朱に交われば瀬になる

[Fortune Arterial short story]
 日曜日。
 私服での外出が許されている週末、俺は昼間っから珠津島を歩き回るハメになっていた。いつもの海岸通りで用事を済ませるつもりで寮を出たため準備もさほどなっておらず、予想外の肉体労働に吐かれた溜息は数知れず。それでも萎えかけていた気力を振り絞り、滅多に来ることはない駅前まで足を伸ばして、珠津島では一番大きな書店へと入ったのがつい先ほど。ひんやりとした冷房の風に心奪われる暇もなく、早足で目当ての本があるはずの棚へ。

「うわ、ラスト一冊とか。危なかったなこりゃ……」

 確認してとりあえずは安堵の息。ここまで来て目的の本がなかったとか、そういうオチは流石に勘弁して欲しかったし。
 ぱらぱらと一応中を確認した後その本――月刊ビジネスサンデーをレジに持って行き、満足感とともに書店を出る。自動扉を開けた途端、むわっとした熱気。まだまだ残暑が厳しいこの季節、一度冷房の恩恵を受けたこの身の不快指数は一気に急上昇のカーブを描いてしまった。

「うーん……」

 思案する。
 時刻は昼過ぎ。喫茶店で休憩がてら涼んでいくのも考えられたが、しかし、言ったようにそもそも遠出を想定していなかったのだ。ちょっとすぐそこのコンビニで雑誌を、的な感覚。あいにく小銭入れしか持ってきておらず、少々値の張る月刊ビジネスサンデー、残金はもはや雀の涙と言えるほどしか残ってはいなかった。
 喫茶店でコーヒーを頼んでも数百円はかかる。かなりのギリギリ具合。しかしテーブルまで通されておいて、「実はお金が足りませんでした」なんてことになれば、その恥ずかしさといったらないだろう。まさかその程度のことで司を呼び出すわけにもいくまい。
 書店の前でそんなことを考えていると、ふと自販機が目に入った。確か近くには公園もあったはず。以前来たときに木陰のベンチがあったことを思いだし、そこで安上がりに済ませることにした。
 どのみち疲れはあったのだ。冷房ほどは涼めないにしろ、休憩くらいにはなるだろう。



       ○  ○  ○



「……ふー」

 キンキンに冷えたスポーツドリンクを缶の半分ほど一気に飲み干し、かき氷性頭痛に苦しみながらも心地よく息を吐き出す。乾いていた身体の隅々まで水分が行き渡るような錯覚。意識していなかったが、結構喉も渇いていたらしい。
 場所は公園、座っているのは目処をつけていた木陰のベンチ。うまく昼間の時間帯にそこが大きな木の陰になるよう調整されていて、この空間だけが一気に2〜3℃涼しくなっているよう感じられた。おそらく実際それだけ温度が低いんだろうと思う。道路沿いでは大して感じられなかった自然の風もそよそよと吹いていて、不快指数は今度は一気に急降下した。深呼吸をすると、なんとなく木の匂いまでしてくるよう。
 急いでドリンクを飲み干したって、それでは休憩にならない。幸い思ったよりずっと涼しいため、外側に水滴が滴る缶を片手で弄びつつ、残る手をベンチについてのんびりと辺りを見回す。
 人はさほど居なかった。このご時世、公園で遊ぼうという子どももそう多くはないのだろう。それでも居るのは親子連れや、数人の小学生グループ、あとはおそらく恋人同士であろう若い男女。その向こうに居るのは年の離れた姉妹だろうか。なぜか妹は暑い中真っ黒の羽織を着ていて、その服装はどう見ても和服――

「って、伽耶さんじゃ……?」

 となれば隣にいるのは紅瀬さんか。珍しい場所で見つけるものだなあと感心しつつしばらく様子を見ていると、もう一人ばかり、そこに居ることに気が付いた。伽耶さんと同程度の背丈の女の子。何やら二人と揉めているらしい。
 とりあえず手の中の飲み物を一気に喉に流し込んで立ち上がる。せっかく文化祭の仕事の合間、たまの休みなのに揉め事かあ、なんて思いつつ、空き缶をくずかごに放り投げて伽耶さんたちの方へと向かった。つくづく厄介事と縁のある体質だと思う、自分でも。

「おーい、伽耶さん! 紅瀬さん!」
「む?」
「あら」

 二人が気付く。近づくと、もう一人の女の子は、揉めていると言うよりはなんとなくぐずっている感じだった。伽耶さんと同じくらいだから6才かそこらくらいだろう。……口が裂けてもそんな風に推測したことは言えないが。

「珍しいわね、支倉くん。こんなところで」
「うん、ちょっとそこの本屋に用があって。そっちこそ珍しいけど……どうしたの、この子?」
「それがのう」

 困り果てた感じで伽耶さんが説明を始める。
 かくかくしかじか。要約すると、つまりこの女の子は迷子であるというらしい。二人で近くを歩いていたところこの女の子が泣いていたので、声を掛けたらずいぶんと懐かれてしまったという。女の子としては、ようやく頼れる大人(?)が見つかったという感じなのだろうとのこと。まさか放置するわけにもいかず、かといって公園から遠のこうとすると泣き喚いてしまうしで、どうしたらいいのか分からないから困っているということだった。

「110番とかは?」
「いざとなったらそうするしかないんでしょうけど……」
「大ごとになるのはできれば避けたいからな。あたしらが攫ったと誤解されても困るし、なにより身分を問われれば面倒なことになりかねん」
「あー……」

 曲がりなりにも学院に通っている紅瀬さんはともかく、伽耶さんに身分を証明するものは何もない。地元政界なんかとも通じているというからいざとなれば色んなことをもみ消すくらいはできそうだが、まさか迷子くらいでそんなことをしたくもないだろう。
 唯一(一応)まともな俺が警察に届け出てもいいが、この女の子、伽耶さんたちが離れたらすぐ泣き喚いてしまうという。泣き喚く女の子と、それを連れた若い男。警察の心証がどういう風に傾いてしまうのかは想像するまでもあるまい。

「ええと……とりあえずキミ、名前は? お母さんと一緒に来たの?」
「ひっ……」

 めっちゃ怖がられた。

「名前は分からないけど、『お母さん、お母さん』と泣いていたから、母親と一緒だったのは確実ね」
「それじゃ親のほうも今頃探してるのかな」
「ええい、ほれ、泣くでない。こやつはたいして頼りにはならんが怖くもないぞ」

 その慰め方、むしろ俺が泣きそうです。

「えーと、まあとりあえずベンチにでも移動しましょう。目立つところに居た方が母親も見つけやすいでしょうから」

 言って、紅瀬さんからも承諾の返事。
 揃って俺がさっきまで座っていた木陰のベンチまで移動することにした。



       ○  ○  ○



 迷子令嬢の「のどかわいた」という言葉によりパシられた俺が戻ってきたとき、伽耶さんと女の子がベンチで、紅瀬さんはその傍らに立ってのんびりとしているところだった。とりあえず買ってきた三本全てを紅瀬さんへと預ける。

「あら、貴方のは?」
「いや、俺さっき飲んだばっかりだから」
「それなのに率先して買いに行ったの? 相変わらず面白いことをするわね」
「……」
「まあお礼は言っておくわ。ほら、伽耶。それとその子の分よ」
「む? おお、悪いの」

 残る二人へと飲み物が行き渡る。紅瀬さんはともかく他の二人の嗜好は分からなかったから、とりあえずメジャーどころのジュースを買ってきた。まあ間違いはないだろうと思う。
 そうして見れば「おい、お前はどっちがいい?」「こっちー」「じゃああたしはこっちだな」なんて、ジュースをやりとりしている伽耶さんと女の子。やりとりだけを見てると母娘の関係に見えなくもないが、しかし、どう見ても姉妹がせいぜいか。女の子の缶のプルタブを伽耶さんが開けてあげていたりして、なんとなく微笑ましい気分にもなる。

「すっかり母親気取りね」

 おそらく似たようなことを思っていたのだろう、伽耶さんに聞こえない小ささで紅瀬さんがそう声を漏らす。だが目を細めてどこか呆れつつ、しかし喜んでいるようにも見えるその表情は、まさしくそれこそ母や姉といったもののそれに違いのではないかと俺には思えた。
 昔は決してしなかったそんな顔つき。伽耶さんだけでなく紅瀬さんもまた色んな変化があったよな、なんてことを思い返していると、ある体験が脳裏を掠めた。

「そういえばさ、前にもあったよね」
「前にも?」
「この公園でさ、迷子をあやしてたこと」
「……?」
「いやいやいや! あったって! あれだよ、紅瀬さんがお手玉して……」
「ああ、そういえば。そんなこともあったかしら」

 ようやく思い出したか、そっけなくそう口にする紅瀬さん。
 確か俺がここに来てからすぐだから、もう随分と前のことになる。やっぱり俺は書店に用があってこの辺りまで来ていて、そこで当時まだまだ仲の良くなかった紅瀬さんと遭遇した。そのとき紅瀬さんは小さな迷子の女の子を連れていて、俺を見るなりその子を預けて立ち去ろうとしたのだ。

「あのときは速攻帰ろうとしたくせに、変われば変わるものだよな」
「それはそうよ。あのときは主を探すためにここに来ていたの。子どもになんて構っていられなかったのよ」

 しかし紅瀬さんにすっかり懐いていた女の子は紅瀬さんが離れると大いに泣き出し始め、やむなく紅瀬さんはそのお守りをすることになった。そのときの紅瀬さんの不機嫌っぷりは凄まじく、その睨み目で女の子は一層泣き出すし、大変だったことを今でも覚えている。

「まあでもあの時も結局親が来るまで一緒に居たわけだし、こうなる萌芽はあったのかな?」
「貴方たちに毒されたのよ。こんな日が来るだなんてことは、あの頃の私じゃ想像すらできなかったわ」

 皮肉っぽく言って、少しだけ笑みを浮かべながら紅瀬さんは伽耶さんたちの方へと優しげな視線を送る。そこでは伽耶さんが、おそらくはいつも持っている巾着袋あたりから引っこ抜いたのだろう、細い紐を使ってあやとりを女の子に見せていた。どことなくかつてのお手玉を思い起こさせるそれは、伽耶さんもまたずいぶんと毒されたことを示しているかのようでもある。

「それでも、悪い気はしないわね、こういうのも」

 無関心そうに、髪をかき上げてクールな素振りで言い放つ。意味ありげな視線、笑って返すと、紅瀬さんもまた微笑した。
 ……こんなやりとりも悪くない。そういうことなんだろう。

 そのまま俺と紅瀬さんはベンチで戯れる二人をただ眺めていたのだが、しばらくして。

「あっ、お母さん!」

 女の子が声を張り上げる。
 視線を追うと、公園の入り口から駆け寄ってくる女性の姿がそこにはあった。



       ○  ○  ○



 帰り道。ちょっとだけ夕焼けが色を帯び始めた中、俺は紅瀬さん、そして伽耶さんとともにゆっくりと珠津島の大通りを寮の方へと歩いていた。
 学院からいつもの海岸通りまでは、傾斜があるとはいえ約1キロ程度。しかし駅前からとなるとその道のりは結構な距離になってしまう。寮に着くころには太陽の大半が水平線の向こうに隠れてしまいそうだった。
 この時間でもすでに長くなり始めた影が三つ、俺たちの前方へと伸びている。

「しかし滅多に行かない駅前で二度も迷子に遭遇なんて、面白いこともあるもんだね」

 帰りに、今度は俺だけが買ったジュースを飲みつつ話を振る。
 ちなみにこれで今日の残金は1回のお賽銭レベルになってしまった。まあ、構うまい。

「私が原因なら、東儀先輩あたりに厄を払ってもらわないといけないわね」
「またそういうことを……」
「なに、その時はあたしを呼べばよかろう。子の扱いはあたしのような母親に任せればよい」
「……えーと」
「……」
「な、なんだ。お前ら、見てなかったのか? あたしがあの娘と遊んでやっているのを」

 一緒に遊んでいるようにしか見えませんでした、というのは心の中に留めておく。いやだってその、背丈が同じくらいの二人が一緒にあやとりなんてやっているのを見て、どうしてそれが「遊んでやっている」という印象になれるというのか。
 ……あーでもまあ、うん、どちらにせよ伽耶さんも楽しかったようだし、結果オーライということで。過程の解釈はどうでもよろしい。

「帰ったら千堂さんにもやってあげたらどうかしら、伽耶?」
「あっ、紅瀬さん、また余計なことを……!」
「ふむ。そうだな、瑛里華も娘であるわけだし、少し見せてやるのもよいかもしれんな」

 伽耶さんがうんうんと頷いているのを見て、紅瀬さんは今度ばかりはほのぼのとしたそれではなく、ちょっとだけ悪巧みめいた笑み。意図に気付いて阻もうにも、伽耶さんがやる気になってしまってはどうしようもない。
 だってそうじゃないか。伽耶さんがあやとりを瑛里華に見せる? そうだ、それはどう見たって母と娘の関係ではないか。ただし、うまくできたあやとりを見せる娘とそれを褒める母、という図式にしかなりようがないが。
 紅瀬さんはそのある種微笑ましい光景を最初から分かっていたに違いない。だから勧めた。そして、だからこそ余計なことなのだ。それを見るか、あるいは伝え聞いた会長が伽耶さんを弄くって、その仲裁に折れるのは俺の骨なのだから。ほんと勘弁して欲しい。

「となれば、何をやるかも考えねばならんな……」

 ぶつくさ言いつつ、懐から再び紐を取り出す伽耶さん。両手でごちゃごちゃとやり始めたその顔は、やっぱり母より娘に近く。

「あとで伽耶さん本人に文句言われても知らないぞ?」
「あら、それなら大丈夫よ」
「……?」
「それは貴方の役割だもの」
「うわ」

 そこまで分かってて、伽耶さんにあんな提案をしたらしい。

「まあ、瑛里華も喜ぶとは思うけどさ……」

 渋々肯定の返事をすると、紅瀬さんはわざと意地悪く笑って見せてから伽耶さんの方へと目をやった。あやとりを続け、その出来に首を傾げている伽耶さん。それを見る紅瀬さんの目は柔らかに細まって、そこにさっきの悪巧みめいた色は一切ない。
 母か、姉か。どちらにせよ、それはおそらくは瑛里華が伽耶さんに向けるそれと似たものを秘めていた。毒された、と紅瀬さんは表現したが、確かになるほど、かつてだったら絶対にしなかったこの表情、当人である紅瀬さんがそう表現したのも頷ける。

「……何?」
「いいや、何も」

 堪えきれなくなった笑み。紅瀬さんは訝しげな視線を送ってきつつも、いつものように腕を組んでふっと息を吐く。

「おい、何をしている。置いていくぞ?」

 続いたのは、あやとりをいじりつつ振り返る伽耶さんの言葉。
 謝りながら俺と紅瀬さんはその隣へと並んで。

 そうして俺たちは、朱色に染まった赤い空の下、ゆっくりとした歩調で修智館学院へと帰っていったのだった。

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