君が譲ってくれた素晴らしき世界のとかけら

[a reaction from an observer]
 ふわりと浮き上がっていく感覚。力を入れるべき身体が存在しないにも関わらず、意識は浮遊感を得て水面へと急速に近づいていました。唐突に訪れた覚醒の時。加速度的に明晰になっていく思考。寝起きのように呆けている肌触りは、けれどおおよその事情を理解するには充分なものでした。
 ――ああ、≪スクランブル≫だ。
 震わせる声帯もないままに、腑抜けた頭がやけにはっきりと自覚します。目はまだ見えませんが、確かに見えるのはあたりを舞う黄金の粒子。遥か遠くから聖騎士の呼子の音まで聞こえてきて、俺は形而上の髪の毛をふっと形而上的に吹き上げます。
 この期に及んでのスクランブル。明快になりつつある意識はであるがゆえに感情を押し殺すことが出来なくて、揺れ動く心の動きに我がごとながら戸惑います。
 楽しかったあの世界へ再び戻されつつある現状。
 癒えることのなかった傷心。
 ここに至ってなお逃げだしてしまった長男への不安。
 ≪スクランブル≫に対応すべきかせざるべきか。決めかねたところで俺の意志が考慮されることなど結局はなく、意識は為す術ないままに≪精髄≫へと引き上げられていきます。広がっていく意識の根。組み込まれる身体感覚。爆発するような世界との衝突に曖昧の靄は砕け散り、
「――羽田君っ!」
 トドメの叫び、その聴覚からの刺激によって、千歳鷲介が再度≪コックピット≫に入ってしまったことを理解します。

 ……コンバンワ、世界。もう会うとは思ってなかったんですけどね。





       ○  ○  ○





「は、羽田君っ!? だいじょぶ、まだこっちに居る?」
 女の人の声。がくがくと肩が揺すられる感覚。少しだけ長い前髪が視界に揺れていて、ああ、自分はいま頭を垂れているのだなと理解します。相手からすれば、座ったまま唐突に気絶されたような感じでしょうか。
 まずは状況の把握が必要と判断。揺れる焦点に力を込めれば、目の前にあるのは床に敷かれたカーペットの鮮やかな緑色でした。続いてそこから視線を外し、少しばかり重く感じる首をぐっと持ち上げます。垂れてきた形而下の前髪は右手で払いのけました。
「はねだくん?」
 頭を抱えているように見えたのでしょう、動作の途中で目の前の女の人が心配そうにこちらの顔をのぞき込んできます。目鼻の整った綺麗な顔。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ別の誰かを重ね合わせそうになり――
「あ……明日香さん?」
「へっ?」
 錯覚の向こうで、いつかの≪スクランブル≫のときに顔をあわせた相手が驚き目を丸くします。そうしてすぐ事情を悟ったのでしょう、ふっと俺の目の前から距離をあけました。相変わらず賢いひとだと思います。
「あー、えっと……千歳、さん?」
「違います」
 え、と再び丸くなる大きな瞳。
「や、ウソですけど。でも光栄ですね、お姫様に覚えていただけてるなんて。ってことは何が起こったのかもだいたい分かります?」
「ええ、まあ、なんとなく……。ええと、以前会ったときと同じようなことになった、ってことでいいんですよね?」
「そう、そういうことです。理解が早くて助かります。……けどまあタカシ君ったら、せーっかく明日香さんと二人だっていうのにどうしたんですかね。っていうかここ、明日香さんのお部屋っすよね、おそらくは」
 きょろきょろと周りを見渡し、そう結論づけます。どこかわりと高そうなマンションの一室。かわいい感じがほとんどしないその雰囲気は目の前のお姫様に意外なほど似合っていて、自らの出した結論が間違いではないだろうと確信させられます。
 でも、ならどうしてタカシ君は逃げ出したりしちゃったんでしょう? いやまさかねえ、好きな女のひとと一緒に居るプレッシャーに耐えられなくなってとか、そんなどこぞのエセ潤滑油じゃああるまいし。
 アッ、別に俺のことじゃないですけどね。そんなんぜんぜん違うけどね。
「あの、それで……羽田君は?」
 そうして不躾な視線を四方に飛ばして考え事をしていると、お姫様がやけに神妙に問うてきました。
 ん、んん? これはなにかあった予感がひしひしと。できるだけ慎重に言葉を選んで返します。
「タカシ君は、いま≪待機室≫っていう……まあそうですねえ、ちょっと眠ってるような、そんなカンジですかねえ。あ、たぶん当人はグレタガルドに居るつもりでいると思いますけど」
「じゃあ、しばらくしたら戻ってくるんですね?」
「ええ、この≪スクランブル≫が終わればおそらくは」
 その答えに対し、見るからに明日香さんは安堵の表情を浮かべました。ほうと息が吐かれて、緊張しきっていた彼女の身体がぐったりと折れ曲がります。
 はあ、ということはつまり。
「明日香さん、うちのタカシ君に何かしたんすか?」
 問いかけ。面白いほどに明日香さんの身体がびくっと反応します。お腹の中では何を考えているのか分かりませんが、お腹の中では何を考えているのか分かりませんが、こういうところを見せられると、やっぱり根はいい子なのだなと実感させられてしまいます。大事なところだけ二回言いました。
「いや、まあ、うん。ちょっと口を滑らせたのは事実ですけど、元はと言えばそっちが悪いんですよ。テレビになんて映るから」
「へっ、テレビ?」
「ええ。VTRにちらっと映ったんです。多分、あなたじゃなくて怖いカオした人のほうだと思いますけど」
 すぐチャンネル変えたんですけどね、と明日香さんが悔いた表情を見せます。
「はあ、テレビに隼人君がねえ……」
 いったいなんの番組だったんでしょうか。彼が自分からそういったものに映るはずはないので、おそらくは街の背景の一人だったんでしょう。そしてそれをタカシ君が見てしまったことまで含めて、それらは不幸な偶然としかいいようがありません。改めて俺たちは薄氷の上を歩いていたのだと実感させられます。
「一応分かってます、わざとじゃないってことくらい。それにちゃんとまた戻ってくるっていうなら、まあ……」
 明日香さんはそこで言葉を止めて、じっとこちらを睨んできました。それはつまり、彼女なりに本気でタカシ君の心配をしているということなのでしょう。わざとらしく首を縦に振ってみせると、彼女は返答代わりに大きく息を吐いて見せました。
 タカシ君、このお姫様はこんなに君のことを心配しているよ。そんなことを、≪グレタガルド≫にいるホーク卿に向けて呟いてみます。
 ま、聞こえるわけはないんですけどね。周波数の違うラジオに電波は届きませんから。





       ○  ○  ○





「で、今日はなにやってたんすか?」
 突然の≪スクランブル≫への対処も一息ついたころ、雑談代わりにそんな言葉を明日香さんへと投げかけます。女の子のお部屋。二人きり。とはいえアレな雰囲気は微塵もない上、目の前のテーブルには明らかに何らかの作業中である痕跡が残っていました。ちなみにテレビはとっくに消してあります。
「今日はちょっと、卒業アルバムの作業を。そういう係になっちゃったので」
「卒業アルバム! なんとも青春の響きっすね」
 そう言われて机の上をよくよく見れば、散らばっているのは確かにそんな用途のものでした。写真、原稿用紙、のりにはさみにレイアウトのラフ、その他もろもろ。小さい頃の学級新聞をなんとなく思い出します。
「へー、結構な枚数ありますけど……あ、これ明日香さんすか。今よりだいぶ若いっすね」
「や、一年のころの写真だから実際若いですけど。この歳でそれは、あんまり褒め言葉になってないよね」
「じゃあ、今よりだいぶ可愛らしいっすね」
「なんだと」
 ぱらぱらとアルバムの題材用の写真を眺めていきます。明日香さんは俺のそんな行為に文句をつけることはなく、けれど無視するでもなく。タカシ君が帰ってくることが分かって安心したんでしょうか、それまでの暇つぶしに千歳鷲介と会話することを選んだようにも感じられました。
 ええまあ、元はと言えばこのお姫様、タカシ君の背後にいる俺や隼人君に対して強い興味を持っていたわけですからね。
「みんな楽しそうに写ってますねえ」
 次々と移り変わっていく学校行事。その中で、学生服あるいは体操着の彼ら彼女らは、絵に描いたような青春を刻んでいるように俺には見えました。そして案の定というかなんというか、タカシ君の姿は全体を通して眺めてもやけに少なく感じられます。なのにその数少ないタカシ君の写真のうち、少なくない枚数にチェックが入っている――おそらく卒業アルバムに実際入れるための目安でしょう――のは、きっと眼前にいる彼女の配慮に違いありません。タカシ君に任せたなら、きっと彼の写真は一枚も入らなかったでしょうから。
 心の中で礼を述べて、次々にページをめくっていきます。二年生。夏。秋。そんな風に時を経ていって、
「あ――」
 俺は一枚の写真に目を奪われます。文化祭。全学年合同のその行事。手前に移っている生徒さんの顔はまったく覚えがありません。けれどその背後、わずかながら焦点のずれた背景の溶け込むように立っている、おそらく彼らより1コ下の学園生。彼女は写真の中で、やや小柄な女の子と楽しそうに笑顔を交わしていて――
「そういえば、さ」
「あ、はいっ?」
 吸い込まれた視線が、明日香さんからの突然の言葉に寸断されます。反射的にぱたりと写真の束を閉じてしまいました。いやあ、だってそうですよ、制服姿の特定女子を嘗めるように見ていたなんて知られたくないじゃないですか。どこぞのコスプレ好きアレキサンダー店長なんかじゃあるまいし。
 アッ、いえ別に、花水木通り店のとは言ってませんけどね、花水木通り店の軽部狩男とは。
「うん、そういえばなんだけど、羽田君以外の人はここには写ってないんですよね」
「タカシ君以外の人」
 いっぱい写ってるじゃないですか、なーんて冗談を言っても面白くありゃしません。もう閉じてしまった写真の束、それは美空学園に通うタカシ君たちのクラスメイトのものです。だからそこに俺や隼人君は含まれていないなんてのは、至極当然のことでした。
「でもさ、羽田君を支えてくれたり、あとはスクランブル、だっけ? そのときは学園生だったわけですよね」
「はあ、まあそういう考え方もあるかもしれないっすけど。え、明日香さんなに企んでるんすか」
「企んでる言うな。ただ、一枚くらいあってもいいんじゃないかなって。どうせどこで撮られたかなんて、覚えてる人のが少ないんだしさ」
 なぜか視線を俺から外しつつ、主語を削って明日香さんはそんな考えを述べてきます。いやもうほんと、何を言っているんでしょう彼女は。
 思わず最後に見た写真を参考に、千歳鷲介の写るアルバム写真を夢想し――かけて、首を振ります。それはやっぱり、ねえ、ダメでしょう? だって考えても見てくださいよ。そういう勇気すらなかったからこそ、俺たちはタカシ君に全てを任せているわけなんですから。
 かといってそこまで話す必要もなく、言葉をかえて明日香さんにお断りの意志を返します。
「俺を撮るならね、明日香さん。そのかわりにタカシ君を一枚でも多く撮ってあげてください。いくらなんでも少なすぎるでしょう? それにあなただって、ねえ、公称彼女なのに一緒に写ってるのが集合写真だけだなんて不憫じゃないすか」
「……そ。ま、そう言うなら仕方ないですけど」
 視線を外したまま明日香さんはそう言って、置いてあった紙コップに手をつけます。倣うように、俺もタカシ君のぶんを口へ。中身はりんごジュースのようでした。ぐびりぐびりと二、三口。
 けれどその味は甘すぎて、今の俺はちょっと受け付けられませんでした。





       ○  ○  ○





「あ」
 ジュースを飲み干し、何をするでもなく少しばかりの会話をしている途中。ふっと、唐突に”その”感覚が浮き上がりました。他人に説明しようのない、内側から誰かが沸き上がってくる感触。それと同時、強烈な眠気に近い倦怠感。
 俺の呟きが聞こえたのでしょう、明日香さんが首を傾げて説明を求めます。端的に答えました。
「タカシ君が、そろそろ」
「ん、分かるんだ?」
 肯定して、ベッドの使用を求めます。目で訴えただけでしたが、明日香さんはこくりと頷いて。やはりよく分かってくれています。
 カーペットと同じく緑色のシーツがかけられたベッド。お部屋と同じくたいそう良いもののようで、身を横たえるとふっと体重が吸われていきました。ふかふかベッド。けれど鼻をくすぐるジャスミンの香りは、果たして値段のせいかどうか。
「羽田君、どのくらいで戻ってきます?」
「すぐだと思いますよ。抵抗すればアレですけど、こっちも替わる気なんですし」
「ふうん」
 ベッドに横になって目をやると、座っている明日香さんと同じ高さになります。お腹の中では何を考えているのか分かりませんが、お腹の中では何を考えているのか分かりませんが、こんな俺たちのことを冷静に受け止めてくれていることには感謝したいと思います。タカシ君のことも心底心配してくれているようですし、彼女にならきっと後のことを任せられるのではないでしょうか。
「また会う……ってことはないんですかね、そっちのカオを見る限り」
「あー、分かります? そういうの」
「前回のことでだいたいは。あと、思ってるより顔に出やすいタイプだと思いますよ」
 はあ、そんなもんですかねえと相変わらずの観察眼に感服します。けれどそのまま認めてやるのも癪なので、ちょっとばかりの嫌味を一つ。
「ま、そうすねえ。会うつもりもないですし、会いたくもないすね」
「なんだと」
 憎たらしいくらいの笑顔で返してくれる明日香さん。けれどそれが俺という存在が消えることへの喜びなんかじゃ断じてなく、俺を送ってくれるための作り顔であることはすぐに分かりました。泣いてなんかないやい。
「ま、私も頑張るからさ。スクランブルさせておいてあれだけど、安心してほしいよね。羽田君以外の人たちから奪うことになった写真は、きっと羽田君を撮るのに使ってあげるから」
「はは……」
 遠のき始める意識の中、明日香さんの言葉に自然と笑みが零れます。こうまで宣言されては、もう何も言うべきことはありません。仰向けになろうと首を動かし、瞳を閉じる直前、視界に映ったのはテレビの下にある機械。それは俺の記憶が正しければ、かつて数多の子ども達をグレタガルドへと旅立たせていった魔法の箱です。
 ――なんだ、心配することなんて最初からなかったんじゃない。
 明日香さんの決意のほどを受け取って、役目を終えたイーグルは静かに目蓋を下ろします。沈んでいく意識。かすかに残る感覚からは明日香さんがベッドに上がってきたのが感じられて、けれど何をしているのかはやっぱり分かりませんでした。
 何をしてるんでしょうか。把握する余裕もすぐになくなります。もしいま目を開くことができたなら、パンツ見えたのかなあとか考えるのもその程度。意識はそのまま沈んでいって、入れ替わりに浮上していく形而上のタカシ君を見送ります。

 ――今度こそおやすみ、世界。
 光に照らされた水面に向かって、残る力で投げかけます。
 ――そしてこの素晴らしき世界が、いつまでも平和でありますように。

++++++++++


Short Story -その他
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