Will be hope

[dangan_ronpa ss]
 それを感慨と呼ぶのかどうかは分からないけれど。
 それでもボクは、一か月近くを過ごしたその殺風景な部屋を前に、なんとも言えない感情を抱いていた。
 ……”黒幕”のおしおきが執行された後。彼女が遺した言葉の通り、ボクらはこの学園から出て行くことになった。空気清浄機の停止は確認している。その停止がどんな意味を持つのかを詳しく把握することは今のボクらにはできないけれど、でもそれが決定的な意味を持つということだけはここに居る誰にも理解できていた。
 ボクらは去らねばならない。
 一か月を――あるいは二年間を――過ごした、この希望ヶ峰学園から。
「さて、と……」
 溜息交じりに呟いて、寄宿舎、はじめは違和感だらけだった部屋を見回す。
 ボクらは脱出を前にして、荷物の整理をすることにした。立つ鳥跡を濁さず――ということわざにはほど遠いけれど、それでも数少ない私物、あるなら持って行きたいというのが人情というものだろう。それは例えばこの学園内で手に入れた、新たに出来たお気に入りのものだっていい。飴とか、本とか、あるいはロッカーに置いてあった昔の私物とか。どれが誰とは言わないけれど。
 空気清浄機の停止から来る、滞在時間の限界に関しては正直なところよく分からない。霧切さんの見立てによると、その性能と学園の規模から、中の空気が外気と入れ替わるまで数時間はあるだろうとのこと。それでも通気口やら何やらまで把握しているわけではないし、急ぐに越したことはないというのが結論ではあった。
 だから一応、それなりに急いで準備をしよう。そう言い合って別れたものの。
「でも、ボクはあまりないんだよね……、私物って」
 改めて部屋を見て、そのシンプルさに再び溜息を吐く。
 ボク以外の人の部屋の中は、それほど見たわけではないけれど、それでもボクの部屋より賑やかだった印象がある。超高校級と呼ばれるその能力にふさわしい私物が色々と置いてあって、ちょっぴり羨ましくも思ったものだ。
 それに比べてボクは文字通り着の身着のまま暮らしていて、唯一持ち込んだ模造刀も今はない。無頓着だと言われればそうなのだろう。そこまでの精神的な余裕がなかったというのもあるかもしれない。
 だからボクは、あまり良い思い出のないこの部屋の中で、他のみんなの荷物整理が終わるまで待つことにした。動き回る気はあまりしない。時間にすれば一時間はかからないだろう。ベッドで横にでもなっていればすぐに――と、思ったところで。
 ピンポーン、と今や聞き慣れた音。
 だがかつてと違い、今はもう部屋の鍵なんてかけていない。そしてそれを来訪者もインターホンを押した後で気付いたのだろう、無遠慮にドアをがちゃりと開いて隙間から顔を覗かせる。
 綺麗な長い髪が、ふわりと揺れた。
「霧切さん? どうしたの?」
「いえ、ちょっと話があるのだけど……今、いいかしら?」
 瞬間、さっと霧切さんの視線がボクの部屋の中を走る。相変わらずの観察眼に、ボクは頬を掻きながら頷いて。
「大丈夫だよ。見ての通り、整理するほど荷物はなくて」
「そう。まあ、そうだろうと思ったわ」
 いつも通り口元に手をあてて、笑みを浮かべながらすっと部屋へと入ってくる。もう引き払う部屋だというのに、それでも自分の部屋に霧切さんが入ってくると思うと、ボクはいつぞやのようにちょっと緊張してしまった。
 たぶん、そんな動揺は霧切さんにはばれているんだろうとも思う。
「霧切さんの方は?」
「私も私物なんてものはほとんどないわ。あなたと同じね」
 そう言って両腕を広げてみせる。服さえあれば構わない、とでも言っているかのようだった。
 そのあまりの「らしさ」に、ボクは苦笑を返しつつ。
「それで、話って?」
 おそらくは脱出ボタンのことか――というボクの予想はしかし、あっさりと外れてしまう。
 自分からここに話をしに来たというのに、なぜだか彼女は、珍しく言い淀んだのだ。「ええと……」なんて呟きながら、手袋越しにその髪を弄くっている。らしくない態度だった。
 とはいえ、そこにボクが期待したようなしてないような、ともかくそんな色恋沙汰めいた雰囲気は一切ない。しばらく待っていると霧切さんはきっと顔を持ち上げて、いつもの彼女らしい、毅然とした表情を取り戻していた。
「つまりね。あなたに改めて謝罪をしないと、と思って来たのよ」
「謝罪……?」
 はてボクは何かされたろうか、と首を捻る。
 助けられたことは数あれど、謝られるようなこととなるとよく分からない。ボクの知らない間に、勝手にボクの分の食事を食べてしまったとか? そんな冗談めいたことくらいしかボクには思いつかなかった。
 そしてボクの様子からそれを察したのだろう、霧切さんは笑ったような、呆れたような、なんとも言えない息を吐き出してから言葉を紡ぐ。
「私が、あなたを見捨てようと……見殺しにしようとしたことについて。私はそれについて、まだあなたに正しく謝罪をしてないわ」
「え? でもそれは――」
「あなたを助けたからチャラ、とでも言うつもり? あれはアルターエゴというイレギュラーに救われた結果生じた、私の義務よ。それ以前の段階で、私は確実にあなたを殺して生き延びることを選択していた。そのことに変わりはないのよ。だからその謝罪を、と」
「……ええと」
 ……ボクとしては、その言葉はあまりに意外だった。
 霧切さんの目は本気だ。ボクを真っ直ぐに見据えて、まるで腹を切れと命じれば切るかのような、そんな覚悟が窺えた。それは霧切さん自身が、強い自責の念に駆られていることを示しているかのようでもある。
 でもボクはそんな、例えばだから霧切さんにどうしてもらおうだとか、そんなことは微塵も思っちゃいなかった。当然だ。あのゴミ溜めから助けてもらったことにも、モノクマ相手に最終決戦に持ち込めたことにも、ボクは感謝を既に述べている。だからあの問題は終了、貸し借り無しだと思っていただけに、だからボクは意外だったのだ。
 全てが終わった後だというのに、まだこうして謝罪をしようとしてきたことが。
 だってそれはつまり、ここに至るまでずっと、彼女はそのことを気にかけていてくれたということだから。
 ボクにとっては、ある意味ではそれでもう充分だった。
 だから言ってやった。
 ボクは思ったとおりの言葉を、彼女のその真摯な表情に向けて。
「霧切さんはさ、真面目過ぎると思うんだ」
「は……?」
 きつく引き締められていた表情が一転、ぽかん、とする。
 そのことに、きっとボクは笑みを浮かべていたことだろう。
「ボクは助かった。霧切さんも助かった。残念ながら犠牲もたくさん出たけれど、それでも最後の最後、今いるみんなは助かった。だから、それでいいんじゃないかな」
「で、でも、私は、あれだけ信頼だなんだと言っておきながら……」
「仕方ないよ。霧切さんをかばうって決めたのは結局ボク自身だったし、タイムアップで無理矢理ボクを殺そうとしたのはあのときのモノクマだ。確かにびっくりしたけれど、それでボクが霧切さんに失望しただなんてことはありえない。それに死んじゃったならともかく――」
 言いながら、肩をすくめておどけてみせる。
「――こうして、生きてるんだからさ」
 それも学園を脱出できるというオマケつきで、だ。
 もちろんそれが、今となっては喜ばしいこととは限らなくなってしまったけれど。
 そんなボクの態度をどう捉えたのだろう、霧切さんはぽかんとしたまま表情を動かさない。とっても珍しい表情。冷静な彼女もこんな風な顔を見せるんだなと、そんなことをふと思う。
「苗木君、あなたは本当に……」
「だから霧切さんが謝る必要なんてないんだよ。ボクは何も気にしちゃいないし、霧切さんがここまで気にかけていてくれていたってことで充分すぎる。……それでもどうしてもっていうんなら――うん、そうだな、『感謝』なら、受け取るかも」
「感謝……?」
「あのときかばってくれてありがとう、って。謝罪じゃなくて、そういう感謝の言葉なら、聞きたいかな」
 それはボク自身の判断を肯定するものでもあるのだから。そう言葉を続けると、霧切さんはしばらく唖然とした表情を続けていたものの、けれどようやくいつものように、なんともいえない――そしてボクにとってはとっても魅力的な――微笑を浮かべてみせてくれた。
 その顔には、やっぱりちょっと呆れ交じり。それでもボクは、見慣れたその笑みになんだかとても嬉しくなる。
「そう……。あなたがそう言うのなら、仕方ないわね」
 そうして霧切さんはばさっと髪を払って、再びボクの顔を見据えてから、言った。
「ありがとう、苗木君。あなたのおかげで、私は、私たちは助かった。本当に感謝しているわ」
「――ッ」
 言葉とともに見せられたのは、彼女の今まで見たことのないような、本当に心の底からといわんばかりの笑みだった。不意打ち過ぎるそれに思わず息が詰まる。いつか手袋の話をしてくれたときでさえ、こんなに豊かな表情ではなかったはずだ。その直球過ぎる感情表現に、ボクは、ボク自身の心臓が跳ねるのをはっきりと自覚する。同時に、顔が赤くなっていっていることも。
 そしてまた、このくらいのことを予想できない霧切さんではない。柔和な笑みは、すぐににやっとどことなく不敵さを混じらせてきて。
「顔、赤いわよ?」
「こ、これは、霧切さんが――」
「あら、私は感謝しただけよ。あなたが恥ずかしがる理由にはならないと思うけれど」
 してやられた、と思うももう遅い。
 結局彼女は、ボクがこうなることまで分かってあんな笑顔を見せたのだ。それはとっても……その、ずるいと思う。
「そうね、でも、感謝なら形で示さないといけないわね」
 そうしてボクがうろたえているのを好機とばかり、さっきまでとは違い、今度は明らかに何かを思いついたような顔で霧切さんは唇の端をあげて笑う。今までに何度か見たことのある表情。企んでいるのは、きっと色んな意味でろくでもない。
 そして放たれた言葉は、やっぱりろくでもないことだった。
「こういうのはどうかしら。苗木君は私を助けた。だから私は、なんでも一つだけ、苗木君のお願いを聞いてあげるわ」
「え、いや、いいよ。うん、いい。お願いなんてそんな……別に、ボクは」
「そう? 私は何をされても嫌がらないわよ。なんせ、命の恩人の頼みなのだから」
 言って、霧切さんは立ったままボクのほうにぐいっと顔と身体を寄せてくる。ボクが一歩下がればその分だけ彼女は距離を詰めてきて、ほどなくしてボクの退路は部屋の壁で妨げられる。どん、と壁と踵のこすれる音がして、ボクはあっさり道を失った。距離が詰まったせいで、霧切さんの長い髪からふわりと柔らかい香りが漂ってくる。
 そしてそれと同時に、霧切さんがその手をボクの胸元へと置いてきた。プラスされるは明らかに作ったような上目遣い。唇はわざとらしくうっすらと開かれていて、なんともまあ艶かしい。視線を下げていけばそこにはもうすぐ抱き留められるような距離に華奢な身体があって、ジャケットの合間からは慎ましやかな胸の膨らみがはっきりと見て取れる。黙っていれば霧切さんは更に半歩こちらへと踏み出してきて、スカートの裾からは太ももがちらりと見えていた。
 ……なぜだろう。
 感謝をされる側なのに、とっても追い詰められているボクだった。
「え、ええと、霧切さん、とりあえず離れて……」
「『離れろ』……それがあなたのお願いなのかしら。だとしたら、私は少し悲しいわね」
「あ、いや、そういうことじゃ……っていうか、わざとやってるよね?」
「さあ、どうかしら」
 くすり、と笑み。
 完全に弄ばれていた。きっとボクの視線も観察されていて、だからボクは目を逸らす。霧切さんの忍び笑いと、その息づかいが耳を打った。
「ボクのお願い、なんでも聞いてくれるって言ったよね」
「ええ。なんでも聞いてあげるわ。あなたが望むなら、どんな無茶でも」
「そ、そうなんだ。ええっと、じゃあ……」
 どぎまぎしながら、それでも知恵を絞り出す。
 今、ボクが霧切さんに望むこと。それは、改めて考えれば至極簡単なことではある。
 この、希望ヶ峰学園から外へ出て行くと決まった今となっては、もうそれしかないとでも言える望みだろう。
 おそらく、きっと口にしなくともそうなったとは思う。
 それでもけじめとして、どうせ言うならば今この時がちょうどいい。ボクは追い詰められたこの状況で、なんとかそんな案だけは思いついていた。
「霧切さん」
 顔を戻す。
 もう抱き締めて、キスでもするんじゃないかというくらい眼前に、霧切さんの端正な顔があった。
 ボクの方が身長が高ければ絵にもなったんだろうけど、あいにくながら背丈はボクより彼女の方がずっと高い。ブーツも履いてるしなおさらだ。それでもなんとか姿勢を正して、恥ずかしいけど仕方がない、その深い瞳を真っ直ぐ見つめ返して言ってやる。
 ボクの望み。それは。
「――ここから出た後も、ボクと一緒に居てほしい」
 ……それは、彼女にとっては意外な言葉だっただろうか?
 少しばかり面食らったような表情の後、霧切さんはやっぱりいつも通り、感心したような呆れたような、なんともいえない魅力的な笑みを浮かべてみせた。そうしてこくりと一つ頷く。
「そう。あなたがそれを望むなら、私はそれを叶えてあげるわ」
「……なんだか、ボクしか望んでみたいな言い方だけど」
「あなたが私の嫌がることをさせるはずがない。そのくらいには、私は苗木君を信頼しているわ。……ここまで言えば分かるわね?」
 そう言って、ぷい、と少し視線を逸らす霧切さん。その仕草は、どこか格好良くもあり、そしてまた可愛らしくもあり。
 ふっと彼女が身体を離していくのを見て、ボクはようやく安堵の息を吐く。助かった。いやお願いをする立場で助かったというのもわりと変な話だけれど、承諾もしてくれたしとにかくオールオッケーだ。果たしてボクがもっとアレなことを望んだのなら、彼女はどうしたかななんてことを、微塵も思わなかったわけでもないけれど。
 とにかくまあ、気を取り直して。
「じゃあ、これからもよろしくということで……」
「ええ。それじゃ苗木君、手を出しなさい」
「手? ええと、こう?」
 言われたとおり、差し出す。
 すると彼女は、まるで当然のように手袋を外し、ボクと素手での握手を交わした。
 思わず、えっ、と声をあげる。
「何かしら?」
「いや……えと、いいの?」
「私から外したのだから、問題があるわけないでしょう」
 ぎゅっ、と繋がる手のひらに力が籠もる。
 ちょっぴりざらついた、固い皮膚の感触。見た目からそうだったけれど、相当にひどい火傷だったことがよく分かる。古傷だというのに、ちょっと力を入れればまたすぐにでも傷が開きそうな、そんな危うさがそこにはあった。
 ……本当に、ひどい火傷。
「こっちこそ、悪かったわね。どうせなら、もっと綺麗な手の方が良かったでしょう?」
「……ううん、そんなこと」
 グロい傷と罵倒されたときの、霧切さんの表情を思い出す。
 だからボクは握手をしたまま、もう一方の手で霧切さんの右手を包み込むように抱いていた。これまた傷の残っている手の甲を、ゆっくりとさするように撫でていく。
 理由はない。ただ、そうしなければと思ったのだ。
「ちょ、ちょっと、苗木君?」
「……ありがとう、霧切さん」
「ん……ええと、どうしてあなたがお礼を言うのかしら」
「どうしてだろう。でも、言わなきゃって思ったから」
「……そう」
 はあ、と溜息。
 でも、霧切さんは確かに笑っていた。だからボクも思わず嬉しくなる。そのまま両手で、ぎゅっと彼女の手を包み込んで。
 まるで薬を塗り込むかのように、丁寧に丁寧にその手をそっと撫で続ける。そうしていると、ボクの口は勝手に開いていた。
「外がどんな状態でも、きっと希望はある。そうだよね、霧切さん」
 最後の学級裁判で見せられた映像を忘れてしまったわけでは当然ない。きっとあれは事実なんだろうと思う。それでもボクの言葉も単なる強がりではなくて、そのことに霧切さんもまた強く頷き返してくれた。
「……そうね。図らずも黒幕の計画の失敗は、希望が絶望を妥当しうるということを全世界に知らしめることになった。それが希望の苗木となって、絶望を押し退ける……ええ、ドラマとしてはB級だけれど」
 でも、それでもきっとできるはず。
 言わずとも分かるそんな”希望”を、ボクらはしっかりと持っている。
 だから大丈夫。自身の胸の内と、この手に握る温かさにそう誓おう。
「だから行きましょう、苗木君。希望を抱えて、外に広がる絶望の世界へと」
 言葉とともに浮かぶ挑戦的な笑みは、ボクにとってはこれ以上なく頼もしい。彼女が一緒にいてくれるなら、この先の絶望だって乗り越えられる。
 ボクはそう、信じてる。
「そうだね。行こう。まだ見ぬ世界で、希望を探しに」
 最後にぎゅっと手を握る。握り返す手も、こちらを見据えるその瞳もとってもとっても力強くて。
 うん、だからきっと希望はある。
「……名残惜しいけれど」
 言って、霧切さんが手を離す。左の手で本当に名残惜しそうにボクが触れていた右手を撫でて、すっぽりと再び手袋を嵌めた。
 対してボクは、ポケットに入れたままの脱出ボタンの感触を再び確かめて。
「さ、それじゃ――」
「――うん、行こう」
 歩き出す。
 殺風景な部屋に背を向け、二本の足でしっかり地面を踏みしめて。
 そうしてボクらは、まだ見ぬ世界の希望に向けて、並んで部屋を後にしたのだった――。

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Short Story -その他
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