まゆきの見舞い
[da capo U short story]
日曜日。
古くは「休みの日」ではなく「休まなければいけない日」であったと言われている。
歴史と伝統を重視する敬虔なる俺は、その日、その戒律を遵守するため仕方なくベッドで横になって漫画を読んでいた。十回だか百回だかいう規律でそう言われているのだから仕方がない。
真面目で勤勉で厳格な俺が仕方なくそうしてごろごろしていると、こんこんとノックの音。
このリズムは音姉だ。音姉のノックは「入るよ?」の合図であり、由夢のは「開けていい?」であり、さくらさんはノックしない。
性格が出て面白いなあ、なんて思っているうちに音姉が部屋へと入ってくる。返事しないと開けないのは由夢だけだ。そしてさくらさんはノックしない。
「弟くん、今日暇かな? ちょっと頼まれ事をしてほしいんだけど……」
「悪い音姉、今日は何もしてはいけないという重要な用事があるんだ」
「あ、よかった〜。実はね、まゆきが……」
不思議だ。話が進んでいる。
これはあれか、俺の表現が婉曲的すぎて分からなかったとか、そういう話なのか。
和をもって貴しとなす。相手の意見をくみ上げなきゃダメだぞ、音姉?
「……って、聞いてる? 弟くん」
「ごめん、聞いてなかった」
ちなみに聞く気もなかった。
「んもう、もう一度だけ言うよ?
まゆきが風邪で寝込んでるらしいから、ちょっとお見舞いに行って欲しいの。行ってくれるかな?」
「まゆき先輩が、風邪?」
なんか前も咳き込んでた気がするのだが。鬼の霍乱だ何だと言っていた覚えがあるけれど、もしかして風邪引きやすいのかもしれない。
……まあ、頑張りすぎる性格が原因だとは思うけどさ。
毒にも薬にもならない、読み飽きた漫画を閉じて身体を起こす。
んー、と伸びをすると俺に負けず劣らず怠け癖のついている赤血球が、委員長に怒鳴られた我がクラスの面々の如く働き始めた。いいことだ。
「でも何で俺? 音姉が行った方が何かと融通利くと思うけど」
「うー、そうしたいのは山々なんだけど、私いまから学校行かなくちゃいけないんだよ。
ほら、まゆきここのところ調子悪かったでしょう? 忙しい時期なのに無理させちゃったし、今日中に溜まった仕事も終わらせておきたいしで」
「ん? 音姉が忙しいの、まゆき先輩知らないの?」
「知ってるよ?
あ、私から電話かけたんだよ。そうしたら熱は下がらないし両親はたまたま出張が重なったとかで、昨日からずっと独りで寝込んでたんだって。
まゆきは『忙しいんだから来なくていい』とか言ってたけど、行かないわけにもいかないでしょ? すごい声枯れてたし」
「ああ、そういうことか」
まゆき先輩は確かに先週末から調子が悪そうだった。
「土日があるから大丈夫」なんて笑いながら言っていたけど、ずっと床に伏せっていたとは。音姉にしてみればまゆき先輩に無理を強いていた負い目もあるのだろう。
それでも仕事が溜まっているということは、音姉は言わないがそれは本来まゆき先輩がやるべき分だったに違いない。
なればこそ、まゆき先輩は音姉に来るなと言ったのだ。自分のせいで仕事が溜まり、その上風邪の看病までされてはあの先輩のことだ、肩身が狭いとでも思っているのだろう。
だったら俺が行くしかないじゃないか。始めから。
とはいえ俺だけ行くというのも……なんというか、その。
「そうだ、由夢の奴は?」
「わたしは昼過ぎから天枷さんと約束があって。
事情を話せば、大丈夫だとは思うんだけど」
「なんだ、居たのか」
「や、ドア開けっ放しだったし」
しれっとメガネジャージをフル装備した愚妹が廊下から顔を覗かせていた。
ちなみにドアが開いてたら盗み聞きをしていいなんて法律はどこにもない。杏から聞いた豆知識によると、ドイツ人は開いてるドアの前を通るのを躊躇するらしいぞ? 配慮しすぎて。
まあともかく。俺が行けないならまだしも、こうしてごろごろしているにも関わらず由夢の約束を反故にさせるのも居心地が悪い。
事情を知った天枷が杏にチクって俺が週明け早々イビられるのは目に見えている。
「分かった。仕方ない、んじゃあ俺が……何だよ?」
「別にー。
兄さん最近、高坂先輩のことになると熱心だなーって思ったりなんかしてませんから」
言いつつ、そのジト目は「高坂先輩のことになると熱心だなー」という批難を俺に投げかけていた。
いちいち可愛くない奴。たまには『いっつも先輩ばっかり! わたしの相手もしてよ、お兄ちゃん!』とか言っ…………ダメだ、寒気が。
「や、妹のわたしとしては? 別に兄さんが誰にご執心でも? いいんですけど?」
「誰も聞いてねーし」
「……む」
「それより音姉、なんか持って行けそうなものある? 果物とか」
「あ、うん。もう用意して玄関に置いてあるよ」
用意周到というか、もはや俺を行かせる気満々だったらしい。
そういうところはまあ、なんというか、音姉らしいなと思わないでもない。
財布と携帯をポケットに入れて、いざ立ち上がる。
前述の「休まなければいけない日」でも、医者は動いてよかったそうだし。俺は医者じゃないが。
「由夢もいつまで捻くれてるんだよ。
それともやっぱり一緒に来るか?」
「や、別に捻くれてなんかないし。
どうぞ高坂先輩と蜜月の時間をお過ごし下さい」
「アホ言え! 相手は病人だろうが。
見舞いに行くんだよ、見・舞・い」
どうしてこいつはこう、なんだ、そういうことをずかずかと言うのか。卒パのアレは知らないはずなんだが。
あるいは俺がそこまで分かりやすいとか? それはないと思いたいが……さて。
「弟くん、えっちなのはだめだからね!」
「ちょ、音姉まで何言ってるのさ?」
「だって弟くんだし……」
「だよねえ、兄さんだし……」
人に頼み事をしておいて。
「相手は病人だって言ってるだろ?
そういうことすると風邪移るっていうし、えっちなこともなにもあるかって」
手のひらをふらふらさせて、二人の奇妙な視線を振り払う。
だいたいまゆき先輩は俺のこと「弟くん」って呼んでるわけだし、そもそもあの人に色恋沙汰は似合わない。
脆い面もあるから、支えてあげる必要はあるとは思うけど……って。
「ふうん、『そういうことすると風邪移るっていうし』?」
「風邪が移らなければあるわけだ? そ・う・い・う・こ・と」
え? あ、いや……あ、あれ?
「いやいやいやいやいや、俺は一般論としてね、その……」
「兄さんにとってはそれが”一般”なわけだ? ふーん」
「そういうことって、どういうことかなあ。私にも分かるように教えて欲しいなあ、弟くん?」
なんだその曲解!
由夢はとりあえず日本語間違ってるし! 一般論の意味くらい、人の頭を叩くのに使ってるその広辞苑で調べろっつーの!
「あああああまあまあ、ほら、とりあえず、な? まゆき先輩待ってるだろうし、俺、行くわ。
んじゃっ!」
「あっ!」
「弟くん!」
ドア手前に立っていた由夢を擦り抜け、廊下を滑り階段を落ちる。
玄関でいかにも「フルーツです!」と自己主張するバスケットを腕に引っかけ、背後から聞こえてくる怨嗟の声を振り払い、日差しの煌めく往来へと飛び出した。
……っていうか。
なんで頼まれた用事を、こうも追い立てられるようにして実行せにゃならんのか。
そんなことを思いながら、俺は一路まゆき先輩の自宅へと向かった。
○ ○ ○
まゆき先輩の家は、学園前の桜並木からやや逸れた場所にある。地理的には初音島の中央、学園のやや北といったところ。
学園までの距離は芳乃邸のそれとそう大した違いはないだろう。遅刻の回数と距離とは無関係なのである。
通算二度目となるその大した特徴のない一軒家の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
ほどなくしてインターホンから反応。
「はい?」
「あ、まゆき先輩?
俺です、桜内です。体調が悪いと聞いたので、お見舞いに……」
「うぇ? お、弟くん!?
ちょ、待っ……今行くから!」
電子音と共に、インターホンのランプが消える。
うぇ、て。どんな驚き方をすればそんな返答が出るのだろう。
ちなみに音姉の言っていた通り、その声はがらがらに枯れていた。あれでは床に伏せっていたとしても不思議はない。
待つこと数分。もう一度呼び鈴を押すべきかどうか考え始めたとき、がちゃりと玄関の鍵が外された。
ドアが開けられる。
「ごめん、待たせたわね……。
あれ?」
「? 何か?」
「弟くん、ひとり? てっきり妹くんと一緒かと」
「由夢はなんか約束があったとかで、置いてきました」
「……そう。ま、上がって」
まゆき先輩の格好はパジャマのままだった。音姉のようなものではなく、どちらかというと由夢に買ってやったような感じの、質素なタイプ。
てっきり着替えているのかと思ったのだが。それほどの余裕がないのか、あるいは俺になら見られてもいいということなのか。
その理由はすぐに知れた。
「まったく、音姫は心配性なんだから。
悪かったわね、弟くん。せっかくの休みなのに」
「いえ、それはいいんですけど……」
俺を迎え入れたまゆき先輩は、反転して廊下を戻っていった。いや、戻ろうとしていた。
右腕を壁に付き、そこに全体重をもたれかけるようにして。ゆっくり、ゆっくりと歩んでいく。
……本当に。どうしてこう、どいつもこいつも人に甘えるのが下手なのか。
「まゆき先輩、大丈夫ですか?」
「あはは、大丈夫、大丈夫。これくらい……ひゃっ!?」
ちょっと肩を押す。独楽のようにゆらゆらと揺れたまゆき先輩。体重が支え切れていない。
そのふらつく身体が地面に激突する前に、後ろから受け止める。どすっ、と遠慮無くその重みがもたれかかってきた。
「ちょ、弟くん、危ないでしょ!」
「危ないのはどっちですか。もしかしてこの調子で部屋から降りてきたんですか?
全然大丈夫じゃないじゃないですか……」
「それは、その」
力の抜け方が尋常じゃない。受け止めたその身体は全く踏ん張りが効いておらず、支えるのにこちらがくたびれてしまうくらいにバランスが保たれていなかった。
パジャマ越しに感じる体温も心なしか熱い。
来て良かったと、心底思う。
「それじゃ失礼します、よっと」
「わ、わ、わ、ちょ、弟くん!?」
そのまままゆき先輩の身体を回転させ、膝下と背中に腕を入れて持ち上げた。
やっぱり軽々というわけにはいかなかったけれど、これが先輩に一番負担がかからないだろうから。背負ってもきっと、今のバランス感覚では先輩は落ちてしまう。
やいのやいのと急にやかましくなった先輩の言を右から左に聞き流し、俺は階段を昇っていった。
○ ○ ○
「三十八度七分。かんっぺきに熱ですね」
「うう……」
まゆき先輩は恨めしそうに液晶画面の数字を睨め付けている。
相手が風見学園の生徒ならともかく、機械では凄んだところで妥協はしない。数字は三十八・七のまま。「すいません、三十六度まで下げるんでマジ勘弁してください!」などという体温計があったら、それはもはや体温計ではない。
ちなみにここはまゆき先輩の部屋だ。フランクな態度の裏で実は少女趣味のぬいぐるみが! とかだったら漫画チックで面白かったのだが、別段そういうことはなく、いたってシンプルな部屋だった。
机、ベッド、本棚、タンス。あまり眺め回しても悪いのでこのくらいにしておくが、音姉や由夢の部屋よりは男っぽいシンプルさで、俺の部屋よりは清潔感の漂うきめ細やかさ。らしいといえば、らしい部屋だと言えるだろう。
「これだけひどいなら、音姉に限らず誰かに連絡しないとダメですよ。
別に俺でもいいですから」
「いやいや、大丈夫よ、このくらいなら」
「はいはい、そういう冗談は自力で歩けるようになってから言ってください。
んじゃま、お昼、用意しますね。台所借りますよ?」
「へぁ?」
腑抜けた炭酸飲料みたいな声。
見たところ、朝食すら摂っていないようだった。これではウィルスより先にまゆき先輩が参ってしまう。風邪薬を飲むためにも、何か食べた方が良いだろう。
「え、あの、そんな。悪いわよ」
「良いじゃないですか。確か俺の料理食べてみたいとかも言ってましたよね?
折角ですから、迷惑でなければ」
「……そう? じゃあ、お願い」
割合あっさり頷き、先輩はベッドへと身を沈めた。
お腹が空いていたならそう言えばいいのに。
階段を降り、台所で適当に材料を漁って火を入れる。
といってもお粥だが。米さえあれば、あとはどうとでもなる。高坂家の献立計画に影響を与えない範囲で材料を見繕い、ぽいぽいと中へ放り込んだ。
……なお、わりと簡単そうに言ってはいるが、由夢には到底できないことをここに記しておく。あいつが見舞いに来ていたら店屋物かコンビニ弁当になっていたに違いない。病人にそれは辛かろう。
米を煮つつ持ってきた果物を一口サイズにカット。定番のリンゴは無かったので梨で代用。ウサギ型に切るほど時間はない。
ついでに一つ、つまみ食い。……うん、音姉が選んできただけあって、とても瑞々しくて美味しい。
煮立ったお粥を少し冷まして、切りそろえた梨と共に再びまゆき先輩の部屋へ。
足音で分かったか、まゆき先輩は辛そうに身体を起こしていた。
「ダメですよ、寝てなくちゃ?」
「でもほら、わざわざ来て貰ったのに、何のおかまいもできないってのも」
「何言ってるんですか。
じゃあ俺が風邪ひいたとき、今度は先輩が見舞いに来てくださいよ。ほら、そういうわけだからさっさと寝る」
「うー、なんか騙されてるような……」
眉をひそめながら、渋々まゆき先輩は身を横たえた。
まあ先輩がそう思うのも無理はない。俺はほとんど体調を崩した経験がないのだから。天才は風邪ひかない、だっけ?
「先輩、風邪薬は?」
「あー、なかった。期限切れのならあったけど」
「……あとで捨てておきます」
そういうことなら来る途中で買ってくれば良かったと、今更ながら後悔。
しかしこれだけの風邪を薬無しで乗り切ろうとしていたのなら、いささか浅慮だと言わざるを得ない。来週までずれ込むのは確定的だ。まして食事も摂らないというのでは。
自分を軽んじているのか、あるいは自分に自信があるのか。どちらにせよ危険なことに代わりはないし、だからこそ俺はこうして来ているのだ。
とにかく、食べる前に薬を買ってくるべきか、数刻迷う。
と。ぴんぽーん、と鳴り響く呼び鈴。
「俺、出ましょうか?」
「え……あ、うーん……。流石に恥ずかしいかも」
「じゃあ先輩が出ますか?」
「うー、無理っぽい」
それならと俺がインターホンの受話器を取ろうとしたとき。
「宅配便でーす!」
そんな大きな声が、外から聞こえてきた。
思わずまゆき先輩と目を合わせる。なんて気の利かない宅配便屋だと。
俺が首を傾げると、まゆき先輩は首を振った。頼んだ覚えがある配達物ではないらしい。
「まあそういうことなら、俺、出ます」
「うん、お願い」
部屋を出る。
まゆき先輩は気付かなかったのだろうか。あの大声、どこかで聞いたことがあるのだが……?
疑問に思いながら階下へ。廊下を渡って玄関のドアを開ける。
詐欺師みたいな笑顔の男がにっこり挨拶をかましてきた。
「えー、高坂まゆきさんのお宅ですね。
サギーからお届け物です。ここにサインを」
「おい」
「あ、料金は先方で受け取っているので必要ありません。
いやあ、それにしても暑い日が続きますなあ。私も仕事柄、まったくまいってしまって――」
「をい、杉並」
「やだ、何のこと?」
作業着姿にキャップをはめた宅配便配達を名乗る男。その本名を告げると、思いっきりバレバレだというのに目を逸らしてしらばっくれた。
休日に見たくない顔ナンバーワンである。ちなみに平日に見たくない顔ナンバーワンでもある。あと一つで三冠だ。
「お前、何してんの?」
「いえ、私は配達を生業としているもので」
「それはいいから!
だいたいサギーって誰だよ……」
「む、知らんのか? 初音島の神秘、猫耳の――」
「あ、そ」
こいつの話を真面目に聞くだけ無駄だった。
「とにかく帰ってくれ。今手が離せないんだ」
「ほほう? 取り込み中だったというわけか。いやあ、これは失礼」
「その言い方もムカツクけどな」
言うと、杉並は持っていたダンボール箱を靴箱のあたりに置いた。
某大手宅配業者の伝票をなぞった紙が貼ってある。箱までパロディ。ほんと、こういうところにかける無駄な労力だけはあるんだから。
……俺がここに居ることを驚かない理由は、聞いたところできっと無駄だろう。ピラミッドパワーがどうとか言うに違いない。
「では俺はこれで失礼する。
こう見えても忙しい身でな、これから学園にトラップを仕掛けにいかねばならん」
「行け行け。とっとと去ね」
「なに、鬼の居ぬ間に洗濯というのも、味気なさが残るのだ。
早くしないと学校が我が非公式新聞部の手に落ちるとでも伝えておけ」
ふ、と鼻で笑い、杉並は踵を返した。その先には緑と黄色のコントラストが眩しいトラック。
まさかトラックまで用意していたとは。アホにもほどがある。
ぶろろろろろ、とトラックが去っていくのをしかと見届けて、俺は玄関のドアを閉めた。
何気なしに杉並が持ってきた箱を開封する。中には「善良な一般生徒より」と書かれた領収書と、市販の風邪薬が収められていた。
○ ○ ○
で。
領収書を握りつぶして風邪薬の準備も済んだ俺は、まゆき先輩と対峙していた。
わずかに身体を上げるだけで精一杯のまゆき先輩。その口元に、俺は右手でレンゲを差し出している。レンゲの上には先ほど作った粥。
先輩は熱に加えて恥ずかしさも混じった赤い顔で、俺と粥を交互に睨み付けている。
それでも俺の手からレンゲが奪われないのは、そこまで疲弊していたということなのだろう、と勝手に解釈しておく。
まあ要するに。
「先輩、早く。あーん」
「……」
というわけである。
「弟くん、えっと、置いておいてくれれば自分で食べるから……」
「朝食を摂ってない人が言っても説得力ないですよ。
さっきだって零してたじゃないですか」
「うう……」
俺が宅配便の詐欺師の元から戻ってきたとき、まゆき先輩は布団の上に少しだけお粥を零していた。
食べようとして失敗したらしい。相当身体にガタが来ていたみたい。
「まさか食べないってわけにもいかないでしょう?」
「わ、分かったわよ。食べればいいんでしょ、食べれば」
いやまあ、食べればいいんですけれど。なぜに逆ギレ?
「……」
まゆき先輩はにんじんを差し出されたウサギのようにお粥を見つめた後、ふーふーと息をかけてからぱくっとかぶりついた。
少し熱そうだったが、仕方ない。俺はそのままレンゲを先輩の綺麗な、けれど少しだけ青い口から引き抜く。
「はふ……。
あ、熱いけど美味し」
「なら良かったです。ちょっと薄すぎたかとも思ったんですが」
体調が悪いときというのは、えてして味覚が鋭敏になっている。相当薄味でも濃く感じたりするものだ。
塩は相当薄くしたのだけれど、それでもまゆき先輩が美味しいというのはそういうことなのだろう。
お粥を再びすくい上げて、ふーっと蒸気を飛ばす。よくよく見るとまだまだ熱そうだった。
少し間をおいて、再び先輩の鼻先に。今度はそれほど躊躇無く、先輩ははむと食いついた。
……やばい。
無言のまま、次。三、四、五、とレンゲが粥を掬っていく。
先輩も抵抗はなくなったようで、むしろ美味しそうに頬張っていった。
……面白っ。
不謹慎だとも思うが、思ってしまったのだから仕方ない。
なんというかこう、小動物にエサを上げて、その食べる仕草に愛さしさを感じるときの、あの感覚。
別に支配感があるわけでもないのに、その行為をしてしまう不思議。
「弟くん?」
「あ、はい。美味しいですか?」
「うん、言うだけのことはあるわね。美味しいよ。
今度は元気なときに、ちゃんとしたお弁当食べたいところだけど」
言いつつ、お粥を差し出すと平然とそれを口にした。
熱さもおさまったか、どことなく嬉しそうに。意識させてしまうのもアレだから気付かないふりをしておこうと思う。
そのままどこか淡々と、それでいてなんとなく不思議な心地になりながら、レンゲが鍋の底を叩くまでそうしていたのだった。
○ ○ ○
「……おとうと、くん?」
「あ、起きました?」
手近にあった書籍に目を通しながら時間を潰していると、まゆき先輩が目を覚ました。
お粥を食べ終え風邪薬を飲んだ後すぐに寝入ってしまったのだ。薬の副作用もあったろうが、眠れるなら寝てしまっても構わない。
……そのおかげで帰るタイミングを逸してしまったといえば、そうなのだが。
カーテンの透け具合から察するに、時刻は日没時といったところ。正味二、三時間は眠っていたことになる。
「ん〜……ふぁあ」
目をこすりこすり。ちょっとだけ垂れ目になっているのが、いつもの雰囲気と違ってどことなく微笑ましい。
まゆき先輩も寝起きは良くない方のようだ。少しばかりぽけーっと前を眺めていた。
気付かれないうちにそっと右手を離す。
弁明するのも色々難しい。離さなかったのは先輩の方なのだから。
「いま、何時?」
「えっと……六時前ですね」
「あー、もうそんなかー……」
カーテンを貫く斜光に目を細める。染まる肌、その顔色にだいぶ生気が戻ってきた。
「それじゃ、そろそろ帰ります。
そろそろ親御さんも帰ってくるんでしょう?」
「あー、あー。うん、そうだねえ」
どことなく他人事のように。
まだ寝ぼけているのか、あるいは寝ぼけたふりをしているのか。それでもこのままというわけにはいかないだろうに。
「先輩?」
「うーん、なんかお礼をしたいんだけど……。
ご飯作ってもらって、しかも寝ちゃったわけだし」
「だからいいですって。俺が風邪でもひいたら、その時で」
「ん、そっか」
「ええ。
じゃあ、俺はこれで帰りますけど。何かあったらすぐ呼んでくださいよ?」
「分かったって。調子悪かったらすぐ連絡するから」
ちょっとだけ呆れ気味に頷くその態度は、やっぱりちょっとだけ信用ならない。
明日辺りもう一度連絡を入れてみようと思う。……由夢に反論できないな、これじゃあ。
まゆき先輩の掛け布団をかけ直し、腰を上げる。
座っていたせいか、膝が硬い。一瞬止まったその隙に。
「……あ、ゴミついてるよ。髪の毛」
「はい? どこです?」
思わず引き留められた。上半身を伸ばして俺の頭を覗こうとするまゆき先輩。あわせるように身をかがめた。
右手。眠っている間重なっていたその手。無意識だろう、忘れていただろうと浅慮した繋がり。
その手が再び掴まれ、ぐいっと引かれた。中腰の不安定な体勢は、病人の力であろうといとも簡単によろめいて。
――。
鼻孔をくすぐる香りに気付いたときには、既にまゆき先輩は枕に頭を沈めていた。
赤く火照った、風邪だけでない、いたずらの成功を喜ぶ子供のように、その頬を紅潮させて。
「ほ、ほら、結構こういうお礼の仕方って憧れてたっていうの?
あたしは音姫とかと違ってそういうキャラじゃないし、だからでもまあ弟くんならいいかな、とかなんていうかその黙ってないで何か言ってよ……」
「あ、あー、その」
不意打ちだ。色んな意味で。
タイミングも、状況も、相手がまゆき先輩だということも。まさかそんなことをされるとは思っていなかったから。
嬉しいけど、悔しい。出し抜かれたことが。看病で完全にイニシアチブを取れたと思ったのに。
俺が黙っているせいでますます顔を火照らせてぼそぼそと弁解を続けるまゆき先輩に、だから俺は言ってやった。
「嬉しいですよ、まゆき先輩」
ちょっとだけ背筋に寒気。でもそれと引き換えに得た効果は大きくて。
まゆき先輩はくるっと身体を反転させて、顔を枕に押しつけた。う゛〜、なんて唸っている。勝った。
……何を張り合ってるんだろう、なんて自問はしちゃいけない。
俺まで恥ずかしがったら引き分けになってしまうだろう?
「じゃあまた週明けに、学園で」
「……」
枕に埋めた頭。ごそごそと掛け布団を頭まで被り直し、目元だけだしてまゆき先輩は目で返事をしてきた。
そこまで恥ずかしかったならしなければよかったのに、という言葉はすんでの所で留めおく。それだけの弱さを見せられる相手として認識されたなら、本望だから。
どことなく寂しそうなその視線を背中に受け、同時に俺は後ろ髪を引かれながら、そのまま部屋を後にした。
まゆき先輩も今はそっとしておいて欲しいだろうという配慮と、俺の感情の波風が外に漏れないうちに退こうという、二つの気持ちをない交ぜにして。
○ ○ ○
週明け。まゆき先輩は回復し、普段通り学校に姿を見せたという。その報告を音姉から受けた俺は、やっぱり行って良かったと思った。
看病した相手が元気になってくれるというのは、看病した側からしても嬉しいものだ。
それとまあ、なんだ、どうして音姉から報告を受けたのだとか、そもそもまゆき先輩が学校に来たことをなぜ伝聞でしか知り得ていないかということは、もう言うまでもないだろう?
時刻は夕方。学校も終わり、皆がとうに帰路についた時間帯。紅の斜光から目を逸らし、ベッドで横になりながら俺は部屋のドアが開く音を聞いて。
「はい、弟くん。おかゆできたよー」
猛烈に嬉しそうな顔をしておかゆを運んできた、まゆき先輩の姿を見る羽目になっていたのだから――。
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