空白のValentine Day

[da capo U short story]
 二月十三日。
 屋外の痺れるような寒さと打って変わって、教室の中は期末試験があるにも関わらずあたかも体育祭前日のように浮き足立っていた。

 理由はきっと、つい今し方終わったばかりの数学のテスト、その内容が簡単だったということだけではない。
 だって、今日は朝からこの調子だった。……いや、もっと正確に表現するならば、この熱気は一週間くらい前からずっと教室内に保持されているもので、日を経るごとにそのなにがしかの期待感は段々強くなっていっていると言える。

 分かっている。
 私だって、理由なんてとうに分かっている。

「音姫ー。今日はどうする?」

 帰りのホームルームも終わり、窓の外をぼうっと眺めていた私に声をかけてきたのは、いつもの笑顔で私を迎えてくれるまゆきだった。ここ最近はずっとこう。どうにかしようと思っても、どうにかできるならどうにかしている。

「ごめん、私、今日もちょっと」
「ん、分かった。
 だいたい仕事があるわけでもないんだから、謝らなくたっていいわよ」
「うん。ありがと、まゆき」
「だからいいってば。
 それじゃま、また明日ね」

 言って、手を振りつつ教室を出て行くまゆき。
 私もなんとか頑張って笑顔を作り、手を振り返して見送った。

 試験期間、確かに生徒会も建前上はその活動を休むように言われてはいるけど、でもそんなのは先生だって知ってる建前だ。
 たとえ部活がお休みでも、生徒会には日頃からの雑事が山積している。だから、仕事がないなんてことはない。中間試験のときだって仕事はしていたし、その前の期末のときだってずっと仕事は残ってた。

 だから感じる。まゆきの心遣い。こうして毎日、ぼうっとしている私に声をかけてくれるのもきっとまゆきだからこそ。
 それゆえに自分が情けなくて、まゆきの気配りが嬉しくて、それを嬉しく感じることにまた情けなさを覚えている。自己嫌悪の渦。最近はそんな感情に身を浸すことが多くなった。

「……帰ろ」

 誰にでもなく呟く。窓ガラスに映る、自分のものとは思えないその顔、しかしその唇は私ときっちり同調していて。

 二月十三日。
 バレンタインの話題で持ちきりの教室、その隙間を縫うようにして、私は誰にも気付かれないままゆっくりとその場を後にした。



       ○  ○  ○



 馬鹿なことをしている、という自覚はある。まるで美しい月に手を伸ばし、それに触れようとする子どものよう。いくら手を伸ばしても、はしごを使っても、たとえ屋根に登ろうと、それらは全て無駄な努力。
 ……そう、無駄な努力。

 だって。
 月は届かないからこそ、その美しさを保っていられるのだから。

「二千九百三十円になります」

 それでも歩みは止まらずに、私は言われるままに財布から紙幣を三枚取り出した。スーパーのレジ。お釣りを受け取り、レシートをもらって、最後に品物を受け取る。届かないはしご、その組み立て細工。

「お次のお客様どうぞ」

 私がレジを通り抜けると、待っていたお客もまた風見学園の女の子。名前は知らない。制服からして、学年は私より一つ下か。見渡せば他にも風見学園の生徒は多く、しかもそのことごとくが女の子。おそらく買った商品、その値段、それらも私とそう大差はないはずだ。
 そんな中にも、時折見かける男女の組。もちろん相手も風見学園の男の子。幸せそうで、少しだけ自慢げな、誇らしかろう恋人同士。

 私はそんな光景を見ていられずに、足早にスーパーの出口から外へ。暖房の利いた店内と違って、外は一気に冷える。既に薄暗くなっていることを、外に出て初めて気付いて。

「……はあ」

 吐く息は白く。
 でもそれも、私以外には気付かれることなく消えていき。

 商店街も人通りは多かった。その構成、比率は店内のそれとそう大きな違いはない。女の子同士のグループが一番多くて、その会話内容はきっと親友同士でしかできないような恋話。誰もが期待を胸に、不安を胸に、明るく笑って歩いていく。

 だから私も一歩、通りの中へと踏み出して。
 あやかることができたなら、とどうにか歩調は擬態して。

 外から見れば、きっと私は単なる通行人のうちの一人。
 それでも私の胸の中、強烈な疎外感は打ち消せず。

「――っ」

 分かっているのに、感情の波を抑えられない。急に『あの日』がフラッシュバックして、私は通りの端へと自分の身体を追いやった。
 車を避けるかのようなその仕草。しかしその脱落を気に留める人なんて誰も居らず、明るい空気は私を残して商店街を通り抜けていく。

 ……本当に、私は何をしているのか。
 右手に提げたビニール袋、その意味が自分ですら理解できない。月に行く手段を自ら壊しておきながら、はしごで月を掴もうとでも? 自分の馬鹿さ加減に涙が出てくる。
 届かないのだ、あの月にはもう。

「あーあ、三千円、無駄になっちゃったな」

 通り沿い。設置されたゴミ箱に目を向け、そこへとゆっくり歩み出す。こんなことになるのは分かっていたはずなのに。早く帰って、暖房の利いた部屋で試験の勉強でもしていれば良かった。いや、そうすべきだった。

 そう思いながら、私はふっとゴミ箱へと手を伸ばし。

「あれ、音姫先輩もチョコレートの買い物ですか?」
「ッ!」

 急に掛けられた声に、腕がびくっと引っ込められる。それでも不自然さを隠そうとして、私はビニール袋の中、レシートだけを取り出して、燃えるゴミへと投げ入れた。
 そうして心臓の鼓動の止まらぬままに振り返り。私の前に立っていたのは、よく見慣れている二人組。

「でも意外ですね、音姫先輩がチョコを用意するなんて。
 女の子同士のお返し用ですか?」
「あ、これ? ええと、これは……」
「でもでも、男の子だったら嬉しいだろうねえ。
 なんせあの音姫先輩のチョコだもん! 学園の誰もが欲しがる超レアアイテムだよ、杏ちゃん!」

 雪村さんと、花咲さん。二人は数多いる女の子グループと同様に、明るい表情で私に声を掛けてきた。音姫先輩「も」というからには、彼女たちもきっとその買い物ということなのだろう。

 私はビニール袋を後ろ手にして、

「雪村さんたちは、誰か男の子にあげるのかな?」
「ええ、まあ。これでも義理の一つや二つはあげなきゃいけない相手が居ますし。
 茜は自分用のが多いみたいですけれど」
「あ、ひどーい! たぶん小恋ちゃんよりは少ないもん!」
「それも充分ひどいわ。……まあ小恋だし、おそらくそうでしょうね」

 あはは、と賑やかに笑う。
 彼女たちがいつも通りであることに、私はちょっとだけ安心して。安堵して。そしてまた、ちょっとだけ羨ましくて、憎らしくて、それでいて哀しくもあって。

 だから私は耐えきれない。
 商店街、その華やかさの一部である彼女たち。私はその一員に決してなれはしないし、そしてまたなろうという気すら持つことが未だできていない。

 しかし私がそう思える日、それがいつかは来るのだろうか?
 正直言って、私はその日が怖くてたまらない。だってそれは、あの日記に、私は彼の名前を書けなくなるということだから。名前を書かずとも、不安に怯えることがなくなるということなのだから。

 それは私にとって、死ぬことよりも恐ろしい。

「音姫先輩?」
「……え?」
「あ、ええと、体調でも悪いんですか?
 なんだか考え込んでいたようなので……」

 心配そうに私を見てくる二人。
 ……いけない。私は何をやっているのか。知り合いの前で、こんな考えにふけるなんて。

 私はなんとか表情を引き出し、「なんでもないよ」と笑ってみせる。
 二人もどこか疑問が残ってはいるものの、取り立てて私の様子を指摘することもなく。それはきっと、まゆきと同じ気持ちから。

「それで、音姫先輩は誰に送るんですか?
 本命ですか?」
「あ、あはは、やっぱり忘れてなかった……?」
「いくら私が忘れっぽくなったとしても、要点だけは押さえておきますよ」

 昔のように、得意げに笑う雪村さん。
 その表情に陰が残るかの判断を、今の私にする余裕はない。

 チョコ。
 本命か、義理か。今の私にとってみれば、きっとそのどちらでもあって、そしてまたどちらでもありはしないに違いない。
 好きであるという感情は本物。でもどこかで、好きでなくてはいけないという義理すらあるような気がして。

「音姫先輩。あの、失礼だとは思うんですけど……」
「うん? どうしたの、花咲さん?」
「茜……?」

 ふと、そう言って花咲さんが真面目な表情になって私の方を向いてきた。
 雪村さんも首を傾げている。

「失礼なんてことはないよ。何かな? 本命かどうか?」
「えと、そのぉ。
 チョコ、手作りですよね? その材料だと」
「えっと、そう、なるのかな」

 わざと崩した言葉遣いで、花咲さんはそれをまず確認し。

「手作りのチョコって、私、作っている間でもその価値があると思うんです」
「作ってる間?」
「ええと、なんていいますかぁ……。
 相手が受け取ってくれるかとか、美味しいかどうかとか、その成否それ自体だけじゃなくて、それに期待とか不安とか持って作ってる間、そう思いながら作っていること自体に、手作りチョコの意味ってあると思うんです。
 だから、えっと……あうう、助けて、杏ちゃん」
「茜、あなたの意見でしょうが」

 涙目になって雪村さんにしがみつく花咲さん。
 しかし言わんとしていることは雪村さんにも伝わったようで、彼女は親友の言葉を継いだ。

「要するに、茜はチョコの作成過程における、作り手の感情、ありていに言えば愛ですか、それ自体に価値があるって言いたいんだと思います。
 たとえ結果がダメでも、相手に届かなかったとしても、作っている間に作り手自身が感じていた気持ちそれ自体は否定できないですし、その作成という事実も覆せません。
 だから結果的に、手作りチョコを作ろうとして、あるいは作ったなら、その行為は間違いなく『好き』という感情から派生したものであるはずなんです。
 ……これでいい、茜?」
「あ〜ん、やっぱり杏ちゃんは杏ちゃんだー!
 そうそう、そう言いたかったんです、音姫先輩! だから自分の気持ちに疑問を持ったりしちゃダメですよ!」

 雪村さんを背後から抱きかかえつつ、花咲さんは私にそう言った。

 ……右手のビニール袋、その中身が一気に重くなった気がして。

「花咲さん」
「ほえ?
 あ、ごめんなさい、ちょっと言い過ぎでしたよね。言ったのは杏ちゃんですけど」
「ううん。そんなことない。
 花咲さん、それに雪村さん」
「はい?
 ……むぎゅ」

 私はゆっくりと二人に近づいて、重なっているその身体、更に正面から抱きすくめた。肩口に雪村さんの頭の感触を感じつつ、花咲さんの綺麗な長い髪に腕を回す。

「ど、どうしたんですか、音姫先輩?」
「これは……ちょっと、恥ずかしいです」

 なぜって、理由は決まっている。
 こうしなければ、私の頬を流れるそれに、二人は気付いてしまうから。

 活気溢れる商店街、そのメインストリームから少し外れたその場所で。
 私は二人を抱きしめ、目を閉じそっと口を開いて、言った。

「ありがとう、二人とも」

 涙はなおも止まらずに。
 ……だから私は、まだ頑張れる。



       ○  ○  ○



 翌日。生徒たちのほとんどが試験そっちのけであるイベントについて集中しているその日。
 私はいつもより十分以上も早く教室に着いていて。

「おっはよー。
 って、あれ、音姫じゃん。珍しいね、あたしより早いなんて」
「えへへ。なんとなくね」
「ふーん? さてはアレかにゃー?」
「さて、どうでしょう」
「……?」

 あれ、否定しないの? とでも言いたげな表情を作るまゆき。私はそれを笑って濁した。

 だいたい、早く着いたのだってそのせいなのだ。いつもより早く目が覚めてしまって、ギリギリまで時間を潰していたのに、いつもより歩くスピードも速くなっちゃって。
 でも、そこに不快感は何一つない。

「それにしても、随分嬉しそうじゃない。何かあったの?」
「うん、ちょっとね。
 ほら、それよりまゆき、さっさと試験の勉強しないと。私たちがぼろぼろの点数取るわけにはいかないでしょ?」
「え? ええ、まあそうね。やりましょうか」

 私の態度の変化に、まゆきは少しだけ首を傾げる。でもそれも、いつの間にやら消してしまったのは、きっと私が元気になったから。心の中で、その心遣いに再び感謝をしつつ。

 ……二月十四日、バレンタインデー。
 私の鞄にも、みんなと同じく手作りチョコが入っていて。
 それでもみんなと違うのは、そのチョコのもらい手が今はどこにも居ないと言うこと。

 うん、でもそれでいいんだって気付いたから。
 月には届かなくたって、月を忘れていない自分、それを再認識するにははしごだけでも充分すぎる。
 だってそれは、私がまだまだ弟くんのことを忘れていないことの証以外のなにものでもなくて。

「よし、それじゃまずは――」

 だから私は、弟くんの居なくなったこの初音島、自分を信じて頑張っていこうと決意できたのだった。
 ……この想い、いつか再び届けられる日が来ることを、心のどこかで祈りながら。

++++++++++


Short Story -D.C.U
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