imperfect, therefore perfect

[da capo U short story]
「ストライークッ! バッターアウッ、チェンジ!」

 三人目の打者のバットが、ボールの遥か下をくぐり抜けた。
 試合の開幕は、誰もが予想だにしなかった三者連続三振。

「ふう……」

 息を吐いてマウンドを降りるは、相手の攻撃を完璧に押さえた先発ピッチャー。小柄な体型に、ルール違反かと思えるような赤いマフラーがトレードマーク。あいにくながらホルスタイン帽はかぶってはいない。
 どことなくいつもより誇らしげなのは、気のせいではないだろう。普段から偉そうではあるが。

「いやいや、予想以上だな、天枷嬢は」

 到着以来ベンチで座りっぱなしの男が、妙に感心ぶった顔で守備陣を出迎えている。
 抑えたのは美夏であってこいつじゃないし、無論采配らしいこともしていない。

「そんなこと言ってないで、あなたも試合に出なさいよ。運動神経いいでしょ?」

「何を言う。どこぞの兼任監督でもあるまいに。監督自らが出ることなど滅多にあることではないぞ、雪村嬢?」

「誰が監督よ、誰が」

 マスクを外しながら、まずは杏がダグアウトへ。次いで音姉やななかも入っていく。俺も後に続いた。

 ちなみに監督を気取っている杉並は、なぜかキャップ・首かけタオル・黄色いメガホンという出で立ち。どことなく間違ってるぞ、その監督像。
 しかも学生服。どちらかというと応援団長ではなかろうか。

「ふふん、どうだ参ったか義之!」

 ベンチではふんぞり返った先発投手が、してやったりの表情で待っていた。

「参ったも何も、味方同士で張り合ってどうするんだよ。
 ……まあ、正直思っていたよりまともな球だったのは認めるけど」

「ふん、素直に美夏がすごかったと認めればいいものを、はっきりしないヤツだな!」

 言いながらも、やはりどこか嬉しそうなのは間違いではない。

 本当のところ、「思っていたよりまともな球」なんてレベルではなかった。三塁ベースから見たその球筋は、素人目に見ても格の違いが分かったくらい。
 先頭バッターは初球で面食らったに違いない。そのまま三球三振だったのだから。

 なんだかんだと鼻高々な美夏を横目に、清涼飲料水で喉を潤す。打球が飛んできたわけでもないのに、わりと緊張してしまった。

「すごいねー、天枷さん。なんていうんだっけ、さぶ……さぶ……サブリミナル?」

「サブマリンのことですか? 学園長先生」

「そうそう、サブマリン! かっこよかったよ〜」

 そう。美夏の投法はこともあろうにアンダースロー。杏によれば「身長が低いのは変えようがないけれど、代わりに天性の柔軟性と安定感があるから」とのこと。
 まあ天性っちゃ天性なんだろうが……少なくとも草野球用に急造できるフォームでは断じてない。肋骨を折ったという話も良く聞く。

「立ち上がりとしては上々だな。
 さて、こちらの攻撃は白河嬢からだ。相手投手の立ち上がりを攻めつつ、特徴を見ていくぞ」

 相変わらず監督ぶって偉そうに――というか、そもそも普段から偉そうだから、ある意味普段通り偉そうに――杉並がベンチに指示を出した。

「はーい。それじゃかる〜く塁に出てきちゃおうかな」

「あ、ボク二番だっけ? 素振りとかしてた方がいいのかな?」

 まずはななかが打席に、次いでさくらさんがネクストバッターズサークルへ。バットが共用なせいか、ちょっとさくらさんには大きかったかもしれない。

 一通り挨拶が終わったあと、ピッチャーのこの試合初めての球。

「おおっ!?」

 快音と同時に驚きの声はベンチから。まさにドンピシャ、狙い澄ました引っ張りのライト前ヒットだった。
 この場面でカーブを待っていたとは、恐れ入る。

「白河嬢、何か確信めいたものがあったと見えるな」

 初回から無死一塁。幸先の良いスタートだと言える。
 勢い込んで打席に向かうさくらさんを見ながら、俺はつい先日のことを思い返した。


       ○  ○  ○


「みんなで草野球、出ない?」

「は?」

 杏の唐突な提案。
 確か「杉並の足のケガはネッシーに噛まれたからだ」とかそんなテキトーな話の最中だった気がする。
 どのみち野球の話になっていたはずがなく、やけに突拍子のない話題転換だと思ったのを覚えている。

「――というか、もう出ることになってるんだけどね。
 でしょ?」

「もちろんだ。この杉並、抜かりはない。ちなみに登録名は風見学園非公式野球部にしておいたぞ」

「そ。ありがと」

 どこから出てきたか分からない杉並に、平然と受け答えする杏。
 頭の中いっぱいのはてなをとりあえず棚に上げて、話の流れに棹を差したのだが、既に遅かったと言わざるをえない。

「何か決定事項になってないか? そもそも杉並に頼み事するなんて……どうしたんだ?」

「どうって……ねえ? 別になにも……ねえ?」

「そうそう。
 なあに、心配はいらん。単なる地元の草野球大会に出ようと、ただそれだけの話だ」

 その言葉を鵜呑みにするバカは、少なくとも風見学園には居まい。
 杏と杉並が手を組んで、しかもそれに巻き込まれるとなれば、身の危険を感じないほうがどうかしていた。

「大丈夫よ。UFOを呼び出しに行くわけでも、ネッシーを探しに行くわけでもないわ」

「残念ながら、な」

「だからってお前らがまともな競技をするわけ――」

「さて、開催日と当日の集合場所だが……」

「って、聞けよ!」

 結局楽しいこと好きの茜や渉がノリ気になり、なし崩し的に参加するハメになってしまったのだった。
 闇鍋だのカレーだの、ほんと騒げるならなんでもいいんじゃないかとさえ思ってしまう。

 ちなみに後になって聞いた話だが、これが生徒会公認であることを知ったときには尚のこと驚いた。
 「風見学園」の名を冠する以上当然ではあるのだが、生徒会がよく杉並の提案を受理したと思う。

 どんな裏があることやら。


       ○  ○  ○


「義之! 見てろ、この美夏の練習成果を!」

 チーム内随一の甲高い声で思考が引き戻された。水越先生特製のホルスタイン柄ヘルメットをかぶり――もっとも、美夏の頭は人間のそれより遙かにデリケートだから故の「特例」だと美夏は強弁しているが――、打席に入る。大きな目で相手投手を睨め付けた。

 現在、二死ランナーなし。ということは。

「残念でしたね、さくらさん」

「うう、ダブルプレーだけは避けたかったんだけどなあ……。
 ごめんね、みんな」

「まだまだ始まったばかりですって。惜しかったんですから、次こそですよ」

 見ると、美夏もバットを持て余している。ちょっと危なっかしいくらいだ。
 背が低いだけじゃなくて、さくらさんも美夏も線が細いからだろう。むしろどこに筋肉がついているのか聞きたくなるくらい。
 ……ああ、まあ、美夏はまたちょっと違うか。

「ふぉおおおおお!」

 その美夏はといえば、打席で気合いの入った間抜けな大声を出していた。
 大声をあげたところでボールが容赦するわけもなく、そのままあっけなく三振。
 最後のは変化球だろうか。まだ打席に立っていないからよくは分からないけれど。

 そもそも美夏の特性を考えれば左打席のがいいのではないかと思う。そのくらい美夏には造作もないことだろうから。
 それでも右打席なのは長打を狙っていたからに他なるまい。その結果としての空振り三振だ。どう見ても。

「さて、四番からだ。任せたぞ」

「分かってるわ。
 ……美夏、守備につくわよ。いつまでも落ち込まないこと」

 杏に続いて俺もグラウンドへ上がった。入れ替わりに美夏がベンチへ。
 口をひん曲げてバットにガンくれている。目からビームでも出しそうな勢いだ。

「随分豪快な三振だったな」

「う、うるさい! もう少しだったのだが……。
 だがもう分かったぞ、相手のリードは把握した。次は打てる」

「はいはい。その前にちゃんと抑えてくれよ?」

「わ、分かっとるわ!」

 グラブをふんだくって、すぐにマウンドへ。

「なんだ、抑える気満々じゃないか……」

 俺が三塁に着くと同時に美夏が投球を開始し、この回も危なげなく三者凡退に抑えた。



 二回裏の攻撃。
 先頭バッター・四番のまゆき先輩が出塁するも、渉が平凡な外野フライ。六番の俺に打席が回ってきた。

「義之くーん、いけー!」
「義之、ふぁいとー!」
「弟くーん、頑張ってー!」
「なんだよ俺のときと全然違うじゃないかちくしょおおおおお!」

 色んな声が聞こえてきたが、ちょっと勘弁してくれないか。流石に恥ずかしい。
 相手の守備陣なんか何事かと驚いている。

 相手ピッチャーは特に、どことなーく殺気の籠もった目で見てくるし。学校で音姉がべたべたしてくるときと同じ感じ。慣れてしまった自分が情けない。
 死球だけは勘弁願いたいところだ。

「ピッチャービビってるぅぅう!」

「わ、バカ! んな時に挑発すんな、杉並!」

 ピッチャーの身体がぴくりと動く。挑発に乗るようじゃまだまだだな……なんて思えるはずもなく、俺は内角の球をどうやって避けるか思案し始めた。

 そんな喧噪の中。
 もう試合は始まっていた。

「――! セカンドッ!」

「へ?」

 大声で何かと思えば、キャッチャーが慌てて立ち上がっていた。その示す先はピッチャー……ではなく、そのさらに向こう。
 まゆき先輩が、ベースカバーの誰もいない二塁に悠々滑り込んでいた。

「おおー!」

 ベンチからの歓声。まさかこれを狙っていたわけでもないのだろうけど。
 視線を送るが、相変わらず杉並はにやにやしているだけで指示などない。

「打つしかないか……」

 ピッチャーがセットポジションからクイックで投げてくる。
 ちなみにもう怒ってない。そんな場合ではないらしい。

 初球。直球、内角低め。ボール。
 二球目。直球、外角高め。ボール。

 ああ、と思う。どうやら四球でも構わないから厳しいコースを、という魂胆らしい。
 確かにそういう選択肢もアリだろう。次は音姉で、その次は小恋だ。男の俺で勝負するよりも分が良いと思うのは不思議でない。

 それならば。
 まゆき先輩に視線を送る。

「……」

 先輩は一度ヘルメットを触った。

 ピッチャーが足を上げて、三球目。カーブ。同時にまゆき先輩が走った。
 直球に合わせていたバットが出る。

「エンドランだっ!」

 誰かが叫ぶ。ガキン、という潰れた音と共に掌にブレるような感触。内野ゴロ。
 サードの捕球。まゆき先輩は三塁に滑り込んだ。

「むう……」

 0−2からカーブでストライクを取りに来るとは思わなかった。
 しっかり構えてたら長打だぞ、長打。

 難なく一塁でフォースアウト。複雑な気持ちだ。ランナーを進めたとはいえ、

「よーし、私も頑張らなくっちゃ。まゆきには負けていられないもんね。
 あ、弟くん、惜しかったね〜。私次だよ、次」

 次が音姉では得点できるかどうか。
 自己申告で「私は運動神経もいいんだよ?」とは何度も聞かされているけど。

「分かってるって。張り切りすぎて怪我しないように」

「あ、心配してくれてるんだ?」

「べ、別にそういうわけじゃ……」

「えへへ、ありがと。
 弟くんのためにも頑張っちゃおうかな」

 むん、といった感じで真剣な表情になる音姉。そのまま打席へ。

「張り切るな、って言ったのに」

 ……ちなみに結果は三振だった。



 その後何人かランナーを出すものの、結局無得点で回は既に終盤、七回。
 未だに一人のランナーも許さずゼロ行進を続ける美夏が、マウンドに上がった。

       ○  ○  ○

 あ、と思ったときにはもう遅い。頑なに杏のサインに首を振って2−3から美夏が選んだ球は、真ん中低めの直球。
 四球を恐れたそのボールを相手の核弾頭が見逃すわけもなかった。短くもったバットでクリーンヒット。
 センター渉の足と肩でなんとか単打に留めたものの、ノーアウトからランナーを出してしまった。

「……」

 杉並の渋面が目に入る。
 もちろん完全試合なんてものを望んでいたわけでもないが、殊にこの守備陣において、ノーアウトのランナーは避けたかったのだ。

「てぃっ!」

 美夏が二番バッターに投げた。直球。バッターは振ろうともせず、悠々と見送った。
 そしてキャッチャーの杏は投げる素振りすら見せず、盗塁が成功する。

 はっきりいって、この布陣では盗塁を阻止する術がない。
 アンダースローというだけで盗塁阻止の難度が上がるのに、それに加えて牽制が苦手かつクイックのできない美夏、更にはキャッチャー杏の肩力。
 かろうじて目で牽制したり、牽制の振りだけしてランナーの足を止めることはできるが、それもボークにならない範囲でのパフォーマンスでしかない。

「だぁっ!」

 二球目。杏が俺にボールを投げるが、やはり間に合わない。ランナーは三盗決めた。
 無死三塁。一点くらいは諦めるほかなくなった。

 カウント2−0。
 三球目を美夏が投げる。内角高め、ギリギリいっぱいのストレート。見逃し三振。

「……ふん」

 一方美夏は、イラついたようにマウンドの土を蹴っている。
 ちょっと声をかけた方がいいだろう。マウンド上へ歩いていくと、杏も同じことを思ったか、寄ってきた。

「少し落ち着きなさい、美夏。直球は狙われているわ」

「し、しかし杏先輩、打たれるわけには……」

「いいのよ、塁に出したって。点を取られなければ一緒。
 まあこの状況では、一点は覚悟したほうがいいでしょうけど」

 一死三塁。足の速いランナーで、打順はクリンナップだ。浅いフライでも犠牲フライになってしまう可能性が高い。

「満塁策は? 確か五番は大振りだったろ?」

「それは無理ね。だって……ねえ、美夏?」

「当たり前だ! なんでわざわざ塁を二つもくれてやらねばならんのだ!」

 まあ、美夏の性格からすれば反対するのは分かっていたが。
 確かに0−0のゲームで満塁策を取るのは怖すぎる。どのみち犠牲フライは抑えられないし、三点四点入ったら試合終了も同然だ。まゆき先輩一人で満塁ホームランを打つことはできないのだから。

「こっちだってヒットは出てるんだし、一点くらいなら何とかなるわ。
 美夏、一点に抑えなさい」

「しかし、このまま連続で三振を取れば――」

「気負わないで。三振を狙えば、長打や四球の確率も上がる。
 ここは長打だけは防ぐ配球で行くべきよ」

「むぐ……」

 杏の言うことならすぐに首を縦に振る美夏が、珍しく承諾を躊躇っていた。
 元より単純で意地っ張りではあるものの、ここまで頑固ではないはずなのだが。バナナでも賭けてるだろうか。

「義之もか?」

「あ?」

「義之も、そう思うのか?」

「あ、ああ。お前の気持ちも分かるけど、ここで二塁打でも打たれたら取り返しのつかないことになる。
 それなら犠牲フライでもスクイズでもやらせて、確実にアウトを一つ稼ぐべきだ。失敗する可能性も高いんだし」

「う、むう。二人がそう言うなら……」

 不満を隠そうともせずに、美夏は背を向けた。ふてくされたようにロージンバックを手に取る。
 手を叩いたあと、グラブで「あっちいけ」のポーズを示した。守備に戻れということらしい。

「美夏の奴、何をあんなにカッカしてるんだ……?」

「あんたが鈍いからでしょ」

「なんだそりゃ」

「いいから、抑えるわよ?
 スクイズは警戒の構えだけで充分だから」

 言って、守備位置へ戻る。

 グラブをはめ直し、試合再開。七回裏、一死三塁、得点0対0、三番バッターから。
 俺はいつもよりやや打者側に守備位置を移して、美夏の投球を見守る。もちろんランナーへの牽制も忘れない。

 初球。外角高めに直球が決まる。

「おいおい……」

 つい声が漏れた。相手バッターも同じ心持ちだろう。杏以外の誰もが意表を突かれたに違いない。
 一死三塁からの初球ストライク。良く言えば強気で相手の裏を掻くリードではあるが。普通はウェストする場面だ。

 二球目。外角低めの直球。微妙なコース。
 判定は。

「ストライクッ!」

 審判のコールにバッターがうなだれる。
 今のはそうそう打てるものではない。これで2−0。追い込んだ。

「……ん?」

 見ると、美夏がこっちを見ていた。
 帽子の向こうに覗く視線からは感情を読み取れない。牽制ではなく、何かを伝えたいというわけでもなさそうだ。

 じゃあ何だ? 俺が思い至るより早く、美夏が投球モーションに入った。
 ワインドアップで大きく振りかぶる。滑るように腕がしなった。

「おい、まさか――」

 三球目。モーションに疑問を感じたときには既に遅い。
 杏が跳ねるように立ち上がった。だが軌道は変わらない。

 投げられた球は、真ん中高めの直球。空振りを取りに行くには低すぎ、見逃しを狙うには有り得ないコースの球。
 だが、明らかに三振を狙ったストレート。

「あんのバカ……ッ!」

 身体を張ってでも止めるという俺の決意も虚しく、ボールは小気味良い音と共に遥か頭上をカッ飛んでいった。
 ぐんぐん伸びていく。力強い放物線。空に吸い込まれていくように舞う白球。

 視線を切る。

「……」

 マウンド上。
 電源の落ちたロボットように、美夏は目の色を失っていた。


       ○  ○  ○


「義之、ちょっといい?」

 かろうじて後続を断った後の、八回表の攻撃。先頭バッターの杏がヘルメットをいじりながら言った。リボンがでかすぎてヘルメットを圧迫している。
 外せばいいのに、という俺の言葉はなんやかんやで既に却下されている。髪がガサガサになるのが嫌らしい。

「なんだよ、次はお前からだろ? 急いだ方がいいんじゃないのか」

「いいから。
 ……あんまり美夏を責めないであげて? あの子もあの子なりに、色々考えてるのよ」

「いや、けど」

「あそこは私のリードミス。三球勝負なんてするもんじゃなかったわね」

 視線を合わせず、そのまま杏は打席へ。

「リードミス、ね」

 だとしたら杏の能力も疑わなくてはならないだろう。あそこで直球を続けるのは、明らかな愚策だ。
 そして杏を疑いえないからこそ、逆説的にその違和感が浮上してきている。

「ボールッ!」

 投球が始まる。
 打席には杏。それより手前では、ななかが素振りをしている。恰好だけはサマになっていた。

「そんなことより……。
 あれ? 由夢、美夏の奴どこ行ったか知らないか?」

「んもー、やっと声かけてもらったと思ったら、天枷さんのこと?
 さっき顔洗ってくるって言って、奥の水飲み場の方行ったよ」

「ん、サンキュ。
 っていうかお前、声かけるも何も『かったるいから試合出たくない』って言ってたじゃないか」

 言うと、由夢はあからさまに不機嫌な顔をした。
 運動させようとすれば「かったるい」、スタメン外せば「暇だ」。どうしろと。

「別に試合に出てなくなって、おしゃべりはできるじゃない。
 弟くん、杉並くんたちと試合の話ばっかりしてるから寂しかったんだよ」

「うおっ、音姉!?」

 いきなり後ろからだから驚いてしまった。
 そうか、音姉の打席もしばらくは回ってこないんだっけ。

「や、別にわたしはそんなことないけど……」

「私はそんなことあるの〜。
 あ、ねえねえどうだった、私の守備? 上手かったでしょ?」

 へへーん、と慎ましやかに慎ましやかな胸を張る音姉。対して由夢が少しだけ不機嫌に。何かぶつくさ言っているようにも聞こえる。

 が。

「ストライク! バッターアウトッ!」

 審判の声で我に返る。見ると、杏は見逃し三振を喫していた。
 音姉と由夢には帰ってから散々文句を言われるだろうが仕方ない。物事にはタイミングってものがある。

「悪い、音姉。ちょっと俺、美夏に話があるから」

「むー、またそうやって煙に巻くー。
 あ、でも天枷さんちょっと落ち込んでるんじゃない? そっとしておいてあげたら?」

「いや、別に慰めに行くわけじゃないし……」

 どちらかというと叱りに行く方だ。スポーツでこれでは、社会での協調性なんて望むべくもない。
 美夏のためにも少し反省させるべきだろう、そう思っていたのだが。

「うそ? 兄さん、まさかさっきのことで天枷さんを叱りに行くつもりだったの?」

「なんだよ、そんなに驚くことじゃないだろ。
 あいつはあそこで俺と杏の言葉を無視して、独り相撲に持ち込んだんだ。ちょっと言っておかないと」

「もしかして兄さん、まだ気付いてない?」

「何にだよ。もしかして何か理由があったのか?」

 そう言うと、無遠慮にも姉妹揃って呆れたような眼差しを向けてきた。なんなんだ一体。

「はあ……天枷さんにも同情するなあ。
 けど、そういうことなら」

「だね、由夢ちゃん」

「いや、だからさ……美夏に話が」

「ダメ」
「ダメ」

 両腕を掴まれ、強制的にベンチへ。少し力を入れてみたが、どうやら本気で離すつもりがないらしい。
 何だ? 何か投げ急ぐ理由があったとでも言うんだろうか。それに俺が気付いてないと。

 それにしたってダメだろう。一度は一点を許す作戦に同意したんだ。それを反故にする理由にはならない。
 これからの美夏に最も必要なのは協調性だ。あの我の強い性格を少しでも抑える努力をしなくては。

「ということで……」

「だからダメだと――」

「あ! あんなところにUFOがっ!」

 ビシィッ、と西北西仰角六十度方向(俺基準)を顎で指し示す。

「……はあ?」

「弟くん、さすがに私でもそれは……」

「なにいいいいいいいいいいい!? どこ、どこだ!?」

「……」
「……」
「……」

 はあ、と溜息をついてベンチに沈み込む。
 美夏が戻ってくるまで待つしかないだろう。

「ああーっ!」

 グラウンドでは、ななかのライナー性の打球を相手セカンドが好捕したところだった。
 ベンチからは多くの溜息。初回のゲッツーといい、相手の二遊間は動きがいい。

「もう少し欲張ればいいものを。迷いがあるからあんな低い弾道になるんだ。
 美夏だったらあんな打球は打たん」

「あ、美夏? 丁度良かった。ちょっと――」

「断る」

 即答だった。普段と違い、自然と顔がグラウンドへと逸れる。

「断るって、お前ね」

「どうして文句を言われるのが分かっているのに、わざわざ話に付き合わなければいかんのだ。
 結果論から始まる責任追及ほど理不尽なものはないぞ」

「俺はそういうことを言ってるんじゃなくて――」

「じゃあ何だというんだ? 美夏は絶対にコントロールミスなんかしないとでもいうのか?
 それともあれか、あそこで外角のストレートだったら、単打にさえならないと?」

「美夏!」

「ちょっと弟くん! 天枷さんも!」

「……!」

 二の句を告げずにいると、美夏は俺を一瞥したあと、ふん、と鼻を鳴らしてベンチの端へと歩いていった。そして俺と対角線上の位置にどかっと座り込む。

「あーあ、何やってるんだか。義之はもう少し、自分が鈍いことを自覚しなさい」

 凡打に終わった杏がベンチへと引き上げてきた。バットとヘルメットをさくらさんに渡し、頭を振る。結った髪がぱさぱさと舞った。

「なんだよ、俺が悪いのか?」

「どっちが悪いかなんて不毛でしょ。美夏の言うとおり、結果論からの逆算は無意味よ。
 義之だって、文句を言えば済む問題じゃないってことくらい分かってるでしょ? 我慢しなさい。美夏には私から言っておくから」

 言うと、杏もベンチを横切っていく。

 一体なんだというのか。どいつもこいつも美夏の擁護をしているように見えてならない。
 サインを無視したのは美夏で、だからこそ打たれたというのに。

「あ、杏先輩! 惜しかったな! もう少しだったのに」

「見逃しに惜しいは無いわよ。それより……」

 そんな二人の会話が聞こえ始めたとき、

「ストライクッ! バッターアウト!」

 さくらさんの三振を告げるコールが聞こえた。
 スリーアウトチェンジ。早いよ、さくらさん……。


       ○  ○  ○


 八回裏。始まって四球目でフォアボールが宣告された。
 その後当然のように二盗を仕掛けられ、続く打者の送りバントで次の塁へ。
 勝負はたった六球で、再び一死三塁になってしまった。

 杉並は相変わらずタイムをかけようとしない。交代せずとも、間くらい取って欲しいのだが。
 そう思っていると、やはりというか何というか、杏がマウンドへと駆け寄った。内野陣も集まっていく。

「義之。あなたはこの場面、どうするべきだと思う?」

 なぜだろう。杏は指示を俺に委ねてきた。

 セオリーからいけば間違いなく前進守備だ。残るこちらの攻撃は九回表のみ。二点差と三点差ではその隔たりはあまりに大きい。
 そんなこと、杏が分かっていないはずがない。

「どうするってお前、そりゃ三塁ランナーは――」

「三塁ランナーは諦めて後続を取る、だろ? 義之」

 絶対に返せない、という言葉は上書きされた。他でもない美夏自身の口によって。

「美夏お前、ふてくされてそう言ってるなら怒るぞ?」

「そんなわけなかろう。
 では逆に聞くが、いまのピッチングで易々とアウトを取れると思うのか?」

「ちょ、ちょっと天枷さん……?」

 なんだろう。美夏の奴、先ほどの腹いせからそう提言しているのかと思ったら、どうも違うらしい。本気で一点を許容するつもりのようだ。
 リベンジというつもりでもなさそう。ならどうして?

「……正直、抑えきる自信がない。
 既に100球を超えてるし、さっきのショックも抜け切れてない」

 ボールを手先でいじりながら、美夏がぼそぼそと言う。

 最近気付いたが、由夢にしろ美夏にしろ、妙に素直なときは割と本音のときが多い。
 だから今回もそうだと、少し前の俺ならそう思ったに違いない。

「キャッチャーとしてはどう思うんだ?」

「どうって、先に聞いたのは私でしょ」

「俺はキャッチャーに聞いてるんだ。杏じゃない」

「……む」

 杏の眉が不自然にひん曲がる。

「義之がそんな詭弁を使うようになるなんてね」

「それも詭弁だろ……。
 で、どうなんだ?」

「……制球、ノビ、キレ、どれをとっても本調子じゃないわ。
 三巡目だし、捉えられるのも無理ないと思う」

 そのくらい分かってるくせに、と言外に残して口を噤んだ。

 複雑な状況だ。
 先ほどと違い、打順は下位。ランナーは三盗するほどの足もない。
 だが美夏は本調子でなく、内野ゴロですら一点入る。

 だいたい、そもそも美夏に関連して何か隠し事があるような気がする。
 ケガをしてるとかそういうオチか? でも美夏にケガって概念があるのかどうか。

「兄さん」

「ん? あれ、由夢?」

「カントクさんの伝令です。えっと……」

 たどたどしく由夢が自称監督の作戦を伝えた。

 ショートのまゆき先輩をライトに回して、内野も順繰りに総入れ替え。
 そして内野はレフト寄りの前進守備、外野は深く位置取り。
 内外野の間は広がるが、ポテンヒットならば三塁ランナーは進塁できないからだろう。
 配球は本塁打上等、四球覚悟で荒れ球の力勝負。

 杉並らしいといえば、らしいと言えた。
 セオリークソ喰らえの配置。長打だけは防ぎつつ、犠牲フライより内野ゴロでの得点を阻むための。

「……以上です。
 あ、それと『異論反論は許さない』とのことです」

 ベンチを見ると、杉並は何食わぬ顔で腕組みして座っていた。
 当然手には黄色いメガホン。ちなみに使うのは挑発のときだけだ。

「おいしい所は持って行かれたわね。優柔不断は変わらない、か」

「うるせえ。
 美夏もそれでいいな?」

「いいも何も、反論は許さないのだろう?
 四球がいいのなら三振も狙いやすい」

「わかった」

 承諾の合図を送ると、杉並は審判を指でちょいちょいと招いて守備交代を告げた。

       ○  ○  ○

 美夏の投球を今度は一塁側から眺める。
 俺が一塁に回ったのは当然といえば当然だ。内野が三塁走者に合わせる形で、また右打者の引っ張りに合わせる形でレフト寄りに位置しているため、一塁手の守備範囲が広がっている。
 ましてスクイズも有り得るこの状況、外野陣以外でできるのは俺しか居ない。まさか小恋とかにやらせるわけにもいかないし。

 三塁に牽制を一つ送った後、セットアップから投球が始まった。

 初球は見せ球、外角低めのスライダー。ボール。
 打者の踏み込みは明らかに直球を待っており、三塁ランナーはほとんど動かなかった。

 よくよく注視していたら、今の投球、美夏の腕は確かに下がっていた。
 スライダーもタイミングを外す以上の効果は期待できそうにない。

「サードッ!」

 声に呼応し、美夏が牽制をほうる。三塁ランナーの陽動。
 この場面でエンドラン? ありえない選択肢ではないけれど。

 美夏に球が戻り、0−1からの二球目。高めに抜いたカーブでカウントを整える。
 幸い、打者・走者のどちらも動かなかった。

 次の球が岐路だ。
 ボールにすればカウントは1−2。再びエンドランやスクイズを仕掛けられる可能性が高い。
 ストライクなら2−1で投手有利のカウントだが、当然そうさせないように相手はストライク球を狙ってくる。

 三球目。相手を誘うかのようなワインドアップ。
 杏のサインは、今日はほとんど投げなかった、外角へ沈む決め球・シンカー。もしボールを見極められても、シンカーを見せておけば直球が生きる。

 美夏が投げた直後、変化球に狙いを変えていたバッターのバットが出た。
 もらった。空振りで2−1。そう、思ったのだが。

「――クソったれ!」

 沈まなかったシンカーは、響き渡る金属音と共にダイヤモンドを強襲していった。

 足を、背中を、腕を、手を、ちぎれるくらいに引き伸ばす。
 それでも白球は俺のグラブの向こうを駆け抜けた。アウト一つ取れない、最悪のライト前タイムリー。

 今日はほとんど投げてないシンカー。たまの失投が最後の最後で来るとは。

「失投? ちょっと待てよ……?」

 少しばかり他人の動作を見ただけでスキーを完璧にこなせた美夏に、失投なんて有り得るのだろうか。
 一度できたことを繰り返すだけならば、美夏は杏以上に精密なはずだ。誤差まで完全に把握している。ましてや野球の練習は何度も繰り返したのだから。

 そう考えると疲労で腕が下がってくることもないように思える。筋肉痛があるくらいだから疲労もあろうが、無意識のうちにその悪影響を受けることは考えられない。

「あれ?」

 おかしい。今の思考には矛盾がある。
 どこかが間違っている。何かがいつもとは違う。

 それを見つけるより先に、まゆき先輩の声が響いた。

「くぉんのおおおおおおお!
 弟くん、避けて!」

「バックホーム……!?」

 早い。矢がのびる。けど、キャッチャーは……。

「無理だ、やめろ杏!」

 クロスプレー。ブロックを試みたその小柄な身体が吹き飛ばされる。
 判定――!

「義之!」

「チッ」

 声に、球審の判定より身体が動いた。
 ベースカバーに入っていた美夏が杏のミットからボールを奪い、俺に向けて投げた。
 そのまま二塁に入って打者走者をタッチ。

「アウトッ!」

 宣告を聞いてボールを美夏へ戻す。
 そうして再び、

「アウトッ!」

 今度は二塁塁審からコールが上がった。


       ○  ○  ○


「杏!」

「うん……。ちょっとムキになりすぎた、かも」

「そんな冗談言ってる場合じゃ……」

「大丈夫よ。足以外はどこも痛くないから。
 悪くて骨折なんだし、そんな死にそうな顔しなくても」

 担架で運ばれたというのに、杏は大して表情を崩さなかった。
 医務室のベットで横になりながらこうして軽口を叩く余裕すらある。

「それでは俺は先に行く。桜内は打順が回るのだからすぐ戻るように。
 ……まったく、高坂まゆきの無茶に付き合うとは、程度が知れるぞ雪村嬢?」

「その張本人を無理矢理勧誘したのはどこの誰だったか」

 ふっ、と鼻を鳴らして杉並が医務室を出た。
 相も変わらず動作が芝居くさっているが、なんとなくそれすらも芝居であるかのような印象。

「ほら、義之も。杉並がああ言った以上、意地でも義之まで打順を回す気よ」

「ああ、分かってる。
 それに――美夏のバッティングも見てやらないと」

「……やっと気付いたの?」

「まだなんとなくだけど、あの失投でな」

「そう。
 美夏にとっては怪我の功名といったところかしら。怪我をしたのは私だけれど」

 杏が笑う。

「行って、見てあげて。美夏、今日のためにずいぶん練習したんだから」

 ようやく気付いた。みんなとの齟齬。
 みんなが何かを知っていて、それでいて俺に教えなかったこと。

 それは美夏の練習だった。
 本来誤差の修正程度で充分なはずの美夏。にも関わらず、練習というものをした。なぜか?

 今なら分かる。
 アンダースローを選んだのは、本当にその柔軟性と飲み込みの早さが故で。
 左打席に立たなかったのは、純粋に技術が及ばなかったからで。
 三振を喫したのは、相手の球筋を見てから打とうとしてたからで。
 腕が下がっていたのは、本当に疲労の蓄積からで。
 シンカーをほとんど投げず、しかも失投をしたのは純粋にシンカーという変化球の難度からで。

 あそこで投げ急いだのは、その成果を見せるためで。

 そこで打たれたのも、あいつがカンペキじゃないからだったのだ。

「すみません、遅れました。
 ケガ人というのは……?」

 白衣の男性が小走りに駆け込んできた。後ろには担架を運んでくれたスタッフたち。

「杏、それじゃあ俺は」

「ええ。ちゃんと美夏を返しなさい?」

「はいはい。
 ……すみません、ケガしたのは彼女です。あとはお任せしますので」

 やっと来た医療スタッフと入れ替わりに医務室を出、既に歓声の聞こえるグラウンドへと戻った。


       ○  ○  ○


「タイムだ」

 俺がベンチに戻ると、杉並がそう声をあげた。伝令役の由夢が審判に合図を送って、美夏が不思議そうにベンチに歩んでくる。
 2−2の平行カウント。なんでこんなときにタイムを?

「桜内。美夏嬢は狙い球を決めあぐねているようだ。
 ここまで全て直球で、ボール、ストライク、ストライク、ファール、ボールの順になっている。
 お前の思う通り、アドバイスしてやれ」

「お前、それ……」

「無粋なことは言うなよ?
 美夏嬢が出塁せんことに勝ち目はない。それだけだ」

 杉並はパイプ椅子から立つそぶりすら見せない。腕を組み、沈み込んだままだ。

「なんだ? まさかセーフティをしろとでも……義之?」

「杏なら大丈夫だ。試合には出られんだろうが。
 それより美夏、悪かったな」

「さっきの話か。杏先輩には悪いが、結果的に抑えたんだから謝るも何もないだろう」

「いや、そっちじゃなくて、その前というか……もっと前というか……」

「はあ? いくら美夏でも、義之の独自言語は理解できんぞ」

 言えない。「練習の意味気付いてやれなくてごめん」なんて言えるわけがない。
 そもそもそういうキャラでもないだろう、俺は。

「だからその、ホームラン打たれたときも含めてというか……」

「なんだ、またそれか? わざわざそんなこと言うために」

「ああいや、そうじゃないんだけど、あれは俺も悪かったと思い直したというか、ええと」

「美夏のやったことに良い悪いと言うなら分かるが、結果的に聞き入れられることなかったアドバイスをした義之に、どう評価を下せというのだ。
 良いも悪いもないだろう」

「そりゃそうなんだが、うーんと……。
 ああもう、とにかく! お前は随分頑張って、これだけ野球が上手くなったんだから、もっと自信を持てっての!」

 ああ、そうだ。こいつは自信過剰に見えて、ちっとも自信がなかったのだ。
 今まで練習なんていう曖昧なものをしたことがなかった美夏。その、いわばロボット性をかなぐり捨てて、美夏は人間と同様の「練習」に挑戦していた。
 どれだけ練習しても、自信と同時に不安も募ったはずだ。

 だから自信が欲しかった。抑えて自信をつけたかった。練習は間違いじゃなかったんだと、自分自身に言い聞かせるために。
 ピンチで強引に行ったのは決して自信過剰だったからではなく、むしろ自信と不安の合間に揺れていたからこその決意だったのだ。

 そして打たれ、自信を無くし、次の回では逃げの投球で打ち取った。だからこいつは、自信なんて今は持っていない。
 でも違うんだ、美夏。自信っていうのは自らを信ずること。ド素人の段階からアンダースローを完成させるほどに頑張ったことは、試合で抑えることよりよっぽど大事なことなんだ。

「抑えるには運もある。けど、練習を頑張って手に入れた実力に運はない。もっとそっちを信じなきゃ。
 試合に、ましてチームに虚勢なんて必要ない。打たれたからって、お前を疑う奴なんか俺以外には居なかった。
 だから悪かったって言ったんだ。お前だって――」

 俺はどこかで、こいつを完璧超人のように見ていたのかもしれない。どこか抜けているけれど、取るべきところではしっかり取る。
 けどそれは美夏にとっては差別に等しい。美夏がしっかりしているのは精神的にしっかりしているからで、それは決して「ロボット」などという言葉と関係があるわけではない。

「ヒト、だもんな」

 ロボットとしての誇りと、人間の感性を受け入れ始めた美夏の妥協点。それは今、美夏に最も重視される社会構成員としてのヒト。
 心のもやもや、外向きのペルソナ、虚勢、自信。そういったものは今の美夏の課題でもあるし、きっと美夏なら乗り越えられるものだ。

 美夏は大きな目を一際大きく開いたあと、いつものように腕組みしてそっぽを向いた。

「み、美夏は別に自信を無くしていたわけでは……その、ないぞ。
 うむ、ない」

「わかったわかった。帰ったら桜公園でチョコバナナ驕ってやるから。練習頑張った褒美に」

「バ、バカを言うな! 何が悲しくて褒美にチョコバナナなど!
 ……ま、まあ、くれるというのなら無下に断ることはないが」

「素直じゃないなあ」

「素直じゃないのはどっちだ! 全く……」

 頑張った褒美だからだ。勝ち負けなんて関係がない。
 ま、負けた後ではチョコバナナも塩味になると思うけど。

「あー、なんだ、お取り込みのところ悪いんだが。
 早くしてくれ。審判が俺を睨んでいて我慢ならん」

「え? あ、ああ、悪い悪い」

 見ると、杉並が審判にガンつけていた。睨まれたからって睨み返すなと。
 審判が睨むのは分かる。タイムを取ってからこんなにぐだぐだと話されていたのでは、試合が進まない。「警告出すぞ、いいんだな?」って顔だ。

「美夏。お前が思うとおりの球を、思いっきり振ってこい。
 その結果がヒットだろうと凡打だろうと、お前の努力には関係ないよ」

「そんなもの言われなくても分かっている!
 目ん玉かっぽじってよく見ておけ! 絶対塁に出るからな!」

 俺の言ったことと随分違うのはきっと気のせいなのだろう。塁に出ろなんて言ってないし、そもそも目玉をかっぽじったら見えないと思う。

 言い残すと、威風堂々といった体で美夏が打席へと戻っていった。小柄な身体が一回り大きく見える。
 これできっと大丈夫だろう。美夏は芯がしっかりしている奴だ。

 そんなことを思って、ベンチの椅子へと戻るとしたそのとき。

「……ん?」

 背筋がぞっとする感覚に周りを見回すと、

「う、うわ……な、なんだ?」

 なんか、ベンチ中から好奇の目で見られてた。

「うわー、弟くん、かっこよかったよー」
「兄さん、くさすぎ……」
「天枷さんのこと、ああやって口説いたのかな?」
「義之、もうちょっと人目ってものを……」
「義之くんはやるときはやるんだよー」
「義之ちょくしょおおおおおお! 俺も! 俺も見られてええええええ!」

「あ、いや……その」

「なあに、桜内、お前らの深ーい関係の一端が明かされただけだ。気にするな」

「気にするわ!」

 そういえば美夏に謝ることだけで頭がいっぱいで、みんなに見られているということを忘れていた。
 試合は中断していたから周りは静かだったわけで、会話も筒抜けであああああああああああああ……!

「弟くん」

「すみません先輩、からかうなら試合後にしてください……」

「違うわよ。まあ、そう思う気持ちも分かるけどさ。
 ちょっぴり感動したよ。まあ、くさくもあるけど……あたしはそういうの好きだなあ」

「先輩、スポ根マンガの主人公みたいですもんね」

「あたしは女だっつーの。
 ま、任せときなさい。弟くんに打順を回すから、決めてよね?」

「あ、はい。勿論です」

 まゆき先輩はそう言って、ベンチを出る。美夏の次だからだ。
 美夏が打席に戻り、試合再開。まるで五球目まで粘ったのが嘘のように、美夏は変化球を打ち返して出塁した。

 2−2からストライクゾーンに変化球を投げるとは考えにくい。失投を美夏が逃さず打ったということだろう。
 燃えに燃えて狙い球を絞っていると思ったが、冷静に対処していたらしい。

 塁上から美夏がVサインを向けてくる。手を挙げて返した。
 本当に良かった。頑張った奴が報われないなんて、そんなの悲しすぎる。

「よし、俺も打たないと!」

 妙に気合いが入っている渉がグラウンドへ上がると同時、まゆき先輩が初球打ち。変化球の制球が甘くなったことを読んで、初球のカウント球を思いっきり引っ張った。
 美夏がサードまで走って一、三塁。

「桜内、気負うなよ」

「分かってる」

 まゆき先輩が置いていったバットを持ち、ネクストバッターズサークルへ。二三、素振りをしてみる。
 特に問題はない。

 渉の打席は、初球のカーブを大きな空振り。二球目の直球を見て――というより手が出ない感じだった――ストライク。
 こりゃ空振り三振か、と思いつつ三球目。キャッチャーは俺と同意見らしく、低めのカーブだった。渉が大きく空振りした直後、ボールが二塁へ転送された。

「ま、カーブなのは予想ついてたしな……」

 まゆき先輩は悠々と二盗成功。らしくもなく、派手派手なガッツポーズまでしている。
 たしかにこの場面で一、三塁から二、三塁になるのは大きい。こと俺の打席で考えれば、ダブルプレーの危険がほとんどなくなる。

 しかしガッツポーズはいかがなものか。そう思っていると、その原因はすぐに知れた。

 二盗されて凹んでいたセカンドは、ピッチャーにボールを返そうとし、すぐに構えを直して思い切り投げた。
 カウント2−0からのディレイドスチール。明らかに想定外だった。俺にとっても、相手にとっても。

「……このおっ!」

 キャッチャーが三塁線を塞ぐより早く、弾丸のようなスライディングで美夏がホームへと滑り込んだ。
 タッチは!? 美夏も、キャッチャーも、誰もが審判の判断を仰いだ。

「セーフッ! セーフッ!」

 高く掲げていたキャッチャーの腕がうなだれる。頭を抱えるポーズをとった後、俯きながらピッチャーへ山なりに返球した。
 これで2−1、一死二塁。一打出れば同点だ。

「美夏! よくやった!」

 ベンチからの歓声と共に美夏が拳を上げる。その顔には笑みが溢れていた。

「義之! 見たか!」

「ああ、ナイスバッティングと、ナイス走塁だ。まゆき先輩と……」

 目で合図したのか? そう言おうとして、グラウンド上があわただしいことに気付いた。
 同時に、

「セーフッ!」
「おおおおおおお!!」

 コールと歓声。砂煙が三塁ベースを覆っている。
 そんな中、今度こそまゆき先輩が歓喜のガッツポーズを見せた。

「うわ……」

 連続ディレイドスチール。これは相手キャッチャーの無警戒を窘めるべきなんだろうか。

「次は義之だぞ。ちゃんと打つだろうな?」

「聞かれてもなあ。まあ犠牲フライでも内野ゴロでも良いと思えば、気は楽だけど」

「バカもの! 美夏が回したというのに、ここで逆転しないでどうする!
 ここはホームランだ、ホームラン!」

「はいはい。ま、お前も頑張ったんだから、俺もそれなりの仕事はしないとな」

 軽くバットを振り直し、俺は未だショックの抜けないキャッチャーの前を通り、打席に立ったのだった。




       ○  ○  ○




 久しぶりに来た桜公園は割合暖かかった。空は突き抜けるように青く、雨が降る心配もなさそうだ。
 日頃の運動不足がたたり、まだ筋肉痛が治らない身体を引き摺って屋台へと向かう。

「チョコバナナ、二つ」

「あいよ」

 この屋台にはそれなりにお世話になっているからか、屋台のおっちゃんはさも当然といった風にバナナ二本を渡してくれた。
 確かにチョコバナナの常連というのはあまり居ないかもしれない。おいしくないわけではないが、あそこまで極端にチョコバナナを好む奴も珍しいだろう。

 ああいや、本人が好きといったわけではないが。

「500円だよ」

「あ、はい」

 そろそろ使える自動販売機がなくなってきた500円硬貨を渡し、割り箸のついたチョコバナナを二本もらう。
 片手で持つには結構重く、またバランスも悪い。仕方なく両手で持った。

 転んだらアウトだな、などと思いつつベンチへ。両手で一人、チョコバナナを抱えつつベンチで座っているというのも、なんだかとっても気恥ずかしい。
 早く来ないだろうか。

「ほう。今月13本目のチョコバナナか」

「うおぅっ!? 杉並!?」

「安い菓子でもなかろうに、よく食うな」

「いや、お前今どこから……というより、なんで本数なんて知ってんだよ?」

「ふっ……非公式新聞部の情報網をなめるな。
 ちなみに先日は俺も頑張ったんだが、俺に褒美はないのか?」

「アホか。これは美夏の――。
 ま、いいや。俺の分、やるよ」

 右手のチョコバナナを差し出すと、杉並は幾分か驚いた顔を見せた。

「どういう風の吹き回しだ?」

「別に。お前がいなけりゃ負けてたのは、事実だから」

「ふむ……」

 同点で迎えた九回裏、杏の代役を務めたのは杉並だった。座りっぱなしだった杉並が準備運動を始めたときは何事かと思ったが。

 ランナーを出しつつも、盗塁阻止なんかもあり無失点。試合は2−2の引き分けに終わった。
 うちのチームの2点目? 俺が独断で走って併殺防止、その間にホームインと言えば、あとの状況は分かるだろうか。

「ま、俺はチョコバナナなんぞで貴重な貸しをチャラにしたくないからな。それは遠慮しておこう。
 後日、非公式新聞部にてキミを待つ! ふははははははは!」

 公園の茂みから出てきた杉並は、ネッシーに噛まれた足を引きずって再び森の奥へと消えた。一体何しに出てきたんだか。

「それよりも……ああ、そういうことか」

 公園の入り口を見ると、ホルスタイン帽+赤マフラーのオンリーワン装備な奴が目に入った。きょろきょろと辺りを見回している。

「おーい、こっちだこっち!」

 声で気付いたか、こっちへと駆け寄ってきた。どことなく嬉しそうな表情をみせた後の、渋面。バナナに対する反応はいつもこうだ。

 なんとなく笑みを抑えて、、俺はベンチから立ち上がった。
 このチョコバナナは美夏にとってどんな味がするのだろう、なんてことを思いながら。

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Short Story -D.C.U
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