コーヒーを飲む話 -Drinking Coffee
[da capo U short story]
かち、かち、と時計が嫌味な音を刻んでいく。
その針は長い方ですらほんのちょびっとしか回ってはおらず、短い方に至っては故障しているのかと思うほどに微動だにしてはいなかった。
――いや、きっと故障しているに違いない。
そう思った俺はふとその時計に手を伸ばす。
絶対的な客観性を維持するその時計という代物が壊れていたら、その影響は主体性にも圧倒的な力を持って迫ってきてしまう。それは、してはいけないこと。
そうして、腕が時計まで伸びたとき。
「こらっ! 弟くん、何やってるの!」
ぺち、とその手をはたかれた。
「ああいや、時計が壊れてるんじゃないかと思ってさ……」
「んもう、さっきもそんなこと言って時計をいじろうとしたばっかりじゃない。
私の腕時計もちゃんと同じ時間を指してるもん」
「じゃあきっと音姉の時計も――」
「はいはい、無駄口叩かないでさっさとやる」
うぐう、とうめき声を出して俺は渋々机に向き直る。
……いつもなら漫画でも読んでいる時間帯。しかし今日は部屋に音姉を迎え入れて、俺はあろうことか勉強などというものに励んでいた。
理由は俺が危機感に苛まれついに覚醒した――――というわけではなく、先日、ひょんなことからテスト前の勉強をサボっていたことが音姉にバレてしまったのだ。それを知った音姉は「流石に弟くんもテスト前はちゃんと勉強してるって、お姉ちゃん安心してたんだけどな」なんてお怒りになられて、哀れ俺はこの期末試験前日という今日この日、自室に軟禁されてしまったというわけだ。
ちなみに軟禁される直前、由夢が憐れみつつもバカにしたように俺を見ていたことを付け加えておく。ちくしょう。
「分からないところがあったら教えてあげるから、ね?」
「いや、なんというかその」
テーブルの向かい側に座って俺のノートをのぞき込みながら、音姉がそんなことを言ってくる。
私服だけれど、テンションはさながら生徒会長だ。
「うーん……」
だいたい分からないところがあれば、なんていうのは勉強する気もあってそれなりに勉強ができる学び手に対して言うことだと相場は決まっている。
俺たちのようなドロップアウター――いわゆる落ちてこぼれた人――は、そもそも分からないところが分からないし、そこが分からないからって分かろうとすら思わない。分かる努力をするくらいなら、分からないままであることを選ぶ、そんなような人間なのだから。
それに加えて、分からないところを埋める、というのは、いわば知識の穴を埋めるようなもので、「穴」という欠落を生むためには穴を許容するだけの下地が必要なわけだ。何もないところに穴はできない。穴は相対的なものだからだ。
言語とは他との差異を示すとかなんとかって、誰か偉い人が言ってなかったっけか。すなわち「穴」という言葉というか概念自体が俺に不適合というかなんというかその。
「こらっ」
「あいたっ!?」
「また何か別のこと考えてたでしょ。全然進んでないじゃない」
「うう、なんか疲れたんだよ……。
休憩しようよ、音姉」
「もう、今さっき休憩したばっかりじゃないの」
音姉が時計を指差し、俺もそちらへ視線を向ける。機械仕掛けのにっくきアナログ時計の長針は、やっぱりほとんど動いていなかった。
だがしかし!
時間という概念が絶対的だという観念は人類が既に百五十年前に破棄している。相対性理論によりニュートンの提唱した絶対時間の概念は崩壊し、時間の流れ方は観測者ごとによって違っているというのが既に定説。
俺と音姉、そして時計との間の距離は光速に比べて無いに等しいから、時間の流れがおかしいのは時計であるという結論が必然的に導き出される。Q.E.D.
「――というわけで、時計の時間の流れがおかしいんだよ、音姉。
きっと俺の時間はさっきの休憩から一時間くらいは経ってるはずだ。主観的に」
「……はあ、なんかよく分からないけど、じゃあちょっとだけ休憩ね。
何か温かい飲み物持ってくるから」
「ん、ありがと」
「お礼を言うくらいなら、ちゃんと勉強してよ〜」
対面に座っていた音姉は呆れつつも立ち上がり、部屋を出て行った。
その姿を見送って、ぐへあ、と机に突っ伏す。このまま溶けてしまいそうだ。主に脳が。
「だいたい、こんなのやって何の役に……」
突っ伏した顔、そのまさに目の前にあったノートに対して愚痴る。
xだとかyだとか、もはや意味不明な幾何学模様にしか見えない。そもそもなんで外国語なのか。イとかロじゃダメなのか? ”方(イ)=係イ+定”、とか。
……なんか余計に分かりづらい気もする。
「にゃはは、義之くん、疲れてるね〜」
「あー……、ええ、もうなんというか、音姉厳しくて。
自業自得でもあるんですけど」
「音姫ちゃん、こういうところは譲らないもんね」
背後。ドアから軽い足取りで入ってきたのは、飲み物を持った音姉ではなくさくらさんだった。相変わらずノックしない人だ。
机に突っ伏した顔をあげる。すぐ横にはさくらさんの顔。
俺の背中にのっかり、肩口からノートをのぞき込んでいるらしい。軽くていまいち気付かなかった。その長い綺麗な髪が頬をなでてもいて、なんだかとってもくすぐったい。
でも意識すればちゃんと温かみもあって、なんだか娘をおんぶするお父さんのような気分。
さくらさんはそんな俺の気分を知って知らずか、ぐいっとさらに体重をかけて、机に顔を近づけた。
ん〜、なんて言いつつ文字を眺める仕草は見た目相応に子供っぽい。言うと怒られるから言わないけど。
「へー、結構きちんと勉強してるんだ。えらいえらい」
「いや、えらいのは俺じゃなくて、むしろ音姉というか……。
あ、そういえばさくらさん、この問題分かります? 杉並が『これはバルキスの定理で解けるぞ』とか言ってたんですけど、音姉も聞いたことないらしくて……」
「……義之くん、それ、騙されてるかも」
「マジですか!?」
道理で調べても分からないはずだ。
というかそもそも、音姉が「そんな定理、聞いたこと無いよ?」といった時点で気付くべきだったか。
いやいやその前に、杉並の言うことを信じた俺が浅はかだったか? うーん、深い。
そのまましばらくノートを眺めていると、さくらさんが自分の腕を伸ばしてぱらぱらとページをめくりはじめた。
めくるたびに「へー」とか「ほー」とかいうもんだから、なんだか恥ずかしくてしょうがない。音姉の添削だらけだ。
そうこうするうち、こんこんとノックの音。
俺より先にさくらさんが返事して、かちゃりとドアが開かれた。
「はい、弟くん、さくらさん、コーヒーと甘いもの、持ってきましたよ。
あ、さくらさんは緑茶の方が良かったですか?」
「ううん、ありがと、音姫ちゃん。ありがたくもらうよ」
「……あれ? 音姉、俺の分の饅頭は?」
「弟くんは勉強中なんだから、コーヒーにお砂糖多めにしといたから」
平然と音姉が言う。
つまり食い物は無し、ということですか。そうですか。
腹が膨れると血流がどーたらして眠くなるとはよく言うが、悲しいことにそんな正論では俺の精神力は回復しない。
まあ、かといって自分で饅頭出して食うのも虚しいだけなので、仕方ない、この場はコーヒーだけで我慢することにしよう。
ちょっとヤケ気味に砂糖を更に加える。
音姉が少し驚いたようにその仕草を見ていたが、うん、俺もやってからちょっとだけ後悔。人間、アツくなるとロクな結果は引き起こさんね。
「それじゃ、少しだけ休憩、ということで」
音姉がそう言って、あわせるように俺たち三人は各々の飲み物に口をつけた。
ふんわりとした温かみ。眠気とは違う、心の底に染み入る心地よさ。見れば音姉もさくらさんも、とても幸せそうな表情を浮かべていて。
ああ、なんかとっても幸せなんだなあと、どこか他人事のようにその温かさを噛みしめる。
「あはは、美味しいね〜。さすがは音姫ちゃん。
ああ、可哀想な義之くん。こんな美味しいお饅頭が食べられないなんて。よよよ」
「分かってるならそんな美味しそうに食べないでくださいよ……」
「ごめんごめん、でもだって美味しいんだもん。ね、音姫ちゃん?」
「ええ、とっておきを出してきましたから。
勉強が終わったら、ちゃんと弟くんの分もあげるから。ね?」
「はいはい、分かってますよう」
いじけた風に声を出すと、音姉は呆れたように息を吐き、さくらさんはおかしそうにまた微笑んだ。
なんて、温かい。
そうして俺はコーヒーに再び口をつける。
温かい。苦みなんてどこにもなくて、甘ったるい感触だけが、もう一度口内へと広がった。
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