれすら誇らしく思えて。
 だから、告げる。

「惠。僕らはね、呪いを受け入れて生きていくことに決めたんだ――――」






       ○  ○  ○






「やはり口八丁手八丁はその道のプロに任せて正解でしたね」
「まったく褒められている気がしないのがなんとも。というかやっぱり、最初から惠は生きていると分かってて、説得しようと思ってたんだ?」
「真実は茜子さんの心の中に。知りたかったら徳ポイント溜めて出直してきてください」

 帰り道。とうに傾いていた夕日に眼を細めつつ、僕らは郊外から街へと続く道を歩いていた。吹き抜ける風はいかにも夏といった感じで、どことなく生温い。けどそのおかげで、僕の足もなんとか家まで持ちこたえられそうだった。
 いつの間にやら拾った野良猫を腕にかき抱きつつ、茜子が僕に歩調を合わせて続ける。

「どうなると思いますか」
「んー、茜子なら分かってるんじゃない? 惠の本心」
「この力の野暮なことといったらそれはもう。あの眼鏡おっぱいが毎回人の感情をマジレスしてくる気分です」
「すごい喩えだよねそれ」

 歩きながら、屋敷の方角へと目を向ける。あれだけ大きな屋敷も、廃墟や工場跡に隠れてとうに見えなくなっていた。今頃は浜江さんが夕食を作っていることだろう。そしてそこには、いつものアルカイックスマイルを浮かべた惠も居るに違いない。

「しかし、あのレズの呪いに関しては盲点でした。さすが、エサになってるだけのことはありますね」
「エサじゃないってば」
「では愛玩奴隷」
「なお悪いです」

 いや、エサよりは悪くないのか? ……まあそれはともかく。
 茜子が言っているのは、別れ際に惠に話した内容のことだ。花鶏の呪い。人に助けを乞うてはならないというその呪いが、僕の事故の後、みんなを呼び集めたときに発動しなかったことについて。
 呪い。
 仕組みであると、いずるさんは言った。意味も感情もない。インプットすればアウトプットする。それは質量と加速度を入力すれば力が出てくるような、単なる法則に過ぎないと。
 でも、だとしたら僕らの呪いが、全てコミュニケーションを断絶する類であるのは偶然か?
 あるいはまた、それが偶然だとしても、そこに意味を付与することは決して無意味じゃないと、僕には思える。
 その証拠の一つが花鶏の呪い。引っ掛かるはずだった花鶏の行動は、しかしノロイを呼ぶことはなかった。これが花鶏が呪いを「克服」したせいだと見るのは、あまりに文学的にすぎるだろうか。
 呪いは仕組み。仕組みを解けば、呪いも解ける。もし何らかの方法で、僕らの身にまとわりつく呪いを解くことができたとしよう。力は失われるが、僕らを制限していた呪いもきれいさっぱり無くなりました。これからは普通人として生きてください。……果たして、できるだろうか?
 呪われた世界をやっつける。僕がことあるごとに繰り返してきたスローガンみたいなものだ。呪いを解くこと。それが純粋に単なる「方法」であるのならば、僕らは決してその世界をやっつけたことにはならない。呪いは解けた。でも、呪いを克服したことには断じてなりはしない。ただ、なくなったというだけだ。
 例えばそうやって呪いが解けても、花鶏はその孤高な振る舞いを直そうとはしなかっただろう。僕もなんだかんだ言いながら、惰性で女装を続けたかもしれない。るいの刹那的な生き方は約束をできるようになったとて変わらないだろうし、茜子は世界を汚れたままだと蔑むに違いない。そこにあるのは制限の撤廃であって、呪いの克服なんかでは決してないのだ。

「茜子の意見は、どう?」

 相変わらずの無表情に、思考を切って尋ねてみる。
 夕焼け色に染まる白い頬。答えは曖昧に返された。

「どっちでも構いません」

 五分五分。いつもの無関心かと思えば、言葉は続いて。

「でも、そういうのもいいかもしれません」

 ダウナーな視線は変わらずに。
 結局のところ、呪いは僕らの内部にもあるのだ。鶏が先か卵が先か、なんて議論に意味はない。卵を排除しても鶏が居たら意味がないし、鶏を殺しても卵があっては同じこと。僕らはやっぱり、最終的にそれそのものと対峙するしかないのだ。
 方法は花鶏が示してくれた。甘い考えだという懸念も当然ある。次に呪いを踏んだら助からないかもしれないなんて、言うまでもない。
 でも、これは僕たちだけができる方法だから。単なる呪いの解除ではない。それを受け入れ、真に克服できるのではないかという可能性は、数多居た呪い持ちの歴史、その中でも僕らだけが唯一持ちうるものであろうから。脳天気に積極的に肯定するわけでもない。力に依存して楽観的に呪いを受け入れた気持ちになるわけでもない。解くことに失敗し、妥協的に認めたわけでもない。呪いを解いて、それで済んだ気になるわけでもない。僕らは受け入れ、やり遂げる。仕組みとしてではなく、意味として、呪いを乗り越えてみせる。呪われた世界をやっつけてみせる。同盟から絆への転換は、儀式ではなく日々の積み重ねでやってやる。

「おや、どうやらご主人がお出迎えに来たようですね」
「やっぱり分かってたんだ……」

 そうして、郊外から新市街へと町並みが変わる境目辺り。
 見慣れたバイクとライダースーツが、そこで僕らを待っていた。ちょっとだけ不機嫌そうなのは、行き先を告げず出て行ったことに対してか、あるいは茜子と二人だけで出かけたことに対してか。
 それでもきっと花鶏は事情を問い詰めてくることはないだろう。惠のことについては、僕らは惠に決めさせるつもりだ。事実を伝えて欲しいというなら伝えるし、このままでいいというなら今日のことは胸にしまっておくつもりでいる。必要な嘘もこの世にはあると、僕は誰よりも知っているから。

「時間的にも、今日はこれで解散ですかね。溜まり場に行ってもいいですが」
「んー、僕は帰ってゆっくりしたいかな。久しぶりに神経使ったし、足も結構キてるしね」
「そうですか。それでは、どうぞ猫ライクな時間を」
「にゃー?」
「にゃーにゃー」

 言い合って、茜子はどことなく表情を緩めながらすぐ横の路地へと消えていく。様子からして、この辺りにもわりと精通しているのだろう。花鶏からあーだこーだ文句を言われるのがめんどくさかったというのもあるかもしれない。その気まぐれさは、僕よりずっと猫ライク。

「さて」

 一部始終見ていたであろう花鶏に対し、大きく手を挙げ合図する。花鶏は少しだけ呆れたように息を吐いてみせたあと、メットをかぶって僕の方へバイクを寄せに来てくれた。あの座席の横には、当然のように僕専用の新しいヘルメットが収まっていることだろう。一時は二人乗りが怖かったが、今となってはもうどうということもない。
 だから、帰ろう。
 僕らが暮らすあの街へ。
 屋敷の売却話が出ているという花鶏は、ここ最近僕のアパートに身を寄せている。良い機会だと本人は言っていた。本もなくなり、家もなくなって。それでも花鶏は晴れやかだった。その理由、「智が居るならそれでいい」と真顔で言われたときには、流石に恥ずかしかったけれど。
 花鶏のバイクがやってくる。帰りはこのまま夕飯の買い物でもしていこうか。そんなことを思いながら、僕は花鶏の後ろに乗せられて、街へと帰っていったのだった。
 街から生まれ、街へと帰っていく僕ら。その中に惠が含まれている時間を、まるで事実のように幻視しながら――――。


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Short Story -その他
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