[Fortune Arterial short story]
「支倉君は、結局何も分かっちゃいない」
 監督生室。伽耶さんの孤独を理解し、その存在を受け入れるべきだという主張をした俺に、会長は大きく溜息をつきながらそう吐き捨てた。怒りを通り越し、呆れ果てたかのような表情。それでも向けてくる視線、いつもの会長のそれとはまるで違い、むしろ吸血鬼としての恐ろしさすら感じさせる。
「君は自分の言っていることが、どれだけ甘いことなのかということをまったく理解しちゃいない。あの女を許す? 冗談じゃない。そんな発想が出てくる時点で、君は何も分かっちゃいないんだよ、やっぱりさ」
「ええ、俺は人間です。だから分からないことだってある。けど、こんな関係をこの先も続けていってどうなるっていうんですか? 永遠に家族がいがみ合い続けるなんて、おかしいじゃないですか。ましてや伽耶さんにだって相応の理由がある。こちらからの譲歩が嫌だっていうのなら、それこそ子どもの理屈でしょう!?」
「……」
 睨み付けてくる会長に対し、それでも俺は退かなかった。
 だってそうじゃないか。伽耶さんは、ただ知らないだけなのだ。幼いだけなのだ。それを気付かせてあげることは、まずそれを受け入れることから始まる。そうすれば関係の修復だって、まだまだ望みはあるはずなんだから。
 会長はもう一度大きく息を吐いた後、
「よし、それじゃあ支倉君にその考えがどれだけ甘いのかを知ってもらうために、今からあの人に会いに行こうか。それでもなお同じ理屈を通せるのなら、俺は君を聖人君子として崇めるよ」
 どこか嘲笑うようにそう言って、会長はその足を監督生室の外へと向けたのだった。



「……あれ、紅瀬さん?」
 千堂家への道中。会長の背中に付き従ってその山道を歩いていると、前方から私服姿の紅瀬さんがおぼつかない足取りでこちらへと向かってきた。そうしてそのまま俺たちを通り過ぎて――――って。
「ちょ、紅瀬さん!」
「……?」
 少し大きく声を上げる。ようやく気付いたか、紅瀬さんは不思議そうにこちらへと目を向けて、
「…………」
「紅瀬さん?」
「……」
 無言のままぷいっと再び反転し、目まであったというのに完全にシカトかまして学院方向へと戻っていってしまった。なんだ、虫の居所でも悪かったのだろうか? にしては随分と不思議な反応だったが。
 俺はその紅瀬さんの反応と、そしてまたそれが分かっていたかのように紅瀬さんをスルーした会長の態度に首を傾げながら千堂家への足取りを再開し、そうして数分後、ようやくその広大な屋敷へと到着した。
「さ、行こうか」
 ある意味では会長には実家とも言えるその屋敷を奥の建物まで歩き、以前のように挨拶もせずその中へと入る。どうせここに来た時点でその来訪は知られているのだ。普段であれば声の一つも聞こえてくるのだが、今日は会長が一緒なせいかそれもない。無言のまま廊下へと上がる。
 と。
「なんか変な匂い、しません?」
「おや、ここまで来ると支倉君でも気付いたか。俺は林の中ですら感じたけど」
「吸血鬼じゃないので。……いつものお香とは違いますよね?」
「ああ、俺たちが本能的に求める臭いだ。オブラートに包んで言うと『鉄の臭い』ということになるのかな」
 気付いていたとはいえ、何の戸惑いもなく平然と言う会長。
 冗談じゃない。それはつまり、血の臭いということではないか。誰かが血を吸われている? あるいは輸血パックが漏れた?
「おいおい頼むよ、支倉君。そんな少量でこんな強い臭いがするわけないだろう」
「じゃあ――まさか――」
「見れば分かる」
 足の止まった俺を追い抜いて、会長がずんずんと廊下を進んでいく。震える足に力を込めてそれをゆっくりと追っていくと、奥に進むにつれ血の臭いはどんどんと濃くなっていった。まるで臭いが全身に絡みついてくるかのよう。吐き気を抑えるだけで精一杯だった。
 会長がその最奥、伽耶さんが居る部屋の障子に手を掛ける。
「支倉君、よく見るんだ。あの人を許すということ、それがどれだけ愚かなことか」
 告げて、会長が勢いよくその戸を引き開ける。
 瞬間。

「――――――――ッッッッ!!!!」

 一瞬で目に焼き付いたそれに、俺の全身が、脳が、臓腑が、ありとあらゆる俺そのものが悲鳴をあげた。怒濤のように押し寄せた吐き気を理解する頃には既に俺は床に可能な限りのそれをぶちまけていて、視線は床に垂れても脳から映像が離れない。波状の嘔吐は留まる所を知らず、臭いも一層強烈になって、俺の身体は俺の制御がとうに効かなくなっていた。吐く物がなくなっても胃は収縮を繰り返し、捻りあげるような痛みが俺の中からわき起こってくる。それはまさに悲鳴。狂乱の果てに暴走した身体を止める術などなく、ありったけの力を込めて額を握るも映像が脳から離れはしない。目、鼻、耳、肌、可能な限りの全ての感覚が俺自身を押し潰してくる。嘔吐物まみれの床に膝をつき、もはや唾液以外は枯れきったというのに喉はそれでも俺自身を傷つけていく。
「ほう。誰かと思えば。わざわざそこの奴にこれを見せに来るとは、伊織、お前もなかなか面白いことをするようになったな?」
「……」
 ぜえぜえと、ようやく落ち着いた臓腑に気を配りながら耳に神経を集中させると、聞こえてきたのはそんな会話。会長は返事をしなかったようで、どうやら俺が立ち上がるのを待っているようだった。
 ……けど、そんなの無理だ。あの光景をもう一度見ろなんて――
「言ったはずだ、支倉君。君の考えがどれだけ甘いのかを、君自身に知ってもらうためだと」
「――っ!」
 足音の後、がしっと俺の頭が掴まれた。何をする気なのかを悟り、必死に堪えるも吸血鬼の力に敵うはずもなく。俺は四つん這いの体勢のまま、首だけぐいっと持ち上げられて。
「――――――ッッ!!」
 ごうごうと空気の擦れる音だけが、再び俺の体内を切り刻んでいく。もう吐き出せるものは全て出したというのに、それでも身体は、会長は、眼前の光景は更なる自傷を俺に要求し続けた。
「なかなか無様な姿勢だな、ええ、支倉とやら。おい白、あれは中々見れるものではない。よく見ておけ、哀れな人間の末路をな」
「……」
「返事はしても構わん」
「はい、伽耶様」
 御簾の奥からの会話が遠い。霞む視界、靄の遥か向こう。ショックで意識が閉じそうになると、頭を掴んだその手に無理矢理現実に引き戻された。揺すられ、視界がクリアになり、だからやっぱり俺は己を傷つけ続けるしかない。もう喉の感覚もなくなって、あるのは倦怠感、それと抗えぬほどの絶望感。
「君は言ったな、あの人を許すと。あの人の犯した罪を知っていてなお、それを許すんだと俺にそう言ったろう? 思い出せ、あの人が犯した罪の数々を。無実の人間を殺し、自分の息子を殺し、自分の息子や娘の人生を奪い、東儀の一族を眷属にし、そしてその全てを殺したんだ。ほら、それを許すと言ったろう、君は。これらの罪、今眼前にあるその結末と何が違う!?」
「あ、が――っ」
「何が違うんだ、支倉君! 言ったんだぞ君は、この結末と同じ罪を許すと!」
 髪が千切れるほどに頭を引っ張られ、身体ごと会長の腕力で宙へと浮いた。地に足の着かぬ体勢のまま、それでも俺は前方を見ることを要求されて。思考すら崩壊した俺に、視線を逸らすことすら敵わなかった。

 そう。前方には、血の海があって。
 浮かぶようにして転がっているのは、かつて副会長と東儀先輩だったモノ。

「体験していなかったから、なんて言い訳が通用すると思うなよ。俺は実際見ているんだ、無惨にも殺された弟たちを、殺され続けた東儀家を、人生を奪われた瑛里華を、人形にされた征の父と母を! そこに、さっき見たろう、醜悪な鬼ごっこを続けさせられている紅瀬ちゃんを含めたっていい。そんな所業を繰り返しているあの人を、これでも君は許せるっていうのか!?」
「ガ――ッ!」
 俺の身体がより高く持ち上げられる。眼前の光景を見ろと、その愚かさを知れと頭を掴む腕が強烈に訴えてくる。
「言え、支倉君! これでもあの人を許せるのか!?」
 渦巻く絶望。嫌悪。
 憤怒すら沸かぬ程の目の前の地獄を体験して、果たして俺は伽耶さんを――――――――――

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Short Story -Fortune Arterial
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