You've got Myμ

[da capo U short story]
 休日の昼下がり。寒いとも暑いとも言えぬ気候に誘われて、ついつい家を飛び出してしまった。
 ちなみに由夢も誘ったものの「かったるい」の一言で却下。今頃家でごろついていることだろう。あのごろつきめ。

 そんなわけで誰か知り合いでも居ないものか、などと期待しつつ商店街をぶらついている。
 娯楽なんぞそうそうないこの初音島、人が集まるところといえば商店街、あるいは桜公園とその近くの甘味屋「花より団子」くらいしかない。今までのことを省みても、知り合いと会うのはこの三カ所が多かった。ただし杉並を除く。あいつは神出鬼没すぎる。

 ゲームセンターで時間でも潰すかと視線を回したとき、やけに甲高い声が耳に入ってきた。

「貴様! この美夏を愚弄する気か!?」

「いえ、ですからその……」

 ……。あえては言うまい。
 知り合いに会いたいとは思っていたが、問題に巻き込まれるとなれば別だ。ましてやどこかの店員に啖呵を切っている後輩に声をかけるなど、そんなかったるいことは勘弁願いたい。
 触らぬ厄介ごとに祟りなし。ましてや歩けば必ず棒に当たるような犬だ、あいつは。

 右足を半歩下げ、右回りに半回転し、右足を引き戻す。完璧な反転。ゲートルをつけていたら「ビシィッ!」と音がしたに違いない。
 そのまま何事もなかったように歩き出す。ぴーぴーぴー、なんて口笛を吹いてみたりして。

「……む? おい、桜内!
 丁度良かった、こいつを何とかしてくれ!」

「ぴーぴーぴー……ぴ?」

 なぜか気付かれた。あのホルスタイン帽の中には、背面用暗視スコープでもついているのか。
 決して口笛が徒になったとか、そういうわけではないだろう。たぶん。

 ばさっと仮想マントを翻して、仮想ハットのつばを深く押さえながらわんこに振り返る。

「悪いがお嬢さん、私はサクライなどという名ではない。
 私は初音島の秩序と平和を守るヒーロー、その名も――」

「こいつが何を言っても聞く耳持たんのだ。
 桜内、どうにかしろ」

「ってスルーかよ!」

 そもそも天枷は天然派のボケだった。ツッコミを期待するのは野暮だったかもしれない。

 そんなことを思いつつ見ると、店員は苦笑いしながら「やっと助けが来たと思ったのに、また頭おかしい奴かよ」という目をしている。
 よくそんな目で客商売ができるな、という言葉を喉の奥で飲み込んだ。ちょっとだけ喉から出ちゃったかもしれないけれど。

「で、こいつがどんな馬鹿なこと言ったんですか? あとで叱っておくんで」

「んなっ!? 桜内、貴様は誰の味方をモガガ」

「……で?」

 天枷を抑えると、幾分安心した様子で「実は……」と事の顛末を話してくれた。

 どうやら彼はμ販売店の店員のようで、店外で製品整理をしていたところ、天枷が噛みついてきたのだという。
 ……無論文字通り噛みついたわけではない。

「整理って、何してたんですか?
 その、店の外でμをパーツに分解してたとか、そういうこと?」

「いえいえ、そんなことはしませんよ。
 ただ展示説明用のμを梱包して、本社に返送しようとしていただけです。
 そうしたところ、こちらのお客様が、その……」

 噛みついた、ということらしい。
 店外なのはそもそも外向けに展示してあったμの配置転換だったからだろう。それを偶然天枷が目にしてしまった、と。
 見る限りわりと丁寧な物腰の店員だったが、それでも店員は店員、μの扱いは単なる商品扱いと同等だ。「梱包」「整理」といった言葉の端々からそれは伺える。
 そうしたことに天枷は我慢ならなかったのだろう。そういうやつだよ、こいつは。

「モガガ――モグッ!」

「痛っっっっってええええええ!!!」

「はあ、はあ……だからそれがいかんのだと言ってるだろう!
 店員のクセに知らないとは言わせんぞ、保証期間の切れたμが本社でどういう扱いを受けるのか! ――あいたっ!?」

「ほんとに噛む奴があるか!」

 噛まれた仕返しに思いっきり頭をブッ叩いてやった。唸りながら白黒帽を抱えてうずくまる天枷。自業自得だ。

「すみません、この馬鹿がほんとに。こいつは俺が連れて行くんで、仕事に戻っ――」

「だああああ! バカバカ言うな! バカは貴様だ、桜内!
 あのμは返送されたあと、スクラップにされるんだぞ!? 黙って見送れとでも言うつもりか!?」

「胸ぐらを掴むとは良い度胸を――――は?」

 その手を外そうとしたところで、何かとんでもないことを言っているのに気付いた。
 天枷の大きな濃紺の瞳も震えている。最近見せることのなかった憎悪の感情が、そこから微かに見て取れた。

「なんだ、本当にバカなのか? 美夏に同じ事を二度も言わせるほど?」

「い、いや、分かる。分かるけど……本当なのか、それ?」

「美夏がこんな所で嘘を吐く理由がないだろう」

 天枷の表情は真剣だ。いや、言っていることが真実ならば真剣にならざるを得ないだろう。
 スクラップにするための返送。いくらμがロボットだとはいえ、非人道的だとしか思えない。

「いや、それはその、ですね」

 店員はそれを聞いて、否定とも肯定とも取れない曖昧な返答に終始している。
 嘘を吐かない理由はすぐに知れた。

「チーフ、作業予定時刻が大幅に遅れています。お急ぎを」

 隣に、その当のμが現われたからだ。

 作業、というものの結末を知っているのかいないのか、メイド姿をしたそのμは店員に対して忠告をしに来たらしい。
 自らの破壊を知らずに死を急ぐようなその態度に、えもいわぬ感情が沸くのを抑えられない。

 それではあまりにかわいそうじゃないか。
 勝手に作られ、働かされ、時間が過ぎたらスクラップで、その作業すら自ら行い、しかもその結末を知る術はない。
 天枷でなくとも、真相を知れば人間嫌いになろうものだ。

 しかし手出しできるものではない。せめて彼女を焼き付けようとしたとき、絶句した。
 袖摺り会うも多生の縁とはいえ、さすがにひどすぎやしないか。彼女に多生はないのだから。

 どうして彼女なのだと、俺は誰かに問い質したくなった。

「これは義之様。ご購入のご相談でしたら他の者が参りますが?」

「ああいや、そういうわけじゃ、ないんだけど」

 たった二、三日、それも彼女は仕事として会っただけなのに、妙に胸が締め付けられる。
 会ったこともないμが売られていく現実はどうしようもない。生産される数だけスクラップになる数があるのも分かっている。
 けど、彼女が壊されるのは我慢ならなかった。

 偽善だと罵られようと、そう思ってしまうのだからしようがない。
 きっと天枷も同じ気持ちだったのだろう。たまたま、本当にたまたま、スクラップになる運命だったμに出会ってしまった。そしてそれを知ってしまった以上、噛みつかないわけにはいかなかったのだ。

 天枷のことをバカにできないな、これでは。

「ごめん、訂正。買う。キミを、買う。
 返送するくらいだから、まだ売れていないんだろ?」

「さ、桜内?」

 天枷の声を無視して、店員を見る。マヌケ面が目に入った。
 もう一押し。

「買いたい、って言ったんだけど? 値段も出さないわけ、ここは?」

「えっ? あ、は、はい、ただいまお持ちします。少々お待ち下さい」

 そう言うと店員は、μを伴ってあたふたと店の奥へ。こうも露骨に現金だと、見下す気にすらなれない。
 俺と天枷は別の販売員に促されるようにしてカウンター席へと座った。

「桜内……。美夏は桜内のこと勘違いしていた。見直したぞ」

「ここで引くわけにはいかないだろ。
 俺はもともとこういう男だ」

「うむ。さすがは美夏を起動させただけのことはある。
 μを買うだけの金を隠していたとはな! まったく気がつかなかった」

「……」

「む、戻ってきたな」

 先ほどの店員が書類を持って戻ってきた。どこかナメた表情なのは間違いない。
 ”製品”の説明もそこそこに、数字が書かれた紙を差し出してきた。先頭には¥のマークがついているやつ。

「いちじゅうひゃく……じゅうまんひゃくまんせんまん……うひゃあ、すごいなこれは」

「……」

「どうした桜内? ここはどーんと!
 ああ、そうか、そうだな、これだけの額をキャッシュで持てるわけもないか。カードだな?」

「……」

「あれだけ古風な家に住んでいながら、カードの残額はこれだけあるのか。
 いやいや、この美夏、心底感服した」

「……だろ」

「お、おい、桜内?」

「あるわけないだろ、こんな金!」

「逆ギレ――!?」

「あの、4800回払いとか」

「無理ですね」

 にべもない。
 ああいや、分かっちゃいたんだ。買える額ではないことくらい。μの値段は以前μ自身から聞いていたのだから。
 それでも男として、見栄を張った以上突き進むしかないだろう?

「桜内……」

「なんだよ、天枷」

「貴様今……最高にカッコ悪いぞ」

「……」

 返す言葉もない。江戸時代なら啖呵を切って「表へ出ろぉい!」で済むが、悪いが今は西暦2050年代の現代だ。
 世の中道義を通すのもカネか、カネなのか!

「それで、どうします? やめます?」

 浮ついた調子の店員が恨めしい。こうなることは分かっていたに違いない。
 恥ずかしさよりも悔しさが先に立つ。

 人間にロボットが蹂躙される。天枷が持つ悔しさと根本は同じだ。
 彼女はそれを世界征服というものに昇華させようとしていた。つまり、それほどまでに困難なことなのだ。

 件のμは無表情のまま、少し離れた位置からこちらを見ている。
 契約の席には同席できないのだろう。なんせ自分自身の取引なのだから。

 どうしたものか。
 睨んだところで額面が減るわけでもないのだが、呈示された数字を睨んでいると、ぽんと肩を叩かれた。

「選手交代だ、桜内。
 お前の侠気、とくと見せてもらった」

 声は天枷ではない。天枷以外で、俺を「桜内」と呼ぶ唯一と言っていい人間は。
 というかそもそも、これだけ気配を断って行動する人間は。

「お前がそんなこと言うなんてね……」

「義を見てせざるは勇なきなり。この杉並、売買交渉に一役買おうではないか。
 天枷嬢もそれでいいな?」

「あ、ああ。美夏に異存はないが」

 俺と天枷の言葉を了承と取ったか、杉並がカウンター席にどかっと座り込んだ。そのまま書類をさっと一瞥する。
 どこから聞いていたんだとか、そもそもなんでここに居るんだとか、そういった疑問は杉並には通用しない。
 それはもう、杉並だからである。神が七日で天地を作ったことくらいに自明だ。

「ええっと、すみません、こちらの方はお客様のお知り合いで……?」

 店員が「いい加減帰れよ」という表情で聞いてきたので、俺は黙って頷いた。
 それもそうだろう。ウン千万円の売買に詰め襟学ランの男が来るのは場違いだ。

 それが、杉並でなければの話だが。


       ○  ○  ○


「さて、店長。そっちが呈示した額はよもやこれではないだろうな?」

 そう言って、先ほど差し出された紙をひらひらと振る。
 というか、店長? この人店長なの?

「ええと、それが定価となっておりますが……」

「ふざけるな。定価などパンフを見れば分かる。
 俺が聞きたいのはいくらで売るつもりなのか、だ。まさか実働展示品だったμを新品と同じ値段で売る気ではあるまい?」

 おお、巧い。気付かなかったが、確かにそうだ。
 パソコンなんかでは、展示品の処分はかなり値が下がっていることが多い。

「もうしわけありませんでした、お客様の仰るとおりです。
 ではここから一割差し引いて……」

「一割?」

「あ、いえ、では二割を……」

「ふむ。まあそんなところだろう。
 では次、このμは保証期間が切れているな? にも関わらず補償費の5%を上乗せするのは詐欺にならんかね?」

「それも仰るとおりです。申し訳ございません。
 ではここから5%を引いて……」

「そういえばこのμ、次々世代機が既に発表されているな?
 俺たち以外に買い手がつくとは思えんが? もちろん既に生産中止の交換用パーツも付属するんだろうな?」

「かしこまりました、ではここから……」

 唖然とする。天枷も同様に驚いているようだ。
 電卓の数値がどんどん下がっていく。

「次だ。俺が思うにこのμ、本島でも説明用として使われていたな?」

「と、申しますと?」

「こんな辺鄙な島で新型を展示品として使用するものか。本島での展示会やら店頭展示で使い古されたものを、最後の最後に辺境地での展示用に設置する。常識だ。
 出せとは言わんが、このμの駆動時間は保証対象外レベルじゃないのか? 特に足先の金属疲労は相当なものだぞ?」

 いつ調べたんだ、そんな所。
 店長の反応を見る限りどうやらそれは事実のようで、更に値段が差し引かれた。

「ちなみに本社返送との話だが、返送によるリベートについても調べはついている。
 ずいぶんシケた金だとは思わんか? フランチャイズとしての足下をいいように見られているではないか」

「いえ、それに関しましては我々としては何とも……」

「その程度の金は出すと言っているんだ。スクラップされるよりも、店員として精神的に楽だろう?」

「わ、わかりました。ではリベート分まで値段を下げましょう」

 おお。一気に値段が1ケタ下がった。これはすごい。
 リベートってこんなものなのか、と感心していると。

「この期に及んでシラを切るのか。大した根性じゃないか? んん?」

「申し訳ございませんが、リベートの値段についてはこの辺りが実状で……」

「俺は”この型番遅れのμについてのリベート”の話をしているのだ。
 新品在庫の引き取り価格など誰も聞いてはいない」

「申し訳ございません、お客様は本製品の会社の関係者で――」

「その辺は想像にお任せする。が、会員証なんぞは作らん。
 客に貴賤も優劣もなかろう? 我々はただ交渉をしているのだ」

「は、仰るとおりでございます」

 値段が更に1ケタダウン。なんかもうスポンサーとプロデューサーの関係のようにすら見えてきてしまった。
 天枷は暇そうに周りをキョロキョロ見回している。

「ではこの金額で……」

 店長が呈示している値段は最初よりも2ケタは下がっていて、さくらさんに相談すればなんとか工面できそうな金額になっていた。
 俺が承諾しようとすると、杉並の手が俺の膝を押さえた。まだ何かあるらしい。

「さて、最後になったが。
 店長?」

「なんでございましょう?
 これ以上はさすがに……」

「いやなに、ヒトリゴトだ。
 あるμ販売店の去年の売り上げは――円だったのだがな、これがなぜか税務署には××円としか申告されていないんだと」

「……」

 おい、これはもしかして。

「おかしいと思わんかね。まさか売り上げを過少申告だなんて、そんなことがあるわけないのにな。
 節税だか脱税だか知らんが、それが知れれば本社の怒りを買うのは免れまい。本当の話なら、だが」

「あの、その話をどこで……?」

「ん? ああいやすまん、ヒトリゴトが聞こえてしまったか?
 なに、気にするな。ちなみにその店の売り上げは――円、経常利益は○○円、販売個数は……」

「ああ! ええっと、その、お客様!
 ただいまキャンペーン中でして、どうでしょう、あちらのμなんかは? 先着一名様に無償でご提供させていただいているのですが!?」

 店長の目の色が変わった。マジなのか、これはマジなのか!?
 その指し示す先にはショーウィンドウに飾られてる新発売のμ。値段は最初に呈示された金額より1ケタ多いから、最新作なのだろう。

「ふむ。だ、そうだ」

 一息ついて、杉並が目で「どうだ?」と聞いてくる。
 こいつを敵に回さないで良かったと心底思った。

「俺が欲しいのはあのμじゃなくて、この子だよ。
 いいかな、店長?」

「それはもう! どうぞお持ち帰り下さい! 何でしたらあちらの新作も是非……」

「だからそれはいいって」

 まあ型遅れのμでは口止め料には足りないと思うのも当然だろう。
 それならそれで、何か困ったらまたここを利用させてもらえばいい。こんなことを考える辺り、俺も割と悪い奴かもしれない。

 店長になんやかやと話をされている杉並の隣で、天枷はどこから持ってきたのか黙々とバナナを食べていた。
 飽きると嫌いなものを食うのすら厭わなくなる、とでもいうのだろうか。

「義之様」

「うん? ああ、キミか。
 これでその、俺がキミを買ったことになるわけだけど」

 なんかもう、買うとか様付けとかそういうのは慣れてしまった。
 ああいや、慣れるっていうとまた誤解されそうな。μに対するときだけ羞恥心がなくなった、というべきか。
 ……なんでこんなに自己弁護しなきゃならんのだろう。

「お買い上げありがとうございます、義之様。
 初期設定は今ここでなさいますか? それともご帰宅後になさいますか?」

「えーっと、普通はどうするのかな」

「通常、μは電源を落としたままご自宅まで配送されますので、私の場合は特殊ケースとなっております。
 類例はございません」

「ああ、そっか。
 それじゃあ……わかった、帰ってからにしよう」

「かしこまりました。
 それと、義之様」

 店長と詰めの話をしようとすると、μが一言付け加えた。

「本当に、ありがとうございました」

 どこかぎこちない、店頭で見せたのとは若干の違和がある深いお辞儀。
 知ってたんだ、彼女。

「ああ、いいよ。
 それに俺が頑張ったの、途中までだったしね」

 苦笑する。
 彼女は驚いたような、わずかに首を傾げたような、それでいてどこか微笑んだような、そんな言いようのない無表情を形作った。
 もちろん、俺の気のせいかもしれないけれども。

「さて、それじゃ行こうか。
 今日から住むことになる家に」

「はい。了解しました」



 ――こうして。
 我が家にμが来ることになった。


       ○  ○  ○


 で。

「なんでお前まで来てんの?」

「なんだ、窮地を救ったこの俺を邪険にするのか?」

「いや、お前じゃなくて、そこのバナナ」

「誰がバナナか――あがあっ!?」

 仕様書とにらめっこしていた天枷が、思いっきり顔を上げて叫んだ。
 その拍子で寄りかかっていた壁に後頭部をぶつけたのは、貴奴の頭がでかいせいにしておこう。バナナの名誉のために。

「こたつに入れば、壁に頭ぶつけることはないぞ?」

「やかましいわ!」

 涙目で反論してくる。凄い音したもんな、ゴツンって。

 まあ天枷には、今こたつの内部で繰り広げられている格闘技は辛いものがあろう。ムエタイも真っ青の足技オンリーだ。
 あれ? ムエタイって足技だったっけ? ま、いいか。

「あの、よろしいでしょうか?
 お茶が入りました」

「ありがとう。大丈夫だった?」

「はい。私どもはこれが主なお仕事ですので。
 一般的な調理場であれば、一通りの雑事はこなすことができます」

 どのくらいのことができるのかな、という疑問もあり、μにはお茶を入れてくれるよう頼んでいたのだ。
 手元に持つ盆を見る限り、そのくらいはまさにお茶の子さいさいといったところか。

「ふむ……。その仕草はここが和室だからか?」

「仰るとおりです、杉並様。もちろん、義之様の意向があれば変更することが可能です」

「ほう」

 μがお茶を持ち、俺と杉並の手元に置いた。天枷のところにも運ぶ。

「どういう意味だよ、杉並?」

「考えてもみろ。このμの服装は欧米式だろう?
 ならば茶を運ぶ場合、立っての動作が基本となる。向こうはテーブルだからな。
 しかし今、彼女は正座しながら襖を開けた。和式の作法も身についているし、しかも今が和式に従うべき状況であると判断を下せたことになる」

「はー、気付かなかったけど凄いんだな」

「主人に気遣いを悟られぬことが、一流のメイドの条件だぞ。
 板橋あたりに聞けば、懇切丁寧に教えてくれるだろうよ」

「それは勘弁……ん、美味しい」

 温度も濃さも、全く問題がない。
 安い茶葉しかなかったはずだが、それでこれなのだから恐れ入る。俺もここまでうまく入れられるのは三回に一回くらいだ。
 ちなみに由夢は百回に一回もできない。

「よし、だいたい分かったぞ」

 お茶の味なんぞ分からない天枷は一息でそれを飲み干し、仕様書を閉じた。
 すっくと立ち上がる。

「何が分かったんだ? 頭をぶつけない方法か?」

「しつこいぞ、桜内!
 ……美夏はエモーショナルサーキットのリミッター解除方法と、外部接続端末の除去方法を探していたのだ」

「エモーショナルサーキット……?」

 そういえば、天枷が商店街でμを見かけたとき、そんな言葉を口走っていた気がする。
 直訳すると感情回路、ってところか? そのリミッターというのだから、言葉通りの意味だろう。

「美夏さん、申し訳ないのですが、それには管理者権限が必要です」

「わ、分かっている。
 桜内、まさかリミッターをかけておいたほうがいいなんてことは、言わないだろうな?」

「あ、ああ、俺に異存は――」

「美夏嬢」

 俺が許諾の意を示そうとしたら、杉並が口を挟んだ。茶を一口含み、間を空ける。

「エモーショナルサーキットを今解放した場合、その感情はどこに向かうか、予測可能なのか?」

「どういうことだ?」

「今の彼女は感情が抑制されている。それは感情が生まれているが意識される前に抑制されているのか、感情が生まれ意識もしているが表に出すことを許されないのか、どっちだ?
 後者である場合、例えば冷静ではあるが心の中でははらわた煮えくりかえっている、という状況もあり得る。
 相当人間に酷使された身であろう。その抑圧が爆発した場合、惨事になりかねん」

「杉並、お前なあ……!」

「そういう考え方もできる、と言っているだけだ。そもそもそういったことを抑えるためのリミッターでもあろう。
 それを外すリスクを認識しないまま、ただ漠然と人間性を得るためなどと言う綺麗事で物事が通るほど、人間は純朴でも単純でもない」

 そこでまた茶を一口。
 隣では当のμがおかわりを注いでいた。わりと高性能な部分があるのだから、自分の話であることくらい分かっているとは思うのだけれど。

 ……ああそうか。彼女はそう言えば、自身の売買の場でも口を挟んでいなかった。

「キミはどう思う?」

「何がでしょうか、義之様?」

「キミは自分についてるエモーショナルサーキットのリミッターについて、外すべきだと思う?」

「申し訳ありませんが、お答えできません」

「どうしても?」

「お答えできません」

 質問を変えよう。

「どうして答えられないの?」

「……」

 表情は変わらないが、μは珍しく言葉に詰まっているようだった。
 考え中のように見えないこともない。ちょっと意地悪だったろうか。

「まあ、その辺にしておけ、桜内。
 流石にプロトタイプが熱暴走でも起こされては、修復は不可能だ」

「お前が言うか」

 そして示し合わせたように、一口。
 ちょっと冷めてきたかな。飲みやすくていいけれど。

「な、なんだ? 今ので何が分かったのだ?」

 天枷が俺と杉並の顔を次々に見比べる。
 μが分かったのになぜお前が分からないんだ、天枷……。

 彼女ははいともいいえとも答えられないんだよ、この質問は。
 また逆にそれを為せたからこそ、杉並はこのμがプロトタイプだと思ったのだろう。

「よし、リミッターについては分かった。
 んで……外部接続端子だっけ? それはなんなんだ?」

「ぬ、むぐう。
 外部接続端子はそのまんまだ。μには設定用にパソコンと接続するための有線端子入力部分がある。
 それを壊したい」

「は? 壊す?」

 意味が分からない。
 それが無いとまずいんじゃないのか? 設定用って言うくらいだし。

 杉並は何の話か分かっているのか、μと一緒に仕様書を覗いている。
 もっとも、彼女がプロトタイプというのが本当なら、仕様書とは若干の違いがあるのだろう。
 先ほどの言動が、普通のμには為し得ないのと同じように。

「桜内、貴様まさか必要だとでも?」

「え、いや、必要なんじゃないのか?」

「バカ言うな! 人間にも美夏にも、そんなものは付いてないだろう?
 それがなぜ、μには必要なんだ!」

 言われてみればそうだ。天枷はロボットだが、パソコンに繋げようと思っても繋ぐ場所がない。
 もちろんディスクも読み込めない。ハードディスクのようなものは内臓されているみたいだが、それと連絡を取るには天枷の五感を通す以外にはありえない。
 エラーチェックなんかは経口摂取のものがあるらしいが、それにしたって普通の人間とあまり変わらないという。

「だいたい、どんな”設定”だと思っているんだ、貴様は……。
 脳みそ取り出されて、趣味嗜好人格欲求理性なんかを書き換えられて、それを身体に戻されるんだぞ?
 そんなことが可能な端子が本当に必要なのか? カスタマイズ可能というのは、そういう意味でもあるんだぞ」

「それは確かに、そうかもしれないな」

「そうかもではなく、そうなのだ!」

 念のために残しておく、というのはμに対しての侮辱になるのだろう。
 なんせ俺にも天枷にもそんなものはない。ならばそれは必要のないものなのだ。

 人格というのは上から強制的に描かれたものをなぞるのではなく、自分の経験をフィードバックしていって育てていくもの。
 そうしていくことで自分が育てられていくのであって、決してそれは作られるものではない。

「分かった。それは二度と使えないように壊してくれ」

「うむ。もとよりそうするつもりだ。
 では桜内。杉並も」

「ああ」

 杉並は天枷に言われ、立ち上がり廊下へと出て行った。
 俺も、というのはどういう意味なのか。

「ほう、桜内はここに留まるというか?」

「え、いや……何の話?」

「アホか貴様は……。
 μのどこに外部接続端子がついていると思っている」

「ああ、そういうこと」

 どこかは知らないが、少なくとも人目に晒す部分ではないのだろう。そうでないなら、有線にする意味がない。
 おおかた背中とかじゃないのか。ブリキ人形のゼンマイが付いているあたり。

「義之様?」

「キミが嫌でないのなら、あとは天枷の好きなようにやらせてやってくれないかな。
 あ、無理矢理何かされそうになったら、声出してくれればいいから」

「かしこまりました」

 μは深々と一礼。
 天枷ががやがや言っていたのを無視して、俺も廊下へと出、後ろ手に襖を閉じた。


       ○  ○  ○


「さて、そろそろ目的を聞きたいんだけどな、杉並」

「何の話だ?」

「何の話もなにも、お前がここまで肩入れする理由だよ」

 普段から真面目な話には一切首を突っ込まないくせに。

 杉並は廊下の壁に寄りかかったまま腕組みを解くと、視線を襖の方へと向けた。
 その奥からは時折天枷の声が聞こえてくるくらいだ。

「理由は二つある。
 一つはμ自体に興味があったこと。いくら非公式新聞部といえど、あれだけの金額をやすやすと払えるわけがない」

 そりゃそうだろう。むしろそんな財政基盤があったら俺が驚く。

「二つ目は面白そうだったからだ。これ以上の理由はなかろう?」

「いやまあ、お前にとってはな……」

 ”面白そう”というだけでここまでしでかすのは、杉並の他は杏くらいだ。
 杉並のそれはまた、ケタが違う。主に迷惑の度合いが。

「それじゃあ俺は帰るぞ。あとで報告を聞かせてくれ」

「なんだ、リミッター解除されたμを見ていかないのか?」

「いや、いい。何も変わらないのは目に見えている」

「は?」

 さっきあれだけ批判したくせに、こいつは何を言っているのか。
 μが人に危害を加えるかもしれないようなことまで言っていたというのに。

 襖の奥ではぼそぼそと会話が聞こえてくる。生憎内容までは聞き取れない。

「人間にとって感情は必然的に生成されるものだが、μの感情生成は事態認識後に人為的に発生させているものだ。
 先ほどの俺の言に従えば、感情が抑圧されているというより、感情の生成自体が少量に絞られている、といったところか」

 なんだか小難しい話になってきたが、そういうことなのだろう。
 つまり今の彼女に感情の蓄積は存在しない。だから怨恨などの類もなく、また性格が大きく変わることもない、ということか。

「そういうわけだ。
 それではまた、明日にでも」

「なんだよ、最後まで居ればいいのに」

 これでもちょっとだけ感謝してるんだぞ。
 ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけだけどな。ミカヅキモくらい。

「ハ、そうしたいのは山々だが――。
 喜劇を見たくはあるが、登場人物に名を連ねるつもりはないのだ。
 後日談を楽しませてもらうとしよう」

「お前、何言って……?」

 疑問を口にしたそのとき。
 ぴんぽーん、と。唐突に、暢気な呼び鈴が廊下に響いた。

「誰だろうな……って、あれ? 杉並?」

 玄関の方を向いた隙に、詰め襟学ラン男の姿は忽然と姿を消していた。

 ……なんだかとってもイヤな予感。

「も〜、弟くーん、居るんでしょー? 入るよー?」

「あれ? 誰か来てるのかな?」

 どたどたと、遠慮のえの字を知らない足音が玄関から聞こえてくる。
 そうだ。むしろあの二人がこの芳野邸に居なかったことの方が、不思議だったのだ。ましてや片割れは俺が出掛けたとき、あのこたつでぐーたらしていたはずなのだ。

 それが居なかったことを幸いだと受け取らなかった時点で、俺の負けだったのかもしれない。

「だが諦めるわけにはいかない……!
 おーい、音姉! 由夢!」

「なんだ、兄さん居るんじゃない。何してたの?」

「いやあ、ちょっと。
 そ、そうだ! 今から買い物行かないか? あー、ほら、今丁度食材が切れちゃってさー!」

 これは本当だ。ここのところ買い物を横着していたせいで、わりと食材は尽きかけている。
 そのことは毎日のように冷蔵庫を覗いている音姉には分かっているはずだ。

 しかし。

「へへーん、そう言うと思って、カレーの材料を持ってきたんだー。
 弟くんのことは何だって知ってるんだから」

 えっへん、と胸を張る音姉。

 ええもう、完璧に分かってましたよチクショー。
 完璧すぎて泣けるほどに。

「う、あ、あ、ああー! そうそう!
 悪いな音姉、俺昼もカレーだったんだよー。だからほら、一緒に夕飯食いに行かない?」

「兄さん、お昼はインスタントだったじゃない。一緒に食べたの、忘れた?」

「ァ……」

 そうだった。このごろつき娘と一緒に昼食を摂って、そのあと出掛けたんだった。
 なんたる不覚。インスタントラーメンとカレーでは、ちょっと言い繕えない。
 実はカレーラーメンだったとか? 一緒のラーメンを食べたっつーに!

「何ぼそぼそとノリツッコミしてるのよ。
 ……もしかして何か隠してる?」

「い、いや、そんなことないぞ」

「あちゃ〜」

 背筋に寒いものを感じながらも、精一杯の抵抗。
 にもかかわらず由夢は呆れたように目を閉じてしまった。え、何、何で?

「弟くん、嘘をつくとき鼻がひくひくするって話……忘れた?」

「え……あああああああ!」

 そういえば由夢に言われたような!
 しかも音姉は知ってたような口ぶりだったし!

「そ、そんなこと……ないぞ」

「兄さん、そのときも必死に鼻を止めようとしてわたしたちが呆れたの、忘れた?」

 ……。
 こういうのなんて言うんだっけ。墓穴? 恥の上塗り? 人間失格?
 もう墓穴に入ってしまいたい。

「どうかなさいましたか、義之様。何か叫んでおられたようですが……あら?」

「……」
「……」
「……」

 沈黙が降りる。
 襖から出てきたのは、あえて形容するなら艶美な長髪の女性。しかもメイド服で半裸。
 つややかな髪はなまめかしく乱れ、どこから出したのかバスタオルなんぞを手にしている。

「ふ〜ん、よ・し・ゆ・き・さ・ま?」

「ああいやこれは……なんだ、その」

「お姉ちゃん、このこ、μじゃない?」

 ああ、由夢の奴余計なことを……!

「はい、私は貴方様の仰る通り、μでございます」

「へー、”あの”μが……よしゆき”さま”、ねえ」

「あーいや、きっと大きな誤解が……」

 っていうか天枷が居ないじゃねえか! 杉並の野郎……!

 まあ、他人様に怒りをぶつけている状況ではなく。

「弟くん……、そこに正座しなさあああああああい!」

「誤解だって、音姉えええええ!」


 ――――こうして。
 我が家に(前途多難ながら)μが来たのだった。

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Short Story -D.C.U
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