We DID to go.

[a reaction from an observer]
 がたんごとんと定期的に刻まれる振動に揺られ、はや小一時間といったところ。窓の外を流れる空は柳木原を離れるに従いどんどんと広くなっていき、この列車に乗り継いでからは地平にぽつぽつと緑が混じり始めている。彩の国、とはよく言ったもの。灰色まみれだった頃とは駅と駅の間隔も長くなり、まるで都会のそれが詐欺であると訴えるかのように、僕らの乗っている列車はまさに”快速”で北へとひた走っていた。
「空、広いねえ」
 そうして後ろから、声。振り返ると他称”びっくりするくらい綺麗な”顔がそこにはあって、そこでようやく僕は自分が今までぼうっと外を眺めていたことを悟る。つい、うっかりしていた。それでも僕が口を開くより先、彼女は微笑みながら言う。
「やっぱり柳木原とはずいぶん違うね。空気が澄んでるって感じ。小鳥さんたちも元気そうだ」
 心底感心した声音。そうだね、と頷いて、二人して再び窓の外へと目を移した。
 思ったより――あるいは思った通りと言うべきか――外の景色、その雰囲気への感慨はない。豊かな自然、若干の寂れ、駅前に一軒家が建っていることや商店の少なさへの驚き。そんなものは都会近郊で育った人間が郊外を実際に目にしたときに感じる通過儀礼みたいなもので、興味深さを感じることこそあれ、それ以外の感情が自然と湧いてこないのが拍子抜けといえば拍子抜けだった。
 向かう先は埼玉のとある町。
 そこは僕が――羽田鷹志がかつて住んでいたとされる場所。
「今日は額、つけないんだ?」
「そりゃあ、今は息苦しくなんてないからね」
 軽い口調に笑って返す。隣に渡来さんが居る。そんな境遇で息苦しいだなんて、そんなことありえるはずがないじゃないか。
「ふーん、それはあれ、隣に私が座ってるから?」
「うん、当たり前じゃない。渡来さんといっしょならどこへだって行けると思うし」
「えっ、あ、うん、自分で言わせたくせしてあれなんだけど、真顔で言われると恥ずかしいよねさすがにね。嬉しいけど。なんちゃって」
 あはは、と少しばかり赤くなって渡来さんがいっそう笑う。彼女が嬉しいなら僕も嬉しいし、それが僕自身とのことについてなら尚更だ。
 でも、僕が言ったことはどこまでも本心で、そしてだからこそ今日はこうして渡来さんと二人、長い時間電車に揺られ続けて目的地へと向かっているのだ。
 羽田鷹志――タカシではなくヨージと、本当は読むらしい――が育った世界。僕自身も確かにそこには住んでいて、かすかな記憶は僕の頭にも残されている。いまよりずっとずっと、グレタガルドの色が濃かったあのころの僕。いまとむかしでは、時間の流れ以上にその場所の見え方が異なっていることだろう。
 ……ずっと見ないようにしていた。今はそれをなんとなく自覚できている。
 渡来さんといっしょならどこでも行ける。それはつまり、辛い場所に行くのなら僕には彼女が必要だということだ。そしてそれは彼女もとうに分かっている。だからこそ道中の旅費を全て僕が持つと言ったとき、彼女は口を挟まなかったのだろう。
 それに対し、僕は期待に応えることでお礼にしたいと考えている。ついてきてくれてありがとう、では僕の単なる傲慢だ。彼女の望むべき結果で応えてあげられてこそ、お礼になるというものじゃないか。
「あ、そだそだ。余裕あったらと思ってアレ持ってきたんだけど、見ていいかな? ボックスシートだし、いいよね?」
 そうして僕が再び考え事に傾き始めると、彼女は彼女なりの照れ隠しなのか、そう言って隣で鞄をごそごそと漁り始めた。少しばかり中を整理した後、ぐい、とやや窮屈そうに引っ張り出してきたのは、見覚えのある四角形。
「あ、それ、卒アル?」
「そそ。もう何度見たか分からないけど、私たちの努力の結晶だもんね、もうちょっとばかしは誇りと郷愁を胸に眺めていたってバチは当たらないよね」
「あはは、大げさだよ渡来さん。うん、でも、いいと思う。針生さんや山科さん、渡来さんの頑張りのお陰だよ。高内さんたちも満足してくれてたみたいだし」
「え、ああうん、そこで高内の名前を出すのが羽田君だよね……。ま、とにかく見よう見よう。んしょと」
 言って、ぐっと身を寄せてくる渡来さん。お互いの膝に載るようにして卒業アルバムを開く。長い髪が僕の頬に触れるとともに、渡来さんの香りが僕の鼻をくすぐってきた。ボックスシートで誰にも見られないだろうに、妙な気恥ずかしさを覚えてしまう。やっぱり彼女は、反則だ。
 僕はそんな動揺を悟られないようにしながら――だって渡来さんは、そういう僕を見るといつだってからかってくるんだ――渡来さんといっしょに卒アルのページをめくり始める。努力の結晶。一時は存在意義すらかけたそのアルバムは、やっぱりいつでも新鮮だった。
 がたんごとん。半目になってる渡来さんの写真に、いつものように笑いつつ。
 列車の旅はもうちょっとだけ続きそうだった。





       ○  ○  ○





「……あ、渡来さん。そろそろ着くみたいだね」
「あれ、もう?」
 僕の声に応じて、渡来さんが窓の外に目を向ける。流れる景色はそのスピードをだいぶ落としていて、停車駅がもうすぐ近くだということは一目見てわかったはずだ。少しばかり遅れて、その旨を伝える車内アナウンスが流れ出す。
「やっぱり羽田君とだと退屈しないね、するわけないね。名残惜しいけど、そろそろ降りる準備しなきゃだ」
「うん。聞き終わらなかったのはちょっと残念だけど」
 言いつつ、渡来さんと片っぽずつ――渡来さんは右耳、僕は左耳に――つけたイヤホンを取り外す。ようやく盛り上がりを見せようかという音楽が、口惜しそうに僕の耳から離れていった。
 そう。卒アルを一通り見終わった僕たちは、それから音楽をいっしょに聴いていたのだ。すぐ隣で同じ音楽を聴いているという共有感。なんともいえず心地よかった。
 アンビエントなんて、やっぱり渡来さんはいい趣味してる。僕も聴いてみてとても気に入ってしまった。渡来さんにそう伝えると彼女もすごく喜んでくれて、うん、だから、帰ったらアンビエント音楽についてよく調べてみようと思う。渡来さんおすすめの曲や作者も聞いたから、ネット通販で買ってみてもいいかもしれない。
「うん、やっぱり思ってた通りだ。羽田君なら気に入るんじゃないかなーって思ったの」
「それなら期待に添えたみたいで良かった。うちにはこういう音楽ってなかったから馴染みなかったけど、いいね、ゆったりしてて。渡来さんらしいとも思うよ」
「そう? 私、結構人からはイメージじゃないって言われるんだけどね。ほら、なんかポップ系のが似合うらしくって。蛎崎うにとかみたいな」
 そんなの似合わないと思うんだけどなー、なんて苦笑しつつプレーヤーをしまう渡来さん。本人が乗り気じゃないから言わないけれど、うん、彼女ならそういう音楽だってきっと似合うはずだった。
 ただアンビエントとどっちが似合うか、と聞かれたら、やっぱりアンビエントの方が渡来さんらしいとは思ってしまう。なんとなく、ではあるけれど。
「さ、それじゃ止まったみたいだし、降りようか」
 停車による軽い振動。鞄を手に、さっと立ち上がる渡来さん。所詮快速列車だ、新幹線のように何分間も止まっていてくれるわけではない。僕も急いで立ち上がった。
「羽田君、忘れ物ない?」
「うん、大丈夫。切符もちゃんとある」
 ポケットにいれた切符の感触をしかと確かめる。安くない料金。財布から奮発すれば賄えない金額ではないものの、今回はあえて≪通帳≫のお金を使わせてもらった。これはきっと、僕たちみんなの問題だと思うから。
「羽田くーん、降りるよー」
「うん、今行くよ」
 荷物を抱えて、出口へ向かう。
 不安はある。
 でも針生さんのように、爆弾を抱えたまま生きていけるほど僕は強くない。だから選んだ。いくら施設で”完治”したとしても、それをすべて崩壊させるような爆弾があるのなら、はじめからそれを取り除いてしまおうって。渡来さんといっしょならそれができる気がしたし、そうしなければならないのだとも強く思う。僕がこの先も、渡来さんといっしょに居るためには。
 うん、だから、勇気を振り絞って行こう。僕たちが買った切符を握りしめ、渡来さんにも聞こえぬように小さく呟く。窓の外、懐かしいと錯覚する、廃れた景色を眺めつつ。
「世界が平和でありますように」





       ○  ○  ○





 目の前に広がる、更地。
 電車で柳木原から小一時間、加えて駅から徒歩十分程度。田んぼだらけの車道沿いから一本入った所にあったのは、そうとしか呼べない寂れた空間でした。
 雑草が生い茂っているわけでもない、打ち捨てられた工場が残っているわけでもない、ビルが建つ予定がありそうなわけでもない。几帳面なほど綺麗な長方形で区切られた、まるで部屋の隅に置き忘れたおもちゃのように放置された空き地。数少ない目印からして、眼前に広がるこの光景が俺たちの目的地の一つに間違いはないようでした。
「取り壊された後、みたいっすね。それもだいぶ前に」
 地図の確認を終え、外れようのない確たる事実を口にします。明らかに何らかの、もっと言えば学校の類があったであろう大きな更地。そんなことはきっと地図も記憶もなくたって分かることでしょう。
 遮るものもなく、草木の香りを乗せた風が東の方へと吹き抜けます。かつては子ども達が踏みしめたであろう砂が少しだけ舞い上がりました。
「もしかして……小学校、ですか?」
 風に揺れる髪を手で押さえながら、隣に立つ女性――日和子さんが尋ねてきます。相変わらずこのひとは、なんて聡明なのかしら。俺は頷いて返しました。
「ご名答です、日和子さん。こんななりになってますが、むかし俺と小鳩さんが通ってた学校があったはずの場所ですよ」
「はず、ですか」
 言葉の端の引っかかり。さすがは作家様、という言い草は、たぶん日和子さんをばかにすることになるでしょう。
 はず。通っていたはず、の場所です。でなければ地図なんて必要ありゃしません。小鳩さんなら苦もなくたどり着けたかもしれません。なんとも言えない表情の日和子さんに対して、言葉を続けます。
「ここで思い出話とか、あの辺になにがあっただとか、そういう話でもできればよかったんですけど……正直、ほとんどないんですよ。ここで過ごした記憶って。悲しくないのが哀しい、って言うとちょっと文学的すぎるかもしれませんが」
 ふっと髪を吹き上げて、少しだけ気取った台詞を吐いてみます。ちなみに言葉とは裏腹に、哀しい、という感情すら持つことはありませんでしたけれども。
 なぜかって? 要するに、実感がないんです。ここで過ごしたという実感が。
「……」
 そうなんですか、と呟いて、彼女は何もないグラウンドへと視線を戻します。
 さて聡明なこのひとのこと、一体何を考えてるのでしょう。その目に映っているのは俺と同じく何の感慨も抱けない単なる広い空間なのか、あるいは自らがかつて卒業した学校のグラウンドなのか。さすがに判別はつきませんが、ああでもこうして憂い顔で更地を眺めてるだけで絵になるなあ、なんてことを考えるくらいには、俺にとってそれはどちらでもいいことでした。
「ま、なくなってたのは予想外でしたけど……実を言うとたとえ残っていたとしても、何を思い出すつもりもなかったんですよ、俺。だって千歳鷲介でなかったころの話なんて、誰も興味ないでしょう?」
 それはもちろん、俺と日和子さんも含めて、ですけれど。
 ああいやまあ、居るっちゃ居ますけどね、興味持ってる人。これはもう、彼には申し訳ないけれど、諦めてもらうしかありません。
「それでも鷲介さんはここに来たかったんですよね?」
 視線をこちらに戻して、日和子さんが再び尋ねます。そこには明らかに「ならどうして?」という疑問の意図が含まれていました。加えて眼鏡をかけての真っ直ぐな瞳、俺の中の誰かまでをも見据えているかのように感じられます。
 さてどう説明しようか。ちょっとだけ頭の中でまとめてから口を開きます。
「そうですね。ここに来るっていう、ただそれだけでずいぶんと勇気が必要でしたから。そしてだからこそ意味があると思いますし、それはここに来ても自分が自分でいられるって、そんな確信を得るためでもありました」
 確信を得るために必要だった度胸。もしかしたら日和子さんの他にも俺にくれた人がいるように思えてなりません。視線を落とし、右手をゆっくりと自分の意志で開閉させます。もう≪コックピット≫なんて呼ぶこともなく。延髄の辺りが少しだけ熱くなった気がしました。
 そうして自分の五指が思いのまま動くことを観察していると、横から白い手のひらがすっと重ねられてきて。
「あの……すみません、鷲介さん。決意は嬉しいですけど、でも私、そういう言い方してほしくないです。そんな、他の選択肢があるかのような言い方は」
「ん……そうですね、気を付けます」
 手を握り返すと、目の前の綺麗なお顔がふわっと綻んでくれました。たったそれだけで、俺はここに居ていいんだ――むしろ居なくてはならない、という思いを強くできてしまいます。お互い手のひらは少しだけ冷えていたけれど、それすらなんだか心地よく感じられました。
「ただ……そうですね、学校での思い出がないっていうのは、少し寂しい気がしなくもないです」
 言って、少しだけ表情を硬くする日和子さん。ああもう、なんて優しいひとなんでしょう。俺のそんな欠落を、まるで自分のことのように悲しんでくれておいでです。
「鷲介さんにはたぶん、分かりにくい感覚だとは思うんですけれど」
「そんなもんですかねえ。俺にとってはもう、アレキサンダーが生まれ故郷みたいな感覚ですけど――あっ」
「え、どうかしました?」
 小首を傾げる日和子さんの横で、けれど俺はある一つのことを思い出します。日和子さんにもまだ話していなかった俺の秘密。折角です、硬くなった表情と重い感じになってしまった空気をさっさと吹き飛ばしてしまいましょう。ええ、ええ、千歳鷲介、結局はそういう男です。これじゃ店長のこと笑えたもんじゃないですけどね。
「あの、何かあったんですか?」
「あ、いえ、そのですね、一つだけここの学校での出来事を思い出したので、つい」
「良かったじゃないですか。え、どんなことですか?」
 ああ、本当に自分のことのように喜んでくれてる日和子さんの笑顔がちょっとだけ痛い。
 でも嘘じゃないですし、俺の根幹に関わる秘密ですし、まあいいでしょう。なるたけ真面目な表情を作って重々しげに口を開きます。
「実はですね」
「は、はい」
「ええ、なんと俺、ここの学校のトイレで生まれたんですよ――――」





       ○  ○  ○





「ああ、この団地ですね。確か……あの棟だったかな」
「こっちは覚えてるんですね?」
「ええまあ。学校は俺の管轄じゃなかったですけど、家では千歳鷲介であることも多かったので」
 かつて学校だった場所を後にした俺と日和子さんは、すぐ近くの団地群へと歩きました。たったの5分。今からもう何年も前の、当時の通学時間です。学校の敷地から団地も見えたので迷うことはありませんでした。
「ただ、生家ではないみたいですけれど」
「それは……どういう?」
「施設から出たときに、実の両親の部屋から近くの親戚の部屋に移ったんですよ。俺が覚えてるのは後者のほうですね」
 だからここでの”思い出”は、千歳鷲介であるならいつだって思い出せた類のものです。あるいはまた、そしてだからこそ、ここではそれ”以前”との隔たりを強く感じ取れもしてしまいます。
 そう、それは例えば、俺がフリファに傾倒している理由。
 僅かな隙間から垣間見えた強烈な印象、という曖昧なイメージだけが焼き付いていて、その原体験を俺は有していません。
 きっと日和子さんは、フリファを知った・好きになったきっかけなんていうのを、よく覚えていることでしょう。対して俺はそれを全く知らないわけです。そして、知らないということを、記憶の欠落を、ここでは強く感じてしまう。
 大きな断絶が俺の頭の中で自己主張する。かすかに覚えている団地群は、俺にとってはそういう場所でした。
「小さい頃の鷲介さん、見てみたかったです」
 しかしそんな俺の空白をまるで見てきたかのごとく、日和子さんは団地におまけでついてるような公園を見て、くすり。どんな失礼な想像をしたんでしょうか。鉄棒から落ちる姿か、あるいは砂場で転ぶ姿か。なかなかに友人の少ない時分でしたが、外交官を自称するイーグルとしては、他の兄弟に比べれば必死で輪に入ろうと頑張っていたと思います。
「俺だって、昔の日和子さんを見てみたかったですけどね」
 返しの軽口。言ってみて、心底そう思いました。ああ、可愛かったんだろうなあ日ょ子たん。いやいまでもバリバリ可愛いですよ。ですけどね、ほら、いつからこんな真面目さんなのかなーとか、そりゃ色々と気になることはあるわけで。ちっちゃいながらも気を張っちゃってる日ょ子たんとか見てみたくない? 見てみたいでしょう?
「あの、鷲介さん。顔が店長みたいになってます」
「ウソ!? え、いや日和子さん、いまのコレ違いますよ、めっちゃアットホームな微笑みっすよ! むしろ娘を愛でる親みたいな笑みっすよ!」
「じゃあいいです」
「軽部鷲介は否定せず!?」
「だ、だって恥ずかしいじゃないですか。自分が小さいときを想像されてるって」
「いやまあ……」
 あなたから言いだしたんでしょうに、という言葉は喉の奥でとどめておきます。いやだって本気で恥ずかしそうなんですもん日ょ子たん。ええ、想像するなと言われておいてあれですが、おそらくはずっと昔からこんな感じなんじゃないでしょうかねえ彼女。不器用ですし、だからこそ可愛いなあと改めて思ってしまう次第であります。
「ただそうですねえ。俺たちはあの頃、まだそんなに安定してなかったんですよ」
「え……それは、その」
「いやいや、気にしないでください。もう過去のことですよ。こうしていま、日和子さんといっしょに居られているってだけで、あの時代に感謝してしまえるほどのもんです」
 言いつつ、話が長くなりそうなので近くにあったベンチへと腰掛けます。言うまでもなく隣に座ってくれる日和子さん。そんな暗黙のやりとりに、ことさら強い喜びを覚えました。
 公園の古ぼけたベンチ。そこからかつての自宅を見上げつつ、視界に入る長い前髪をいじりながら話を続けます。
「細切れになってる俺の幼少期の時間感覚とその記憶、さっきも言ったように、繋げるつもりはさらさらありません。こうして地元に戻ってきて、その思いはむしろ強まったくらいです」
「そう、なんですか?」
「ええ。さっき”確信を得るため”って言いましたけど、つまりはこういうことなんですよ。思い出しても受け止められる。そういう過去の克服のしかたもあるでしょう。けれどそうではなくて、思い出せないのだから受け止める必要がないっていう、そういうのもアリなんじゃないかと思うんです」
 それに、それが千歳鷲介――人の間をのらりくらりするイーグルの生き方ですからね、と続けて、胸の内ポケットにしまってある一通の封筒、その内容を思い返します。
 それは普段であれば興味ももたない、とある週刊誌のゴシップ記事のコピー。その号では特集を組んだのかやけに細かな記事が数枚のOA用紙となっていて、虚実織り交ぜた内容が読者の下世話な興味をかき立てるようにして長々と綴られていました。
 内容はわざわざ告げるほどのものではありません。もちろん、日和子さんにだって話していません。だって、そうでしょう? 戸籍の上でしか見たことのない肉親の名前と、テレビの向こうでしか見たことのない偶像が、紙の上での字面で交錯してようと、俺には――千歳鷲介には単なるニュースの一つとなんら変わりありません。そんなことなら日本経済について論じ合おうぜ、ってなもんです。
 ……ああいえ勿論、少なからずのショックはありました。でもそれは、あくまでフリファが大好きな千歳鷲介がショックを受けただけで、それ以上でもそれ以下でもなかったわけです。それが嬉しいことなのか悲しいことなのかは、ちょっと判別つきませんけれども。
「だからたぶん、俺がやりたかったのは事実を知っても体験を想起することができないという、その確認だったんです」
 思い出すことができない。いままでの――つまり統合する前のそれは、間違いなく防衛機制によるものだったでしょう。思い出せば崩壊する。剥がせないフリファのポスターがその象徴です。そしてあのときの千歳鷲介がこうしてかつての学校や団地を巡ったならば、さまざまな記憶がフラッシュバックしたことだろうと思います(そしてだからこそ、そうならないように機制がかかっていたんです)。
 けれどいまは違う。こうしてさまざまな過去の残滓を向かい合ってきたにも関わらず、それでも何も思い出さない。思い出せない。実感しない。
 それをある種の”克服”だと取るのは、決して間違いじゃないと俺は思います。忘却とも忍耐とも違う、敢えて言うなら”なあなあ”とでも呼べるそんな方法は、他の兄弟と完全に統合して――そして完全に別れたからこそなのではないかと。
「情けないと思いますか、日和子さん。逃げてるつもりは無いんですけどね、これでも」
 遠くを眺めつつ、隣の優しい彼女が慰めてくれることを承知でそう問いかけます。予想通り日和子さんは手を重ねてきて、俺の弱さを支える言葉を口にしてくれました。
「ええ、情けないと思います」
「そうですか、ありが……って、アレッ!? え、ちょっと日和子さん、ここは『そんなことありません』って言う場面ですよ! なにそんな、英里子さんみたいな冷たいお言葉!」
「はあ、紀奈子さんでもこう言うと思いますけど」
「あー、言いそう……あの人慰めとかすごい適当なときあるし」
 思わずうんうんと納得します。それにカケル君だったらプラス満面の笑みで罵倒してくれちゃいそうです。マスターもなにげひどいときあるし――
「いやいやいやいや、そうじゃなくてですね。いやそうじゃなくないですけど、それは置いておくとしてですよ? アッ、分かりました、あれですね、『それでも以前よりはずっと成長してると思います』ってな、俺たちは登りはじめたばかりだぜ的なオチですね! マーベラス! 素晴らしい! さすが、小説を書き慣れている女性は語り口が――」
「いえ、そんなつもりはないですけど」
「って、オイィィィ! なんすかそれ、マーベラス損じゃないですか! マーベラス言い損じゃないですか! あ、でもマーベラス返してくれなくてもいいですよ。ええ、日和子さんがマーベラスな女性なのは本当のことなので」
「はあ、どうも」
 思わずお互いに頭を下げあって、俺は立ち上がってしまっていた腰をゆっくりベンチに降ろしなおします。そのままだらーんとこうべを垂れて、思わず前面に迫っていた地面の”の”の字を書きました。いじいじ。
「え、あの、鷲介さん。話を続けていいでしょうか」
「はあ、別にいいですけど。更に突き落とす気ですか。ライオンの子どもがどんぐりころころ的な鍛え方っすか」
「違います! そうじゃなくてですね、えと、情けないと客観的には思いますけど、でも言ったじゃないですか。鷲介さんは自分で自分を不真面目なんだって。だから、思うんです。鷲介さんは受け止める必要がないと言いましたけど、そうじゃなくて、それが鷲介さんなりの物事の――過去の受け止め方なんだって。切り捨てる、というのもちょっと違いますけど、炎の上を歩いたり、滝に打たれたりすればいいというものでも、私はないと思いますから」
 垂れたこうべの上から降り注ぐ冷静な言葉。それはつまり、つまり――
「ひ……日和子さんっ」
「ひゃっ!?」
 思わず感極まって、”の”の字を踏みつけ日和子さんへとハグします。季節柄、ちょっとだけお互い冷えてましたけど、すぐにじんわりとした温かみに包まれます。あとついでに良い匂い。あとついでに良い匂い。大事なことなので2回言いました。
「ああやっぱりマーベラスです日和子さん! さすが、千歳鷲介を好きになってくれた日和子さんは包容力が違う!」
「ああああの、鷲介さん! 恥ずかしいです、こんな公園のど真ん中で!」
「いやいやすいません、つい感激してしまいましてハイ。でも誰も見てませんって。ホラ、ここに来るまでもかなり閑散としてましたし」
「見てるんです! あああ、ご近所の噂になったりしたら鷲介さんのせいですからね!」
 ぐぐぐ、と俺の身体を押し返して頬を真っ赤に染める日和子さん。ああ可愛いなあ、しかもそれでも名残惜しいのか手だけは繋いだままでいるあたりも最高に可愛いなあチクショー。だいたいこの辺のご近所でうちらのこと知ってる人なんていないんですから、噂もなにもあったもんじゃないっていうのに、恥ずかしさでそこまで頭が回らない日和子さんったらああもう可愛(略)。
 と、いうことで日和子さんのいう通行人がどこにいるのかと視線をくるっと回してみます。ああいえ、決して良いムードに水差してくれちゃってこのやろーと思ってるわけじゃないですからね。断じて。うん。きっと。
「――って、あ、いた! あの赤い軽のところにいる女の人ですね! うちらの仲を邪魔した不届き者は!」
「ああいえ、そこまでは言ってませんけど……」
 言い淀む日和子さんの向こう。それは、学校の隣の敷地にある駐車場でした。赤い軽自動車からベビーカーを降ろしている、上下ともスウェットの中年女性。別にこちらに視線を送っているわけではありません。たまたまこちらを見ていた瞬間があったとか、そんなところでしょう。咥えタバコに赤茶けたライオンみたいな頭。仕草を眺めているうちにちらりとこちらを一瞥したようにも見えましたが、だからどうしたということもありません。
 向こうからしてもこちらからしても、単なる通行人Aみたいなものです。お互い干渉する義理も理由も、どこにだってありはしません。それなのに勘違いしちゃう日和子さんったら、ああもうなんて(略)。
「いやまー、じゃあ日が落ちるとあれですし、噂になっても困るらしいですし、そろそろ移動しましょうか。もう一カ所行きたいところがあるので」
「あ、はい、そうですね。ええと――」
 通行人Aから視線を切って、日和子さんの手を取りつつ立ち上がります。彼女はこくりと頷いて、立ち上がりつつ行き先を尋ねてきました。脳裏を掠めるおぼろげな記憶。俺が人生の楽しみ方を教えてもらった場所ですよ、と応えて、俺は目的地へと足を向けます。
「……」
 日和子さんと手を繋ぎながら、去り際、最後に再び駐車場へと目をやります。女性はベビーカーを押して既に駐車場を出ていました。繋いだ手に少しばかりの意識を向けて、なんとなく呟きます。まるでこれから向かう先、そこでの思い出が俺に言わせたかのように。
「世界が平和でありますように」





       ○  ○  ○





 何年ぶりかに訪れた教会の印象は、記憶に残っているそれよりずいぶんと小さく感じられた。
 おそらくは一度くらい塗り替えられたであろうクソ真っ白な外壁。自らの敷地を誇示するかのようにクソ敷き詰められた石畳。クソ窮屈そうに並べられた鉢植えに、以前と変わらぬ威厳を保つクソ聖なる十字架。かつてと同じ部分も同じでない部分もあり、それがなおさら俺の記憶を喚起させた。
 自嘲したくもなる。ここは間違いなく、俺にとっては思い出の場所だ。変わっていることに不満を覚え、変わっていないことにもいらだちを覚え。やつにはもう会えないことが分かっていながら、ここにはあの頃の名残が多すぎた。
 最後にここに来たあの日以来、こうして戻ってくるとは俺自身夢にも思っちゃいなかった。女連れ。最高に笑える。過去の俺だったら、せめて一人で来いよブッ殺すぞコノヤロウ、なんて言ってくるに違いない。
「はー、ドラキュラさんが教会ですか。一体なんの……あ! 分かりました、将来のための式場視察ですね! あーんもう隼人さんったら、そうならそうと言ってくれれば――」
「うっせ。ホラ、入るぞ」
「がふ」
 くだらないことで俺の懐古の念を断ち切ってくれた小娘の首根っこを掴み、そうして教会の中へと入っていく。少なからず重かったであろう正面扉も今となっては抵抗すら感じない。どうでもいいことにどうでもいい感慨を抱いた。だからなんだって話。
 そうして扉をくぐり廊下を通って階段に直行しようとすると、右手にぶら下がったハムスターは一階奥の広間を一瞥して、
「あ、礼拝堂は二階にあるんですねー」
「あン?」
 予想外の指摘。思わず小娘の顔を見る。
「え、なに、よく分かんなそんなこと。やっぱアレ、オランダーの勘?」
「はー、まあオランダ人をオランダーとは言いませんし、私は生粋のジパングーですが、そうですね、まー他の人よりは教会に馴染みがあるせいかもしれませんねー」
「ふーん。そんなもんかね」
 じゃあ逆に言えばこの教会、結構西洋通りの作りになってたのか。そんなことに感心しつつ階段を上がっていき、いまも記憶に刻まれている礼拝堂へと足を踏み入れた。言うまでもなく、俺の後ろをひょこひょこついてくる鳴とともに。
「あー、変わってないな、ここも」
 無駄にクソ豪華な絨毯。昔と同じように踏みしめて、中の様子を眺めていく。天井が低くなったかな、なんてことを思う程度には、中の様子はかつてと変わっていなかった。
 隣では俺に続いて入ってきた鳴が、ぽけらっと口を開いて「はー」とか「ほー」とか「ぶひい」とか言いながら同じように辺りを見回している。ぶひいぶひい。
「おい小娘、口閉じろ口」
「はー。え、隼人さんが小さいころにここによく来てたってことは、やっぱりあれですか、日々懺悔に次ぐ懺悔をしていたわけですかー」
「あァ? おい、ちょっと勝手に人の少年期想像すんのやめてくんない。もうバリクソ品行方正だったっつーの。行儀正しさでご近所中に有名だったっつーの」
 言いつつ、かつてのように冷たい長机に尻を乗っける。ジジイに代わり、小娘の説教が飛び込んできた。
「そんなことしておいて、どの口が行儀正しさを語るんですか! もーダメですよー、神さまが見てるんですからー」
「いやンなこと言われても、神さまとか信じてねーし。シンコーは強制しちゃいけないって小学校で習ったろ。あれだ、サンフランシスコ・ダニエルかテメーは」
「はー、まあ面倒なので訂正はしませんけどー。でも体重が軽い子どもならともかく、気を使って片足残すくらいなら普通に座った方が楽じゃないですかー」
「いやちげーよ、これはアレだよ、童心に返ってたんだよ。かわいらしい茶目っ気だよ。同じ姿勢で昔を思い出そうとするハードボイルドな一幕だよ」
「あーつまり態度とかお行儀とかは今も昔も大してそういえばまだ牧師さんに挨拶してませんねー。やっぱり一声かけた方がいいですよねー」
 ずいぶんと失礼な言葉をセルフでキャンセルし、鳴がキョロキョロと再び辺りを見回す。礼拝堂に続く扉は俺たちが上がってきたものも含めて3つあり、どれが牧師の居る部屋に繋がっているのかと問いたげだった。俺はしょうがなく机から椅子に尻の置き場を変えて、
「別にいいンじゃね。そんな挨拶したこともねーし、開いてたんだから断る必要もねーってことだろ」
「えーでも落ち着かないじゃないですかー。それに、隼人さんのころの牧師さんがまだ居るかもしれないですよー?」
「……まァ、挨拶するならしてきてもいいけど。俺はここで待ってるわ」
 長椅子に足を投げ出して、ぐったりと教会の壁を見上げる。昔と目線は変わっていたけれど、いまならこんなくらいの角度かな、なんてことを思ってもみたり。
 俺の挨拶行く気ゼロの態度から察したのだろう、鳴は大きな溜息をわざとらしく吐いて見せた後、「じゃあ私だけでも挨拶してきますねー。口下手な彼に代わってご挨拶だなんて、ああなんて健気な彼女なんでしょう、くひひ」とかなんとか言いつつ奥の扉の方へと小走りで駆けていく。オランダーの勘、おそらくは正解だ。じいさんは昔からその扉から出入りしていたから。
「あと、俺の知ってる牧師はもう辞めてる。めんどくせーから挨拶行っても連れてきたりすんな?」
「あ、そうだったんですか? まあ、そういうことでしたらそうしますねー。じゃ、健気な彼女はちょいとご挨拶いってまいります」
「ん」
 相変わらずハムスター然とした落ち着かない動きで扉をくぐり、鳴の姿が消える。人見知りはあれど相手も客商売、見てくれに愛嬌さえあればどうということもないだろう。ぱたりと扉が閉まるのを見送って、俺はだらけた体勢のまま視線だけを中央に置かれたがらくた――祭壇へと向けた。
 磨き上げられた純白の十字架。誰が手入れしているのか。思い出す。脳裏をよぎる下品な笑い。とすれば作られた清廉さは、ピンフ通りで一晩いくらのねーちゃんたちとそっくりのように感じられた。
 俺が教会を訪れた最後の日は、未だ記憶の奥深くに刻まれている。祭壇ががらくたになった日。俺が神さまなんてやつを心の底から信じなくなった日。
 結局やつは自分で言ったとおり、聖職者に向いていなかったのだろう。清廉潔白さが民主主義で決まる極東のクソ田舎、じいさんみたいのが”神に縋る弱者”の人気を得られるはずもない。信者に厳しい宗教は廃れる。鷲介が昔言ってた笑い話だ。
「神なんていねえよ」
 がらくたに投げかけて、頭ごと天井へと向ける。絵が描かれているわけでもシャンデリアがあるわけでもない。当然、神の目があるわけでもない。
 だから俺を見ている目があるとすれば、それは牧師のくせに仏になったじいさんの目だけだ。やつは俺たちのことをずっと見守っていると言っていた。信じてやっても俺に害はない。
「ブッ殺すぞコノヤロウ」
 右腕を空へと掲げ、あの頃はまだ使っていなかった目つぶしピースをやつへと見せる。
 出会ったばかりのころの皺の少ないボクサー牧師が、ずいぶんと嬉しそうに笑った気がした。





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 世界が広がるってのは、それだけ色んな人間居て、それらをこの目で見てきたってことだ。
 ガキの頃夢見たより、ずっとずっとリアルで想像以上の金持ちが世の中にはいる。暗い場所でものを右から左に流すだけでボロ儲けしたやつとか、ピンフ通りにお店を持ってる女社長とか、そこまでいかずともスカイピア風見が丘で独り暮らししているやつとか。女の金とパチスロで外車乗り回すような奴だっている。自分の世界で閉じていたガキの頃より、世界はずっと幅広かった。
 だから逆に、ガキの頃想像できなかったような悲惨な奴もたくさんいる。借金のカタに名字を売った奴、騙された挙句にいつの間にか話題にも上らなくなった奴、実の親から色々アレされていまはギバラでやんちゃやってる奴。けれどその中には刑務所とネットカフェを行ったり来たりしてる奴もいて、そいつにしてみれば前科なんていくつあっても悲惨の悲の字にもならねーだろうし、日ごと寝る相手を変える女にしてみれば風俗は売り飛ばされた先じゃなく単なるバイト先でしかない。そうして見ると自分の世界で閉じていたガキの頃より、世界はずっとおおらかだった。
 だからその中に、例えば幼い頃に実の母親を手にかけた奴が居たとしても、ガキの時分に思うほどの衝撃なんてのは、結局どこにもありはしなかったのだ。
「まあ、だからなんだって話」
 競馬場の予想屋さながら、ベルトに挟んだ2通の封筒。片方は既に読んでいる。しょーもない週刊誌のゴシップ。内容は今もうさっぱり売れなくなった芸能人の、全盛期のころ起きた色恋沙汰のスキャンダル。俺にとっては死ぬほどどうでもいい話だった。信じてやっても俺に害はない。
 そう、だから結局のところ、信じてやっても俺に害はなくなっていた。名前を知ってる誰かと誰かの過去のお話。そんなもの、プラチナの12個前の彼女の話とかのがよっぽど親近感が沸く。それはきっと俺がこの字面上の人物――母親のことを覚えていないせいもあるだろうし、俺が何をやったわけでもないからだろう。
 そしてもう1通の方、大判の白いそれは未だに封をしたままだ。礼拝堂の窓から入る太陽光に透かしてみれば、入っているのは一回り小さい封筒と、おそらくは新聞の切り抜きと思われる紙数枚。数年またぎで届く、じいさんからの手紙なのだと小鳩は言った。
「……」
 頬の裏を下で突っつきつつ、しゃかしゃかと振ってみる。気にならないと言えば嘘に決まってる。見送ることのできなかったじいさん。やつが残したのであれば、読んでみたくないはずがなかった。
 けれど。
「あー、隼人さんすいませんー。いやーもー牧師さんすごいお暇だったらしく、お菓子までいただいてましてハイー。礼拝堂には来なくていいと言っていたらずいぶん時間かかっちゃったんですよー」
 ハムスターが帰ってくる。ちょこちょこと無駄な動きの多い小娘が扉を閉める間に、俺は封筒を再び服の下へと滑り込ませた。
「よし。おう、じゃあ帰ンぞ」
 長椅子から立ち上がる。きい、と長い年月が錆び付いた音を発した。
「へっ!? いやいや隼人さん、私まだ来て挨拶しただけですよ! 何かやることがあって来たんじゃないんですか!」
「いや、別にねーけど」
「え……ほんとに、なんのようもなく?」
 まん丸いめんたま。何をそんな驚いてるんだこいつは。
「いや用ってか、なに、懐かしいからどうせと思って最後に寄っただけだけど」
「ちょっ、えっ……はーん!? なに言ってるんですかアナタ! もう、返せー! どんな衝撃のトラウマ告白が来ても大丈夫なように身構えていた乙女のどきどきを返せー!」
「え……あ、なに、おまえ、そんな気ぃ使ってたん」
「当たり前ですよう! なんのためにここまで来たと思ってるんですかー!」
 突進、次いで、ちょっとマジ気味の猫パンチ。
 ああそっか、つまり……なんだ、こいつはこいつなりに、俺たちの――俺の事情を心配してくれていたんだろう。考えてみればそりゃそうだ、今日ここまでいっしょに来てくれるよう頼んだのも俺だし、それが俺の”自分探し”みたいなもんだということまで話してある。教会は俺にとっての大事な場所だとまで言った。だから、DIDに関する重要な話だと思われても不思議はない。
 例えば、そう――
「悪りぃ。けどな、別にどこへも行きやしねーよ。おまえが居なくならない限りはな」
 後頭部をがしがしと掻きながら、鳴の心配を払拭してやる。実を言えば俺にだって確実なことを言えやしない。言えるのは決意とか決心だとかそういうものくらいで、だからこれは俺にとっての宣言だった。悪いがもう、誰にもこの席を譲るつもりはないんだ。
 俺が窓の外を見ながらそう言うと(うるせーよ、急に外のお天気が気になったんだよ)、小娘は「はぐっ」とかなんとかいつも通りのリアクションをかました後、ちょっとばかり張り上げたような元気の良さで、
「やーんもうハヤトったらそんな、教会で婚約宣言だなんてもーなんてサプライズなんでしょう! いやーいいですよ私はそんな、海外とかに憧れないですし神道式も気になりますけどやっぱりウェディングドレスは憧れですからねー」
「いや、言ってねーよ。結婚しようとかべつに一言も言ってねーから。すんな、自分の都合いいように人の台詞を捏造すんな」
「あーでもここだと披露宴もできないですしやっぱりどこかのホテルとかのがそんなことより兄やYFBの皆さんとかも式には呼んだ方がいいんでしょうかねやっぱり」
「いや変わってねーから。途中で話ぜんぜん変わってねーから。結婚から離れろ。あと口閉じろ口」
「はー胸が高鳴るー」
 お決まりのトリップ状態。ぽけらっと口を開いた表情からは先ほどまでの心配そうな態度はすっかり消え失せていて、だからまあ、これでいいんじゃないかと思う。
 鳴には分からないかもしれない。俺がこいつをこの地域に連れてきた理由。それは何か言いたいことがあったわけでも、何か言ってほしかったわけでもなくて、結局のところ、いっしょにいて欲しかっただけなのだ。俺のクソ度胸と、こいつの存在があるならば、何が起きたって俺は俺でいられるに違いなかったのだから。
 その程度の自信くらいなら、今の俺には確かにあるんだ。
「それで、なに、何か見たいのあるなら別にいいけど。帰んの、帰んないの」
「あはい、特に用事はないので隼人さんが帰るというのであれば帰りますよハイ」
「あそ。じゃあさっさと帰るぞ。そのままパルさんとことか行けば、丁度いい時間帯だろ」
 それは教会の壁面に掛けられた時計がずれていなければ、の話ではあるものの。昼を過ぎてからの出発だったせいか、窓の外の陽光は少なからず夕の色を帯び始めていた。こんな時間にドラキュラが(しかも教会に!)存在すること、いまだに不思議な感慨を覚えてしまう。
 でもまあそれも、じき慣れるだろう。延髄のあたりが少しだけ瞬くような感覚に揺れた。
「そうですねー。あ、久しぶりにメンマさんのラーメンも食べたいかもー」
 小娘は俺のそんな胸中など知らず、相変わらず欲望垂れ流しのそんな欲求を口にする。
「いいけど。え、おまえこないだスカート入らないってぶーたれてたじゃん。いいの、クレープとラーメンなんて」
「あーあーあー」
「いや耳塞いでも腹はへこまねえよ」
「いいんです! クレープとラーメンは別腹なんです!」
 意味が分からん。
 が、分かるのは、結局こうなるとこいつはテコでも動かないということだ。時折見せるこんな我が儘っぷりは、俺にどこぞの暴君を思い起こさせる。血は争えない。だからなんだって話。
「さて、じゃ、行くぞ」
 小娘の「クレープとラーメンを食べないことによるモチベーションへの甚大な影響」とやらのご高説を耳から耳へ流しながら(喫煙のメリットを語るヘビースモーカーみたいな言い草だった)、俺たちは礼拝堂を後にする。懺悔もせず寄付もしない、向こうにしてみりゃ何しに来たんだか分かりはしないお客さまたちのお帰りだ。
 俺の背中には、今も封を切っていない白い封筒が刺さっている。じいさんからの手紙。ここに来ても、俺はついにその封を切ることはなかった。おそらくこの先ずっと、これを開封する日は来ないだろう。
 理由なんて簡単だ。俺はこの封筒の中身、もっと言えばじいさんの遺物に対する興味こそあれ、救いなんてものは求めちゃいないからだ。封印されてた母に関する記憶、破壊衝動とDIDの発症から見れば、想定される事実は一つ。けど、言ったとおり、俺はそこに衝撃なんて覚えなかった。
 だから、さよなら。
 分かるだろう? 俺は読まないことでそれを告げよう。けれどこれは俺たちだけの問題じゃない。この封筒は、羽田小鳩から羽田ヨージに向けられた、お別れの手紙でもあるんだ。
 小鳩は言った。この手紙は、俺たちみんなが1つになったとき渡してほしいと言われていたと。それはつまり俺たちが統合し、羽田ヨージとして帰ってきたその日のことを表しているに他ならない。
 なのにやつは俺に――成田隼人にこの手紙を託した。
 それはだから、小鳩にとっての決別の宣言なんだ。さよなら、お兄ちゃん。私はこれからお兄ちゃんのいない世界で生きていきます。ずっとその存在を頼りに俺たちを支え続けてきた彼女のそんな決断、どれだけ辛かったことか。その胸中、俺には推し測れようはずもない。
「神なんていねえよ」
 小鳩に代わり、天におわします神様に向かってドラキュラが呟いてやる。低くて狭い天井。青くて広い空なんて、ここから見えようはずもなかった。
「どーしましたー、隼人さん? そんな鼻血を我慢するみたいに上向いて」
 そうして屋根の向こうに思いを馳せていると、目の前の小娘からそんな失礼な声。
「いやちげーだろ、ぜんぜんちげーだろ。おい小娘、今のどっからどう見てもハードボイルドに過去を回想してるシーンだろコレ。鼻血じゃなくてあふれ出る涙我慢してンだよ」
「はー、タマネギでも切ったんですか」
「え、なにその俺が感動で泣くはずない的な発言。オウ、俺だって泣くっつーの。全米が涙した映画で俺もガン泣きするっつーの。七兆粒の涙がぼろぼろ流れまくりだっつーの」
「あーまあハイそうですねー、それならそれでいいですハイー」
 信用度ゼロの首肯が俺に向けられて、やつは俺に先行して階段を降りていく。反論を言うタイミングすら失った俺は「おう、ブッ殺すぞコノヤロウ」なんて口先で呟きつつ、その背を追ってそのまま教会の扉を出た。いまだ残る涼しい風と傾き始めた太陽光。眼を細めながら振り返り、来たときに続きもう一度、鳴とともに年月を経た教会を見上げる。
 さようなら。ありがとう。また今度。ブッ殺すぞコノヤロウ。いろんな挨拶が思い浮かんだけれど、やっぱり結局はこれだろう。偉そうに掲げられている十字架、それに向けて人差し指と中指を突きだして。
「世界が平和でありますように」

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Short Story -その他
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