蝋の

[a reaction from an observer]
「はあーっ……」
 祥玄社入っているビルの1階にある、アレキサンダーでバイトを始めるまでは比較的よく利用していた喫茶店。テーブルに陣取ってから何度目になるか分からない溜息を吐いて、あんまり溜息ばっかり吐くのもよくないよなあと思いつつ、こうして溜息を何度も繰り返していることに対してもう一度大きく息を吐き出します。
 ちらりと時計を見れば、時間はさっき見た時から5分と進んでいません。ただ椅子に座っているだけだというのに、針の進みが遅いのなんの。普段であってもこの時間、バイトの上がりまでもう一踏ん張りでなかなか辛いものですが、今日のそれはいつもの比較にならないほどのものでした。
「ああ、みんなはお仕事中かあ……」
 飲む気のないコーヒーのカップをゆらゆら揺らしつつ、わざとらしく独り言を呟きながらいまごろのアレキサンダーの様子を想像してみます。閉店間際の混み具合、売り切れた商品の確認、ちょっとばかし疲れの見えてくる従業員と終わるまでずっと元気なマスター等々。きっと今日も紀奈子さんは来てるだろうなあ、カケルくんも居るかなあ、なんてことも考えますが、しかし、今日のアレキサンダーに千歳鷲介の姿はありません。
 実を言えば、昨日もアレキサンダーに顔を出しはしませんでした。もとより自由な出勤を認めてもらってはいますが、≪スクランブル≫などの特別な用事があるわけではなく欠勤したのは初めてです。結果として二日間くらい休むことは確かにありましたが、それでも今回は事情が違います。そりゃあもう、こうしてのしかかる罪悪感からして分かるでしょうけれども。
「はあ……」
 不機嫌なときのカケルくんのように溜息を更に上積みして、なんとなしにビジネスビルの吹き抜けを見上げます。
 いやもうホント、何してるんでしょうかね自分、こんな時間にこんなとこでぼーっとして。いやこんなとこ呼ばわりは失礼ですか、周りの真剣なビジネスマンの方々から見れば、千歳鷲介こそがこの場に相応しくない人物ですしね。バイト始めてからはずっと来ていないがゆえのなんとなーく感じるアウェイ感、そういえば以前来たのはいつだったかと考えて、多摩いづみ事件に思い当たります。あとベージュ。
「いやー……、第一印象って大事ですよねえ。カケルくんにしてみればお茶目ないたずらだったんでしょうけど」
 あれがなかったらもっと違っていたのかな、なんて女々しい考えも頭をよぎります。それでも主たる原因はそっちではなく俺自身の方ですから、あるいはそうでなくてもこういう結末になってしまったように思えてなりません。ええ、例えば、人の本を読んでも居ないのに褒めてしまったりする人物であるのは、疑いよう無く事実なわけでありますし。
「挽回、したかったなあ」
 後悔のような念が口をついてふっと出ます。
 マニュアル読破したり、色々頑張ったんですけどねえ。隼人君には多少迷惑かけたけどなんとか回せそうだったし、今度こそ続けたかったんだけど。みんないい人だったもんなあ。マスター、カケルくん、紀奈子さんや英里子さん、そして――
「はあ……。ああ、もう、隼人君に≪コックピット≫渡しちゃおうか」
 時計は10時30分より遥か前。小銭と領収書を口も付けていないコーヒーの脇に置いて、ふっと前髪を吹き上げてから目を閉じ椅子に身体を預けてしまいます。
 余った時間は、今まで遅刻していたお詫びも兼ねて。
 前の≪面談≫で言われたしね、最近延長多すぎだって。うん、だから、迷惑かけた上に何も出来なかった俺にとっては、こうして早めに≪コックピット≫を渡すことくらいしかできやしない。そうすれば今度の≪面談≫では、隼人君に感謝されちゃうかもしれないし。

 もっとも、次回の≪面談≫の内容は、もう決めてあるんですがね。






       ○  ○  ○






「いやもう、なんていうか、結構しつこいですよねアナタも。他のお友達と帰ればいいのに」
 翌日。目覚めはここのところいつも≪スクランブル≫によるもので――聖騎士の呼子のアレですね――、俺は今日も今日とて、この”公称”彼女な美少女さんにぴったりマークされながら、周りの目を気にしつつ帰宅の途へと着いていました。
 いやホント、マークされているという表現がぴったりすぎて怖いくらいです。スポーツの経験はさほどありませんが、そりゃあもうバスケやサッカーのマンツーマンかよってくらいのマークっぷり。隙あらば、という視線はプリンセスというよりは猛禽のそれで、か弱いイーグルとしては煙に巻くくらいしか対抗策がありません。
「や、自慢じゃないですけど友達少ないですから。ってか、羽田君はそんなこと言わない」
「じゃあ、他人の空似ってことでいいじゃないですか。それで明日香さんは満足、俺たちも秘密守れて満足。アレッ、これってみんな万々歳ですよねっ?」
「ふーん。じゃあ明日、羽田君にそっくりな別人がうちのクラスに居るって拡声器持ったまま独り言呟くぞ」
「なんだと」
 仮初めの学園生活、と言えば聞こえはいいでしょうけれど、それはそれ、これはこれ。こっちとしては人格崩壊の危機を賭けたデンジャラス駆け引きの方がずっと重要で、学生気分に浸る余裕などありはしません。加えて、俺自身、ここのところずっとヘビーな問題を抱えたままですし。
「おや? おやおや? ワシなんとかさんはワシなんとかさんで何か問題を抱えているご様子?」
 と、なんとなく憂鬱な気分を引き摺っていたら、隣を歩く見た目だけプリンセスさんに目聡く気付かれてしまったらしく。いやあ、女のひとってどうしてこういう変化に敏感なんでしょうね。ワイドショー好きの血が疼くんでしょうか。
 癪なのでふっと前髪を吹き上げつつ、歩きながらも名前の方の訂正を試みます。
「というか、鷲介です鷲介。ワシなんとかって方がよっぽど言いにくいと思うんですけど」
「え、ワシントン? おお、すごいじゃんワシントン。プレジデントワシントンじゃん」
「いやアメリカ初代大統領はいいんすよ。というか鷲介って言葉聞いてなんでワシントンって聞き間違えるんですか、おかしいでしょどう考えても」
「ああまあシュークリームさんの本名はどうでもいいんです。ってか、そうだ、こないだ言ってたところ行って観察してきましたよ、あの怖そうなカオの」
「あ、行ったんすかピンフ通り」
 そういえばと、言われて思い出します。こうしてやはりプリンセスと一緒に下校するハメになった一つ前の≪スクランブル≫、ちょうどそのとき彼女は曰く「怖いカオの人」のことを尋ねてきました。ええ、まあ、隼人君のことですね。どうやらふとした拍子に会っていたようです。
 それで、考えました。最近不安定な俺やタカシ君の状況を考えると、彼女に隼人君のことを知っておいてもらうのも悪くはないのではないかと。万が一学園での≪スクランブル≫で隼人君が≪コックピット≫に入ったときにフォローしてくれるなら、こちらとしても助かります。タカシ君に口外はしないという約束が守られるのであれば、俺の存在が知られた以上、隼人君のことを知られてもこちらにダメージはあまりないですからね。
 もちろん、だからといって隼人君が明日香さんを認識している必要はありません。なので、明日香さんには一方的に隼人君を知っておいてもらうために、隼人君が居ると思われる時間と場所を教えてあげていたのでした。無論、絶対に接触はしないようにと念を押した上で、ですが。
 いやだって、そんなの勝手にさせてるとなったら、俺が隼人君にまた怒られちゃうし。ブッ殺すぞコノヤロウ、ってなもんですよ。
「まあもし彼が学園で出てくるようなことがあれば――って、あれっ、明日香さんってこっちですっけ」
 そうして隼人君のフォローを重ねて頼もうとした拍子、ふと気付きます。普段別れる歩道橋を今日はとうに渡りきっていて、周りの景色は学園前の大通りではなく駅前のそれに近いものとなっていました。おそらくはその普段との違いに気付いていたのでしょう、明日香さんは少しばかり目を逸らしつつ、イエスでもノーでもなく「ふーん」と呟いて、
「シューマッハさん、今日もバイトないんですね。前は急いで花水木通りの方に行ってたのに」
「いやいや! 先に質問したのはこっちなのになんでこっちが分析されてるんですかアナタ、っていうか今日”も”とか”前は”とかストーカーじみたこと言わないでくださいよホント!」
「それはほら、彼女としては悪い虫がつかないか気になるものだよね。っていうか、花水木通りでバイトしてたのは否定しないのか」
「語るに落ちるッ!?」
 いやそこはオーバーリアクションじゃなくてそっけない否定をすべき場面だろ俺、と後になって自分にツッコミ入れてもどうしようもありません。すっかり身についてしまった脊髄反射がちょっぴり憎い。
 それでも精一杯の抵抗として、駅前でその足をぴたっと止めます。羽田邸に直帰しようと思ってましたが、ここは変更するしかないでしょう。かといってアレキサンダーに行く気もないし、やはり今日も例の喫茶店で時間を潰すことになりそうです。
「おっと、どうしたんですか足なんか止めちゃって。あ、時間あるならお茶でもします? 私、自慢じゃないですけど人を誘うことなんて滅多にないんですよ」
「そうですか。じゃあ一人で喫茶店でも行ってください。俺も別の喫茶店で時間潰すので」
「なんだと」
 むす、と不服そうな態度を隠そうともせず、顔をしかめる明日香さん。それでも俺がこれ以上何も喋るつもりがないことを悟ったのか、はあ、と息を一つ吐いて。
「しょうがない、今日はここまでかあ。ま、ちょっとやることできたし、いいかな」
「エッ、あのちょっと、目の前で気になる独り言呟くのやめてくれます? なんですかやることできたって、そんなまるで会話の中からヒント見つけたいえーいみたいな芝居しないでくださいよ」
「いやあ、だって、ねえ? 折角お茶誘ったのに断られちゃったし、か弱い女の子は傷心抱えてさっさと帰らなくちゃならないよね。もうまんまフラグの折れたエンジェルだよね。というわけでシュールストロムさん、用事ができたので私はこれで」
 そう言うと明日香さんはいかにも対外的な可愛らしい笑顔をぴしっと決めて、申し訳なさそう(なフリ)にそそくさとさっき降りた歩道橋の方へと戻っていきました。残していった台詞といい猿芝居と言い、なかなかの策士です。確かに悪い子じゃない。悪い子じゃあ、決してないんでしょうけれども。
「ま、突っ込んだ話をしないなら、お茶くらいしても良かったんですけどねえ」
 去っていく明日香さんを見送った後、前髪をいじりつつ足をビジネス街の方へと向けます。ゲームオーバースレスレの駆け引きではありますが、それでも多少は憧れだった学生生活、その一端に楽しみを感じていないわけではありませんでした。相手があれだけ綺麗な子ならなおのこと。なかなか性格の相性は悪いように見受けられますが、それにしたって、コーヒーショップでコーヒーも飲まずに一人で悶々としているよりは気分が晴れたろうにってもんです。
「機会があれば、愚痴でも聞いてもらおうかしら」
 ふっと前髪に息を吹き上げて、前日と同じように小銭を手に例のビルへと向かいます。
 アレキサンダーへ向かう勇気は、まだありませんでした。






       ○  ○  ○






 えーと、まー、どーでもいいことなんですけどー。
 物事には区切りってものがあるじゃないですか。バイトの話を提案されるのは飲み会の席でもいいですけど、正式な受諾は電話でアポとってきちんとお話を通したようにですね。ええ、親しき仲にも雇用契約ありというか、そういうのはなあなあで済まないものだと思うんですね。
 ええ、それで、ですから、やっぱり辞めるときにもそれ相応の礼儀が求められると思うんですよ。段々顔を見せなくなってフェードアウトとか、そういうのが通用するのは真夜中のピンフ通り程度なもので、やっぱり真っ昼間の健全フリーターとしてはきちんとお話を通しておきたいところです。ええまあ、辞表なんてものを書くほど堅苦しい必要は、流石にないとは思うんですけれども。
 でもねー、難しいじゃないですか。普段は何気なく顔をあわせて馬鹿話している相手に、真面目ーな話を切り出すのって。ええ、ええ、千歳鷲介ってそんなキャラじゃないですしね。それがいつも通り冗談を投げかけてくる相手に向かって「ちょっとお話いいですか」なんて言うの、相当の胆力が要ると思いません? いやほら、今まではきちっとしたバイトなんてしなかったから、簡単に辞めたりなんだりできたんですけれども。
「今日こそは……行かないとなあ」
 駅前の辺りをうろうろしつつ、踏ん切りつかない自分に向けてようやく呟いた言葉がそれでした。逃げ腰は癖になると誰かが言っていましたが、このまま逃げ続けるのは流石にぬるぬる鷲介といえど容認できるものではありません。いざ、と思い足を向けるも、脳裏をよぎるは店長はじめお世話になった人々の暖かい笑顔。裏切るわけではありませんが、後ろ髪を強く引かれているのは事実です。なにか重石身体全体にのしかかっているかのようなこの鈍重さは、未だかつて感じたことがないもの。身軽さがウリのイーグルがこれでは、そりゃあ墜落するよなあと他人事のように思ってしまいます。
 今日も今日とて目覚めは学園での≪スクランブル≫。それでも違う点が二つばかりあって、一つはあの明日香さんがしつこく絡んでこなかったこと。やぶ蛇を避けるために無理に声もかけませんでしたが、あの策士のこと、何を考えているやらって感じです。ええ、ええ、きっと良からぬことを企んでいるに違いありません。
 そしてもう一つの違う点は、
「珍しいなあ……。最近はなかったのに」
 それは日付が一日飛んでいたこと。折しも平日ど真ん中、学園での様子を見る限りはタカシ君が休んだ様子はなかったので、おそらくは昨日学園から帰ってきた後、俺に変わる間もなく強制的に睡眠を取るかたちになったのでしょう。俺たちは基本的に睡眠時間がかなり削られているため、ときたまこうして身体が睡眠を強要してくることがあります。俺たちが長期バイトを続けられない主たる理由は、≪スクランブル≫以上に、この突発的なダウンによるものです。いやー、それでもアレキサンダーでバイトを始めてからは安定していたと思ってたんですけれどね、身体は正直ですからね。そういう日もある、なんちゃって。
 いやでも、不本意ながら一日延長してしまいましたが、そろそろけじめをつけねばならないでしょう。もう一週間近くも喫茶店で時間を潰す日々を送ってしまったとはいえ、兄弟たちの貴重な時間をこれ以上浪費するわけにはまいりません。未練がないと言ったら嘘ですが、よくしてくれた人たちに不義理をするほどこの千歳鷲介、性根が腐ってるわけではありませんから。……ええ、ありませんとも。
「よし、アゲてこうアゲてこう」
 アルバイト初日のそれに近い緊張感に自らを奮い立たせながら、花水木通りへと向かいます。今日くらいは明日香さんに愚痴を零したかったな、なんて弱い考えも脳裏を掠めつつ、歩き慣れた街角を曲がって足は一直線にアレキサンダーへ。あいにく経験がないので分かりませんが、学園の卒業式、最後の登校日っていうのは、こんな心持ちなんでしょうか。
「千歳ぬるぬる鷲介、アレキサンダーでの最後のお仕事まいります。なーんてね」
 ともすれば祥玄社の入るあのビルの方へ向こうとする足を必死で抑えて、とうとうアレキサンダーの前に到着します。お店の前にはオムドリアフェアのお知らせが張り出されていて、自分のホームグラウンドだった場所で知らないフェアが行われていることになんとなく疎外感。いやはや随分と自分勝手なものだと思いますが。
 とはいえ別に店先で感慨に浸りに来たわけじゃあありません。ここまで来たら行くしかない、一発頬をパァンと叩いて、一週間より以前のいつものように扉を勢いよく開きつつ店内に足を踏み入れます。
「おはようございます! 一週間とちょっとぶり、千歳ぬるぬる鷲介です! 朝でも夜でもコンバンワ!」
 ヨッくんも言ってました、どんなに疲れてても挨拶は元気に。ええ、挨拶は人と人との潤滑油ですからね。するだけでお互い話しやすくなるのなら、しなきゃ勿体ないってもんですよ。
 時計を見れば、奇しくも時刻は普段バイトを始める18時ちょっと前。混雑期を迎える前の少しばかりのアイドルタイム、話をするには丁度良い時間帯と言えるでしょう。タイミング良くお客さんの応対が終わったマスターに、すすっと近づいて声をかけます。雑談が始まってしまったら余計に勇気が要ると思ったので、のっけから話を切り出すことにしました。
「マスター、すいません。あの、今日、実はちょっとお話があってですね――」
「うん? おお鷲介、今日は調子が良さそうだな。時間が時間だ、早く着替えてこないとまた玉泉君に怒られるぞ」
「へ? あ、いえ、ええと、その」
 いつもながら機嫌よく笑顔を向けてくるマスターの態度に、奮い立たせた勇気が折れかけます。バイトを辞めます、なんて言える雰囲気ではありませんが、かといって先延ばしにしたって良いことはありません。千歳鷲介、一世一代の根性絞って頭を下げつつ進言します。
「マスター、一週間もバイト休んで申し訳ないです! 実は今日はお話があって来ました!」
 近くのお客さんに奇異の眼で見られるのを承知の上で、ストレートな言葉を投げかけます。一週間の無断欠勤と、その直後の重要な話となれば、仮にも管理職のマスター、おおよそ察しはつくはずです。申し訳ないと心底思いつつ顔をあげれば、そこにあったのは俺の予想とだいぶ違い、なぜかいつも通りのマスターの笑み。
「なにを言ってるか、コイツは。その謝罪と用件は昨日も聞いたろう。ほら、さっさと着替えてこないか。いやなに、お前が玉泉君と日野君に魚の腐ったような眼で睨まれたいというのなら話は別だが」
「は……?」
 マスターの言葉の意味が掴めず、一瞬唖然とします。昨日も聞いた? いやというか、今日は働くつもりではなく、辞めるつもりで来たわけで……。
「おい、いくら俺が絶世の美男子も泣いて謝る甘やかなマスクをしているからって、そう驚くこともないだろう。ふん、美人は三日で飽きる、しかし狩男のイケメンは三年経っても飽きないとはよく言ったものだな」
「あのすみませんマスター、いらん慣用句を捏造してるところ悪いんですが、ちょっと真面目な話があるんですよ。ええホント、だから着替えるつもりはなくてですね」
「たわけが。男の私服従業員など見たくもないわ。ああ、女性は特例として裸と水着のみ私服として許可している。客足も増えて一石二鳥だからな」
「いや聞いてくださいよ人の話ッ!?」
「あー、なんだ、千歳来てんじゃん。まー、昨日あんだけデカい口叩いたんだし、来てなかったらはっ倒すところだけどな」
 ついつい店長にノせられていつものテンションになりかかっていたところに、二階から英里子さんのご登場です。会うなり罵倒されるかと思ってましたが、なぜだかこちらも普段通りのご様子。いや、っていうか……。
「なんですか、さっきっから二人して昨日昨日って。まるで昨日俺がここに来たみたいじゃないですかソレ」
「あー? 馬鹿言ってないでさっさと仕事始めろよ千歳。私とたまひよに見せつけてくれんだろ、お前の仕事っぷりをさ。っと、いらっしゃいませー」
「いや馬鹿言ってるつもりはないんですけど……」
 反論虚しく、英里子さんは俺を無視してさっさとお客様の対応に向かってしまいました。しょうがなく、残ったマスターに尋ねてみることにします。
「あの、ひょっとして俺、昨日アレキサンダーに来たんすか……?」
「おいおい、どうした鷲介、ボケるにはまだ早いだろう。それともまだ調子が戻ってないのか? なに、無理しなくともいいぞ。まあ昨日の今日だ、休めないという理屈も分からんではないが」
「いやそうじゃなくてですね、ここは”はい”か”いいえ”できっぱりと――」
「千歳さん!」
「はいィィッ!」
 鍛えこまれた脊髄が、脳より早く反応します。カウンター越しにマスターに詰め寄っていた体勢から一転、直立不動の気を付けポーズ。遅れて声が脳へと届いて、あれっ、この声、もしかしてというか間違いなく、
「え、日和子さん?」
「え、じゃないです! 一週間休んだぶん頑張って挽回するって言ってたじゃないですか! 千歳さんへの気遣いが足らなかったことは謝りましたが、甘やかすとは言ってませんからね。早く着替えてきてください、もう始まりますよ!」
「え? え? エエエエエッ!?」
 いやどーなってんすかこの展開、なんかもう今日はここで働くことが既定路線になっているようなこの状況! いや確かにいつも暖かに迎えてくれて切り出しにくいとは思ってましたけどね、これは違うでしょお色々と! というか日和子さん喧嘩別れみたくなってたのになにナチュラルに話しかけてきてるんですか不意打ち過ぎて俺の心がほほえみジェノサイドっすよ!?
 ……なーんてことを脊髄とは別に脳みそがぐるぐるっと叫び続けてましたが、口に出すにはあまりに事情が飲み込めてなさ過ぎます。かといって尋ねようにも日和子さんに聞いたらやぶ蛇もいいところですし、英里子さんは接客始めちゃってるし、マスターもこういうときに限って注文なんか受けちゃってるし。いやでも俺辞めるって言うつもりだったんだけどなあ、まさか日和子さんに言うわけにもなあ、いやというかそもそも潤滑油が擦り切れちゃったから辞めようと思ってたわけで日和子さんがこうして話しかけてくれるなら今日くらい仕事するのもいいかもなあ、ああやっぱり日和子さんかわいいなあ、なんて思い始めていたところに、からんからんとお次のお客様の音。悲しいやら嬉しいやら、身に染みこんだバイト精神は抜けきっておらず、身体ごとそちらの方へと振り返ります。いらっしゃいませー、という従業員の声と同時に店内へと入ってきた人物は、
「うぃっす、こんちわ玉泉後輩。あとシュールレアリスムさんも」
「振り返れば奴がいるッ!? え、ちょ……、いや何しに来たんですかアナタ! ただでさえいっぱいいっぱいなんですから、来ないでくださいよこんな時に!」
「はあ、また来たんですか渡来先輩」
「アレッ!? もう何回も来てる口ぶりっすね!?」
「はいはい、私のことはいいから。それより、ちょー、ちょーちょー」
 くいくい、とプリンセスらしからぬ仕草でどうやら俺を呼んでる様子の明日香さん。いやもうホント、彼女に構っている余裕はないのですが、ここで反抗して余計に場をかき乱されてもたまりません。不思議そうな顔の日和子さんから少し離れ、意地の悪い笑みを浮かべている明日香さんの元へ。
 と。
「はいこれ、昨日のぶんの請求書。立て替えようかと思ったけど、直接本人から取るからいいって」
「へっ?」
 そうして渡される一枚の紙。いや請求書て。
「いやいや、俺、何も頼んだ覚えはないんですけども。というかどこの店からですかコレ」
「ん? 書いてあるでしょ。成田工務店さんからのご請求。廃業してたのを無理言ってやってもらったからね、時給プラス50円してあるけど」
「ふーん、成田工務店かー、聞いたことな……ってオイィィッ!?」
 ノリツッコミしつつ、慌てて件の請求書とやらに目を通します。メモ帳を一ページだけ破り取ったような、明らかにその場で思いついたから書いたような紙っぺら。お店で使う正式なもののように細かな欄があるわけではなく、示してある情報は単純そのもの。請求書というよりもはや手紙に近いそれには、昨日アルバイトの代わりを務めてやったということ、その代金として950円×4時間の3800円を耳揃えて払いやがれ糞ワシとのこと、そして、
「『未練があるなら頑張ってみろ』」
 そんなことが、隼人君らしい豪快な筆致で書いてありました。いつ見ても俺の丸っこい字とは対照的です。右下の成田工務店という字は、いかにも殴り書きでしたけど(なーんて思ってると、うるせえブッ殺すぞコノヤロウ、って怒られちゃいますね)。
「え、つまり、え、あの、これって……」
 口をぱくぱくさせつつ請求書から顔をあげます。たったいま来た彼女は既に禁煙席に陣取っていて、日和子さんはお水を取るため奥に引っ込んでおいででした。人払いができたせいか、目の前のプリンセスは物憂げな表情で口を開きます。
「言ってましたよ、あの怖いカオの彼。俺たちはいつどうやって消えるか分からないけど、頑張れるなら頑張ってみるべきだって。貴方がなんの未練もないなら助けるつもりはないけれど、そうじゃなさそうだからちょっと手を貸してやりたいんだって。もし将来的に消えてしまう運命だとしても、消え方ってもんがあるだろうって。クレープをつまみながら、そんなことを私に言ったんです」
 いやアナタ、隼人君と接触しないように言ったじゃない、なんてツッコミをする気力も湧きません。というか、隼人君が初対面に近いこの子にそこまで話をしたこと自体も驚きです。
 しかしそんなこちらの心情など気に留めず、彼女は話を続けます。テーブルの上で手を組む姿勢が、とてもさまになっていました。
「それ聞いて、なんか私が凹んじゃって。だからちょっと協力したんです。それでも、ね、最後は貴方がここに来なければいけないようになっていた。彼も言ってましたから、来なかった時は、その程度の未練だったんだからそれ以上手は出さなくていいって。だから私、どーせシューベルトさん今日はアレキサンダー行かないだろーって思ってたのに、ね、なんかさ、可哀想なくらい緊張しながら花水木通り行っちゃうし。元気よくお店は入ってっちゃうし。さすがに妬いたな、色んな意味で」
 目をこちらに向けずに語る明日香さん。窓の外に広がる空を通して、彼女はどこを見ているんでしょうか。それはたぶん、俺が想像しちゃいけないもののように思われます。分かるのは、そこには一つの物語があって、一つの可能性があったということだけでしょう。
「というわけだから、未練があるなら工務店の成果物、受け取ってもいいんじゃないかと思うんだ。ある意味報酬だよね、最後の最後で逃げなかったメイルシュトロムさんへのさ」
 そう言って、店内に目を戻す明日香さん。ええ、もう、ほんと根は良い子なんだと実感させられます。かといってお礼を言うのも彼女にとっては皮肉が過ぎて、ゆえに感謝の言葉にすら詰まってしまう自分が情けないといったらもう。
「……いやもう、ほんっとにね、アナタも隼人君もそんな、そんな風に言われたらお兄ちゃん泣いちゃいますよもう。涙うるうるですよ。千歳うるうる鷲介ですよ」
「え、いや、ほら、そんな湿っぽくならないで。ここで泣かれたらなんか私が泣かしたみたいだし? ここはね、あれでしょ、アゲてこうアゲてこう。あ、ほら、玉泉来たし、ね」
 そう言う明日香さんの視線を追うと、日和子さんが一人分のメニューとお水を持ってきているところでした。営業スマイルを向けるでもなく、端から見ると無愛想に、それでもお水はこぼれぬよう丁寧に、マニュアル通りお仕事をこなす日和子さん。いつも通りのようでいて、それでもこのいつも通りがとっても難しかったんだよなあと妙な感慨を抱いたりもします。俺は日和子さんがこちらに向く前に、急いで目の汗を袖で拭いました。なぜか、気付かれることはありませんでしたけど。
「それじゃあ渡来先輩、ご注文が決まりましたらお呼びください。そうですね、できれば私が遠くにいるときに英里子さんあたりを」
「いやいや、そう堅いこと言わないでよ堅泉。それに今日はちゃんと頼むからさ」
「はあ、今日はといいますか普段からちゃんと頼んでください」
「ほほう? それはまた来ても歓迎してくれるということかねまた泉?」
「言葉の綾です。あと玉泉です。それと千歳さんは早く着替えてきてください、フロアの戦力として計算に入れてるんですから」
「へっ?」
 明日香さんに水に続いておしぼりを渡しつつの、そっけなさげなお言葉。当たり前のように言われたその内容に対して、俺は一瞬言葉に詰まります。
 まったくお仕事をするつもりはなく、むしろ辞めるためにここに来たこの身。それでもフェードアウトではなくけじめをつけに来たのは言うなれば未練もろとも吹っ切りたかったせいなわけで、ああ、だから確かに、きっと俺は未練たらたらだったのでしょう。でなければ、この俺の時間全てをさっさと隼人君へと明け渡してしまっていたはずですから。
 けれどそれをしなかった。半端な覚悟で、半端な未練で、だらだらと喫茶店で時間を潰していた。しかもそれすら、10時30分までは孤独に耐えきれないという中途半端さ。そんな俺のチキンっぷり、きっと隼人君には見抜かれていたんだと思います。ああ、そう思うと急に恥ずかしさがこみ上げてきました。頬の裏を舌でつっつきたくなります。
「千歳さん? あの、大丈夫ですか。もしかしてまだ調子が……」
 そうしてなんとも優しい弟のことを考えていると、今度はそっけなくではなく、正面から俺にそんな声が向けられました。って、あの鬼の日和子さんが心配してくれてますよアナタ! そんな態度を見せられてしまっては、千歳鷲介、頑張らないわけにはまいりません。
 ええ、ええ、単純だと罵ってくれても構いませんとも! でも嫌われていたと思っていた片思いの相手からこんな心配されてしまって、嬉しくないわけがないじゃないですか!(逆ギレ)
「いえ、大丈夫です、はい! あの、ええ、千歳ぬるぬる鷲介、誠心誠意お仕事に励ませていただきます! 3分で着替えてきますので、今日も一日よろしくお願いしまっす、日和子さん!」
「は、はあ……ええ、よろしくお願いします」
「はい! いやあ仕事ができるって素晴らしい!」
 45°のお辞儀で挨拶して、若干呆気にとられてる日和子さんを尻目に二階のスタッフルームへと駆けていきます。きゃっほう! 思わず駆け出したくなる気分でした。いや、実際駆けてるんですけれども。なに張り切ってんだよ、なんて英里子さんの軽口も応援にしか聞こえません。
 そのままSTAFF・ONLYの扉を開けて、見慣れたロッカールームに入ります。未だに残る「千歳」ネームのロッカー。その中から二度と着るつもりのなかったハンガーを手に取ります。そうして心の中、破り捨てたるは形而上の辞表届。びりびりっとね、いつかの日和子さんのように256片にびりびり破いてぽいってなもんです。そうすると、あれほど重かった身体が嘘のように軽くなった気がしました。うん、やっぱり未練たらたらだったんですねえと今更ながらに感じます。
 3分と言った手前ちゃっちゃと着替えを済ませて、鏡の前で身だしなみを整え準備は完了。スポーツバックと一緒に着ていた服をロッカーにしまおうとして、先ほどもらった請求書がちらりと顔を覗かせました。代金3800円也。取り出してよくよくみれば、書かれている隼人君の文字はやっぱり力強く見えます。いや別に、単に字が汚いだけとかないけどね。
「でも、そっかあ……。隼人君、気にしててくれたんだ」
 遅刻が多い相手であるにも関わらず、急に遅刻がなくなったことに対して心配してくれるなんて。素晴らしい! マーベラス! さすが、コーヒーに砂糖を入れるハードボイルドは観察眼が違う! ……なんつって。
 いやだって、ねえ、あの隼人君が、ですよ? そりゃ茶化しでもしなければ、誰もいないロッカールーム、可愛い弟心に俺の目がナイアガラってなもんです。いやもうホントに、なんと言ったらよいやら。今すぐ≪面談≫して、その照れくさそうな顔に土下座かまして感謝したいくらいの気持ちです。ブッ拝むぞコノヤロウ。
「千歳さん、まだですか!」
「あっ、はい、はいっ! 今行きます!」
 請求書を見て油断しているうち、少しばかり時間が経っていたようでした。急いで荷物をロッカーに詰め、請求書は四つ折りにして小物入れへといれておきます。その際、頑張れよ、なーんて言いながら目潰しピースをもらった気分。照れくさくなって、なんとなく後ろ頭をがしがし掻いたりしちゃいました。やだもうほんと、泣かせないでよ隼人君。
 とはいえ、これ以上日和子さんを待たせるわけにもまいりません。ばん、と景気一発ロッカー閉めて、ついさっきまで有り得なかった延長戦へと向かいます。ええ、延長戦どころか、ロスタイムみたいなもんですけどね、それでもこう、やっぱ嬉しいじゃないですか。がっつりアゲアゲで、頑張っちゃいたいと思います。
 時刻を見れば定刻を5分ほど回ったところ。日和子さんが300秒も待っていていてくれたことに感謝しつつ、急いで休憩室から出ます。よーし、と気合を入れ直して、千歳鷲介、色んな人のお支えにより再出発させていただきます。
 というわけで。

「ぬるっと行こう!」


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Short Story -その他
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