学園ファルコン

[a reaction from an observer]
 火薬のにおいに似た、乾いた寒風の吹きつける朝だった。
 柳木原駅前。ケンゼンな働きアリたちが霜すら降りる冬の寒さにコートとマフラーで抗いながら、間断なく西口のビジネス街へと吐き出されていく。今日も始まる8時間超の重労働。どいつもこいつも疲れと個性をスーツの奥へと押し込めつつきりきりと歩いていくさまに、お勤めご苦労様と心の中で労いを送る。マトモな大人たち。ヤナポリ広場の警官も、こちら側に用はない。
 そして波のように流れていくスーツの群れの中、雪のように時折見え隠れする白い制服は、モラトリアムを謳歌する美空学園の学生たちだ。寝ぼけ眼と個性を隠しもせず、学生らしい騒がしさで駅前を我が物顔で抜けていく。寒い寒いと呻く者、眠い眠いと愚痴る者、だるいだるいと騒ぐ者。白い息を吐きながらのそんな言葉、口に出せるだけマシだと気付くのは、きっとその隣を歩く勤め人のように自分がなってからだろう。
「はあ……」
 未だ慣れない強い日差し。この身を包む冗談のように白くてきっちりした制服。溜息とともに服と同じく白い息を吐き出しながら、コンクリートジャングルの向こうに聳える8階建てのクソ豪華な学舎を見据える。
 ガッコー。思わず頭が痛くなった。
「……けど、まァ」
 小娘連中にお勉強しろと言った手前、俺が易々と投げ出すわけにはいかない。睡眠不足の中、ずっと学園に通い続けていた長男への義理もある。俺は未明まで続いたバイトの疲れを気合で押し込めて、ここ数日ですっかり気が滅入るようになったオベンキョーへの倦怠感も我慢して、人波に紛れるようにその歩を進め始めた。
 ひとにはそれぞれ相応の歩き方がある。いつか誰かが言っていた。とすれば残り二ヶ月程度、ここでの俺はこうして他人の歩調に合わせるのが一番いいのだと思う。目立たず騒がず、人の波を縫い緩やかに。
 どこかで笑っていたそんな生き方を、今は少しだけ理解できるような気がした。






       ○  ○  ○






「……うーっす」
 誰にでもなく小さい声で挨拶を向け、教室へと足を踏み入る。注目は集まらない。たまに向けられるのは少なからぬ「ああ、あいつか」って程度の視線だ。俺はその目をよく知っている。脳裏をプリン頭が横切った。
 されど、工事現場と大きく違うのは。
「うぃーす、羽田以外の何か君」
 人を避けて自分の机に鞄を置くと同時、飛び込んでくる返事の言葉。椅子にケツを落としつつ見れば、そこにはいつも通り「私疲れてます」と自己主張する女の姿があった。毎度のこと。当てつけるようなダウナー加減。めんどくさいので無視していると、女は勝手に俺の前の席の椅子に腰を落としてこっちを向いた。
「まったくもー、相変わらず目つき悪いね、君」
「あァ?」
 第一声からこれだ。ガンを飛ばせば怯んだころが、遠い昔に思えてくる。
「おい、おいコラ小娘、テキトーに名前呼んだと思えば次はそれか。この目つきは生まれつきだってこの前も言ったろうが。ニワトリかテメーは」
「おまけに口も悪いし。だいたい羽田君は目も口も頭も悪くなかったんだから生まれつき悪いっていうのは説得力ないよね」
「ちょーちょー、勝手に人の欠点増やすとかほんとやめてくんない。ちょっぴり口が悪いのはおちゃめな照れ隠しだっつーの。ほんとはめちゃめちゃ礼儀正しいっつーの」
「はあああああああああ……、なんでこんなのが残るかなー。ねーねー、一回でいいから羽田君出してよー」
「いや聞けよ人の話」
 ひとしきり悪態ついたあと、人の反論も聞かずぐでーっと机の上にへたりこむ小娘。ここのところ毎朝ずっとこれだ。いい加減うざったくもなる。
 というか言うな、大声で羽田君出してとか言うな。周りをうかがいつつ、小声で話を進める。
「あんさ、な? だから言ったじゃん、最初の日に。タカシはこの世界から消えたんだって。よく知ンねーけど、それってフラれたってことだろつまり」
「うるさいなあ、知ってるよもー。けどさあ、ここ三年ずっと自分でも知らずに想い続けてたんだから、もうちょっと配慮あってもよくない? 会って初っ端『タカシ消えたから』はひどくない? 恋する乙女を初撃で潰すとかありえねー、ぬり田マジありえんてぃー」
「っせーな、それが突き放す優しさってやつなんだよ。っつーか呼ぶな、俺を妙なあだ名で呼ぶな」
「あーうぜー、ぬり田まじうぜー」
 いやお前のが充分うざったいだろう、とクダを巻く女に言いかける。こんなのがプリンセスだなんだと持て囃されているのだから世も末だ。そういや、プリンセスとプリン頭って似てるよな?
 プリンセス≒プリン頭。信じてやっても俺に害はない。
「もう私、ここのとこずっとこうだよもー。推薦だから受験に逃避もできないしさ、なんか身だしなみとか整えるのも馬鹿らしくなってきたよほんと。どーしてくれんのさ。宝石のような涙もそろそろ枯れてきたよ」
「いやどうもこうもねーだろ、俺が何やったわけじゃねーっつの。それともなんだ、膝蹴りしたりなかったっつのかおい、あれだけブチかましておいて」
「あー足りなかったかも。やっていい? 文字通り人格が吹っ飛ぶまで」
「謹んでお断りですだクソが。ちょーちょー、おいそこの糞カラス、面白そうに見てないでこの女引き取れ。元カレなんだろ一応」
 腰を上げる気配のない駄姫にいい加減限界を感じ、途中から動物園の檻でも見るかのようにこちらに視線を向けていた盗み聞き野郎に話を向ける。糞カラス。急に出席率が良くなったのは俺たちのことを肴にしているに違いない。
 ンだよ、俺は芸人じゃねえんだよ。ブッ殺すぞコノヤロウ。
「はン、やだね。こんな面白いモンを自分から潰すことはないでしょう? 明日香からも恨まれそうだしねェ」
「あァ? 面白いとかいってんじゃねーぞコラ、こんなウザったいのに毎度毎度絡まれてみろ、いくら元気溌剌な俺でもいつか参っちゃうかもしれないだろコノヤロウ」
「なら俺も願ったり叶ったりだなァ。羽田や陛下の話はナリタのよりずっと面白いからねェ。げらげらげらだ」
「ウッゼ、クソウッゼ。おい、あんさ、なに、このクラスまともなやついねーの。もっとこう、慈愛に溢れたまともな人間がさ、居ンだろフツー」
「やだ!? うそ、まとも!? やだもー、まともだったら私の十八番だよ! 誰からも真面目だまともだって言われて育てられてきたからね、一回レールを外れるとガキンと逝っちゃう脆さはあるけど、それもまた山科京という存在の一面ではあるよね! 自愛に溢れるまともさだったらむしろ私が世界一だってギネスブックに載ってるとか載ってないとかって話もあってね、あ聞きたい? 私が人生で唯一まともさを遺憾なく発揮した出来事! 聞きたい? 山科京まとも伝説聞きたいでしょ!」
「おい、おいそこのアッパー女、俺はまともなのを探してたんだけど。耳掃除しろ耳掃除」
 誰もその対極を持ってこいなんて言ってねーっつの。
 で、なんか結局いつもの面子が集まってるし。暇か、暇なのか。俺と無関係なところで暇つぶししてりゃいいものを。
「あんさ、なァお前らさ、人がせっかくこっそり入場してきたってのに、お前ら寄ってきたせいで注目集めまくりじゃねェかブッ殺すぞコノヤロウ。奪うな、俺の平穏な時間を奪うな」
「あ、山科山科、なんかぬり田がすごい聞きたそうだからその伝説思いっきり話してあげていいよ。うん、ざっと7兆時間くらいで」
「いやだから聞けよ人の話。つかおいコラテメ、なに余計な――」
「うっそたった7兆時間とかそれなに山科京最強物語をダイジェストにしろってこと!? それひどいよどのくらいひどいかっていうと源氏物語を30分アニメにまとめるくらいひどいよね! あちなみに源氏物語のヒロインって全部山科京を別々の方面から見た存在って説もあってね、やだもーどうする!? 山科京多重ヒロイン説どうする!?」
「……おい、おいそこの腹黒。お前責任取んだろーなコレ、あ?」
「嫌に決まってんじゃん。あ、そろそろ次の授業始まっちゃうから支度しないと」
「だなァ、俺も次の授業の準備しないといけないんでね」
「テメおいコラ、次の授業って次は朝のHRじゃねえか、何の準備が必要だってんだブッ殺すぞコノ――」
「ほらイライラしちゃだめだよ、そんな言葉使っちゃ駄目だよああもうイライラするな、ナリタでもヌリタでもなんでもいいじゃんどうせ似たようなもんなんだし、相変わらず目つき悪いしね、ほら気にせずわっしょいわっしょい! 源氏物語わっしょい! ロリコンわっしょい!」
「あーもう世界が平和でありますように世界が平和でありますように!」
 まだ始業の鐘も鳴ってないってのに、もう早退したくなってきた俺だった。
 いややっぱどう考えたって向いてねーだろ、成田隼人に学園生活はさあ……。






       ○  ○  ○






「ありがとうございました、っと。はぁーっ……」
 鐘の音、号令、そしてそれに続く教室の退室とともに撃沈し、息を吐く。
 頑張った。俺は今日も頑張った。夜間工事で疲れた身体に鞭打ち、更に精神までとことん追い詰める。そんなこと、きっと俺にしかできやしまい。
 だがそこはハードボイルド、自らの優秀さを露骨にアピールすることはしない。それはそう、町一番の荒くれ者を一撃で仕留め、歓声の上がる中で平然と去っていく西部劇のガンマンのように。
 俺は目の前の物事に対処したまでのことさ。愛銃のリボルバーをホルスターへと落とし込む。
「俺は目の前の物事に対処したまでのことさ」
 形而上の帽子のつばを直しつつ、机の上に転がっていた筆記用具を鞄の中へと落とし込む。
「え、ぬり田なに達成感漂わせて帰り支度してんのさ。まだ1時間目が終わっただけじゃん」
「……」
 目の前。
 休み時間突入直後だというのに、わざわざ人の席まできてハードボイルドにいちゃもんつける小娘がそこに居た。てか、いるなよ。
「てか、いるなよ」
「なんだと」
「へぇ、もうお帰りとはずいぶん素行不良になったもんだなァ委員長? あァ、それともあれか、ホームルームで言われたことを律儀に守ろうとしてるのかねェ」
「うっせ。来んな、お前まで俺の席に寄って来んな。だいたい不良とかテメーには言われる筋合いねえぞコラ」
「あ、そういえば先生言ってたね。駅の向こう側で夜遅くまでたむろってるうちの学生が居るって苦情があったとか。だから早く帰りましょう、だったっけ? そんな、小学生じゃあるまいし」
「はン、おおかた朝のニュースで特集組まれたときに、地元警察がビビってこのあたりの学校全部に通達出したって所でしょう。ま、実際全国ネットに映ったやつが居なかったとも限らないけどねェ」
 にやにや。いつもはふらっふらしてる糞カラスの視線がこっちに向く。
 んだコノヤロウ、夜中にうろちょろしてるのはテメーも同じじゃねえか。むしろ俺は勤勉なアルバイト学生様だ、橋の下に陣取って太鼓叩いてるコイツのがよっぽどご近所の皆様の迷惑ってもんだろう。まして珍妙な取り巻きまで引き連れて。
 テレビで放送されたマヌケはきっとRなんたらとコイツに違いない。おかげで俺みたいな善良な一般市民がいい迷惑だ。職質の強化なんてされたらどうすんだブッ殺すぞコノヤロウ。
「もう、やめてよねホント。ぬり田が捕まったとしても、ニュース映像で流れる字幕は羽田鷹志なんだからさ。もう法律で守ってもらえる歳でもないでしょ」
「いや、ねーよ。警察のお世話になるようなことは一切してねーよ。どんだけ不良キャラなんだよ俺。むしろ近年まれに見るイイコだろ、テレビで特集組んだら全米が泣くくらいの真面目な勤労学生だっつーの」
「えー。むしろ勉強ほったらかしてバイト三昧の学生って感じじゃない? いまの1時間目の授業の内容だって、理解してたか怪しいもんだよね」
「あン? 何言ってんだ明日香、別に怪しくなんてないだろ。理解なんてしてないに決まってるでしょう。あァ確か、ファルコンってのはかしこさの初期値も伸びも抜群に低かったねェ。げらげらげら」
「ちょーちょーお前らさ、勝手に人の能力決めつけて馬鹿にするとかやめてくんない。ちょっぴり勉強ができるからって、おうコラ、xの答えが3だろうと4だろうと一銭にもなんねーじゃねえか。そんだったらラチェットの使い方のがよっぽど役に立つっつーの。おう、ラチェット知ってっかラチェット」
 失礼にも人を馬鹿扱いするこいつらに、ぐいぐい、とボルトを締めるジェスチャーを見せてやる。xがなんだyがなんだと言ってるスネかじりには分かるまい。これが男の労働ってもんだ。
「でもそうなると期末とかどうしよう? ぬり田に突破できるのかな」
「そン時は留年でも退学でもすりゃいいんじゃねえの。どうせ受験なんてしないんだろうし、とすれば学園卒の学歴なんてどうだっていいでしょう」
「うっわ、できる人の他人に対する放言ほどひどいもんはないよね」
「……いやいや、あんさ、あんさ、どう考えても人の話聞かないほうがひどいだろ。人の机に寄ってきておいて本人ガン無視とかホント何なん。おう、ちょっぴり寂しいじゃねえかコノヤロウ。っつか散れ、俺に用がないならさっさと散れ」
 そして俺に疲労回復の時間を与えろ。しっしと手でカラスと小娘を追い払って、ぐでっと机に倒れ込む。俺は疲れてるんだ。バイト的な意味でも、授業的な意味でも。
 しばらくしてやかましい連中の気配が遠ざかり、長くない休み時間、その残りを俺はぐっすり眠って過ごしたのだった。
 ……いや、結局眠れたのは三分かそこらだったけど。






       ○  ○  ○






 タカシや鷲介の記憶が少なからず残っているとはいえ、そんなもんには限度がある。勉強で俺の手助けをしてくれるにはほど遠い。だいたい俺は事務作業になんか向いてやいないんだ。
 だから普段の過ごし方なんてのは、おのずと結果に出てしまっていた。
「ちょー、ちょーちょー。目ぇ覚ませぬり田。さっきの号令は寝言かー?」
「んだよ、っせーな……。あと呼ぶな、俺を変な名前でふぁあ……」
「あ、あくびちょっと可愛い」
 2時間目の休み時間。計100分を超える重労働に対する休養を妨げたのは、またしても件の女の声だった。よほど暇らしい。
「いや暇なのは結構だけどさ、疲れてるんだから無理矢理起こすのほんとやめてくんない。俺はお前らと違って働いてンの、テメーの食い扶持はテメーで稼いでンの。おう、睡眠妨害すっと成田工務店に対する損害賠償請求すんぞコノヤロウ」
「でも羽田君はちゃんと真面目に授業出てたよね」
「いやまァ……」
 痛いところを突かれて、がしがしと後頭部を掻きむしる。
「で、何か用なん」
「用がないと来ちゃいけない? ぬり田君と私の仲じゃない」
「赤の他人か」
「いや、恋敵」
 は、と途端に鼻息が漏れる。恋敵。笑える表現だ。こういう言葉を選択できる強さは正直言って嫌いじゃあない。
 腕で組んでいた枕を崩して、身体を背もたれに預けなおす。
「じゃあなに、お前ン中の恋敵ってのは、休み時間に仲良く雑談するもんなの」
「そんなわけないじゃん。これ単なる嫌がらせだから。悪いけどこの先ずーっと、ちくちく責め続けるよ」
「うわ……」
 ウゼェ。ものすごくウゼェ。
 しかもどっかで聞いたことありすぎる台詞でウザさ三割増しだ。コケコケ。頭の中でニワトリが一鳴き。
「ま、それはそれとして。今日の放課後、ちょっといい?」
「あ?」
 結局用件はあるらしい。
 どうせロクでもねえ用件だろ、なんて考えが顔に出たか、すぐさま自称恋敵は言葉を繋いだ。
「いや実はさ、”羽田君”と約束してたんだ。ぴこぴこ屋さんに行こうって」
「ぴこぴこ……? ああ」
 そういえばこの女、ゲームのことをそんな表現してたっけな……なんてことを思い出す。
 ぴこぴこ。ゲームに疎い俺でも、そんな表現が珍しいことくらいは分かる。
「……っつーか、は? え、おいコラ、まさか俺についてこいとか抜かすんじゃねェだろうな?」
 怪しい雲行き。睨み付けつつ先手を取るものの、慣れたのかなんなのか、眉一つ動かさずこくりと小娘は首を縦に振りつつ。
「あ、でも自惚れなくて良いよ、羽田君の代わりとかこれっっっっっっっぽっちも考えてないから」
「あァ? んじゃ糞カラスとでも行きゃいいじゃねえか。なんで俺の必要があンだよ」
「え? だって嫌がらせだもん」
「……」
 あっけらかんと言ってのける。
 このふてぶてしさ。死ぬほど鬱陶しいことも含め、やっぱりどこぞの兄貴を思い出さずにはいられない。誰か塩持ってこい、塩。もしくは顔にぶつける生卵でもいい。
「っつかさ、な? ちょっと考えれば分かんだろ、オウ、自分から嫌がらせとか言っておいて誰が喜び勇んでそんな誘いに乗るっつーんだよ。タカシの代わりを務めろってんならともかく」
「なに言ってんの。そんなことしたら私すごい嫌な女じゃん。羽田君の代わりなんてぬり田に務まるわけないし」
「おい。おいテメコラ、じゃあ何なんだよ。結局誘う気があるのか無いのか――あン?」
 いい加減話にケリをつけて寝ようとしたところで、こちらの話を遮るように机に上に差し出された一枚の紙片。視線を落とす。紙幣の類ではない。それよりずっと小さな紙切れ。形はもちろん若干違うものの、女の指で押さえられているそれは牛丼屋でよく見かける――
「チキンソテー&エビフライ定食」
「あ?」
「いやー、自分で言うのもなんだけど、私結構顔が広いんだよね。うちの学食ってすっごい混むんだけど、その混雑を”自主的に”管理してる生徒たちにも私のこと知ってる人が結構居てね」
「ふーん」
 なんだ? つまり? 釣られてるのか? 昼食で?
「いやお前らさ、どいつもこいつもなんで俺のことをそんなひもじいキャラだと思ってンの。貼んな、俺に貧乏レッテルを貼んな。おいコラ、ハードボイルドが昼メシごときでテメーの言うとおりになると思うな?」
「そう。ま、そう言うんならいいけどね」
 断ったというのに、残念そうどころかやけにあっさりと言い返してくる腹黒小娘。もう少し粘ると思ったんだけどな、なんて思いつつ食券に再び目を落とすと(うるせえな、別に名残惜しくもなんともねーよ)、紙片を押さえていた人差し指、すすすと動いて移動する食券、しかしその下には更にもう一枚の食券があって――――






       ○  ○  ○






「あんさ、あんさ、んぐっ、言っとくけどな、あぐっ、俺は別にメシに釣られたってワケじゃなくてな、はぐっ、そこまでする心意気をな、もぐっ、買ったわけであってな、んくっ」
「アーハイハイソウデスネ」
 昼休み。結局俺はどうしてもという小娘の嘆願に折れ、放課後の付き添いの対価をこうして受け取ることにした。こういうとき困っている人間を放っておけないところは、我ながらハードボイルドすぎて損な性格だと思う。世界が平和でありますように。
「惚れるなよ?」
 惚れたら火傷するぜ。形而上の銃口の煙を吹き、ふっと口からエビフライの尾を落とす。
「……え? どこに? 食いっぷり?」
「……」
 これだから小娘は。ハードボイルドの何たるかが分かっちゃいない。この学園では持て囃されているようだが、妖艶な色香の漂う女豹の女にはほど遠い。そんなことを思いながら、ずずずとスープを胃袋に流し込む。牛丼のおまけに付いてくる味噌汁よりはずっと美味かった。
 チキンソテー&エビフライ定食。話に聞く限りではこの学食で一番の人気メニューらしく、タカシもまたこの定食になにがしかの思い入れがあるらしいことはなんとなく理解していた。それはまた、こうして学食のテーブルで定食を食べるという行為そのものに対しても、だ。
「しっかし、こんな女のどこがいいんだか」
「おい。おいぬり田聞こえてんぞ」
「聞こえるように言ったンだよ」
 残ったサラダを頬張りつつ、座っているテーブルから学食の光景を見る。
 貸し切り日のヘテロと比較が出来るほどの混雑。狭くない食堂が生徒で溢れかえっており、パン売り場なんてのは入り口の方まで列ができていた。買うだけでも一苦労のこんな状況、こうしてテーブル席を確保できたのは、ひとえに目の前の女が不良崩れにちょっと声をかけたからにすぎない。
「学食の席取り1つに縄張り争いとか。アホくせえ。ガキかよ」
「でもぬり田、正攻法だったら絶対目立つじゃん。対外的には羽田君なんだから、やめてよね、羽田君の評判を落とすのとか」
「しねえよ。っつか充分目立ってんじゃん。なあオイ、これってお前的にはどうなの」
「あ、結構敏感なんだ? ぬり田君そういうの気にしないと思ってたけど」
「あァ? いやここまで露骨なら気付くだろフツー。まあ気付くだけで、んなイチイチ気にしねえけど」
 言って、ぐびっと水を飲み干す。失礼にも「やっぱそうだよね」なんて声が目の前から聞こえてきた。
 つまり、それは周りからの嫉妬だか驚愕だかなんなんだかを多分に含んだ視線のこと。話半分に聞いていたこの女の人気話だが、半分くらいは本当だったようだ。
 ちなみに残り半分は人となりに関する部分な。
「私としても不名誉だよね、羽田君以外のひとと恋人同士みたいに思われるの」
「ハァ? じゃ別にこんな目立つところで奢らなくても良かったじゃねえか。えなに、じゃなんでこんな席選んだん」
「え? 嫌がらせに決まってるじゃん」
「……おい。おい小娘」
「あーあ、羽田君と一緒したかったなー」
 あからさまな無視に、これみよがしの大きな舌打ちで返しておく。柳に風。この図太さ、やっぱり初顔合わせのときにこちらから目を逸らすべきじゃなかった。ナメるかナメられるかは初見で決まる。いくら不慮の遭遇だったとはいえ、あのとき目を逸らさずに上下を決定づけておくべきだったのだ。
「っつか、朝も言ったけど羽田君がどうとか大声で言うのほんとやめてくんない。それもなに、嫌がらせの一種なの」
 用済みになった箸を放り出し、満腹感に満たされながら足を組み換える。「うん、そうなの」なんて即答を予想したものの期待した反応はなく、挟まれたのはしばしの思案。それはまあ、ほんの一瞬のことだったけれど。
「半分くらいは嫌味だね、きっと」
「あそ。もう半分は?」
「もう半分は、ぬり田以外の人に向けた分」
「あァ? 意味分かんね。……いや待てコラ、つまりそれって俺に向けてる分は全部嫌味ってことじゃねェかブッ殺すぞコノヤロウ」
「うん。羽田君はそんなこと言わなかったよね」
「……」
 はいはい嫌味嫌味。俺が何ごとにも怒らない温厚なハードボイルドで良かったなクソが。
 心の中で自賛して、全ての皿が空っぽになったトレーを手に取り腰を上げる。食い終わってしまえば、ここでこれ以上の衆目を集める趣味はない。
「あーいや、食後のお茶でも飲むか」
 衆目を集める趣味はないが、茶くらい最後に飲んでいったっていいだろう。どうせセルフ、安物だろうが構いやしない。立ち上がりかけた身体を椅子に沈め直す。
「お、なになに? 私と一緒に昼食を取れる優越感にようやく気付いた?」
「あァ? アホなこと言ってないで、おうコラ、セルフの茶くらい奢った側が持ってくるのが当然じゃねえの。俺場所わかんねーし」
「いやいやそんな、ねえ? まさかハードボイルドを自称する人が可愛い女の子をパシらせるなんて、そんなことしないでしょー。あ、私は水でいいんだけどね。うん、場所は入り口脇を入ってすぐのところだから」
「……」
 あからさまな笑みとともにその場所を指し示すクソプリンセス。腹の中で笑っていることは分かっているのにその演技はなかなかサマになっていて、俺は舌打ちしながらも席を立った。頑固者の相手ってのは口答えするだけ損なんだ。そのことを俺はよく分かっている、悲しいことに。
「あ、持ってきてくれるの? 悪いね、なんか催促したみたいで」
「白々しい顔して催促した”みたい”とか言ってンじゃねーぞコラ。どうせ聞く耳持たない相手に頼むくらいなら自分で……って、まあそりゃいいやもう。で、水だな?」
「うん。あ、羽田君ならきっと、製氷機の氷も入れてくれると思うんだ」
「チッ! チッ! チッ!」
 我が儘放題の小娘に舌打ち三つを残して、俺は席を立った。






       ○  ○  ○






 右手に水の入ったコップ、左手に茶の入った湯飲みを持ってもと居たテーブルに戻ると、なぜか俺の座る椅子がなくなっていた。
「ま、結局んとこはさ、ジャーナリズムが体制監視たりえたのってポピュリズムに迎合するまでの話なんだよね。いかに大衆を惹きつける見出しを作れるかに拘泥しちゃってる時点で、その意義はもう終わってるんだよ」
 いや実を言えば、椅子はあった。
 ただそこに、見知らぬ男子生徒が座っていたというだけだ。しかもその後ろに「うんうん」だの「そうそう」だのと相槌を打つだけの生徒二名を引き連れて。
 取り巻き。そんな言葉が脳裏をよぎる。
「うわあ……」
 あからさまな厄介ごと。ぐだぐだと演説を流す男を前に、俺の運ぶ水を待っている女の顔は引き攣っていた。断じて笑っちゃいない。それでも露骨な嫌悪感をかろうじて隠す努力はしているのだろう、とこちらに推測させる程度には感情を押し殺しているような気がしないでもない奴の表情は、きっとあいつなりの空の飛び方なんだろう。
「どうすっかな」
 両手に持った2杯の飲み物。面倒ごとだ、速攻で踵返してシカトするという選択肢も確かに浮かんだ。あの女の交友関係がどうであろうと知ったことじゃない。夜中の柳木原ならともかくここは学園だ、どこぞに連れ込むなんてアホなことは相手だってしないだろう。
 しかし同時に、こんな野郎のために俺が行動を変えねばならないことに不満も覚える。セルフで汲んできたものを飲まずして捨てにいくのもアホらしい。
 ……しばらく傍観した後、結局俺はそのまま歩を進めた。
「ちょーちょー、そこ俺の席なんで。悪いけどどいてくんない」
「ああ?」
「あ、羽田君!」
 睨んでくる三つの視線と、いつもと声が違う女の呼びかけ。ああそうか、これが対外用の可愛らしい言葉遣いというものらしい。いつか本人が自分で言っていた使い分けのことを思い出す。
「えー、でもアンタ食べ終わってるんでしょ? じゃあいいじゃん、俺は明日香に話があるからさ」
 こっちはないんですけど、という素を丸出しの声は俺の耳にしか届かなかったようだ。
「いやいや、なんで人のごちそうさまを他人が決めンだよ。まだ残ってるっつの、おうコラ、スープのひとしずくだって飲めない恵まれない子どもたちのことを思えっての。食べ物を粗末にしちゃいけませんって習ったろ」
「はあ? じゃ食べなよ、別にトレーはいらないからさ。持ってっていいよ」
 男のその言葉に、ひゃひゃひゃ、と映画の悪役そのまんまみたいな笑い声が後ろの取り巻きから聞こえてくる。めんどくせえ。
「いやだからさ、な? 邪魔だからどいてくれって言ってんだけど」
 言いつつ、ここは俺の席だと主張するように飲み物2つをテーブルへと置く。
 瞬間、連中の目の色が変わった。なんて分かりやすい反応。
「ちょ、ちょっと成……羽田君っ」
「いやいやいや、あの羽田クンがどうしてこんなんなっちゃったのよ」
「ヤベーわ、マジヤベーわニュー羽田クン。噂には聞いてたけど、なに、何か吹っ切れちゃったん?」
「マジかよ、うっわ和馬クンの後追っちゃった? すげーじゃん羽田。メンヘラ羽田じゃん」
 取り巻きがやんやと騒ぎ出す。どうやらタカシやあのロンゲと面識があるらしい。どうでもいい。超どうでもいい。
 あえていうなら、友達は選びましょうねって話だ。
「で、どいてくれんのくれないの」
「いやさー、なあ分かんだろ、空気読めってマジで」
「ぎゃははは、そりゃ無理だろ! 羽田クンに空気読めとか!」
「なあ明日香、オマエいいのかよ。どーせ付き合ってないのに、こんな奴に偉っそうにさせてさあ。明日香と付き合ってるって噂流れてるからって調子乗ってるんだぜこいつ」
 得意げに話す中央の演説野郎。そうそう、なんて取り巻きが相槌打って、それに対して溜息で返すプリンセス。偉そうなのはどっちだよ、なんて声なき声が聞こえた気がした。
 そして周りを見れば、いい加減そろそろ注目を集め始めてもいた。これ以上は更にめんどくさいことになる。不満ではあるが仕方ない。お茶と水は諦めるしかなさそうだ。
「まいいや。どかないんなら帰るわ。おう、んじゃ行くぞ。あ、代わりにトレーとか返却しといてくれる」
 小娘に声をかけて離脱を宣言する。怒声を持って応えられた。
「するわけねーだろクソが! うっわ、もうマジ最悪だわ。なあ、もうあれじゃね、タムラ君呼んじゃってよくね」
「マジで! あーあ、もう羽田クン死んだわ。さっさと行ってりゃ見逃してやったのに。調子ブッこいてっからだぜコレ」
「あァ? なにが?」
「ぎゃははは、お前が死んだって話だよ! 和馬なんかと違って、もタムラ君はマジでやべーグループの幹部だから幹部! ……っと、噂をすれば。おーいタムラくーん!」
 取り巻きの片割れが食堂を横切る巨体に声をかける。
 っつか、いまどき『俺たちの後ろには○○君が居るんだぜ』って……アホか。昭和か。小学生か。
「おい明日香、タムラ君とかマジ洒落になんねーって。な、謝るなら彼のこともかばってやっから」
「えー。じゃあ言うけど、私は謝ってもかばってあげないよ」
「へ?」
 ようやく口を開いたプリンセス。その内容に演説魔が意表を突かれているうち、タムラ君なる巨漢はこちらへと近づいてきた。柔道あたりをやっていそうな体格。言われてみれば確かに、小山のボス猿に向いてそうな風貌だった。
「ちょちょちょ、タムラ君。こいつがさ、な、和馬クンのお友達だった羽田クンっつーんだけど、もプリンセスのカレシだーとか言って俺らのことナメくさってて――」
「……? お、おい……あんたまさか」
 その言葉はボス猿から。取り巻きの言葉など右から左、それよりずっと重要なことを見つけたかのごとく視線を俺に向けてくる。強面の顔には少なからずの驚きが読み取れた。はてタカシと面識があったのか、首を傾げる俺に向かって奴らのボスは口を開いて。
「まさか……ナリタ?」
「あァ?」
「へ?」
「え?」
「なんだと?」
 固まる俺たち。
 続いてヤツは、自分が”ツルコーの番長”と馴染みであると言ってきた――。






       ○  ○  ○






 きんこんかんこん、きんこんかんこん。
 教育機関だけがお国に許可されているかのごとくに特徴的な音を聞き終え、ようやっと本日のお勤めが終了した。
 正味300分の忍耐労働。報酬はなし。もしもこれに加えて休み時間の居心地も悪いとなれば、さすがに鳴や亜衣に同情めいた感情も沸こうというものだ。ぐっと伸びをすると、ばきばきと関節が5時間ぶんの溜息を漏らした。
「おつかれー」
 そうしてある意味夜間工事よりも疲れを感じる身体をほぐしていると、俺に比べてサッパリ疲れていないようなそんな声。なんだコノヤロウ。八つ当たり気味に目を向ける。
「――っと、まったく、花の放課後だっていうのになんてカオしてるかな君は。女の子が話しかけてるんだから、喜べとは言わないまでもさあ、もうちょっと愛想よくしたら?」
「あァ? 興味ねえよ、そんなん。あの糞カラスのがよっぽどだろ。説教するならあっちが先じゃねえの」
「あーいや、それはそれで比較対象が間違ってるというか、なんというか。先輩はもう見込みないけど、ぬり田はもうちょっと直しようがあるというか。あとは君いちおう対外的には羽田君なんだから、あんまり唯我独尊でもまずいんじゃないかとか。そう、それだ」
「いや、なにが”それだ”だよ。だったら少なくともお前相手に愛想よくする必要皆無じゃねーか、知ってンだから。ま、そうじゃなくてもんなことに神経使う気ねえけど」
 筆記用具を全て鞄に突っ込んで、立ち上がる。少しだけ感じる腰の痺れ。もう一度思い切り伸びをした。ぐいぐい。血が広がっていくのを感じる。
「まあ確かに今更だよね、ぬり田に愛想云々なんてさ。それはじゃまあ、置いておくとして。これからの用事、覚えてるよね?」
 覚えてなかったら7兆トンの重りで縛って東京湾に沈めちゃうぞ、というニュアンスを言外に感じる。言われて今思い出した、とは冗談でも言えそうな雰囲気ではなかった。
「知ってる知ってる、超知ってる。ゲーム屋だろゲーム屋。いや食った以上行くよ、行くけどよ、あんさ、俺マジで全然詳しくねーんだけど。行ってなんか意味あんの?」
「うん、ある。ってか買いたいソフト、教えてくれたのはぬり田だし」
「ハァ?」
 んなバカな。そんな話をこいつとした覚えもないし、そもそも俺はタカシどころか、もしかしたら鷲介以上にそういったものには詳しくない。ゲーム屋の場所だって、花水木通り周辺でなかったら記憶に残ってすらいなかったろう。
「それ、あれだろ。タカシに言われたのと勘違いしてんじゃねえの?」
「んー、まあそれならそれでいいけどね」
 視線を逸らしての煮え切らない返事。よく分からない。それだと俺、完全に買い物の付き添いだけになんだけど。
 マジで嫌がらせか。嫌がらせなのか。
「ホラ、じゃあさっさと行こう。暗くなる前に」
 言って、やつは促すように教室の後ろ扉から出て行く。だりい。大きく息を吐いて、腰をひねるために机に置いた鞄を再び持ち直す。軽い。けれど、足取りはずいぶんと重いままに廊下へと――
「おつかれッしたーっ!!」
「おつかれッしたーっ!!」
「――うおっ!?」
 そう、廊下へと出たところで、迎えてきたのはウザいくらい暑苦しい挨拶の声が二人分。
 ててテメおいコラ、ビビビっちまったじゃねえかコノヤロウ。ブッ殺すぞココヤロウ。
「……って、あン? お前ら確か」
 いきなり体育会系全開の挨拶をかましてきた二人に、俺は見覚えがあった。というか昼休みに見た。人のことをメンヘラとか抜かしてきた小ザル二匹だ。
 しかしはて一体何か用なのか。問い質そうとすると、俺より先に廊下に出ていた小娘が俺の代わりに口を開いた。
「で、どうしたの? 羽田君に何か用?」
 ちゃっかり1オクターブ高いあたりが腹黒らしい。
 俺でなくやつらのプリンセスが対応したからだろう、殊勝な態度を崩さぬまま、少しばかり出てきた余裕で取り巻きの片一方が事の次第を話し出す。
「それがその、実は――」
 ……そうしてちらっちらとこちらの(特に俺の)機嫌を伺いつつの説明を聞いてみれば、つまり何のことはない、ボス猿に「いかにナリタがすごい人物か」を吹き込まれたとのことらしい。
 ナリタハヤト。柳木原を牛耳るカリスマエンペラーが率いるグループ連合の幹部クラスで、数多の武闘派を擁するアンコモンのLRにすら蹴りを入れる度胸と地位。あの皇帝から自由な行動を許されている数少ない人物なうえ、鶴工番長が”先輩”と呼ぶことからして”あの”番長よりさらに偉いらしい。それだけのやつだ、逆らったらまず殺される。
 ……とまあ、そんなことをタムラ君とやらの語り口を織り交ぜて、二人の小ザルは長々と説明してくれた。
「――いやでもホント、羽田クンがそんなすごい兄貴持ってたなんて知んなくて! いやほんとサーセン、まじサーセンっした!」
 へこへこへこへこ。バネでも入ってるのかと思うくらいの頭の下げっぷりに俺としても言葉がない。いや柳木原なんちゃら団のことは嘘800だけど(っつーかエルアールだのバニィデーだのって誰だ?)、いかに俺が凄くて本当のことだろうとそこまで言われては気が引ける。でもすんな、俺をあのニワトリと一緒にすんな。
「ふうん。ま、事情は分かったけど、お兄さんのナリタハヤト? さんがどれだけ悪い人だとしても、羽田君は優しいから。ね、羽田君?」
 話を聞き終えた1オクターブ+の腹黒が、わざと成田隼人のイントネーションを崩して俺に問いかけてくる。さりげなく送られてくる視線は笑いを堪えているのが丸わかりで、目つぶしピースをつきつけてやりたくなった。
 いやまあボス猿相手に「ナリタは羽田君のお兄さんの名前だ」ととっさにフォローできたのはその腹黒さのお陰でもあるので、あんまり強くは言えないんだけども。
「……まァ、なんだ。今日みたいにウザったいことしなけりゃ、別にいいんじゃねえの。ナリタハヤトは超ハードボイルドだから、おうコラ、ちょっとくらいのことで怒ったりしねーからマジで。それよりホラ、お前らこんなとこ居っと邪魔だから、な? 帰れ帰れ。別に告げ口したりとかしねーから」
 やつらが一番欲しがったであろう言質を与えて、しっしとハエを追い払う。「失礼します!」「っした!」なんて直立不動で礼をしてからダッシュするさま、たとえこの場限りの猫かぶりだったとしても、暑苦しくてたまらなかった。そういうのはケンゼンな部活動の場でやってくれ。
「やーさしぃー」
「あン? いやだから最初っから言ってんじゃん。超優しいから俺。ハードボイルドだてらに、道端に捨てられた子犬とか見捨てられないタイプだから」
「いやそれ普通だし。羽田君なら噛みついてきた野犬に謝るくらいのことはするよね」
「あァ……それは……どうなんだ」
 いくらタカシでも、と思う反面、あのタカシなら、とも思えてしまってなんとも言えない返事になってしまった。いやでもどのみちハードボイルドとはさすがにちょっと違うだろう。
「ま、先輩がインテリヤクザだから、このぶんだとぬり田はそっからインテリを抜いた感じだね」
「おい。おい腹黒、なんでインテリ抜く必要があンだよ。ちょっとお勉強ができねーだけだっつの、バリクソインテリジェンスだっつーの。っつかお前それじゃただのヤクザじゃねえか」
「えー。じゃあ……バカヤクザ?」
「おい」
「あ、ネットで見たんだけどね、インテリの語源は知識階級のことで、知力そのものを指しているわけじゃなかったらしいよ。ま、ぬり田にはどのみち当てはまらないけど」
「いやだから――」
「さ、それはじゃあそれでいいとして、さっさと行こっか。山科も先輩もさっさと居なくなっちゃうんだもんなー、居れば誘っても良かったんだけど」
「おい、だから聞けって人の話。何がそれでいいだ、よくねえよ、全然よくねえよ。俺はバカでもヤクザでもねーぞコラ」
 言い咎めるも、こちらの様子などどこ吹く風で昇降口へと歩き始めるクソ娘。人に頼み事をしておいてこの態度、ほんとにどこぞのお姫様のつもりか。いくらあのセンザンコウ好きな小娘だってここまでフリーダムでは――
「……」
 あ、いや、なんだ、まあその、あるからな、鳴にも体面とか名誉とかってもんが。
「ほら、何やってんの。早く行くよー?」
「へえへえ」
 ナチュラルに命令を下してくるお姫様。がしがしと後頭部を掻きつつ上辺だけで頷いて、俺たちは一路、駅向こうにあるゲーム屋へと足を向けたのだった。






       ○  ○  ○






 ウイングクエスト。
 二人がかりでゲーム屋じゅうを探した末に手に入れたのは、そんなタイトルのRPGだった。
 いまから3世代も4世代も前のゲーム機用として開発されたゲームソフト。俺ですら聞きかじったことのあるその大作シリーズの初代を、渡来明日香は欲していたらしい。
「ありがとうございましたー」
 埃の被りかけた在庫を二束三文で売りさばいた店員の声に押され店を出る。夕日は既に地平線の彼方。街灯がつきはじめたグローブ街のただ中で、俺たちは当て所なく歩き出した。
 ウイングクエスト。ああ確かに、その名前をこいつに教えたのは俺だ。かすかに残る記憶の残滓。よもやそれがタカシや俺たち関係しているとは、その時の俺は思いもしなかったけれど。
 チキンソテー&エビフライ定食より安いそのソフト。そんなものをこの女が求めた理由を、俺はようやく理解しつつあった。
「ま、あって良かったんじゃねえの」
 たいして綺麗でもない中古のソフトを大事そうに抱える小娘に、そんな言葉を投げかける。大作とはいえ十年前の代物だ、ゲーム屋にないことだって充分考えられたはず。もし売ってなかったら電車で移動する羽目になりそうだったことを考えれば、見つかって良かったというのは俺にとっての本音でもあった。
「ふうん。グレタガルドに聖騎士ホーク、かあ……。あ、これがホークかな?」
 箱の裏を見ながら、何かに思いを馳せるように。ちらりと見ればパッケージには説明書きとともに、主人公らしき男の絵も描かれていた。中世ヨーロッパのファンタジー。現実にあれば興奮するようなそれも、商品として見るとその古くささに滑稽さすら覚えてしまう。
「そんで、なに。そのゲームをどうする気なん」
「どうってそりゃ、ゲームだもん、やるけど……なんかそういう聞き方、他意があるみたいに聞こえる」
「そりゃあんだろ。なけりゃおかしいだろ。わざわざそんな昔の掘り出しておいてさ」
 聖騎士ホークの冒険譚。今では使い古された物語を手に入れて、一体この女はそこに何を求めるというのか。
「……なに、もしかしてまだ殴り足りなかったりすんの」
「どうだろ。でもそれってただの憂さ晴らしになるよ、前と違って。それでもいいなら殴るけど。むしろ殴りたい」
 アホか。誰が好きこのんでサンドバックをやるかっつーの。
 けどだったらなんでわざわざウイングクエストなんか。俺の当然の疑問を、お姫様は鞄に商品をしまうことで黙殺した。シカト。ガン無視。分かっていてのそんな行動は、都合の悪いことは聞こえないふりをすると公言しているどこぞの小娘によく似ている。
「さて、と。いい時間だし、なんか食べてく?」
「あ? え、奢ってくれンなら食うけど。超食うけど」
「や、奢るわけないし。……あーあ、ぬり田相手なら平気で誘ったりできるのになあ」
 俺に向けたというよりは、どちらかというと独り言の類。あるいはそう、半分は俺に向けた嫌味で、もう半分は俺でない”誰か”に向けての言葉なのかもしれない。
 返事をするのもアホらしい。グローブ街を大通りに向かって歩き続ける。長い髪を揺らしながら女は話を続けた。
「ほんと、なんで気付かなかったんだろうって思うよね。それと、どうして気付いてあげられなかったんだろう、とも」
 暗い夜空を見上げる小娘。愚痴が続きそうだったから口を挟んだ。
「知らねえよ、んなこと。後悔すんなって言えたギリでもねえけどさ、でもさ、いつまでもそんなん考えててどうすんの。言ったろ、タカシは――」
「羽田君は帰ってこない、でしょ。知ってるよ。超知ってる。だからこうしてゲーム買ったんじゃない」
「あン?」
 言って、鞄から取り出し再び俺たちの原典を見せつけてくる。相変わらず古臭いパッケージ絵。俺個人としてはそう喜べたものでもない。
「分っかんないかなあ。ま、乙女心に理解がありそうには見えないけど」
「うううるせーよ。いいんだよ、ハードボイルドなんだよ俺は。おうテメコラ、だいたい乙女心持つオトメでもねえだろ、お前自身」
「えっ? そんなことないよ。うん、まあ、普通かな」
「どこがだよ……」
 こんな腹黒が普通の乙女だっていうんなら、誰だって乙女になっちまう。そう、それこそパルさんだって――
「……」
 あ、いや、なんだ、まあその、あるからな、パルさんにも恥じらいとか自覚とかってもんが。あと歳。
「いやまあ羽田君もそういう機微には鈍かったし、これは生まれつきかもね。目つき悪いのは違うけどね」
「すんな、俺を分析すんな。っつかおいコラ、最後の何の脈絡もねえじゃねえかブッ殺すぞコノヤロウ」
「え、脈絡あるよ。だってほら、目つき悪いじゃんファルコン。この絵絶対ファルコンだよ、目つき悪いしね」
「うるせえよ、聞いてねえよ」
 勇者らしき主人公の横に立つ人物を指差し、しきりに訴えてくるクソプリンセス。だったら後ろの方に描かれてる悲哀の姫様なんてお前には欠片も似てねえっつの。むしろ世界征服を企む悪の魔王がお似合いだ。腹黒そうなところとかな。
 そんなことを考えて歩いているうち、足はグローブ街を抜けて花水木通りへと入っていた。雑多な吹きだまりからケンゼンなストリートへ。当然のように駅の方へ曲がろうとすると、小娘の足がぴたりと止まった。
「うん、じゃあ、今日はこの辺でかな」
「あ? なに、いいのこんなハンパなとこで。駅までくらい行ってもいいけど」
「いいよ、私どうせ電車乗るわけじゃないからね」
 そういえば、とおぼろげながらこの小娘が柳木原で独り暮らししていることを思い出す。スカイピアに住んでるどこぞのオランダ帰りほどではないだろうが、こいつもだいぶ金持ちそうだ。チクショウ。
「ぬり田も帰るわけじゃないんでしょ? だったらここで別れちゃった方が楽じゃん」
「ん、まァ別に決めてたわけじゃねェけど……。目的は果たしたんだし、そうな、それならそれでいいか。おう、んじゃ気ィ付けて帰れよ?」
「そだね、目つき悪い人に絡まれたりしないようにしないとね」
「うるせえよ。っつかテメコラ、見かけで人を判断しちゃいけませんって小学校で教わったろ。ちょっぴり目つきが悪くても心清らかなハードボイルドは居るンだよ」
「うん、知ってる」
「あ?」
 返答に思考が呆けた隙間、小娘が数歩駆けだした。とんとんと左右に跳んで振り返る。
「今日はありがと」
「は?」
「そんじゃね」
 その言葉、浮かぶ表情はわずかながらの笑み。しかし連発された予想外に俺の口は反応しきれず。
 言葉を投げかけるより先、プリンセスはくるりと踵を返して雑踏の中へ消えていった。
「……ヘンなヤツ」
 遠のく背中に投げかけて、頬の裏を舌で突っつく。
 結局俺はゲーム屋に付き添っただけだ。与えるような知識もない。手に入れたのは対価たる食券となぜか言われた感謝の言葉、それに――
「昔のゲーム機なんて、うちに残ってんのかね」
 なけりゃ持ってる奴に借りればいい、なんて思いつつ学園の鞄にしまった”ソレ”を取り出す。古臭いパッケージ。定食の食券より安いその値札。決して綺麗とは言えない保存状態。
 俺たちはきっと、そこに”聖騎士ホーク”の夢を見る。もちろんそれは、グレタガルドという異世界での出来事だけど。
「ん、じゃあな」
 半分をプリンセスへと呟いて、俺はそのまま駅と反対の方向に足を向けた。呼んでいるのは金色のグロリアスではなく、クレープまみれのピンク色。今日も来るだろう小娘に挨拶をしてからだって、夢を見るのは遅くない。
 世界が平和でありますように。誰かが願ったそんな思いを胸に秘めながら、俺もまた足取り軽く夜の街にその身を沈めたのだった。







       ○  ○  ○



















「ちょっ、えっ、ドラッ!? ああ、そういやソラ学の学生とか言ってたっけ? いやいやいや、よく似合ってるようひひひ」
「……テメコラ、めっちゃ笑ってんじゃねえかブッ殺すぞコノヤロウ」


++++++++++


Short Story -その他
index