壊れた夢
[da capo U short story]
島中の桜の花びらの掃除という大仕事もとうに終わり、そろそろ冷房の準備を始めようかという頃。
わたしはいつも通り、鞄を手に教室を後にした。
「それではお先に失礼しますね、天枷さん」
「うむ。また明日会おう、由夢」
掃除当番でみんなと掃除をしている天枷さんに挨拶をして、廊下へ。
足がちょっとだけ浮つく。それがちょっとだけ恥ずかしくて、でもちょっとだけ誇らしくて。
階段を降りて下駄箱で靴を履き替え。もちろん、あの人がまだ帰っていないことを確認するのも忘れない。
といっても、わたしを置いて帰るようなことはないと思う……んだけどなあ。わりと気が抜けてる人だから、そう断言できないのが悲しいところ。
つま先で地面を蹴りながら靴を整えていると、聞き慣れた声が背中からかかった。
「あれ? 天枷見なかった?」
振り返ると、立っていたのは水越先生。キョロキョロと周りを見回している。
校内なのでタバコはくわえていないけれど、これだけタバコの臭いをまとわりつかせているのは、医療従事者……というより教育者としてどうなのか。
「天枷さんなら掃除当番ですよ。みんなとちゃんとやってます」
「そ。分かったわ、ありがと。
これから帰り?」
「はい、まあ」
「ん、お疲れ様。車に気をつけて帰るのよ。
あ、あとお姉さんによろしくね」
そんな、お母さんのようなことを言って、水越先生は手を振りながら去っていった。
うちの教室に向かうのか、あるいは保健室に戻るのか。ちょっと方角からは分からない。
今日は保健委員のお仕事はないので、続々と下校していく生徒に混じって校庭へ出る。
みんな表情が晴れやかだ。あまりにも現金で、それがまた可笑しい。
表情をこらえているけれど、わたしももしかしたら笑っているかもしれない。周りの人と同じように。
でもわたしがみんなと歩くのは、途中にある校門の手前まで。
校門の石柱に身体を預け、帰って行く生徒を何となく眺める。
前は誰ともつかない人を待っていて、その途中で可哀想な独り身の身内を見つけて一緒に下校していた――ということになっている。
今は違う。最初からその人、兄さんを待っている。
未だに聞いたことはないけれど、もしかしたら当時からわたしが兄さんを待っているのはバレてたのだろうか。
だとすればすごく恥ずかしい。嘘がうまい方だとは、自分でも思っていないけれど。
「……っと、居た居た。
なんだよ、折角今日は早かったと思ったのに」
ちょっとだけ口をとがらせて、拗ねたようにそんなことをわたしに言う人はただ一人。兄さんだ。
少し息切れしていることが、とてつもなく嬉しくて。
「や、先輩たちが後輩より先に帰ってどうするんですか。
わたしたちのほうがホームルーム短いですもん」
それはもちろん本当でもあり、嘘でもある。
わたしは兄さんより先にここで待っていたいから、いつもそれなりに急いでる。
兄さんはわたしより、挨拶する人が多いだろうから。その差は嬉しくて、でもちょっとだけ嫉妬して。
「うーん、これは俺も対策を考えねばなるまいな」
「そんなこと言って、ホームルームを途中で抜けたりしたら、お姉ちゃんに言いつけますよ?」
「げっ、なんだよ、口に出してたか?」
「や、兄さんの考えてることなんて分かります」
兄さんは優しいから、やっぱりその差に気付かない。
わたしは「俺ってそんなに分かりやすいかなあ?」なんてぶつくさ言っている兄さんの腕を取り、校門の外へと引っ張った。
「さ、行きましょう、兄さん?」
「あ、ああ、そうだな。
花より団子でも行くか?」
「ええ。今日発売の新作は、何としても食べるんだから!」
兄さんがおかしそうに笑う。
べ、べつにわたしは食い意地張ってるわけじゃありませんっ。嗜みですよ、た・し・な・み!
○ ○ ○
「うわ、なんだコリャ……」
兄さんの呟きが聞こえる。
わたしだって同じ気持ちだ。絶句した。
花より団子、その店先が消滅していたのだから。
「下がって、下がってー!」
「今警察を呼びましたので……」
店員が続々と出てくる。
花より団子の店先は、一台のトラックによってあらかた吹き飛ばされていた。
かなり高速で突っ込んだのだろう。店先のテーブルを粉々にするだけでは飽きたらず、先頭部分は建物の壁にめり込んでいた。
野次馬も続々と集まってきている。
「……行こう、由夢」
「兄さん?」
「あんまり見ていて気分のいいもんじゃない。
桜公園でクレープでも買ってから行こうぜ」
「そう、ですね」
まだまだ騒ぎの落ち着きそうにない事故現場から目線を切り、わたしは兄さんにしがみついて花より団子を後にした。
○ ○ ○
二人で二種類のクレープを分け合い、お腹も少し膨れたあと、わたしたちは水越病院へ。
顔見知りになった受付のお姉さんに軽く会釈して、いつもの病室に向かった。
「音姉、入るぞ?」
「あ、は〜い」
もう随分と元気になった声を聞き、兄さんが病室のドアを開ける。
わたしもその後に続いた。
「こんにちは、弟くん、由夢ちゃん。
毎日毎日、大変でしょう? いいって言ってるのに」
「そんなこと言って、お姉ちゃん、すごく嬉しそうじゃない。
来て欲しいんでしょ?」
「えへ、バレた?」
お姉ちゃんはベッドに横になりながら、上半身だけをあげてそんなことを言う。
バレたというか、バレバレだ。わたしより嘘がヘタなんだから、もう。
わたしは後ろ手にドアを閉め、ドアの横に置いてある花瓶から古くなった花を少し間引きした。
放っておくとすぐに腐ってしまう。兄さんはこういうのの気は全く利かないから、これはわたしの役目だった。
「もう随分調子いいんじゃないか、音姉?」
「うん、もう全然。そうだ、弟くんからも先生に言ってくれないかな?
私もう退院できるよ〜」
お姉ちゃんはふてくされたように文句を言う。
そもそもお姉ちゃんは、別に身体の異常で入院したわけではない。
お医者さんが言うには、心労の蓄積だとか。
四月一日。兄さんが帰ってきた。もちろんわたしにとってその日はかけがえのない日になったけれど、わたし以外にもう一人、兄さんのことを覚えていた人が居た。
それがお姉ちゃん。わたしに負けず劣らず、兄さんが帰ってきたことを嬉しく思ったに違いない。
その後わたしはお姉ちゃんに全ての顛末を聞いて、お姉ちゃんの苦悩を知った。
それから幾日か経った後、お姉ちゃんが倒れた。お医者さんいわく、極度のストレスからの解放が原因とのこと。
だからそれはある意味では嬉しいことで、わたしと兄さんはお医者さんの薦めもあり、お姉ちゃんを入院させることにした。わりと強制的に。
そうじゃないとお姉ちゃん、いつまでも頑張っちゃうから。
だから入院とはいえ、お姉ちゃんはわりと最初から元気だったのだ。
調子どうこうというより、ついに飽きが来たに違いない。最初は「私入院なんて久しぶりだよ〜」なんて、物珍しそうに見回してたくせに。
「まあ俺も一応言ってはみるけどさ……でもいいんじゃないか、音姉は頑張りすぎたんだから、もうちょっと休んでても。
幸い、格安で個室を借りられてるわけだし」
「そんなこと言ってー。私がいないのをいいことに、由夢ちゃんに変なことしてない?」
「ちょ、お姉ちゃん!」
危うく手に持った花瓶を落とすところだった。
もうちょっと時と場所を考えて欲しい。
「由夢、お前のその反応がどれだけのことを語るか、よく考えてくれ……」
「だ、だってぇ……」
そんなことを言いつつ、兄さんだってゆでだこ状態。
そんなわたしたちの様子を見て、お姉ちゃんは可笑しそうに微笑んだ。
うー。なんか遊ばれてる気がする。
しかたないので花瓶の掃除を終わらせ、ゴミ整理にうつる。
仕事を見つけて恥ずかしさを紛らわせようとか、そんな魂胆はない。断じて、ない。
「お姉ちゃん、またこんなの食べたの? 太るよ?」
「あ、あはは、バレた? だってそれ美味しいんだもん。
そこに買い置きがあるから、ほら、由夢ちゃんもどう?」
「買い置きって、あのね……」
病院食では物足りないせいか、お姉ちゃんは入院以来よく甘いものをつまんでいた。
今日は草餅。昨日はどら焼き。その前はあんまんとか、ようかんとか。
まあ、そんなものを売っている病院内の売店、というのもどうかとは思うのだけれど。
まさかおみやげ用じゃないだろうし。
「まあ良いんじゃないか? 音姉は元々身体は元気なんだし、むしろ病院食なのがおかしいくらいだ」
「さっすが弟くん! 話が分かるなあ」
それはそうなんだけど。
わたしは太るよ、って言っただけなのに。別に食べるなとは言っていない。わたしが同じ立場だったら……たぶん、食べる。
でもでも、兄さんがそこまで擁護することはないと思うんだけど。
そんなことを考えていると、お姉ちゃんがぽん、と手を打った。
「そうだ、久しぶりに弟くんのどら焼きが食べたいな〜。
由夢ちゃんももう知ってるんでしょ?」
「あ、それいいですね。兄さん、わたしのは粒あんでお願いします」
もう知っているというか、そもそも知っていたが正しい。
ま、今となってはどっちだっていいけどさ。
「ちょ、音姉、余計なことを……。
っつーか由夢! お前さっきクレープ食ったじゃねえか!」
「甘い物は別腹ですから」
特に兄さんが作った和菓子なら、別腹も別腹、いつだって食べられる。それだけわたしにとって特別な味。
というか今日は結局花より団子の新作杏仁豆腐を食べられなかったのだから、わたしには兄さんの和菓子を食べる権利くらいある。
クレープだけじゃちょっと物足りない。
「ふーん、弟くんと由夢ちゃん、私が入院してひもじい思いをしてるのに、そんなもの食べてたんだ?」
「あ、いや……別にそういうわけじゃ」
「じゃあ私も食べていいよね?」
お姉ちゃんはお姉ちゃんでにこにことしたまま、容赦なく兄さんに和菓子をせがんでいた。
このあたりはさすがに譲らない。
「……ったく、太ってもしらないからな」
「やったー。弟くんのどら焼き〜」
「わーい。あ、皮は厚めでお願いします」
「お前ねえ……」
兄さんは仏頂面になりながらも、結局は注文通りの和菓子を出してくれた。
○ ○ ○
兄さんの和菓子を平らげて少し談笑し、夜の帳も下り始めたころ、わたしたちは病室を後にした。
帰り際に聞いたところ、もうあと数日で退院になるらしい。
それはそうだろう。病院にはあの個室を必要としている人がきっと居るのだから。
いつまでも元気なお姉ちゃんをあそこに置いておくわけにはいかない。
「わりと暖かくなってきたかな?」
病院から出て少し歩いたあと、兄さんが夜空を見上げてそんなことを言った。
わたしは首を振る。
「ううん、まだまだ寒いよ」
そう言って兄さんの腕を胸に抱くと、兄さんは恥ずかしそうに笑った。
この時間じゃ知り合いとは会わないだろう。わたしだってまだ少し恥ずかしいけれど、兄さんはもっと恥ずかしがり屋さん。
自分より恥ずかしがり屋な人を恥ずかしがらせることが、こんなにも嬉しいことだなんて。
切れかかった街灯が明滅している。
そんな古びた道を、兄さんと二人で歩いていった。
「わたしね、ようやく分かったんです」
梅雨模様の、少し湿った空気の中で。ちちち、と夏虫の鳴く声が漆黒の闇に響くのを聞きながら、わたしは口を開いていた。
これだけ感傷的な気分になっているのはなぜだろうか。幸せすぎだからかもしれないな、なんてことを思う。
「未来って、変えられるものなんですよ。
人間頑張れば不可能なことなんてないんですから」
いつぞやの夫婦漫才で、二人が言っていた言葉。その重みが、胸にくる。
わたしとお姉ちゃんは、それをどこかで信じていて、どこかで信じていなかった。あの二ヶ月間は、きっとその代償だ。
ぎゅっと、兄さんの腕を抱く手に力を込める。
兄さんはゆっくりと、その大きな手で頭を撫でてくれた。
「わたしの夢は未来を見る。でも、その未来は兎角曖昧なんです。
それがいつなのか、どこなのか。そんなことすら、映像からしか分からない。
たとえ車に轢かれる夢を見たところで、それはただちに大怪我したということには繋がらない」
車に轢かれることと、大怪我をするということはイコールではない。
だから、例え別離の夢を見ていても、それが永遠の別離だなんて保証はどこにだってない。
「未来なんて分からないのが普通だろ?
自分一人ではどうにもならなくても、二人ならどうにだって変えられる。
どんな絶望的な映像だって、その未来のどこかに希望が必ずあるはずだ」
「そうなんだよね。知っているのに逃れられない未来なんて、あるはずがない。
その曖昧さがなかったら……兄さんは、戻ってこなかったんだから」
天気予報みたいなものだ。
降水確率が八十パーセントなら、残りの二十パーセントを追い求めればいい。
未来を知っているわたしたちは、それを勝ち取りに行くことができる。
明日晴れていて欲しいからって、天気予報というシステム自体を拒否する必要はない。
それをどう利用するか。ただ、それだけ。
「もう隠し立てなんてできないからな。一人で抱え込むことなんて許さないぞ」
兄さんは腕に張り付いたわたしを軽々と回転させて、ぎゅっとその腕でわたしを包みこんだ。
とっても暖かい。わたしもその背中に腕を回す。
月夜を背にして、兄さんの瞳にわたしが映り込んでいた。
「現実は夢より重いんだ。夢が現実を支配したり、夢と現実が入れ替わるなんてことはない。あり得ない。
その現実が幸せなら、何も怖い事なんてないんだ」
夢の島で夢を見るわたし。
わたしにとっての現実は、誰かにとっての夢であり。
わたしは現に幸せで、わたしは悲劇の夢を見て。
わたしが蝶であるならば、わたしは夢が現実で。
兄さんが夢の塊ならば、わたしは現に夢を見る。
でもそれでもいい。蝶から見れば、今この感触こそが蝶にとっての現実だ。
わたしは今、蝶であることを誇りに思う。
――でも、もしかしたら。
さくらという夢は消えたから。
ゆめは夢ではなくなったのかな、なんてことを思いたくなった。
「兄さん――」
「由夢――」
桜が散った夢の島で。
わたしは花にとまった蝶のように、兄さんにそっと口づけをした。
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