まゆきと

[da capo U short story]
 三月十五日。卒業式などという前座はとうに終わり、多くの生徒がメインイベントである卒パの空気に酔っている夕暮れ。
 あまりやる気のない俺はクラスに戻ることもなく、いつもとちょっとだけ違う顔を見せる校内をうろついていた。

 そもそもうちのクラスは去年の”豪華賞品”とやらで一度ヘコまされており、祭好きが集まっているにも関わらず、今回の卒パには消極的だった。
 まして会長は昨年度のイロモノ会長――磯鷲さん、だっけ?――ではなく音姉だし、あのまゆき先輩が副会長として君臨している。それを押し返して盛り上がるには、昨年の経験はちょっと大きすぎた。
 あの委員長からすら、クラスをまとめる気力が感じられなかったほどに。

 まあ本当のところ、今のうちのクラスの面子が一丸となって何かしでかしていたら、それはそれで去年以上にひどいことになりそうだった気はする。
 なんせ俺、杉並、渉、杏、茜、と駒は揃っている。ななかの協力を得るのも難しくないだろうし、そうすればセクシーパジャマパーティしながら焼きおにぎり売ってななかのディナーショーをするくらい何のことはない。
 そう思うと、うちのクラスが元気ないのは良いことなのかもしれない、とすら考えてしまう。ちょっと破壊力ありすぎだ。

 廊下からにぎわっている校庭を見下ろしつつ、そんなことを考えていると、

「なーに辛気くさい顔してんのよ? あ、もしかして卒パに誘ったけど振られたとか、そんなクチ?」

 最近よく聞く声が、背後からかかってきた。

「そんなんじゃありませんし、そもそも誰も誘ってません。
 まゆき先輩は休憩ですか?」

「ええ、まあ。今年は問題児クラスが大人しくて助かるわ。
 どことは言わないけど」

 口では言ってませんが、目が雄弁に物語ってます。
 ええ、ええ、問題児クラスですとも。どこぞの先輩が主任にかけあって実現した、ね。

「そんなことより、ほんとどうしたのよ?
 去年のことなんか忘れて、パーッと楽しみなさいよ、パーッと」

「いやまあ、そこそこ楽しんでますよ。そこそこ」

 嘘ではない。こうしてぶらついているだけで、祭の雰囲気に飲み込まれそうになる。
 こういうの、ハレとかケとか言うんだっけ。どっちがどっちか忘れたけど。

 でも、やっぱりそれは俺たちの楽しみ方ではない。
 ハメを外すならとことん外す。それが俺や杉並、杏たちの流儀。異質な空気に酔う程度では、問題児にとってはまだまだヌルい。
 今頃はあいつらも、この校内のどこかで暇を潰していることだろう。平穏無難なフランクフルトを出している我がクラスの手伝いをしているとは、到底思えない。

「ま、いいけどねえ。
 それよりあたし、お腹空いちゃった。まだお昼食べてないのよね」

「あれ? 暇だったんじゃないんですか?」

「暇なわけないじゃない。去年よりは楽だ、って言ってるだけで、問題児以外にも問題は色々起きるのよ。
 ……あ、あそこのたこ焼きなんか美味しそう」

 そう言って廊下の先にあるたこ焼き屋を指差すまゆき先輩。煙にのったソースの匂いがここまで届いてくる。
 確かに美味しそうだ。

「ねえ弟くん。あそこのたこ焼き、美味しそうじゃない?」

「ええ、美味しそうですね」

 値段も安いし。
 まあ、人件費がかかってないんだから当然といえば当然なんだけど。

「……」

「……?」

「ねえ弟くん」

「何ですか?」

「あそこのたこ焼き、美味しそうじゃない?」

「いや、だから――」

 あれ、なんかこのパターン、どこかで見たような。デジャヴ?

 まゆき先輩は「こうかな?」なんて言いつつ、慣れない仕草で両手を胸の前で組んだ。
 ちょっと顎を引き上目遣い。

「あそこのたこ焼き、美味しそうじゃない?」

「だから、美味しそうだと……」

「美味しそうじゃない?」

「いやでもだから」

「美味しそうじゃない?」

「あの……」

「美味しそうじゃない?」

 是非もないとはこのことか。
 まったくどこで見られたんだか。音姉にはきつく言っておかねばなるまい。
 ……言ったところでどうにかなるもんじゃないんだけどさ。

「……分かりましたよ。一つで勘弁してくださいね?」

「さっすが弟くん! やっぱ持つべきものは優しい弟くんよね」

 似合わないポーズから一転、軽くガッツポーズを決めるまゆき先輩。
 音姉があんまりにもあんまりだから今まで気付かなかったけど、この人もわりと無邪気な方じゃなかろうか。そこまで喜ぶとは思わなかった。

 いや、決してその笑い顔にどきっとしたとか、そもそも上目遣いに落とされたとか、そういうわけではない。

 まゆき先輩はそのまま俺の腕を引っつかみ、たこ焼き屋の前まで俺を引き摺った。
 まあ財布の扱いなんてそんなものだろう。

「んじゃまあ、たこ焼きひとつくださーい」

「はいはーい。少々お待ち下さいな」

 受付の女子生徒が注文を受けながら、くるくると器用にたこ焼きを回転させ焼いていく。
 奥では男子生徒たちが具材を切ったりしていた。役割分担ということらしい。女子が調理しているせいか、去年の焼きおにぎりを彷彿とさせる。
 たこ焼きに癒しはないけど。

「飲み物はないの?」

「飲み物はペットボトルのお茶にラムネ、あとビールが……」

「ビールぅ?」

 その言葉に、まゆき先輩が思いっきり眉を顰める。
 女子生徒はよく分からなかったようだが、奥からこちらを見ていた生徒の一人が明らかに動揺した。

「お、おい! あの人高坂先輩じゃないか? 生徒会の?」

「高坂……? あ、もしかして副会長!?」

「うっそ!? え、ビールって言っちゃった?」

「ちょ、え、どうするよ?」

 本人を目の前にして、生徒達が慌てふためく。
 どうするもなにも、その高坂まゆき先輩本人が全部聞いておりますが。

 受付の女子生徒もそれに気付いたか、「あ、えと……」なんて可哀想なくらい口ごもっている。
 まゆき先輩はその様子をひとしきり眺めたあと、ふっと表情を緩ませて、

「――な〜んてね。冗談よ」

 と、笑った。

「へ? あの……?」

「いいのよいいの、隠れてアルコール売ってるのなんて分かってるから。
 外部の人には売ってないんだろうし、せっかくの卒パだもの、ハメを外したくなる気持ちも分かるわ。
 あ、それよりたこ焼きまだ?」

「あ、は、はい、ただいま!」

 受付の子は充分に焼けていたたこ焼きを焼き機からプラスチック容器に移し替え、手際よくソースをかけてゴムで閉じた。
 まゆき先輩がそれを受け取り、俺がお金を手渡す。

 十二個で三百円。うん、悪くない。
 見た目も美味しそうだし。

「それじゃ、あんまりハメを外しすぎないようにね〜」

「は、はいっ!」

 まだ湯気の出ているたこ焼きを易々と右手に抱え、左手で俺の手を掴み、まゆき先輩はたこ焼き屋を離れる。
 俺も引っ張られる形で後に続いた。


       ○  ○  ○


「いいんですか?」

「ん、何が?」

 あの後別のクラスで焼きそば一つとジュースを二本買い、俺とまゆき先輩は中庭の急造ベンチへ。
 ちなみに焼きそばは俺ので、ジュースは割り勘。なんだかケチ臭いがしようがない。学生と金欠はイコールなのだ。

「何って、ビールですよ。箱で置いてあったじゃないですか」

「ああ、あれね。別にいいんじゃない?
 はい弟くん、あ〜ん」

「別にって……いあ、というか、その――もが」

 どっちから突っ込めばいいのか。
 俺がとりあえず反論しようとしたら、その口にアツアツのたこ焼きが突っ込まれた。

「あふっ、あふいっ!」

「あ、やっぱりまだ熱かったか」

 やっぱりって何ですか!?

 両手で焼きそばとたこ焼きの容器を持ったままの俺に構わず、まゆき先輩は今度は自分でたこ焼きを食べた。ちゃんと冷ましてから。
 ああ、もしかしたら俺の両手が塞がってるから、食べさせてくれただけなのかもしれない。

「はふはふ……んぐ。
 あ、おいしいわね、これ」

 俺は味あんまり分かりませんでしたが。熱すぎて。

「まあ、きちんとしてる人の、たまのハメ外しは見逃すのが粋ってものじゃない?
 そもそもお祭りっていうのはそれが目的でしょ。卒パなのに『廊下を走るな』なんて言われちゃ、あたしだって萎えるわよ、きっと」

 言いながら、「ふーふー……はい」と次のたこ焼きが差し出される。
 ちょっと顔が笑ってるのは確信犯だ。そんなところで音姉の真似をしないでよろしい。……食うけど。

「……んぐ。お、これは美味しいかも」

「でしょ? あたしが冷ましてあげたおかげじゃない?」

「そうであるとも言えますし、そうでないとも言えます。
 だいたい、そんなことして恥ずかしくないんですか?」

「堂々といつもされてる人が言うかなあ?」

「あれは別でしょ……」

 音姉のアレはもう内心諦めてる。教室や学食ではされないように気を付けているけど、音姉にしてみればその鬱憤を生徒会室で晴らすわけで。
 もうまゆき先輩にはあることないこと弱みを握られているに違いない。

「話戻しますけど、廊下とビールじゃ違くないですか?
 そもそもまゆき先輩、普段から廊下を走ってる気がするんですが」

「失礼ね。廊下を走るのはパンを買いに行くときだけよ。
 ……じゃなくて、それなら尚のことじゃない。ハメを外しすぎなければ、自分で言うのも何だけれど、あたし割とそういうの寛容よ?
 むしろその辺の融通は音姫のが利かないと思うけど」

 次のたこ焼きをつまみながらまゆき先輩が言う。

 確かに、音姉は色々と包容力があるように見えて、頭が固い面も多い。
 逆にまゆき先輩は規則にうるさいように見えて、わりと自分で破っていたりもする。廊下を走ったり。
 だからうまくいくのだろう。いざというとき、どちらかがどちらかのストッパーになるから。

「その割には杉並追いかけ回してますよね?」

「あれはあいつのハメ外しが外しすぎだからよ……。
 リモコン爆弾やら時限発火装置やらに寛容になんてなりたくないでしょ?」

 そりゃ確かに。どこに地雷が埋まってるか分からない廊下とか、そんなところで暮らしたくはない。

「生徒会にしろ風紀委員にしろ、規律を正すだけじゃダメなのよ。
 あまりに乱れているなら正し続けることも一種のパフォーマンスとして必要だけど、あまり乱れてないならそれ以上締め上げる必要もない。
 ま、あたし個人の考えだけどね」

 ジュースのフタを開けて、まゆき先輩は照れ隠しのようにぐいっと飲んだ。
 わりと男っぽい仕草だったが、やっぱり鳴る喉は白くて細い。少し汗ばんでいるのは、やっぱり仕事の苦労からか。

 まゆき先輩は続けて「飲む?」と目で聞いてきたが、これには首を振る。冗談だったようで、まゆき先輩も笑いながらフタを閉じた。
 間接キスは爪楊枝だけで充分……というか、先輩の感覚では回し飲みだろうか。運動部出身っぽいし。

「さて。それじゃま、そろそろお仕事に戻りますか」

「大変ですね。まだ三十分も経ってないですよ?」

「これからが大変なのよ。打ち上げ間近でハメ外しすぎたり、余った材料で遊んだりする生徒が多いの何の。
 って、いつまでも愚痴ってたって仕方ないわね。それじゃ弟くん、また! たこ焼きありがとね!」

 言って、まゆき先輩は手を振りながら走り去っていった。
 残された食べ物を見る。俺が食べたのを差し引くと――

「そっか、まゆき先輩、最初から……」

 たこ焼きは、二個しか減っていなかった。






       ○  ○  ○






 翌日。俺は放送で呼び出され、職員室に居た。
 呼び出された当初は「また赤点かよ」と思ったくらいだったけれど、その場についてから状況は一変している。

 そこに居たのは生徒指導部のナントカってメガネと、音姉。それにまゆき先輩と、何人かの生徒たち。
 ……昨日のたこ焼き屋をやってた生徒もちらほらと目につく。

「どうかしたの、音姉?」

「それが……弟くん、部室棟裏のボヤ、見た?」

「ああ……」

 今日の朝、騒ぎになっていたから知っている。
 なんでも昨日の夜分に部室棟で小規模の火災があったとか。人混みを遠巻きに眺めつつ杉並から話を聞いただけだから、詳しいことは分からない。
 登校時間帯には既に収まっていたのだから、それほどひどかったわけではないらしいけれど。

「それが?」

「あれ、生徒たちの花火の不始末が原因なんだって。卒パの打ち上げのつもりだったんだろうけど。
 そもそも花火自体禁止じゃない? その上生徒たちはお酒を飲んでたとかで、その出所も問題になったの」

 嫌な考えが脳裏をよぎる。
 まゆき先輩が音姉の隣ではなく、むしろ生徒たちと一緒の場所に立っているのは、まさか――?

「やっぱり弟くん、知ってたの? まゆきがお酒の売買を黙認してたの」

「あ、いや……その」

 そういうことかと、ようやく事情が飲み込めた。
 俺が呼び出されたのは、あの場に一緒に居たからなのだろう。いわば証人として呼ばれたようなもの。

 だとすれば俺はなんて言えばいいのか。
 まゆき先輩があの場でしか見逃しを明言していないのならば、生徒たちと俺が言わない限りそれが漏れることはない。

「……」

 丁度メガネを挟んで対面に位置するまゆき先輩と目が合う。
 その目は――俺の予想通り――懇願なんかではなく、誠意に満ちた瞳だった。

 けれど、なぜだろう。
 その瞳が少しだけ、揺れているような気がした。

「さて、桜内くん?」

「あ、いつもお世話になってます」

「……それは皮肉かね?」

「いえ、別に……」

 そりゃそうだ。生徒指導部の先生に「いつもお世話になっている」というのは、ちょっと嫌味っぽかったかもしれない。
 事実として散々お世話になっている身だし。悪い意味で。

「まあ、朝倉がいま説明した通りだ。
 高坂がお酒を見逃していたというのは、本当だな? その場に居たんだろう?」

 聞き方が汚い。まるで確信を持っているような聞き方だが、もし確信があるのなら”桜内義之”などという問題児にその真偽を問うはずがない。
 ゆえに、確固たる証言も証拠もまだこのメガネは握っていないことになる。
 ……そうか、だから”皮肉”なのか。

「それは――」

 まゆき先輩を見る。瞳はやはり揺れたまま、先輩は無言で頷いた。

「――事実です。
 受付の人にビールを勧められて、彼女が生徒会の副会長であることを気付かれたにも関わらず、ビールの接収も売買停止もしませんでした」

「ぃよしっ! よく言った!」

 目の前のメガネの鼻っ面をへし折りたくなったが、ここはまず落ち着いて考える。

 自分の威厳を保つのに、自分の顔に泥を塗るしかなく、しかも自らそれを行って、その矛盾に気付かない無能。生徒指導部に入る教師っているのがみんなこうなのか、あるいは生徒指導部という立場が人をそうさせるのか。どちらにせよ、俺はこの男を軽蔑する。

 だから、我慢する必要はない。

「いいか、聞いたか? お前らはすぐに荷物をまとめて――ごッ!?」

 最近は封印していた、渾身の右ストレート。厚い皮に包まれたその横っ面へ、拳を思いっきり振り抜いた。
 立ち上がりかけだったその丸い身体は面白いように椅子から転がり落ち、そのまま呆然と俺を見上げる。

 生徒たちも唖然とした表情でそのメガネを見下ろしていた。まさか殴り飛ばすとは思わなかったに違いない。
 暫しの静寂。それを破り最初に声をあげたのは、やはり生徒指導部のメガネだった。

「さ、桜内、貴様、今自分が何をしたか――!」

「まゆき先輩はお酒の売買なんて知らなかったかもしれませんね?」

「は? 何を言っている、貴様が今さっき自分で――」

「俺そんなこと言いましたっけ?」

 一歩踏み込む。
 情けなく、メガネは一歩後ずさった。

 まだ分からないのか、こいつ?

「いや、確固たる証拠があるなら俺の発言なんて気にならないでしょうけど?
 言質が欲しかったら、それに値するだけの態度を示せと言ってるんです」

「ひ、卑怯だぞ! 教師を暴力で脅す気か!?」

「――っ、このッ!」

 折角レンズは避けてやったというのに、この言い草。
 卑怯なのはどっちだ。目玉にガラスの破片を突き刺さないと分からないのか?

「――弟くん!」

 俺が足を振り上げると、予想通りというか何というか、後ろから静止の声があがった。
 こちらもパフォーマンスだったので、足を下ろしてそのまま踵を返す。

「弟くん、なんてこと……」

「悪い、音姉。我慢ならなかった」

「だからって……」

 その声を無視して職員室の扉を開け、廊下に出た。
 きっと音姉は理解してくれるけど、納得はしてくれないだろうから。今話すべきことは何もない。

 しんと静まりかえっている廊下。後ろ手に職員室のドアを閉める。

「随分大見得を切ったな、桜内。忙しくなるぞ?」

 そこには見慣れた黒服が一人、廊下の壁を背に立っていた。

「性分だよ、仕方ない」

「最近は大人しくなって、まあ俺としてはつまらなかったから、これはこれで良いんだが。
 ……できる限りの策は打ってやろう」

「ああ、すまん」

「気にするな。桜内に恩を売っておけば、後々役に立つからな」

 杉並は言うと、床に置いてあった学生鞄を放り投げてくる。反射的に受け取った。
 やけに軽い……というか、これは俺の鞄だ。

「今日はもう帰ったほうがよかろう。余計な詮索の対象になりたくはあるまい?」

「悪いな、重ね重ね」

「ふ、せいぜいこれが今生の別れにならないように祈っておけ」

 確かにそうだ。もしこのまま退学処分などということになれば、俺はいつの間にか居なくなっていることになる。
 それは流石に寂しい。

「それじゃ」

「ああ」

 鞄を肩にかけ、俺は学園を後にした。



       ○  ○  ○



「こっち、かな……?」

 自宅謹慎。

 昨日帰宅した音姉から伝え聞いた、俺に下ったとされる処分はそれだった。
 想定よりかなり甘い処分。自宅謹慎はいわばトイレ掃除と同じ程度の罰であって、停学や退学といった公式な処分ではない。
 ならば想定されることは一つ。そうするには都合の悪い事情が、学園側にあったのだ。

 音姉が言うには俺のほか、あそこに居た生徒全員に同様の処分が下ったとのこと。それと、火災予防担当の教師が訓告処分を受けたという。
 つまり対外的には火災予防担当の不始末ということで処理し、生徒たちには履歴に残らない形での処分を行った。そうすることであの場に居た三年生――推測だが、居たに違いない――の卒業・入学の面目を保とうという魂胆なのだろう。

 さくらさんが居ればもっと綺麗なやり方があったろうに、と思わざるをえない。あまりに政治的すぎて反吐が出る。
 もちろんそのおかげで自分の処分も甘くなったのだから、一概に否定はできないのだが。

「二つ目の十字路を右に……あった!」

 現在時刻は午後二時半。そろそろ暖かくなってきたこの時期のこの時間帯は、外で昼寝でもしたいくらいに気持ちが良い。
 学園で授業を受けていたら間違いなく寝ていた。文句なら俺ではなく、俺を窓際に配置した教師に言うがいい。

 ちなみに今日外出したのは、もちろん昼寝をかますためではない。

 表札の名前を確認して、インターホンを押した。ゴォン、と重くて鈍い音が鳴る。
 しばらくしてスピーカから聞き慣れた声。

「はい?」

「あ、桜内ですけど。まゆき先輩?」

「桜内……って、弟くん?
 あ、ちょ、ちょっと待ってて! 今行くから!」

 ぶつっ、とマイクの電源が落ちる。

 ……そう。
 自宅謹慎の中、俺は自宅から出て、まゆき先輩の家を訪ねに来たのだった。


       ○  ○  ○


「紅茶でいい? あ、弟くんは緑茶派だったっけ?」

「いえ、おかまいなく。何でも良いですよ」

 まゆき先輩の家は、朝倉家と同じような洋風デザインだった。
 リビングも似たようなもので、ふかふかのソファに座らせてもらっている。

 テーブルの向こう、キッチンではまゆき先輩がポットで紅茶をいれていた。
 まゆき先輩の私服を見るのは初めてかも知れない。イメージ通りのカジュアルな服装で、それがまた随分と似合っている。
 今見えているのは後ろ姿だけど、なんだかとっても格好良くて、とっても脆そうに見えた。

「それじゃ、どうぞ。粗茶ですが、なんてね」

「すいません、わざわざ」

 テーブルに紅茶が二つ差し出される。よくは分からないが、少なくとも百円ショップで売っていそうなカップではない。
 芳野家にもわりと良い湯飲みなんかはあるものの、西洋風のこういったものはさっぱりで、ある種新鮮に感じた。

 軽く口をつける。
 ……うん、美味しい。

「で、どうしたのよ。自宅謹慎なのに自宅に居なくていいの?」

 対面に座り、エプロンを外しながらまゆき先輩が問いかけてくる。

 そりゃあ、質問の一つや二つ、したくなるだろう。
 そもそもどうして家の場所を知ってるのか、とか。
 ……音姉に聞いたからだけどさ。

「まゆき先輩に会いたかった、じゃダメですか?」

「んー、五十点。口説いてるなら二十点ね」

「ありゃ、厳しい」

 嘘ではないんだけど。
 でもまあ、まゆき先輩相手なら単刀直入に切り出した方がいいだろう。あんまり細かい話が好きな人ではないのだし。

 紅茶をまた一口飲んで、切り出す。

「先輩が落ち込んでるんじゃないかと思って」

 言うと、まゆき先輩の表情が微かに歪んだ。
 思った通り、やはりショックは相当根深いと見える。

 わりと調子の良い面もある先輩だけれど、根が生真面目なのは誰もが知るところ。
 たとえ誤解であろうと何だろうと、学園から処分が下されたのでは、それを容易に受け止められるはずがない。

 端的に言って、怒られ慣れていないのだ。
 俺や杉並は生徒指導部に百回も二百回もお世話になったが、まゆき先輩はきっとあれが初めてのこと。いくら信念を通した結果といえど、精神的なショックから回復するのは難しい。まして初めての体験では。

「あーあ、まさか弟くんにそう言われるとはなあ」

 まゆき先輩は持っていたカップをテーブルに置くと、わざとらしく呆れて見せた。
 天を仰ぎ、ふう、と大きく息を吐く。

「うん、確かにわりとショック受けてる。
 これでもゆーとーせーで通ってたからさ。自分が悪いとは、分かってはいるんだけど」

 自分に嘘がつけない先輩だ。そして考えることが苦手ときている。
 普段ならば仕事に没頭して忘れることもできるだろうが、自宅謹慎ではそれもままならない。先輩にとって、自宅謹慎というのは俺のそれよりも遙かに苦痛だろう。

 そんな先輩だからこそ、俺の方から出向いたのだ。
 生真面目なのが災いして、きっと先輩は自分から外へ出ることはない。でも、屋内でじっとしているのは彼女の性分ではない。
 その狭間で、似合いもせず悶々としているのが想像できてしまったから、わざわざこうして来たのだ。そうでなければ恥ずかしくて来れるか、女性の先輩の家になんて。

「あんまり根を詰めすぎると身体に毒ですよ。
 どうせ一晩中考え事してたんでしょう?」

「いや、まあ……うん。よくわかるわね、そんなことまで」

「先輩はいつも元気ですから。普段のハリが無ければ、誰だって気付きます」

 見ていて痛々しいほどに、まゆき先輩はいっぱいいっぱい。
 普段の充ち満ちた活動力は、ハリボテの気勢では擬態できていない。

 俺だけではなくて音姉も来ればもっと元気が出たかもしれないが、生憎副会長不在のために音姉は学園を縦横無尽に駆け回るので精一杯の状況だ。
 朝の様子だけとっても、とてもじゃないがそこまで回せる気力も時間も無いように見える。
 ましてや今回の件、音姉はほとんど関係がないのだし。

「どうですか、気晴らしに出掛けます?」

「口説いてるなら二十点って言ったでしょ」

「あのね、いくらまゆき先輩でも、あんまり茶化すなら怒りますよ?」

「うう……。
 だってほら、その、あんまり心配されたりとかって……慣れてなくて」

 気丈で面倒見の良い先輩だ、確かに面倒を見てもらう側になることはないのだろう。
 ここまで気弱になっているのは、俺も今まで見たことない。

「でも、それを差し引いてもやっぱりまだ外に出る気分にはなれないかな。
 謹慎処分を受けて、昨日の今日で昼間から外をうろちょろするのは……」

「それ、俺に言ってます?」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……そのくらい分かってるでしょうに。
 だいたいなんで弟くんはそんなに気楽なんだか」

「だって俺は承知でやったことですもん」

「まあそうなんだけど。
 あ、そうだ」

 まゆき先輩は立ち上がると戸棚の奥から小皿を取り出してきた。
 その上にはクッキーが乗っている。

「いいですよ、そんなに気を遣わなくても」

「気にしないで。前にあたしが作ったやつの残りだから」

 なんと。
 ということは、今眼前にあるものは世に言う手作りクッキーなるものらしい。
 いや、まんまだけどね。

 一つ手にとって、口に放り込む。
 特有の甘味が口内に広がった。歯ごたえもサクサクとしていて、文句の付けようがなく美味。

「弟くんのそういう分かりやすいとこ、お姉さんは好きだぞ」

「音姉ほどじゃないですけどね……」

 味のことだろう。顔に出ていたらしい。
 洋菓子は由夢がたまに食べるくらいで、うちでは滅多に出ないのだから仕方がない。
 作る方も音姉はあまりお菓子を作らないし、由夢は……まあ、語るべくもない。あれはお菓子というか、おかしい。色んな意味で。

「あ、そういえば弟くん、知ってる?
 こないだ商店街で――――」

「それは確か――」

「――――」

「――」

 …………。
 ……。


       ○  ○  ○


「――でしょ?」

「ですよね――って。
 あれ、もうこんな時間ですか?」

「うん? あらほんと」

 まゆき先輩のクッキーをぱくつきながら談笑していると、気付けば日が落ちかかる時刻になっていた。
 窓から差し込む陽光も随分角度が緩やかになっている。すっかり話し込んでしまったらしい。

「そっか、もう夕方か」

 まゆき先輩が外を見ながら呟く。
 斜光に照らされるその表情は、朝より幾分か明るくて、幾分か寂しそうに見えた。
 街中で出会っていたら、きっとまゆき先輩だと気付けないかのようなその顔。誰彼どきとはよく言ったものだ。

「さて、それじゃそろそろおいとまさせてもらいますかね。
 あんまり遅いと音姉たちが心配しますし」

 というか、帰宅時に居ない時点で相当怒ってるだろう。
 それも承知済みでしたことだから、仕方がない。帰りに菓子折の一つでも買って帰ろう。

 既に冷め切った紅茶を飲み干し、立ち上がる。腰の辺りの関節がゴキゴキと鳴った。
 まあ、少し緊張していたのだから仕方ない。初めての相手の家でソファに全体重を沈み込ませるほど、俺は無神経じゃないのだから。そんなことができるのは杉並と天枷くらいじゃなかろうか。

「あ、弟くん?」

「何ですか?」

「あ……えと……。
 あー、いや、その……ねえ?」

「はい?」

 思わず首を傾げてしまった。
 まゆき先輩が何を言いたいのかサッパリ分からない。クッキーなら美味しかったと充分伝えた気がするんだけど。

「まあ、いいや。
 すみませんでした、いきなり押しかけてこんな時間まで」

「あ、ううん、それは全然。あたしも暇してたし」

 そりゃそうでしょうよ。仲良く謹慎中な身なんですから。
 いや、確かに原義からすれば、自宅で粛々と自己を反省すべきなんだろうけれど。そんなものは武士か軍属だけで十分だ。

「それじゃあ、今日は失礼して――」

「弟くん!」

「だから、何ですかと……?」

 少しだけ肩を落としながらまゆき先輩の方を向くと、これ以上ないくらいに真面目な表情が目に入った。
 頬が火照っているように見えるのは、夕照による錯覚だろう。そうに違いない。

 まゆき先輩は少しだけ言いづらそうにした後、

「少し、付き合ってくれないかな?」

 固い面持ちで、そんなことを言った。


       ○  ○  ○


 桜公園近くの、色気もへったくれもない普通の蕎麦屋で軽く食事を摂ったあと、俺はまゆき先輩に連れられるままに坂を上っていた。
 桜公園から伸びるその歩道の先にある場所。そこは、俺もよく知っているところだ。

「……」

 まゆき先輩の家を出て以来、会話らしい会話はほとんどない。
 いや、実際言葉のやりとりはあるのだが、あまり実感がこもっていないというか。それは間違いなく、まゆき先輩とて感じているはずだ。

 天は既に漆黒の闇に包まれ始め、空気も段々と肌寒くなっていくのを感じる。
 夜の帳が下り始めていた。

「あ、間に合った……かな?」

 俺より少し先を歩いていたまゆき先輩が、そう声をあげた。
 その傍らにまでのぼり、見る。視線の先には焼けるような紅と、それを映す海の水面。

 まゆき先輩は複雑な笑みを浮かべて夕陽に目を細めた後、海辺に向かって突きだした柵の方へ足を向けた。
 それは、強い赤射光に抗っているようにも思えて。また逆に、焼ける空に吸い込まれていくかのような。
 そしてその狭間で揺れるように、柵の手前でまゆき先輩は止まった。

「弟くんは、枯れない桜にまつわる噂、知ってる?」

 まゆき先輩は夕焼けの方を見ながら――いや、その目はおそらく、眼下に広がる桜公園を見ながら――そう口にした。

「一つか二つくらいは、聞いたことありますけど。
 あまりに多いんで、正直なところ、気にしたことはありません」

 年がら年中咲き乱れる桜。
 その魔的な魅力からか、それに付随する噂は真贋入り乱れた一大巨編に仕立て上げられることも稀ではない。
 多くはやはり眉唾であり、欲望の塊であり、願望の発露だったりする。

 もちろん、俺はそういうものを信じるタチではないのだが、頭ごなしに否定するかというとそうでもない。
 ……言うまでもなく、魔法が実在することを知っているからである。

「桜公園の奥にある、一際大きな桜の木。あれが願いを叶えてくれるっていう、途方もない夢物語のことよ。
 あたし、あれ、好きじゃないんだよね」

 ――どうしてだろう。
 その言葉に、とてつもなく心が震えたのは。

 知識としては知っている。初音島に住む人なら誰もが知っているであろう童話、「さくらひめのでんせつ」。
 童話だけあって少し怖い部分もあるが、その要旨はつまり”枯れない桜が願いを叶える”というもの。

「その噂なら一応知ってます」

「そう。良かったわ」

 それが一体今回の話と何の関係があるというのか。
 俺はまゆき先輩の言葉を待った。先輩は依然として、むこうを向いたままでいる。

「あたしはやっぱり、自分の願いは自分の行動で叶えないと意味がないと思うわけ。
 そして行動には責任が伴って、勇気が必要で、その全てを受け入れる覚悟が必要。
 弟くんはその覚悟があったから、あの先生を殴ったんでしょ?」

 どうだろう。
 そこまで深い考えがあったわけではないが、いかなる罰も承知の上で殴ったのは事実だ。それよりも大事なものが、そうすることで得られると信じたから。
 だとすれば、まゆき先輩の言う通りということになる。

 結果的に飲酒をした生徒たちもまゆき先輩のことも救うことは叶わなかったし、俺にも処分が下された。
 一種、俺が自爆したのと何ら代わりはない。でも俺はそれに後悔を感じないし、もう一度あの日に戻ったとしても同じ行動を選択するだろう。

「あたしだって……」

 まゆき先輩が誰にでもなく呟く。

 その弱さは、俺の知っているまゆき先輩には無いもので。
 自らの一言を皮切りに、先輩は全てを吐き出し始めた。

「あたしだって、それなりに考えてた。見つかればあたしの責任になるくらい、分かってた。だから音姫にも報告しなかった。
 それで、偶然が重なって、結局その責任はあたしに返ってきて。分かってたのに、分かってたのにさ、全然頭が整理できなくて……!」

「……」

「だって、可哀想じゃない。卒パでお酒飲んで何が悪いの? 火事にならなかったら、花火をしたってお咎めなしでしょ?
 ただ副会長に見つかったって、ただそれだけの理由で楽しむ権利を奪わなくちゃいけないわけ? 見つからなかった生徒のがもっと派手に色んなことやってても?」

「先輩、落ち着いて……」

「あたしは魔法使いなんかじゃないんだから。矛盾する願いなんて叶えられるわけないじゃない。
 桜に願いはないけれど、あたしにだってやりたいことくらいある。それを削って削って、みんなの願いが叶うようにして、なのにあたしはこんなんで……!」

 二個しか減らなかったたこ焼き。一口しか口をつけなかったジュース。三十分しかなかった休憩。
 その苦労は、かつて身を挺して願いを守った魔法使いに似ていて。

「誰も先輩のことを悪者だなんて思ってないし、先生たちだって苦渋の選択だったでしょうし。
 責任者なんていうのは、いつだってそういうものでしょう?」

「分かってるわよ、そんなこと! あたしの役割も、責任も、その重さも、見返りなんて無いことも!
 分かってて、理解してて、納得もしていて……それでもショックを受けるのは、何がいけないからなの? 何が間違ってるの? 機械のように作業して、全てに線引きをしていくことが正しいことなの?」

 ああそうか、とどこか冷めた頭で思う。
 まゆき先輩は、自分のことがすっぽ抜けてる。自分のことに関しては、”機械のように線引き”している。
 他者に柔軟なだけに、その自己の矛盾に気がつかない。それはとっても、大事なことなはずなのに。

「まゆき先輩は、何にでも白黒つけたがりすぎです」

 まゆき先輩は、他でもない、俺に対してその心情を吐露することを決めた。
 それは鼻で笑われることを覚悟の上で、勇気を出して、その責任を被って。

 なら俺は、その覚悟を受け止めてあげなければならない。
 彼女は全てを包み込む朝倉音姫にではなく、是非をはっきりさせるために俺に助けを求めたのだから。

「先輩は何もいけないことなんかしてません。
 けど、一つだけ間違っていることがある。先輩は悪いことをしたから学校に処分されたんじゃなくて、それが悪いことじゃなかったから自宅謹慎になったんです」

 詭弁のようで、そうではない。
 それは先輩が気付けなかった、小さくて大きな誤り。

 まゆき先輩はこっちに顔を向けずに、黙ったままずっと柵の下を見ている。
 分からなくもない。俺だってそうしていて欲しい。まゆき先輩の今している顔など、見たくはない。

「先輩は処分を受けるの、初めてでしょう?
 学校から下される処分なんていうのは、裁判所からの通知とワケが違う。そこには個人の感情だったり、情報の歪みだったり、他人のとばっちりのようなものが十二分に含まれてる。
 だから、学校から処分を下されることが、それが絶対悪だなんてことは――それこそ絶対に、ないんです」

 まゆき先輩は分かっている。けど、それを体験したことがなかったから。
 子どもの頃からマジメで通ってきて、一番最初に学校で先生に怒られたときの体験というものは、想像を絶するものがある。それが他愛ない勘違いに基づいていたとしても、自分の基盤を揺さぶられるような、そんな恐怖がするものだ。
 まゆき先輩に対する処分というのは、そういうのときっと同じだ。

 また、生徒会所属という立場もあっただろう。怒られたことの無い人間が怒る側に所属し、そこで初めて怒られた。
 その二重の落差が、あらゆるものを軒並み吹き飛ばしてしまったに違いない。たとえ、分かっていたとしても。

「学園側の配慮は、先輩なら分かっているでしょう?
 本来なら副会長の地位も剥奪されたっていい失態なのに、自宅謹慎というもので全て済まされる。これは情状酌量以外の何物でもないし、それは状況の混濁に挟まれた、正義感に対するせめてもの対価です。
 それを忘れて自らを悪と断じるのは、配慮してくれた人たちに申し訳がないですよ」

 それがまゆき先輩の線引き。処分を受けたから悪であるという、安易な判断。
 大きなショックの向こうに霞んでしまったせいで、その誤りに気付かなかったのだろう。

 あるいはそれは、自らを罰したいがための、誤った過ち。

「だいたい、何を理解してても納得してても、人間の精神は思うとおりになんかいきません。
 正しいことをしていたって、ショックを受けるときは受けるんです。そしてそのショックは受けなくちゃならない。
 それを受けるということが、成長と反省に繋がるんですから」

 ショックを受けずに相手を批難したのでは、それではただの傲慢だ。
 やりたいことがあって、そこで起きたことにショックを受けても、それは本人が全て引き受けねばならない。願いを叶える装置が暴走し、そこで悲劇が起こったとしても、当人にはその悲劇にショックを受けねばならない義務があるのだ。

「……」

 まゆき先輩は何も言わない。
 それはそうだ。俺は、まゆき先輩が待っているはずの、最後の一言を言っていない。

「まゆき先輩」

「……ごめん、今なんか言われるとさ。
 折角止まったのに、また……」

「じゃああらかじめ謝ります。ごめんなさい。
 ということで……」

「ちょ、弟くん!?」

 やや強引にまゆき先輩の両肩を掴み、俺の方へ向かせた。
 肩が露出している服装のせいか。直に触ったその肩は、氷のように冷えている。

 そして肩の冷たさと同様、その鼻先は真冬の雪の日のように赤くなっていて。
 目元なんかは、雨が降ったかのように水気を帯びていた。

「な、何よ?」

 鬼の目にも涙ですね、なんてことは冗談でも言えなかった。
 だって、その表情はすっかり年頃の女の子で。涙を堪えつつも硬い表情を作ろうとしている仕草は、あまりにも健気に見えたから。

「先輩の努力と苦悩は、ちゃんと俺が見てましたから。
 まゆき先輩は、きっちり仕事を果たそうと、頑張ってましたよ」

「――っ、ごめん……ッ!」

 倒れ込んできた身体を受け止める。
 今だけだからと、明日になったら忘れていてという意の謝罪を受け取って。

「……っ、ぐす……、ひぐっ……」

 ……自分を信じることが、そんなに容易にできるはずがない。
 頑張って、努力して、誰にも評価されずに、それでも目標に向かって歩いて。他人には当然のように思えるそれも、自分にとっては不確かで。

 だってそうじゃないか。願いを叶える装置にしたって、みんなを楽しませたいという願いにしたって、それが絶対的に正義であるという保証はどこにもない。たとえ客観的にみてそうだろうと思えても、誰も評価してくれないままでは、それは”自分”という視点に終始する限り独善との境界はない。
 信念なんていうのは、外側から見たまやかしだ。それは独善と瓜二つで、排他的で、誰にも評価されず、貫徹しているくせに容易に曲がってしまう。

 それが自分の利潤の追求ならまだいい。でも他人の幸福に対するものだったら? その排他性は攻撃性となり、本人は自己不信に陥らざるを得ない。
 人間は、自分の外に目なんて持ってないのだ。だから、謙虚な人間が苦しまなければならない。

 あの人だって、自分のしていることを常に後悔しつつ、それでも前に進み続けた。
 それはある意味では傲慢で、独善的で、そして苦悩に満ちていた。命を賭せば即ち正義、というわけではないが、そこまでできたのは当人にとっても誇りだろうし、その息子にとっても誇りである。

 それが見えなかったから、全知全能であるかのようなあの桜に、まゆき先輩は嫉妬したのだろう。ある種似ているのだ、この二人は。
 ――いや、あるいはそれは誰もが願うもので。実行に移したからこそ、二人は似ているように見えるのか。

「まゆき先輩は間違ってなんかいない。
 確かに相反する考えはどこかにあるけれど、まゆき先輩だって全否定される謂れはないし、俺だってそう思います。
 このくらいで自分を見失っちゃ、ダメですよ」

 そのとっても華奢な身体に語りかける。
 俺の肩口に押しつけられた頭が上下した。

 だから、もう少しだけ。
 泣きやむまでのもう少しの間だけ、俺はそのまま先輩を支えていた。






       ○  ○  ○






「くおら、杉並ー!」

「はーっはっは! 我が対高坂まゆき学園内逃走用アルゴリズム搭載のモバイルを奪わん限り、俺の勝利は揺るがんぞ!
 呪うなら己の単調さを呪うがいい!」

 昼休み。いつもの追い駆けっこの声が学園中に響き渡る。
 俺はその騒がしい廊下に出て、走り回る二人の姿を眺めた。

 ……あの日以来、先輩は一層活発になった。
 何かを吹っ切った感じで、前より厳しく、前より柔軟に、前よりなお元気に副会長として職務を全うしている。

 それが先輩の決めた道。最も過酷で、最も進むのが難しい、最も大事な道。
 決めたのだから、やっていける。そういう人だ、彼女は。

「桜内、パス!」

 通り抜けざま、杉並からリモコンを投げ渡される。

「弟くん!」

 三角パスも真っ青な連携で、俺はそのリモコンを杉並を追走してこちらに向かってくる先輩に投げた。
 杉並は「同志を売るのか!?」とかなんとか叫んでいるが、悪いがそもそも同志でも何でもない。とっとと売れるなら売り飛ばしたいくらいだ。

 リモコンを受け取り、先輩は俺の目の前を走り抜けながら、小声でぼそぼそっと言う。

「先に生徒会室で待っててね、義之」

 アイコンタクトで返事をすると、彼女はそのまま杉並と共に廊下の奥へと消えていった。

 嵐の駆け抜けた廊下を、その嵐と逆の方向に辿りながら外を見る。
 その先には、学園の中心部に位置する生徒会室。

 ――さて。

 きっと既にカギが解放されているそこで、まゆきの戻りを待つことにするとしようか。

++++++++++


Short Story -D.C.U
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