コわれゆメ

[da capo U short story]
 十年ぶりの青葉に、そろそろ物珍しさも感じなくなってきたころ。
 わたしはいつも通り、本校に居る兄さんの教室へと向かった。

「兄さーん、迎えに来ましたー!」

 わたしと兄さんを隔てていた最後のドアを開け放ちながら、声をあげる。
 兄さんが本校になってから、教室がとっても離れてしまった。だから我慢が効かないのだ。兄さんのことをいろいろ考えながら、一分一秒でも早く会いたい気持ちが抑えきれない。その抑圧が声になってしまうだけ。
 兄さんはいつも恥ずかしそうにこっちを見るけど、それすらわたしには楽しくてしようがない。

「はあ、来たか……。
 それじゃホームルームは以上だ。解散」

 最近は何を言わなくなった先生を無視して、わたしは兄さんの席へ一直線。
 窓際の最後列。そこは目を瞑っていたって歩いていけるほど、完璧に位置を把握してる。

「由夢さ、もうちょっと控えめにっていつも言ってるじゃないか」

 かったるそうに立ち上がる兄さん。
 これが兄さんなりの照れ隠しなのは分かってる。まるで昔のわたしみたい。それはちょっと、損な性格だ。

「や、控えめにする理由がありませんから」

「いやだから……むう。
 まあいいや、花より団子でも寄って帰るか?」

「はい! 行きましょう、兄さん」

 代わり映えしない学ランの腕を胸に抱く。
 この感触があるからこそ、一日を頑張れるのだ。この感覚を知らなかったなんて、ウソみたい。

 兄さんは周りの生徒に一言二言何か話してから、わたしと一緒に教室から出た。
 急ぎ足なのは、やっぱり恥ずかしいからだろう。


       ○  ○  ○


 わたしたちが恋人同士と認識されるまで、さして時間はかからなかった。後から色々と聞いてみたところ、どうやらわたしが兄さんを好いていたのは、誰もが知るところだったらしい。
 それもそうかな、と今になって考えれば納得できる。あれだけ言い寄られて――ちょっと自慢っぽい?――断り続けたのは、わたしの他は白河先輩くらい。意中の人が居ると考えられるのは、当然といえた。

 兄さんは恥ずかしがっているけれど、わたしは学園全体にカップルとして認知されるのはむしろ嬉しかった。
 子供が生まれるとその喜びを全世界に向けて叫びたくなる、なんて話をよく聞くけれど、それと同じだ。わたしは兄さんと結ばれて、しかも別離の未来を変えられたことが、文字通り死ぬほど嬉しかった。
 あの別離はわたしの人生そのものに対する枷だったのだから。

「兄さ〜ん」

「ん? どした?」

「うふふ、呼んだだけ〜」

 兄さんがここにいる、というだけでわたしは生きていける。しかも兄さんは、二度とわたしから去っていくことはないのだ。
 他に何を望めというのか。他に必要なものなんてなんにもない。

 兄さんと腕を組んで、学校から十数分ほど歩いたころ。見慣れたのぼりが見えてきた。
 ゆらゆらと微かな風に揺れている。

「さて、今日は何食べる?」

「あ、兄さん、ちょっと待っててくれるかな。
 わたしが注文してくるから。いい?」

「……? まあ、いいけど」

 何を隠そう、今日は新作の販売日なのだ。兄さんが花より団子に行こうと言ってくれたとき、もしかしたら知っているのかと思ったけれど、どうやらそうじゃなかったみたい。
 よかった。それじゃ驚きが半減しちゃうもんね。

「中で食べるか? 外?」

「外でいいんじゃない?」

「あいよ」

 名残惜しいけれど兄さんの腕からそっと離れる。兄さんは店先の席を取りに行った。
 といっても外にはお客さんが誰もいなかったから、場所は選び放題だ。

 わたしはいつも通り注文カウンターへ。普段はテーブルを回って注文を取るウェイトレスが居るけれど、平日のこの時間はカウンター奥に居ることが多い。

「すいませーん、今日出た新作って、まだありますか?」

「はい、ありますよ」

「じゃあ、それひとつお願いします」

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

 そう言って、店員は店の奥へ入っていった。

 他の女の子たちほどじゃないけれど、わたしも甘いものにはちょっと厳しい。でも、それは好きだから。
 新作チェックはもはや嗜みといえる。今日ももう少し時間が経てば、新作目当ての女の子たちがどんどん集まってくるに違いない。

 杏仁豆腐に手を加えたものだとは聞いているが、詳細は分からない。
 まだ見ぬ新作に期待しつつ、それを兄さんと一緒に味わえる喜び。その歓喜に思いを馳せつつ、まだかまだかと待っていると、

 ――ずどん、と。
   突然、まるで爆発音のような。

 それは隕石が店先に落ちたのかと思うほどで。
 地面が揺れて、わたしは膝を折った。

 がしゃん、と聞こえるのは、ガラス金属が砂塵の如くに舞い散る破音。

 振り向くと。
 トラックが、花より団子の店先を、木っ端微塵に吹き飛ばしていた。

「うそ……っ、事故!?」

「お客様、どうなされ……!
 お怪我はございませんか!?」

「わたしは大丈夫ですけど……。
 と、とにかく警察! 救急車も!」

「は、はい!」

 店の前は惨憺たる有様だった。
 大型の貨物トラックは思いっきりハンドル切ったのか、くの字に曲がっていた。その先端は花より団子の店内にまで突き抜けている。
 道路に面したガラスは散り散りになり、柱は折れ、いくつかのテーブルは砕け散ってトラックの下敷きになっていた。

 人が少なかったのが幸い、というところだろうか。客はみな窓際には座っておらず、運良く難を逃れたらしい。
 みな呆然とした表情をしているが、パニックになっていないのはそのせいだろう。

「お客様、皆さんご無事ですか!?
 お知り合いの方が居ないなどということはありませんか!?」

 店員の誘導が始まる。みな顔を見合わせた。
 そのうちの一人が声をあげる。

「すみません、うちの連れではないんですが……。
 人が一人、その、轢かれて! 外に座っていた人みたいなんですけど」

 ――え?

 ソトニスワッテイタ?

「居た! 居たぞ!
 タイヤの下に……くそっ、ジャッキでもないと!」

 ――外に客は居なかったじゃないか。

「お客様!
 いま、いま救急の方が来ますから!」

 ――だって、そんな夢見なかったのに……!

 ソンナミライハミテイナイ。

「うわ、血まみれじゃん……」

「生きてるのかな……?」

「ヤバくね……?」

「見ない方が……」

 ……店内の会話が遠い。
 わたしにはそれを目の当たりにする勇気もなく。

 ゆっくりと、しかし唐突に意識を絶した。






       ○  ○  ○






「ただいま、兄さん。
 ……って、ああ! またそんなもの食べて!」

 あれから数週間後。兄さんはかろうじて命を取り留め、ようやく一般病棟へと移ることができた。
 兄さんと会えないのがわたしにとってどれだけ辛かったか。事故から兄さんと会うまでの記憶がぽっかり抜け落ちているほどに、わたしは辛かった。

 その辛さを慮ってか、今ではこの個室に寝泊まりする許可をもらっている。寝ても起きても兄さんと一緒だ。
 学園の水越先生と懇意にしていたことも大きかったみたい。ここは、水越病院だから。

「ああ、悪い。
 ……と、ギリギリだったな。そろそろ水越先生が来る時間じゃないか?」

 兄さんの手元にあった食器を片付けて、今わたしが買ってきたジュースと軽食を置く。
 ここの売店のサンドイッチは気に入っているのだ。わたしも食べているから。

「そうですね。もう兄さんだって意識がハッキリしてるんだから、必要ないとは思うんだけど」

「まあ、そうかもしれないけどさ。
 ここは専門家に任せておいたほうがいいだろ、由夢?」

「兄さんがそう言うのなら……」

 水越先生はいい人だ。保健委員として交流もあったし、個人的な用事であの事故の少し前から連絡も取っていた。
 だから、大丈夫。

 兄さんの服を整理していると、こんこん、とドアがノックされた。

「はーい、どうぞ」

「こんにちは、朝倉さん、桜内くん。元気にしてるかしら?」

「元気じゃなかったらコレ押してますよ」

 そう言って兄さんがナースコールのボタンを見せると、先生は少し笑った。

 水越先生は少し前に学園の保健教師を辞め、現在はこの病院に勤務しているらしい。
 らしい、というのは、その頃は兄さんのことばかり考えていて、他のことにあまり興味はなかったから。勿論いまだってそうだけど、当時は尚のことだった。なんせ、消えた兄さんが帰ってきたのだから。
 居なくなったクラスメイトに気を払えるほど、わたしにとって兄さんは軽くはなかった。

「さーて、それじゃま、早速だけどいいかしら?
 こう見えてもわりと忙しいのよ、私。引き継ぎとかまだ終わってないし」

「患者の前で医者が愚痴っていいんですか?」

「あはは、ゴメンゴメン。やっぱ知り合いだから気が緩んじゃってサ。
 朝倉さん、悪いけど今日も付き合ってくれる?」

「はい、兄さんのためなら」

 そう言って、兄さんのベッド脇のパイプ椅子に座った。先生もわたしの隣の椅子に腰掛ける。
 兄さんは少しだけ、ベッドから上半身を持ち上げた。

「さて、それじゃいつも通り順番に答えてね。
 あなたの名前を答えなさい」

「桜内義之です」

「六月十八日、事故があったのはどこ?」

「花より団子です。桜公園の近くの。そこで兄さんが……」

「所属学校と学年を答えなさい」

「風見学園本校の一年です」

「六月十八日、花より団子で何があった?」

「兄さんが轢かれたんです! トラックに!
 わたしがその日出た新作を注文をしている間に……」

「同級生の名前をフルネームで一人挙げなさい」

「板橋渉」

「知り合いの名前を三人挙げて?」

「えっと、兄さんと……ああでも兄さんは知り合いって感じじゃないですね。
 んと、杉並さんと……」

「今、何時か答えなさい」

「午後四時半です」

「六月十八日、トラックが花より団子に突っ込んだのは何時頃?」

「あ、えと、夕方です。兄さんと一緒の帰り道でしたから」

 ……水越先生はいつもこうやって問診していく。
 兄さんの精神状態の確認なのにわたしが付き合っているのは、本人に不安感を抱かせないためみたい。確かに一対一でとつとつと質問されたのでは、自分は頭がおかしいのではないかと疑ってしまう。
 でもわたしが見た限り、兄さんは大丈夫だと思うんだけど。

 その後に二、三回同じような問診をして、水越先生は退室した。
 バランス良く栄養摂るようにね、なんて言いながら。

「水越先生も兄さんも心配しすぎだよ。
 兄さんのことはわたしが一番知ってるんだから」

「はは、そうかもしれないな」

 こういうときの兄さんの表情が、とてつもなく愛おしい。
 わたしをたしなめるような、それでいてどこか父のように見てくれる、優しい瞳。こういうのを包容力、というんだろうか。

 水越先生が帰ったので、個室の鍵を閉め、わたしは寝る支度を始めた。
 あとはもう外に出ることもないから。わたしはもとから兄さん以外に用事はないし、兄さんは事故で足が/
 ともかく、いつもこうしているのだから問題はない。

「どうする? トランプでもしようか、兄さん?」

「いや、今日はもう寝よう。
 ……その、疲れてるみたいだから」

「うー、兄さんがそう言うなら……」

「はは、悪いな、体力が無くて」

 朗らかに笑う。
 声が擦れているから、もしかしたら本当に疲れているのかもしれない。

 兄さんは持ち上げていた上半身をベッドに沈め、掛け布団の端を持ち上げてくれた。
 わたしはその中にころころと転がり込む。

「えへへ……わたし、この瞬間が一番好きだなあ」

 兄さんの温かさと匂いに包まれる至福の時間。入院以来線が細くなってきた兄さんの身体をぎゅっと抱きしめる。
 これでもわたしが不健康なものを悉く排斥しているから、この程度で済んでいるのだ。わたしが居なければどうなっていたことか。

「それじゃおやすみな、由夢」

「はい、おやすみなさい、兄さん」

 兄さんの存在を胸いっぱいに吸い込みながら、わたしは深い眠りに落ちた。


       ○  ○  ○


 意識が浮上していくきっかけは、大きな喪失感だった。
 耐え難い痛み。真横から射抜くような夕照がわたしを責め立てる。

 いつか夢に見て、回避されたはずの結末。

 斜光は強圧的なまでの紅。
 まるでわたしを断罪するように、まるでわたしを嘲笑うかのように。

 わたしは疑念を挟む余裕もなく、その網膜を焼き尽くされた。
 視界は白光ではなく、虚無。まぶたをあけている自覚はあるが、何も見えない。

「あれ……あ、あった」

 わたしのではない。
 布団の温もりの主の声。確信を持ちたくて腕に力をこめたが、その腕は自分の身体を抱きしめただけだった。

 視界が定まっていく。虚無が漆黒へ、漆黒が形を為していく。
 パイプ椅子、携帯テレビ、ラジオ、ジュースのペットボトル、着替え、サンドイッチの包装……。

 ああ、と思う。
 わたしは起きたのだ。傍らの消失感に耐えられなくて。

「兄さん……?」

 声は聞こえた。個室の中には居るらしい。だからわたしは呼びかけた。
 兄さんがわたしから意識的に離れるなんて、ありえない。まだきっと事故の影響が残っているんだと思う。

「兄さん?」

「え、由夢? まさか、起きた?」

 何を言っているんだろう。
 掛け布団を押しのけて、身体を持ち上げる。

 あの事故の後、兄さんにはちょっとした徘徊癖がついてしまった。
 もともと飄々とした人ではあったけれど、それとはちょっと違う。断りなしにわたしから離れることなんてなかったのに。
 まだ治っていないという水越先生の診断は、正しかったのかもしれない。

「もう兄さん、ちゃんと寝ないとダメじゃない。
 かわいい妹が……一緒に……?」

 声のした方を見る。
 兄さんは床に這いつくばるようにして、倒れていた。当然だ。もう歩けるはずが/

 それより、あの手に持っているものは何?

「兄さん、それ何ですか?」

「え……あっ!
 い、いや、これは違うんだ由夢、これは……」

 兄さんは必死に隠そうとしているけれど、その体勢では隠せるものも隠せない。
 暗闇に目が慣れてきたわたしは、その小袋を見て愕然とした。

「兄さん! わたしが言ったもの以外は食べちゃダメって言ったでしょ!?
 どこからそんな物を――!」

 起き上がり、兄さんのその手から小袋を奪う。
 今の兄さんには、食べて良いものと悪いものの区別がつかないのだ。

「由夢、落ち着け。な?」

「兄さんのせいでしょ!
 ちょっと失礼します」

「な、おい、そこはダメだっ――痛っ!」」

 なお背中で隠そうとする兄さんを押しのけて、小棚の引き戸を開けた。

「……そんな」

 嫌な汗が流れるのを自覚する。

 暗闇の奥。中には見たことのない食べ物がいくつか袋分けされて入っていた。
 いや、食べていいものを食べ物と定義するならば、これらは食べ物ではありえない。わたしは聞いてさえいない。

「由夢、頼むから……」

「これ、お姉ちゃん?
 ……ううん、お姉ちゃんがここに来るはずない。
 じゃあ、そんな――……?」

 信じられない。
 この部屋に出入りしていたのは、あの人しか居ないではないか。

 膝が折れる。身体中が震え、立っていられない。吐き気をこらえるので精一杯。
 カタカタと鳴る、自分の歯すら煩わしい。

「由夢!」

「あは、兄さん、ごめんね。わたしが甘かったんだよね。
 わたしが頑張らなくちゃいけなかったのにね」

 わたしが兄さんを守らなくちゃいけないんだから。

 兄さんはわたしの感情を汲み取ってくれて、わたしの指示に従ってくれた。
 ここにあるものは明朝全て処理しておこう。

「……いや、すまん。
 さ、こんな時間に起きちゃいけない。一緒に寝ようぜ?」

「はい、兄さん」

 兄さんを軽く持ち上げて、ベッドに寝かしつける。わたしもその横に滑り込んで、布団をかけ直した。
 離さないように、一層強く腕を回す。

「……っ。
 お、おやすみ、由夢」

「おやすみなさい、兄さん」

 兄さんの胸に顔を埋め、わたしはまぶたを下ろした。

 もちろんすぐには眠れない。少し、考えることができてしまったから。


       ○  ○  ○


 目覚めは今まで感じたことがないくらいに最悪だった。
 目眩がする。視点が合わない。頭は呆けていて、身体も自分のものじゃないような気がする。

「起きたか、由夢?」

「あ、兄さん。おはようございます。
 ……だめだね、わたし。看護する側が後から起きたんじゃ、立つ瀬がないよ」

「いいって。
 気分は悪くないか?」

 そう言って、わしわしと頭を撫ででくれた。

 さすが兄さん。一目見ただけで、わたしの気分が良くないことが分かってしまったらしい。
 その心遣いはとっても嬉しいけれど、でもわたしは今の兄さんにそんな弱いところを見せるわけにはいかない。

「大丈夫。兄さんはもうちょっと寝てていいよ?」

「ん、分かった。それじゃ少し横になるわ」

「ええ、ごゆっくり」

 布団から出て、わたしは普段着に着替える。
 その途中。左の二の腕あたりに蚊に刺されたような跡があった。

 何だろう? 寝ている間に刺されたのかもしれない。
 痒くもないし、そんなに気にすることはないと思う。

「そんなことより……」

 わたしは昨日の夜、ずっと考えていた。

 まずそのいち。わたしが夜中に起きたとき、確かわたしは夢を見ていた。
 わたしの半生を縛り続け、ここ何ヶ月かは見なかった夢。三ヶ月前に回避されたはずの、過去未来。

 でも、わたしの夢に日付は出てこない。あの夢から分かるのは、わたしが学園にいることと、桜の散る季節であることだけ。
 だからわたしはそれが今年の春だと思ったけれど、そんなことは夢のどこにも描かれていない。少なくともあと四回、学園であの季節を迎えることがあるのだ。

 あの未来が確定的であるならば、それは未だ回避されていない。それを、昨晩の夢は示していた。

 でも未来は変えられる。少なくとも、ほぼ確定していた兄さんの消滅という事態は回避されたのだから。
 今度も信じてやっていくしかない。

「あとは……」

 そしてそのに。
 未来を変えるには、未来を絞って行かなくてはいけない。制御可能な状態に置いておかなくてはいけない。
 だから、兄さんをわたしの行動の範疇の外に置いてはいけないのだ。

 わたしと兄さんが常に一緒にいる限り、兄さんだけが何かに巻き込まれるということは有り得ない。
 ずっと隣で腕を組んでいたならば、花より団子でのようなことは起こりようはずもなかったのだ。

 だからわたしは兄さんを見守り続ける。そうしなければ、回避できる未来も回避できない。未来がコントロールできない。
 そのためには不確定要素は兄さんに近づけてはいけない。

 最後の一人、医師である水越先生は信頼していたのに、昨晩のアレだ。
 食べてはいけないものを内々にあの棚へ持ち込んでいた。わたしにとっては裏切り行為。兄さんが食べ物の判別をつけられないことくらい、あの人は分かっていたはずなのに。

 水越舞佳も信用してはいけない。できるのは、未来を知っているわたしだけなのだ。
 あんな予定通りの別離の未来への道をなぞるだけの人は、兄さんに近づけちゃいけない。

「だって……そうじゃないと、兄さんが……兄さんが!」

「お、おい、由夢?」

「兄さん!」

 わたしは認めない。
 折角乗り越えた、戻ってきた兄さんを再び失う未来なんて、絶対に認めない。
 この温もりとまたお別れしなくちゃいけないなんて、それを決めたのが神様だって許さない。

 あの二ヶ月がどれだけイカレた日常だったか。どれだけ非人間的な日々を過ごしたか。
 あんな状況に、わたしは二度と耐えられない。もう、別れる辛さを知ってしまったから。

「わたしは兄さんのこと、護るからね。
 だから兄さんは、わたし以外のどこにも行かないで」

「あ、ああ……。ありがとうな、由夢」

 どうしてだろう。
 兄さんのその顔は――少しだけ、悲しみを帯びていた。


       ○  ○  ○


 それからは、まるで夢心地のような日が続いた。
 起きてから寝るまで、いや、寝てからまた起きるまで、ずっと兄さんと共に在る。
 これが夏休みに入れば、尚のこと誰かに咎められることもない。

 わたしと兄さんはこの狭い個室に固定されている。ずっと一緒で、ずっと二人きりで。
 予想外のことなんて、起きる心配すらない。

「うふふ、幸せだね、兄さん」

「……」

 そう言ったとき、兄さんからの返事はいつもない。
 それは照れているのか、あるいは言うまでもないことだからか。どちらにせよ、わたしは嬉しかった。

 同じような毎日の繰り返し。崩れるはずのない循環。確定された要素のみからなる、制御可能な未来。
 あの夢は未だに毎日見る。でも、わたしたちは決してそこへは向かわない。あの未来に向かわないことこそ、確定されたと言っていい。

「兄さん、最近あんまり喋らなくなったね。
 これも愛の力? 以心伝心? えへ、えへへ……」

「……」

 二人きりになった当初はずっとおしゃべりしていたけれど、それから段々と口数が少なくなってきて、最近ではほとんど会話することはなくなった。
 それでも心が通じ合っているから、成り立つのだ。わたしには兄さんの考えていることなんて、手に取るようにお見通し。
 兄さんは単純なところがあるけど、優しいから。いつだってわたしを一番に考えてくれて。

「でも、たまには兄さんの声を聞きたくなるときもあるんだよ?」

「……」

 足下のゴミを押しのけて歩き、わたしは久々にカーテンを開けた。
 陽光が目に刺さる。白は、今のわたしには明るすぎる。

「……ほんと、どこで間違っちゃったんだろうね、わたし」

「……」

「わたしはただ、兄さんと一緒に居たかっただけなのにな」

 一ヶ月は締めっきりだった、壁一面の大きな窓。
 精一杯にそれを開け広げ、わたしは窓枠に足を掛けた――。






       ○  ○  ○






 深い闇。身体の感覚はとうにない。
 このまま流れに身を委ねれば、兄さんのところに行けるのだろうか。

 誰もが通る、そして誰にとっても未踏の地。
 ああわたし、六文銭なんて払えるかな。今の価値だと何円なんだろう。

「…………ん、……ちゃ……!」

 遙か遠く。虚無の中、視界に光が現われる。
 煙突の底から空を見上げているような錯覚。ぐんぐんと、光が近づいてくる。

 あれが世に言う彼岸だろうか。
 もしかしてわたし、無銭乗船でもしちゃったの? 舌を抜かれる前に謝ろう。

 そんなことを考えていると、

「……ちゃん、由夢ちゃん!」

 ――そうして。わたしの全てが引き揚げられた。

 打って変わって、今度は視界を押し広げんばかりの白。網膜が悲鳴をあげている。
 嵐のような深層感覚。宇宙から帰ってきたかのようなわたしの身体。
 喉がカラカラ。額に張り付くのは汗を吸った髪か。暑いようで寒い。神経の混線と断線が自覚できるほどに意味不明。

「聞こえる?」

 ノイズが頭蓋を駆けめぐる。
 久しい兄さん以外の声。言語だと認識して、意味を取れたのはさらにしばらく後。

 肺から意識を送り出す。乾ききった喉を空気が引き裂いたが、気にする余裕もない。

「は……い……」

「由夢ちゃん!」

 女の人の声。同時に、身体に大きな負荷がかかった。
 ぎしぎしと軋む身体はわたしのものでないみたいで、それでも感覚はそれが絶対にわたしのものだと告げていた。

「朝倉……えっと、お姉さん。気持ちは分かるけれど、今はしばらく安静にしてあげて」

「あ、はい、すみません……。
 由夢ちゃん、分かる? 私――」

「お、ねえ……ちゃん?」

「そう、そうだよ!」

 わたしの顔をのぞき込んでいる女性。
 大きなリボン、綺麗な蒼い瞳、頭から跳ねてる髪の毛。どれをとっても間違いなくわたしのお姉ちゃんだ。

 でもなんで、そんなに悲しそうな顔をしてるんだろう。
 その表情は、お姉ちゃんには似合わない。お姉ちゃんには、いつも笑っていて欲しい。

「あ……れ……?」

 なんだろう。わたしはお姉ちゃんに久しぶりに会った気がする。
 でもなんで? 姉妹で会わないなんて、おかしくない?

「あれ? ……あれれ?」

 そもそも何でこんなに身体が重いの?
 わたしはどうしてこんなところで寝てる?
 何か重大なことを忘れている気がする。何だっけ?

 確か、大事な人が――

「さて、とりあえず意識は戻ったから、いまはゆっくり眠りなさい。
 さ、お姉さんも。今日は一緒に居てあげていいですよ。ただし、起こさないように」

「は、はい。ありがとうございます、水越先生」

「あはは、私はもう先生じゃないよ」

 水越先生はそう言うと病室出口まで歩いていき、パチン、という音とともに室内の照明を落とした。

「それじゃ、お休み由夢ちゃん。今日はぐっすり眠ってね」

 子守歌のように綺麗なその声を聞きながら、
 わたしは水越先生を追いかけるようにして病室を出て行った青年の顔を見ることなく、
 そのまま意識を落としていった。



       ○  ○  ○



「人を好きになるっていうのは、ホント、難しいことだと思うよ」

 俺が屋上につくと、開口一番、水越先生はそう言い放った。

「ま、私はそこまで人を好きになったことも、好かれたこともないから、想像でしか言えないんだけどサ」

 自嘲気味に付け加え、ジッポで咥えたタバコに火を付ける。
 そのまま箱を差し出されたが、一にも二にもなく首を振った。というか、勧めないでいただきたい。

「ふう……」

 吐かれた煙は、風に乗って流れていく。
 空は見渡す限りの晴天。太陽を見守るように、新月が空に浮かんでいた。

「それで、教えてくれるんでしょう?」

 未だに慣れない車椅子をうまく扱いながら、水越先生が肘掛けている柵まで移動していった。
 あら上手になったわね、なんて感心されてもあまり嬉しくはない。

「まあ、いいわ。
 でもそうね、朝倉さんに注射を打つ前に、桜内くんには一通り説明したはずだけど」

 視線をあわせず、そんなことを虚空に向かって言い放つ。

 この人は本当、煙草と同じように人を煙に巻くのがうまい。
 それでも身を案じてここまでしてくれるのだから、人が良いというか、苦労人というか。

「先生は、知っているんでしょう?
 由夢が何を体験していたか」

「まあね。人の夢を見る機械はまだできてないけどサ、感情は脳波で測れるんだよね。
 夢というより幻覚の類だから、はっきりと寝言も分かるし。それを繋げていけば、まあ、だいたいは。
 ……桜内くんの思っている通りだと思うけど」

「そうですか」

 由夢には悪いことをしたと思う。だが、それしかなかったのも事実だ。

「よほど自分のデジャヴを信用してたみたいね。
 半年前に何があったかは聞かないけれど、それに類することが再び起きた。それで発狂してしまったんでしょう」

 あの未来視と今回の事故。そのどちらかが無ければ、こんなことにはならなかった。
 由夢が未来視をできてしまったがゆえの悲劇だと、俺は思う。未来なんて、見えないのが普通なのに。

 だから、聞いてみた。

「先生。それが既視感ではなく、本当に未来視だとしたら――。
 自分で選択することもできず、未来を見せられるだけだとしたら。
 ……どう、思います?」

「あら、面白いこと聞くのね?」

「いえ……」

 俺の表情になにか感じ入るものがあったか、水越先生は煙草を吸って間を空けた。
 煙が空中に拡散していく。その動きは、予測不能。

「私は哲学は門外漢だから何とも言えないけど……。
 少なくとも人の手に余る能力ではあるわね。人の論理ではそれをかみ砕くこともできないし、そこから起こった悲劇に耐えうる精神を持つこともできないでしょう。
 人間はそんな突飛な力を許容できるようには、進化してきていないわ」

「人の手に余る、ですか?」

「ええ。未来視のパラドックスは、人間の論理で打破できないもの。
 そこから起きたことを理解するなんて、こんなちっぽけな脳みそじゃ無理なのよ」

 こんこん、と自分の頭を小突きながら水越先生は笑った。

「……ま、私は理系の人間だからサ、決定論者の戯れ言とでも思ってちょうだい。
 わりと人間を信用していないのよ。病院関係者がこういうのもアレなんだけどね」

 言って、一息。煙がゆらゆらとたなびく。

 魔法は便利なだけのものでは決してない。それは意図的かどうかというレベルではなく、その存在そのものという病理。
 由夢はその未来視の確実さゆえに、それを嫌い、またそれをどこかで信用し、俺の事故でその信用を裏切られ、再び絶望の未来を見て発狂した。

 だから、未来視という魔法自体にも罪はない。が、それの存在そのものは病巣として批難されなければならない。
 全てはタイミングと、運が悪かったとしかいいようのない、天文学的な確率における歯車の巡り合わせ。

「そうね、朝倉さんにデジャヴの感覚なんてなくて、それでこの事故が起きたのなら――あるいは、こんなことにはならなかったでしょうね。
 決定論者がたらればなんて、それこそ病院送りにされそうな話だけど」

 もちろん悲しんではくれたろうが、ここまでにはならなかったろう。
 音姉は取り乱したものの、ずっと面倒を見てくれていた。俺と……由夢の。

 その音姉と水越先生のどちらかが居なかったら、俺は七月三日を迎える前に由夢の愛で殺されていたに違いない。
 もしそうでも……もしかしたら、俺はそれを受け入れていたかもしれない、なんて。

「助かったから、こんなのんびりIFの話をできるのよ。
 墓の下で暢気に会話はできないわ」

 ずいぶんと開けっぴろげに物を言う。
 仮にもここは病院なのだが。これも知り合いがゆえのことなのだろう。

 それはきっと、死に接する者に科せられた宿命で。
 死を笑い飛ばせるほどに、俺に生きろと言っていた。

「……さ、そろそろ戻ってあげなさい。きっと朝倉さん、混乱するとは思うけど」

 携帯灰皿へ器用に煙草を詰め込みながら、水越先生は柵から身をあげた。
 最後の煙が空へと昇る。

「あいつはきっと、俺の説明じゃないと納得しないでしょうね。
 ああ見えて、責任感の強いやつですから。自責の念に駆られるようなことは、できればさせたくないんですけど」

「それができるのも桜内くん、あなただけよ」

「分かってます」

 夢の中とはいえ、恋人を死なせてしまったのでは、自分を責めたくもなる。
 あるいは夢の中だからだろうか。それが無意識の願望だと、どこかで認めざるをえないから。

 けれどそれは間違いだ。
 由夢は、幻覚の中で見た夢によって苦しめられた。自分の夢は未来を表すという、その特異な力のおかげで。

「夢の中くらい、幻想に浸かりたいものよね。
 未来なんか見れたんじゃ、胡蝶の夢よりタチが悪いわ」

 水越先生が吐き捨てたのを背に、俺は屋上を後にした。

 右手で車椅子を操りつつ、左手を開閉する。
 起き抜けのあいつに食べさせる和菓子は、さて何にしようかな――?

++++++++++


Short Story -D.C.U
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