今日は何の日?
[Fortune Arterial short story]
ホワイトデーなどという、バレンタイン以上に製菓業界の陰謀まみれのイベントが一週間ほど前にあった。
ただでさえ人気者の会長――ああいや、今はもう会長ではないが、それはともかく――や東儀先輩、更には女子にも人気の高い副会長や、この三人には及ばないながら俺、加えて桐葉にまでチョコを渡した生徒が居るもんだから、3月14日はチョコを配布するだけで一日潰してしまったことは記憶に新しいところだ。
ちなみに桐葉のやつ、どうやらバレンタインやホワイトデーという行事にとんと興味がなかったようで、去る2月14日、当日になって俺が副会長や白ちゃんからチョコを渡されたのを見て、初めてそのイベントを思い出したらしい。
らしいといえばらしいが、ドッキリでもなんでもなく、桐葉からチョコをもらえずちょびっとだけ凹んでしまっていた俺を、いったい誰が責められようか。
……とまあ、そんなこんながあったバレンタインからは一ヶ月と一週間、お返しまみれになったホワイトデーからは一週間経った今日は、3月21日だ。
まあ、当然である。ホワイトデーがずれたり、カレンダーがいきなり変わったりしない限り、ホワイトデーの一週間後は3月21日をおいて他にはない。
そして今年の3月21日は、別に何の日というわけでもない。
春分の日の次の日。ランドセルの日だなんて知っているのは、業界人がよほどの暇人くらい。
だから、そんな何の変哲もない日。
生徒会の仕事も終わり、寮の自室で桐葉から借りた小説――一応言っておくが、官能小説ではない――を読みつつのんびりとしていると。
「……ん?」
響き渡る着メロ。
『なにげない 通学路に咲くー♪』という出だしで始まるそれは、会長にえらく勧められた曲だ。「生徒会の備品にもあるから」というわけのわからぬ理由でオススメされたものの、わりと気に入ったのでこうして生徒会関連の相手に対しての着メロに設定してある。
まあ、何の曲だかは未だによく分からないのだが。
そして携帯のディスプレイを見る間もなく、着信に出る。
ちなみにこの着メロは電話だ。メールの場合、『幾千もの物語 遠く古に』から入るからだ。
で、今どき電話をかけてくる相手なんていうのは、それこそ一人くらいしか居ないわけで。
「もしもし、桐葉? どうかしたのか?」
「ええ。
ちょっと教えて欲しいことがあるから、できれば部屋まで来て欲しいのだけれど」
相手は予想通り、桐葉だった。
小説に栞を挟み、とりあえず机に置いて。
時計を見る。
消灯までは、まだだいぶ余裕があった。
「OK、今からでいいのか?」
「貴方の都合がよければ」
「ああ、大丈夫だ。
……でもそのくらいなら、メールでも良かったのに?」
桐葉は未だにメールが得意ではないらしい。
そのことをちょっとだけからかい混じりに言ってみると、桐葉は電話口でしばし沈黙した後、
「……電話なら、貴方の声が聞けるもの」
その赤い頬すら見えてきそうなくらい恥ずかしげに、そんなことを言いやがったのだった。
○ ○ ○
相変わらず殺風景な部屋。
とはいえそこに、かつては存在していた、まるで鉱石がごとき無機質さは皆目見られない。
あるのは機能美とでも言うようなシンプルさと、なぜか感じる若干の温かみ。気のせいか、私物が増えているようにも感じられる。
そして今日は、ベットと机の他、テーブルが一台どかんと部屋のど真ん中に置かれていて。
桐葉から座布団を渡されつつ、対面に座る。
「なんだ、教えて欲しいっていうから、てっきりまた電化製品かと思ったんだが」
「……その言い方、少し引っ掛かるのだけれど」
「いや、他意はない」
というか、他意というよりそれが本意そのものだ。
そもそも桐葉は相当頭が良い。
数学ができるのは周知の事実だが、その他の教科はハナから興味がないだけなのだ。おそらくやろうとすれば理解できるだけの賢さはある。だから、彼女が俺に勉強で尋ねることなどというのはほとんど無いに等しい。
加えて身体能力も高いし、つまり逆に言えば、桐葉が俺に教えを乞うジャンルなんていうのは、ちょびっとだけ欠けている一般常識についてか、人間関係の機微についてか、あとは電化製品くらいしかないのだ。
「電化製品じゃないとなると……。
誰か……会長や副会長はないだろうし、そうか、白ちゃんあたりと口論にでもなったとか?」
「いいえ、なってないわ。
それにもしそうだとしても、それなら解決方法に心当たりはあるもの」
きんつばか。
「ちなみに洋菓子にすれば、千堂さんにも応用可能よ」
「マジかっ!?」
「……どうしてそんなに食いつくのよ」
今度副会長を(おもに会長が)怒らせてしまったときは試してみようと、心にぐっと刻み込む。
いやしかし、そんなやり方があるとは。さすが数学が得意なだけあって(?)、物事の応用には機転が利くということか。
……ちなみに他人事のように言っている桐葉だが、こいつ自身、激辛チゲで機嫌がわりと良くなるという弱点を持ってもいる。
本人が気付いていないあたり、なかなか可愛らしいとも思えるのだが、さて。
「どうかしたの?」
「ん? ああいや、別に。
それで? 何を教えて欲しいんだ?」
聞くと。
「悠木さんのお姉さんに借りてきたんだけど、貴方に聞く方が早いと思って」
少しばかり頬を赤らめつつ、自らの背後、俺からは死角になっていた場所から取り出したソレは。
「……うん?」
正方形のメタリックなそれは、間違いなく電化製品だ。
それは、桐葉が恥ずかしげにこっちを睨んでいることからも分かる。
一見すると四角いポータブルCDプレーヤー。
しかし見ようによっては電子天秤のようにも見えるし、はたまた特殊な記録媒体に見えないこともない。
加えて。
「どっかで見たことあるような……?」
「ええ、貴方の部屋で鍋を食べたときのやつよ」
――鍋?
鍋といえばかなでさんだ。
同時、鍋を食べるとき、かなでさんが持ってきたこの四角い物体のお世話になっていたような気がして。
「……ああっ! 電気で温めるやつか!」
俺の回答に、桐葉が首を縦に振る。
確か、寮内で鍋をするにはガスコンロがネックだとかで、かなでさんがどっかから持ってきたのだ。IH調理器とか言ったか、電気で鍋を熱する道具。
そしてまあ、これを出してきたからには、つまりこれの使い方を教えてくれということなのだろう。
すなわちそれは。
「料理でもするつもりなのか?」
「まあ、似たようなものね。
それで借りたのだけれど、どうもこれとは相性が悪いみたいだから、貴方を呼んだのよ」
「相性が悪い、ね」
いつから「使えない」と「相性が悪い」は同義になったのだろうか。
わざと強調して言うと、桐葉の眉が少しだけぴくっと動いた。
おそらく俺だけが分かるその変化。無言ながら、ちょっとだけ怒ったときの表現だ。
「説明書はあるのか?」
「……箱に入っていたけれど、読んでも使い方はよく分からなかったのよ」
しかしまあ、頼られて悪い気がしないのも事実。
桐葉は電子機器の扱いが苦手のままでもいいかなあ、なんて若干アホなことを考えつつ、俺は桐葉に説明書を出すように促しながら、IH調理器の電源をコンセントへと差し込んだのだった。
○ ○ ○
IHとはInductionHeatingの略で、日本語では誘導加熱と訳される。
理論自体は、もとは加熱のために見つけ出されたものではなく、ファラデーの電磁誘導の法則がその下地になっている。起電力が磁束の変化量に比例するという法則だ。
起電力が発生すると、磁束が変化する。磁束が変化すると、起電力が発生する。そして起電力の発生を繰り返すには交流電流を流せばよく、調理機内のコイルに交流を流して磁束を次々変化させると、その上に置いた金属製の鍋で向きの一定でない起電力が次々発生する(渦電流)。電流の向きがどうであれ金属には抵抗が存在し、ジュールの法則に従ってジュール熱が発生する。通常はこの熱を損失と見るが、この熱を加熱に利用したのがIH調理器である。
……ということを桐葉から説明されたのだが。
「そこまで理解できたのに、スイッチは入れられなかった、と」
デジタルなんだかアナログなんだか。
もうちょっとその理論的な頭の良さを、実務に向けたらどうかと思わないでもない。
桐葉は案の定、口をとがらせて。
「ボタンが多すぎるのよ。
電源なんて入/切だけあれば充分でしょう?」
「ああ、まあ、なんというか」
確かに分かりにくいといえば、分かりにくい。
加熱以外にも揚げ物ボタンや液晶、数値の上下、タイマー設定用のボタン、なんたらコースやらなんとかモードまであって、説明書がなければ俺だって細かくは分からない。
……それでもまあ多分、加熱くらいはできたと思うが。
「どうせ調理中に離れないなら、この加熱ボタンと、切ボタンだけ分かってれば使えると思うぞ。
温度はこの液晶で上下な」
「……」
言って、調理器を対面に座る桐葉へと向けてやる。
「これで電源が入って、これで切って……」
おっかなびっくり触る桐葉。
その表情は見る限り真剣そのもの。しかしその真剣さはいつものクールかつ余裕な態度とはかけ離れていて、だからこそなんとなく頬が緩むのを自覚する。
そしてまた、それに気付かない桐葉でもなく。
「……人の欠点を見るのが、そんなに楽しいかしら?」
「まさか。
それを気にする桐葉を見るのは、楽しいけど」
「――――っ」
ぽん、と音が出そうなくらいに赤くなる桐葉。まるでどこぞの瞬間沸騰器がごとく。
……ほら。これを見るのが楽しくないわけないだろう?
「貴方、ずいぶん良い趣味してるわね」
「あれ、自画自賛?」
「皮肉よ」
一通り教えたボタンを理解したか、顔を赤らめたままIH調理器から目を外す桐葉。
そうして背後に置いてある何かをごそごそと探った後、急にこっちへ振り返って。
「だいたいやり方は分かったわ。
もう戻って構わないわよ」
「ああ、分かった。
それじゃ俺はこれで――――は?」
桐葉の自然すぎる口ぶりに、あやうく立ち上がりかけた腰をすぐさま停止させる。
「いやいや、それはないだろう、桐葉。
今から何か作るんだろ? そりゃ、俺が居ちゃまずいって言うなら帰るけどさ」
「別にまずくはないけれど、貴方に食べさせるものを作るとは一言も言ってないわ」
「それでもさ。
ただでさえ料理上手なやつが料理しているところって面白いんだ。相手が桐葉なら尚更じゃないか」
「見ていて面白いものだとは思わないけれど」
そう言って、ふう、と大仰に溜息を吐いてみせる。
それはつまり、了承の返事かつ照れ隠し。そのくらいの意思疎通はできているつもりだ。
が。
「貴方が見たいというなら、料理をしているところくらいいつだって見せてあげるわ。
けど、贈り物を作成段階から見てしまっては、驚きがなくなってつまらないとは思わない?」
「贈り物? 俺に?」
「……他に誰が居るのよ」
「え、あ、いや……うん、それもそうか」
恥ずかしげに応える桐葉を見て、思わず「俺に?」なんて聞いてしまった俺自身、恥ずかしくなってしまった。
お互いの惚れた弱みというやつか。でも、お互いがお互いに弱みを見せているなら、それは対等ということだ、うん。
しかしなぜこの時期になって贈り物?
よもや、つい先日行われた期末考査の、学年二十三位祝いとかではあるまい。
首を傾げると、疑問の意図が分かったか、桐葉はふっとかすかに微笑んで。
「孝平。今日は何の日だか、知っている?」
「今日? いや、分からないけど。
もしかして俺の誕生日?」
「違うでしょう?」
「うん、違うと思う」
分からない。
桐葉が俺に、贈り物をくれるほどの日なのか? 別に知り合って一周年とか、そういうわけでもなかろうし。
「消灯には間に合うと思うわ。後で持って行くから、部屋で待っていて」
「ん、ああ、じゃあ、そういうことなら」
まだ疑問が残るものの、しかしそう言われてしまっては戻らざるをえない。
桐葉からの贈り物、その内容にどきどきしつつ、理由を考えながら待つことにしよう。
そうして俺は立ち上がり、桐葉の部屋から出て行こうとしたところで。
「孝平」
「うん?」
桐葉はにやっと、何かを企むように笑って。
「今日は、何月何日かしら?」
まるでなぞなぞを出すかのようにそう言って、俺を送り出してくれたのだった。
○ ○ ○
時計を見る。おそらく回数にすれば、もう三桁はいっているであろう、時間の確認。
なんだか桐葉の部屋から帰ってきてからこっち、時間の進み方が妙に遅い。この部屋だけ光速の98%くらいの勢いで動いているんじゃなかろうかってくらいだ。
そんなことを思って、そしてまた時計を見る。
一分と進んでいない。
「あー……アホか、俺は」
言って、また見る。
十秒と進んでいない。
……だって、仕方ないじゃないか。
桐葉が何かを作って贈ってくれるだなんて、そんなことはバレンタインデーにすらなかったというのに。嬉しさで気がはやりもする。
そうして首がそりゃもうキリンがごとく伸びきったころ、こんこん、とノックの音。
「どうぞっ」
「入るわよ」
思わず勢いづいてしまった俺の声と、聞き慣れた冷静な返事。
入ってきたのは、待ち望んでいた桐葉だ。後ろ手に、まるで隠すかのように何かを持っている。
「それで、孝平。今日は何の日だか分かった?」
「へ? ああいや、それどころじゃなくて」
「……? 何かしていたの?」
「あ、いや、えーっと……」
頬を掻く。
桐葉はなんだかよく分からないといった表情だ。変な誤解を招いても仕方有るまい。言った。
「桐葉のこと、待ってた」
「そりゃそうでしょう。後で行くと言ったもの」
「いや、そうじゃなくて。
なんていうか、早く来ないかなって、ずっとそれだけで頭がいっぱいだったというか……」
「――っ」
沸騰。
「……貴方、やっぱり趣味良くないと思うわ」
「そうかな? 俺はセンス良いと思ってるけど。
それもとびっきり」
自分では分からないものだ、自分のことというのは。
特に桐葉は、以前も言っていたように自分のことをそうは評価していない節がある。そんな判断を下してしまうなんて、桐葉は相当、センスがない。
言いたいことが分かったか、桐葉は恥ずかしげに溜息を吐いて。
「そう言われては、皮肉の一つも返せないじゃない」
「そりゃ良かった。
好きな人をけなされて、良い思いをするやつなんて居ないよ」
そうして、ふっと笑う。
桐葉は顔を真っ赤にしたまま、ぷいっとそっぽを向いた。
「ともかく、今日が何の日だかは分かってないのね?」
「ああ、さっぱり」
「今日が何月何日かは?」
「それ、さっきも言ってたな。
3月21日だろ?」
間違いない。
念のため携帯を取り出して確認してみても、そこには3/21と表示されている。
しかし、落ち着いたのだろう、桐葉は少しばかり頬の赤みをひかせ、まるでいたずらの成功を確信するかのように笑い。
「じゃあ、ヒントをあげるわ。
私は、10月23日に生まれたのよ」
「……10月23日?」
「ええ」
耳を疑った。
確か、桐葉の誕生日は11月21日だったはず。俺が間違っているのか? ……いやまさか。そんなはずはない。
そう、そんなはずはない。
俺が間違っていたなら、こうして首を傾げている俺を見て、桐葉が笑うはずがないのだ。俺が勘違いしていれば、桐葉は不機嫌になっていい場面。にも関わらず、桐葉は愉快そうに微笑んでいて。
11月21日と、10月23日。
桐葉の過去が変わったり、カレンダーが変わったりしていない限り、この二つの日付が一致することはありえない。当然だ、そんなことになったら日本中が大混乱――
――いや、待て。
カレンダーが、変わった……?
「気付いたかしら?」
桐葉が笑みを崩さぬまま、言う。
その表情はとても楽しげで。俺の方にも、悔しさなんて微塵もない。
「貴方、当日は随分落ち込んでいたもの。
それに負い目を感じないほど、私は貴方を想っていないわけではないわ」
恥ずかしげに、何重もの否定という肯定を含んだ遠回しな表現をしつつ、ゆっくりとその背に隠していた贈り物を取り出して、
「じゃあ、これは……」
「ええ。
ハッピーバレンタイン、孝平」
作りたての手作りチョコを、桐葉は俺に差し出したのだった。
++++++++++