いおりのやぼう

[Fortune Arterial short story]
 恋に”落ちる”という表現は、英語のそれが輸入されてきたものであるらしい。
 ことあるごとに風流がないと思われがちな英語ではあるが、ただこの表現だけを見てもまだまだ捨てたものではないと思えてしまう。他にも使えそうな動詞はたくさんあるにも関わらず、落ちるという単語を選んだセンス。初めて使ったのがどこの誰だかはあいにく分かりはしないが、それでも俺は賞賛したい。

 恋に落ちる。
 今となっては風化しつつある思い出でしかないが、あの感情はそうとしか表現できないものだったと言っていい。

 ……もう、何十年も昔の話だ。












「うーん……」

 四月。
 定番の桜の花も咲き誇り、あとは新学期の始まりを待つだけとなったこの季節。時折思い出したように寒い日があるのも含め、徐々に春らしい気候となってきたように思える。
 だんだんと暖かくなっていくというのは、たとえこの身が凍死などしようはずもない身体であったとしても、やはり心地良いものだ。飽きるほどに繰り返す四季。降り注ぐ太陽が天敵、というステレオタイプに当てはまらないせいなのか、俺自身、やはり寒いよりは暖かい方は幾分か好きだった。
 まあ、薄着とか水着とか、そういう理由もないわけではないのだけれど。

「ああ、悩むわねえ……」

 そして春と言えば出会いと別れの季節でもある。当然それはこの監督生棟でも行われ、旧三年生はみな卒業していった。俺が二年生ながら色々と好き放題していたせいで、やややりづらそうだった彼らに対し心の中で苦笑する。それはそうだ、いくら学年が上とはいえ、実年齢どころか学園で過ごした年数さえ、こちらの方が遙かに上なのだから。
 出会いの方はといえば、まだ新入生は顔を出してきてはいない。といっても来るのはあの白ちゃんだ、いつになく身内で固められた生徒会になることに、なんとなく気分が軽くなったりもする。お天道様の下では堂々とできないような話でも、きっとしやすくなることだろう。四人は全て”こっち”側だ。

「あんまり砕けてても変だし……でも格式ばった挨拶ってのもちょっと……」

 そうしてそんな小春日和の中、さっきっから机に向かっていつも通りかりかりしているのは、始業式を目前に控えた新副会長の瑛里華だ。ここ数日ずっとこの調子。本人は始業式での挨拶原稿を練りに練っているからと言っているし、常々学園でみんなに心地よく過ごしてもらいたいと言っている瑛里華のこと、それもおそらく本当のことなのだろうとも思う。

「これから新学期だっていうのに、辛そうだね。恋の病と花粉症を併発でもしたかい?」
「そんなわけないでしょ。もう、ちょっと気が散るから黙ってて。私は兄さんと違って、まともな挨拶を考えてるだけだから」

 しっし、と犬を追い払うジェスチャーをして、再び書面に戻る瑛里華。まるでこちらを相手にしていない。が、唸りながら眉をひそめているその表情は、わりと結構珍しい類のものである。
 新学期を迎える生徒たちに向けての挨拶。それに重大なプレッシャーを感じていない、というわけではないだろう。使命感に近いものもあるように感じられる。同時に挨拶する俺に任せておけない、というのも本人としてはあるのかもしれない。

 けれど。
 そこにあるのはそういった緊張のみならず、どことなく浮ついた感じの焦燥だ。

「おいおい、それは聞き捨てならないぞ瑛里華。それじゃまるで、俺の挨拶がまともじゃないみたいじゃないか」
「……」

 いまだ気になるのは、瑛里華がこうなる直前、俺と征に珍しく焦った様子で相談してきた日の出来事だ。
 未だにその様子を覚えている。瑛里華は釈然としない態度で、弱みをさらけ出すことにいかにも渋々とした表情のまま、俺たちに事の次第を説明して見せた。
 曰く、転校生と握手をしようとしたらいきなり身体がびっくりして。
 尻餅をついた上、相手の手を握り返すことも出来ず。
 思い返すだけでもどきどきするほど胸が高鳴った、と。

 征ならずとも首を傾げたくなるそんな症状。聞く限りでは一目惚れの類としか茶化しようのないそれも、瑛里華に聞けど身に覚えがないと強弁するばかり。それはそうだろう。履歴書を見る限り格別の美男子というわけでもない上に、瑛里華にしたって学園内では人気がある身だ、そういう恋愛に夢を見るようなやつでもない。そもそも瑛里華がそんなに惚れっぽいのであれば、俺だってこんなに苦労せずに済んだはずだ。だから、普通に考えてこれがいわゆる惚れた腫れたの話であるとは考えられない。

 が。それでも、思うのだ。
 明確な理由はない。
 希望的観測かもしれない。
 けれど、思う。直感したと言ってもいい。それがきっと”そう”であると、俺がずっと望んでいたものの兆候であるということを。

「瑛里華。転校生……支倉君っていったか、彼にもう一度挨拶しに行かなくていいのかい? 聞く限り、向こうはあまりいい印象を抱いていないと思うんだが」
「もう、黙っててって言ったでしょ! そんなことは分かってるわよ、私だってそうしたいと思ってるわ。けど……」
「考えるだけでどきどきする相手には悪印象を上積みするだけ、ってことか。青春だねえ」
「じじくさいこと言わないで。だいたいそういう問題ではないって言ってるでしょ!」

 ぷんすかと怒りつつ、それでも”思い出すだけでもどきどきする”というのが本当なのか、胸を押さえつつ立ち上がりかけた椅子に戻る瑛里華。その仕草は端から見ている分には妙に滑稽で、自然と頬が緩んでしまう。

「なに笑ってるのよ」
「おいおい、俺だけじゃなくて征も笑ってるじゃないか」
「嘘言わないで。ねえ、征一郎さん?」
「ああ。別に笑いどころでもあるまい」

 しれっと嘘を……。

「まったく、落ち着いて挨拶の文章練らないといけないっていうのに……。はあ、ちょっとお茶いれてくるわ」
「俺のもよろしく、味は濃いめで」
「自分でいれなさい!」

 俺のお願いはきっぱり断り、瑛里華はたった今座った椅子から再び腰を上げ、いらいらを隠さないままに給湯室へと消えていく。あの調子じゃあ、お茶の一杯や二杯、飲んだところで変わらないだろう。むしろお湯の沸きが遅いとかなんとかで、余計にいらいらを募らせそうな気が。
 しょうがないので、知らん素振りでパソコンの作業を続けている征に話を振る。

「で、どう思う、征?」
「どう、と聞かれてもな。お前が首を突っ込むと話がややこしくなる、ということしか分からないが」
「おいおいそりゃまた」

 的確な指摘に、苦笑いで答える他に術はない。

 瑛里華の不可解な”火照り”。それはある意味で、俺にとってはかすかな希望なのだ。このまま瑛里華が慣れてしまい、何ごともなかったかのようにその感情が潰えてしまっては元も子もない。
 だから征の指摘は正しい。俺は多少無理をしてでも、話をややこしくしなきゃならない。少なくとも、せめて瑛里華の症状が俺の推測するものであるのかどうかという確認くらいできなければ、悔やんでも悔やみきれないのは明らかなことなのだから。

「なにか悪巧みをしてるんではないだろうな? 今年からは白もここに顔を出す予定だ、あまり変なことは考えるなよ」
「いやいや。俺は瑛里華の恋路を見守りたいだけだよ。兄としては当然だろう?」
「……」

 三年間という制限。何ごともなかった昨年。今年こそは、と新学期に望もうとした矢先の、転がり込んできた希望の種。
 利用しているという自覚は充分にある。失すれば瑛里華から本気で憎まれることになるだろう。それを心苦しく感じるくらいには、俺は瑛里華を大事に思っている。けれど同時、俺は征のようにはなれないことも分かっていた。

「支倉、か。転校20回というのも興味があるし、今度連れてきてみようか。面白い話が聞けるかもしれないしね」
「何を言うかと思えば……。転校生とはいえ、一般生徒にあまり迷惑をかけるべきではあるまい」
「じゃあその一般生徒君に歓迎のプレゼントを贈るとか」
「ちょっかいを出すなと言っている。だいたい今年は――っと」

 溜息混じりに始まりそうだった征の説教が不意に停止する。ほとんど読む気もなかった書類に目を落とした途端だったため顔を上げると、征はどうやら外に出るつもりらしかった。いつの間にやら立ち上がり、ドアノブに手をかけている。

「お客さんでも見えたのかい、征?」
「分からないから、少し見てくる。すぐ戻る」

 そう言って、長い髪を揺らしながら出て行く征。ここからでは確認できないが、おそらくは窓から何か見えたに違いない。あの少しばかりの慌てよう、さては白ちゃんあたりが尋ねに来たか。ずっと変わらぬ兄馬鹿ぶり、白ちゃんが生徒会に入ってからも変わらないとなれば、これからはこの監督生室の中でも面白いものが見れそうだった。

 特殊事情があるとはいえ、兄妹といえどずいぶん違いが出るものなのだなとつくづく思う。

「妹の溺愛っぷりでは悠木姉も大したものだけどねえ」

 休みのあいだも寮で元気いっぱいだった彼女の素振りを思い浮かべつつ、しばし止まっていた書類の処理を再開する。年初の書類など毎年のこと。一枚、二枚、三枚とさくさく進めていく。なんのことはない。気を付けるのは、肩書きが「三年生」や「生徒会長」になったことくらいなものだ。それも繰り返していくうちに慣れてしまう。

 そうしてとりあえず一束ぶんに目を通したところで、ようやく瑛里華が戻ってきた。紅茶の良い香りがあたりに漏れ出る。

「おかえり瑛里華。俺のはそこ置いといていいから」
「ないわよ、最初から。お湯は沸かしたんだから自分でいれなさい。……それより征一郎さんは?」
「そういえば遅いねえ。下に居るはずだからちょっと見てくるかな」
「とか言いつつサボらないでよ? まあ、征一郎さんが居るなら大丈夫だと思うけど」
「信用ないねえ」

 座りっぱなしだった身体、伸びをしながら立ち上がる。書類は机の端にまとめなおし、外へ出る前に窓の外へ視線をひとつ。正門方向から誰かが上がってきている様子はない。入り口前で客の応対をしているのだろうか?

「うーん、兄さんが盛り上げるだろうから、私は抑えめにして……」

 瑛里華はさっさと自席に戻り、お茶を手に原稿の修正をし始めている。声をかければまた怒るだろう。その様子を背にドアを閉め、階段を降りた。倉庫となっている部屋を素通りして正面入り口まで歩くと、ようやく会話が漏れ聞こえてくる。

「す……せん、自……転校……」
「もう迷……いよ……な」

 耳に届いたのは征の他にもう一人、男の声。白ちゃんではなかったらしい。

「どうした、お客さんかい?」

 中から声をかける。
 観念するような征の溜息。続いて、返答。

「いや、迷い込んだ”一般生徒”だ」
「――へえ」

 ……おそらく俺の声がしたとき、扉の向こうにいる”一般生徒”君は驚いてしまったことだろう。
 けれど同じくらいの驚きをもって、俺もまた征の皮肉を込めた返答に息を呑んだ。

 ここで暮らす生徒が、まるで自分の庭のようなこの学園で迷うはずがない。ありえるとすればそれは新入生くらいなもの。ことに今は始業式の直前だ、迷っていたって仕方ないといえる時期。
 けれど、征はそんな言い方をしなかった。示された言葉はあろうことか一般生徒。それはきっと、新入生だという嘘をつくわけにもいかず、かといって転入生といって俺を喜ばせることも嫌った、征なりの諦めと抵抗を込めた表現だ。

 そうして、そうかだから征は少し慌てていたのかと、今になって理由を知る。この事態はいわば鴨葱。征は哀れな鴨を追い返そうとして、しかしそれに失敗しただけのこと。鴨がのこのこと監督生棟に来た理由は分からない。パンフレット片手に歩き回っていたか、あるいは悠木姉あたりの差し金か。けれど、俺にとっては理由なんてどうでもいいことだった。

「支倉……孝平、だったか」

 職員室から送られてきた書類の顔写真を思い浮かべる。目立つ経歴は転校の回数くらい。気の毒に思わないでもないが、運の尽きだと思って諦めてもらうよりないだろう。数十年かかってようやく整えた素地、悲願へのスタートが今ここにあるのかもしれないのだから。

 断じて認められない自己の醜い性質。あろうことかそれを目の当たりにさせられ、尊厳を粉々に打ち砕かれた過去。瑛里華にその追体験をさせるという”野望”は、全て俺自身のためだ。
 認められないという思い。
 何か理由があるのではないかという期待。
 扉の向こうに居る、俺の眷属の境遇に対する義憤。
 策略に嵌ったという屈辱への鬱憤。
 それらをひっくるめた、思い出すのも忌々しいあの女への復讐。

 不毛だという考えは俺の中にも確かにある。
 けど、俺にとってはとうにそれが全てになってしまった。憎むために憎む。恨むために恨む。きっと俺のような、あるいは俺以上に歳を重ねた吸血鬼や眷属が居れば、そいつもまた思っていることだろう。生きることの天井が外れた身には、憎しみこそがただ一つの理由だと。

「悪いな、瑛里華」

 二階で頭をひねっているであろう義妹に、全てが動き出す前に最後の言葉を遺す。
 言い訳もしないし、謝る気もない。俺は、自分のためだけに瑛里華と転入生を利用する。
 だから告げたのは、悪いとは思っているという、単なる事実の提示のみで。

 自分自身に踏ん切りをつけ、一歩踏み出す。
 幾度となく通った重い扉。開いた途端に滑り込んでくる春の暖かい陽光。殊更眩しく感じるのは、あるいは俺が吸血鬼だからなのだろうか。気にせず足を進めると、征と正対している、写真で見たとおりの青年が一人。支倉孝平。突然の登場人物に驚いている彼に向け、俺は初めて言葉を紡ぐ。第一声は、征への意趣返しも込めてこんな調子でいいだろう。

「君が一般生徒君? 変わった名前だね」

 反応。征の応答。言葉のやりとり。なし崩し的に、監督生室へ。
 ……長い道のりが、いま、始まった。

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Short Story -Fortune Arterial
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