おつかれさま。 -Description of a Calm

[da capo U short story]
 まだまだあちらこちらに雪の残る、しかし時折吹いてくる暖かい風に春の兆しを感じることのできる、三寒四温とまでは言わないまでも五寒二温くらいはあるであろう三月下旬のこと。

 おそらく今日は二温の方だったようで、朝夕はともかくとしてもこの午後二時台という真っ昼間、思わず出てしまったあくびを止めようとする気すら起きず、俺はのんびりと桜並木を歩いていた。
 雲一つとしてない、けれども桜の花びらだけは常に舞い続けている青空。今の時間に並木道を歩いているのは俺くらいなもので、しかし、それは俺が珍しく散歩をしているということではない。
 理由は簡単。きっと、見れば誰だって分かる。俺は今、学生服を着ていて。とはいえ、学園をサボって抜け出したわけでもなく。

 そう。
 今日は、終業式だったのだ。

 にも関わらずこの並木道、歩いているのが俺だけだというのは、そう大した事情があるわけではない。終業式が終わったの自体は時を遡ること一時間以上前のことで、杉並たちは早々に帰宅してしまっているのだ。

 ではなぜ俺はこんな時間まで学園に居たのか?
 答えは一つ。卒パで暴れた代償に、生徒会の仕事を手伝わされたのだ。俺だけ。

 おかしいと思ったのだ。HR終了後にまゆき先輩がクラスに乗り込んできて、「弟くん、ちょっといい?」なんて言ってきたのだから。そしてまた、その時点で杉並は――今考えると逃げたのだろう――教室から忽然と姿を消していたのだから。

 で、連れて行かれた先は体育館。つまりは終業式のお片付け。
 生徒会室の整理をやっていたという音姉はそこにはおらず、俺がようやく体育館の椅子を片付け終わって、音姉たちもとうに帰ってしまった――手伝ってくれても良かったのにと思わないでもない――この午後二時、こうして帰宅を許されたわけだ。
 終業式の日にボランティアに励んだ俺を、誰か褒めていただきたい。

 そんなことを思いつつ、思いも寄らぬ肉体労働にまるで休日の由夢のように重くなった身体を引き摺って、ようやくつい先日から住むことになった芳乃邸へとたどり着いた。
 ちなみに身体が重いのは乳酸的な意味だけでなく、実際、重いのだ。鞄が。だってそうだろ? 一年じゅう学校に保管しておいた勉強道具、それを一括で持って帰らねばならないのだから。こんな重みを毎日持ち歩きしている音姉や小恋、委員長の気が知れない。

「……あれ、開いてる?」

 そうして、玄関。鍵を差し込む前に念のため確認すると、家の扉に施錠はされていなかった。音姉か、あるいは由夢か。特に予想もせず、中へと入る。綺麗にこちらを向いて置かれている白いブーツが一組あった。音姉だ。

「ただいまー。音姉ー?
 ……うん?」

 返事がない。ただの……なんだろう? 音姉に限って、テレビに夢中で聞こえていないなんてことはないと思うのだが。
 ちなみに居間からはそのテレビの、年度末スペシャル番組であろうやかましい音声が駄々漏れになっている。音姉がこんなものを見ているとしたら、割合珍しい。由夢なら分かるけど。

 廊下をぺたりぺたりと歩いて、居間。戸を開けて。

「音姉、居ない――あれ?」

 よく言えば華やかな、悪く言えばやかましいテレビは付けっぱなし。
 そろそろ仕舞おうか、いやいや義之くんこたつは日本の心だよ仕舞うにはまだ早いよボクはこたつにみかんと日本茶の組み合わせが冬場の唯一の楽しみなんだよそれを取っちゃうのまだ早いって、な感じのこたつの周りには誰も座って居らず。
 テーブルの上には、当のみかんの入ったカゴと、食べ終わったみかんの皮が1つ残されていて。

 そして、戸を開け入った俺の足もと。
 お腹から下をこたつへすっぽり入れて、穏やかな顔をしたまま仰向けに転がっている音姉が居た。

「……珍しい」

 何が珍しいかって、そりゃもう珍しくないことを探す方が難しいくらいに珍しい。
 音姉が昼寝をするのが珍しい。しかもテレビも電気もつけっぱなしなのが珍しい。横を向いているわけではなく仰向けなのも珍しいし、こうも無防備に寝入っているのも珍しい。
 大の字というわけでもないが、両腕はこたつから出して畳に投げているし、その寝顔も安らかというよりむしろ幸せそうにすら見える。上下に動く小振りな胸もゆったりとしたリズムを刻んでいて、その穏やかさはテレビから流れる騒がしさとは不釣り合い。

 俺は音姉を踏まないよう気を付けながら、とりあえずテレビと電灯を消した。
 途端、一気に音は消え去り、視界もまるで夕方かのように暗くなる。この居間にはガラス窓がないせいだ。

「でもまだ、ちょっと明るいか」

 差し込む光。遮断するために台所と廊下に通じる障子も閉めると、居間は一層暗くなった。これなら安心して眠れるだろう。
 そしてこたつの電源を切るためにぐるっとテーブルを迂回して、いつも電源コードがある場所に目を懲らす。
 が、そこにスイッチはなぜか無くて。

「……あれ?」

 暗いせいではない。確かにあるはずのコード、忽然と姿を消していた。
 仕方ないのでコンセントからつつつ、と線を辿っていく。いつもと違う軌道を描く電源コード。おそらく無理が多少あるのだろう、ぴんと張られたソレ、コンセントから続くその先、オン・オフのスイッチがある部分は滑らかなその綺麗な手に握られていた。当然、オフになっている。

 ……笑ってしまう。
 テレビも電気も付けっぱなしで、みかんの皮さえテーブルに残したままなのに、でもこたつの電源だけは落としたのだ、音姉は。きっと今にも寝てしまいそうなくらいに目蓋を揺らしつつも、風邪をひいてしまうからとこたつだけは切ったのだ。
 だから、笑ってしまう。その光景がありありと思い浮かんでしまうから。

「う……ん……。……おと……と……くん」

 曖昧な寝言。
 起こしてしまったか。音姉を見れば、だがしかし、そうではなかった。けれども、さっきとは違いちょっとだけ寝苦しそうで、首を振るように、頭を少し揺すっている。床に流れる長い髪も、ふわりふわりと左右に揺れて。

 それで分かった。
 仰向けで下敷きにしている、あの大きなリボンが邪魔なのだ。

 音姉が寝るときは、大抵テーブルに腕をついてのうつ伏せか、横向きか、あるいは髪を下ろして仰向けかだ。いつもの格好のまま仰向けで寝ているのを珍しいと思ったが、それも当然、今のようにそうして寝ていると、あのでかいリボンがその安眠の邪魔をするのだろう。きっとこたつのコードをその手から解放したときに、姿勢がずれたに違いない。

 本当に、手のかかる。
 いつもお姉ちゃんぶって、それなりにしっかりもしているくせに、ときたまこうして無防備に、ちょっとだけ間の抜けたことをしてくれる。そしてまたそこに俺が音姉の音姉らしさを見ていること、きっと音姉はそれをもなんとなく分かっていて、だから普段はより一層お姉ちゃんぶって。
 それでも結局、こうなるのだ、音姉は。

「――ああ、そっか」

 ちょっとだけ眉をひそめつつ、寝入っている音姉を見てはたと気付く。
 音姉が俺が生徒会の手伝いをしている最中に、先に帰ってしまった理由。普通であれば無理をしてでも仕事を率先してやる音姉がそんなことをするなんて、とどこか不思議には思っていた。

 きっと、音姉は疲れていて。
 まゆき先輩はそれを察した上で、音姉をさっさと家に帰したのだろう。

 そしてその判断はすこぶる的確だったと言っていい。あの音姉が、何もかもつけっぱなしで――こたつは消したけど――昼間っから寝てしまったくらいなのだから。
 疲れもする。生徒会の役員として卒業式の準備をし、卒パでの俺たちの暴れっぷりを抑えもし、終業式でも仕事をして、今思えばこの三月、音姉が休んでいるところを見たことがなかった。来年は生徒会長に立候補するというし、その責任の意味も含めて仕事に打ち込みすぎてしまったに違いない。

 であればその結果のこの昼寝、今まで気付いてあげられなかった代償として、俺は音姉を休ませなければいけないと思う。

 音姉の部屋まで運ぶことはできないだろう。さくらさんや俺の部屋までですら、起こしてしまう可能性がある。では布団だけ持ってくる? テレビの音で起きなかったとはいえ、あまりどたばたするのも忍びない。
 だから。

「……今日だけだからな」

 寝ている顔にそう言って、音姉の頭をゆっくりゆっくりと、慎重に持ち上げる。そのまま上半身も少しだけ持ち上げて、俺は壁に寄りかかりつつ、音姉を後ろからかかえるようにして抱き留めた。
 音姉にとっては、まるで俺が椅子のような役目をしているこの体勢。俺は恥ずかしくていつも拒んでいるが、音姉はこの格好がとても好きだと常々言っている。温かみが感じられるから、だとか何とか。そんなことを面と向かって言われて、恥ずかしくないわけがないだろう?

 でも、今日は寝てるから。
 そんな言い訳をしつつ、音姉のリボンと髪を俺の肩口から後ろへと流し、小さな頭を自らの首筋に押しつける。ぐっと身体全体にかかってくる、音姉の重みと柔らかみ。疲労のせいか、重責のせいか。少なくとも支えてあげなくてはと思うくらいに、そこには確かな重みがあって、当然、俺はそれを後ろからぎゅっと支えてあげた。

 そうしてしばしのち、ふっと音姉の身体から強ばりが抜けていく。呼吸音すら聞こえそうな、すぐ近くにある音姉の顔、その表情もかつてない程に休まって。思わず頭をゆっくり撫でると、眉は更に垂れ下がった。
 さらさらとした長い髪は、撫でているこっちすら心地よくなってくる。更にこたつを切った部屋、音姉の身体の温かみが密着している部位からより強く感じられて、それもやっぱり心地よく。壁に背を預けたこの体勢、まるで音姉にとって俺が椅子であるかのように、俺にとっては音姉が湯たんぽのごとき役割をしているかのよう。

 意識する間もないままに、俺の身体からもふっと力が抜けていく。
 暗闇。静穏。しかも暖かくて。更に言えば、俺はいま、肉体労働を終えて帰ってきたばかりなのだ。

 だから、眠くなるのも仕方ないだろう?

 姿勢を変えないまま、音姉の首筋に埋めるように頭を落とすと、重いまぶたは自然と落ちていった。安心できるのは香りか、あるいはその体温か。ぐっと腕で温かみを抱え直し、その感触に深い安堵を覚えて、だから、

「お疲れさま、音姉」

 忘れず、そう言って。
 穏やかな感情とともに、俺もまた意識をふっと手放したのだった。
 ……たまには二人で昼寝もいいかなと、そんなことを思いながら。

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Short Story -D.C.U
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